Links   作:枝折

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第五章 記憶

一年前、春――

 

 私立鳴海高校はとにかく部活動が盛んなことで知られている。それを象徴するのが一週間の仮入部期間と同時に始まる新入生勧誘週間だ。これは月曜の放課後から木曜日まで、各部活が決められた曜日・時間帯に講堂で新入生対象のプレゼンテーションを行う。そして週の最後の金曜日に新歓祭と称して、校舎正面から校門までの前庭とでもいうべきスペースにずらりと机を並べて入部希望者を待つという行事だ。

 一年生は新入生勧誘週間中、各部のプレゼンを見るなり体験入部するなりしてどの部活に入るか目星をつけ金曜日の新歓祭で入部届を出すことになっている。もっとも初めからどの部活に入るか決めている生徒は金曜日を待たずにさっさと入部届を出すようだけど。

 今日は月曜日、新入生勧誘週間の初日だった。初日ということもあって、放課後になると一年生の多くが講堂へと向かっていったが、特に部活に興味がない私は帰宅しようと昇降口の下駄箱の方へと足を向けた。

 階段を降り、正面玄関に続く廊下に出る。すると廊下の壁に備え付けられている掲示板のところで上級生らしき女の子が一人、脚立に乗ってなにやら作業をしていた。下駄箱へ行くには自然とその脇を通ることになる。そちらに近づいていくと、女の子は掲示板の上の方に刺さっているポスターを外そうと四苦八苦しているのがわかった。

 少女は「ほいやっ!」とか「はっちょいっ!」とか奇妙な掛け声とともにポスターを留めている画鋲を引っ張っているが、けっこう深く刺さっているのか、中で針が曲がって引っかかっているのか、一向に抜ける様子はなかった。脚立に乗って夢中で画鋲と格闘する先輩を見て私はなんか危なっかしいなと思った。不安定な脚立の上であんな風に後ろに重心をかけていたらそのうち後ろにひっくりかえってしまうんじゃないだろうか。もういっそのことポスターの方を引っ張って破り取ればいいのに。そんなことを考えつつ脚立のそばを通ろうとした時、それは起こった。

 ひときわ気合の入った「はいせっ!」という掛け声とともに少女が勢いよく画鋲を引っ張った。すると画鋲はとうとう観念したようで掲示板からすぽんと抜けた。しかし、彼女はそれでバランスを崩してしまい、ぐらりと前後に脚立を一度大きく揺らした後、後ろ向きに落ちてきた。

 

「危ないっ」

 

 私はとっさに落ちてくる女の子と地面の間に体を入れた。何とか女の子を抱えることには成功したけど勢いを殺すことまではできず、私はそのまま後ろに倒れこんだ。直後、地面とぶつかった衝撃が背中から伝わり口から息が漏れ出た。視界が明滅する。近くでがしゃーんと脚立の倒れる音が響いた。

 

「わあ、君っ、大丈夫? 意識ある? ねえっ!」

 

 もぞもぞと起き上った女の子はすぐに状況に気がつき、表情を凍らせて叫んだ。私を下敷きにしながらぺちぺちと私の頬を叩く女の子は明らかに動揺していた。

 

「ど、ど、ど、どうしよう。病院。救急車。何番だっけ?」

「あのっ」

「あれスマホがない。どこ、どこ、どこ……」 

「あのっ!」

「えっ?」

「とりあえず上からどいてもらえると助かります」

 

 私の声にようやく気がついた女の子は慌てて私の上からどいた。私はゆっくりと体を起こした。多少背中が痛んだけど別状はなさそうだった。

 

「えっと、その……大丈夫?」

「たいしたことないです。先輩は大丈夫ですか?」

「わ、わたし? うん、大丈夫……」

 

 言いながら彼女は無事を確かめるように私の全身を見た。そうしてようやく大丈夫そうだと判断したらしくほっと息をついた。

 

「助けてくれてありがとう。君、新入生……だよね?」

「そうですけど……」

「ふーん、そっかあ。そうだよね」

「あの、先輩?」

 

 先輩の視線が心なしか私の胸の方に移動しているような気がする。私が怪訝な顔をしていると、何を思ったか彼女はおもむろに私の胸をつかんだ。

 

「ひゃいっ!」

 

 胸を両手でかくして後ろに跳び退る。いきなりの行動に、私が口をぱくぱくさせていると、彼女は考え込むように顎に手を当てながら言った。

 

「いやあ、さっき上に乗ってた時に思ったんだけど、見た目より全然いい胸して――何カップ?」

「な、な、な……」

「着やせするタイプってやつかなあ。よかったらもうちょっと揉ませて」

「ひっ……」

「やめいっ!」

「あうっ!?」

 

 私に迫る先輩の後ろから拳骨が落ちた。ごちんといい音がして先輩が頭を押さえてうずくまる。すると先輩の後ろに少し背が高めの女生徒が立っていた。

 

「もうっ、理瀬(りせ)。いきなり何すんのさ」

 

 セクハラ先輩(仮称)が立ち上がりながら口をとがらせると、理瀬というらしい先輩はきりりと目を吊り上げて怒った。

 

「それはこっちのセリフだ。部室に居ないと思ったら新入生捕まえてなにやってんだっ! 脚立も倒しちゃってるし」

「いやあ、ポスター外そうとしてたら脚立から落ちちゃって」

「えっ……ミケ、大丈夫? ケガは? どこも痛くないか?」

 

 途端におろおろしだした理瀬に、ミケと呼ばれたセクハラ先輩は軽い調子で答える。

 

「うん、この子がキャッチしてくれたから全然大丈夫だったよー」

 

 それを聞いて理瀬は「よかった」と胸をなでおろしたかと思うと、次の瞬間また目を吊り上げた。忙しい先輩だ。

 

「……で? ミケはどうしてその助けてくれた恩人の胸を揉んでたんだ?」

「そこにいい胸があったからだよ!」

 

 ごちん。再び拳骨が落ちた。

 

                      ***

 

 十分後。お礼ということで私は校内の自販機の前に連れてこられていた。ジュースをおごってくれるらしい。本当は丁重にお断りしようとしたが、セクハラ先輩が私の手をぐいぐいと引っ張って移動しだしたのでどうしようもなかった。

 

「さあっ、どれがいい。何でも注文するがいいよっ」

「……じゃあ、いちご牛乳で」

「イエス、マム」

 

 勢いよくセクハラ先輩が自販機のボタンを押す。いちいちテンションの高い先輩だった。

 飲み物を買った私たちは自販機の傍のベンチに腰を下ろした。私を真ん中にして両隣に先輩たちが座る。二人の先輩に挟まれるように座るのは微妙に居心地が悪かった。私がいちご牛乳をちびちびと飲んでいると理瀬先輩の方が口を開いた。

 

「改めまして私は九条理瀬、三年生だ。で、こっちは――」

「柿原みちる、同じく三年生。みんなミケって呼ぶから君もそう呼んでくれていいよ」

「里見奈々です」

 

 私も一応名乗った。

 

「ごめんね、里見さん。ミケが色々ご迷惑おかけしたみたいで。こいつ昔から気に入った子を見つけるとすぐにセクハラするから」

「ええっ~、人聞きの悪いこと言わないでよ~」

「会って五分で私の胸を揉んだのはどこの誰だ?」

「あれはボリュームたっぷりで大変良いものでした」

「誰が感想を言えって言ったんだっ!」

「はうぅ〜」

 

 理瀬先輩が立ち上がって本日三度目の拳骨をミケ先輩の頭に落とした。ミケ先輩って懲りない人なんだなーと思った。それにしてもミケとは変なあだ名だ。猫みたいだし、名前をもじっているわけでもないようだし。

 

「セクハ――じゃない、ミケ先輩はどうしてミケなんですか?」

 

 気になったので聞いてみる。するとミケ先輩はなぜか慌てた調子で答えた。

 

「それはわたしが猫好きだから――」

「中学の時、英語の授業でマイク (Mike) をミケって誤訳したからだよ」

 

 ぐうっとミケ先輩が変な声で呻いた。

 

「ちょっと、いきなり後輩の前で恥ずかしい過去をばらさないでよっ!」

「ミケ、どんなに隠したってバカはすぐにバレるぞ」

 

 さっきまでの仕返しとばかりに理瀬先輩はミケ先輩をいじる。確かにあんまり頭の良さそうな感じはしないけど、と失礼なことを考えてから、私はごまかすようにいちご牛乳を飲んだ。

 

「他にもコウム(comb)をコンブって読んで、先生に『あなたは毎朝、櫛ではなく昆布で髪を梳かすんですか』って言われて、そしたらミケったら――」

「理瀬ちゃん、もうやめて……お願いだから」

 

 ミケ先輩が顔を真っ赤にして懇願する。すると理瀬先輩はそれで少し溜飲が下がったらしく、別の話題を口にした。

 

「そういえば里見さんは講堂に行かないのか? 今、部活紹介してるところだろ?」

「私、あんまり部活には興味なくて」

「ええっ! もったいない。うちの高校、全国でもトップクラスに部活が多いんだよ?」

「先輩たちは何かされているんですか?」

「私たちは麻雀部。ミケが部長で、私が副部長」

「麻雀……」

 

 少し懐かしい響きだった。

 

「もしかして奈々ちゃんって経験者?」

「ええ、まあ。昔、家族ですこしだけやったことがあります」

「じゃあ麻雀部に入部しなよ。これも何かの縁だよ。そしたら思う存分わたしが可愛がって――」

「止めろ」

 

 手で胸を揉む真似をしたミケ先輩の頭にごちんと拳骨が落ちる。この人は一日に何発くらい拳骨をもらうのだろう? 私があきれていると理瀬先輩があっと声を漏らした。

 

「いけない。そろそろ麻雀部のプレゼンの時間だ。ミケ、行くぞ」

「ええっ、そんなの理瀬ちゃんが適当にやっといてよ。私はもっと奈々ちゃんとお話――したいのはやまやまだけど、やっぱり部長のわたしがいないとダメだよね。よし行きましょう。今すぐ」

 

 理瀬先輩が笑顔でゆっくり握りこぶしを振り上げたのを見てミケ先輩は慌てて立ち上がった。

 

「じゃあ、またね。さっきはホントありがとう。入部待ってるよ、奈々ちゃん」

「その時は私がセクハラ止めるから安心していいぞ」

 

 去っていく二人の先輩の背中を見つめながら私はいちご牛乳を飲みほした。

 

                      ***

 

「ただいま」

 

 アパートの一室に私の声が響く。返事は帰ってこない。家には私以外だれもいないのだから当たり前だ。この時間、両親はそれぞれ職場で仕事中だ。

 台所で麦茶を一杯飲んでから私は自分の部屋に入った。ベッドと勉強机と箪笥で部屋の面積の九割が埋まった狭い三畳間。それが私の部屋だった。入り口付近のわずかに残った一割のスペースで制服から部屋着に着替えると、私はベッドに寝転がった。白い天井が視界に映る。

 

(今日は晩御飯どうしよう……さっき冷蔵庫に卵と牛乳あったし、オムレツでもしようかな)

 

 この家で夕食を用意するのは私の役目ということになっている。しかし家族そろって食卓につくことは基本的にない。全員バラバラに食事をとる。私が何かを作って冷蔵庫に入れておくと次の日にはなくなっている。大体そんな感じだ。

 家族が同じ食卓につかない理由。それは両親が不仲だからだ。

 昔は両親の仲は良かったと記憶している。おしどり夫婦と言っても問題ないくらいに夫婦円満だったはずだ。けれど私が小学校の四年生か五年生あたり……はっきりとは覚えていないけど、その頃から両親がよく喧嘩するようになった。最初こそ喧嘩した翌日にはちゃんと仲直りしていたけれど、次第にそれもなくなり、喧嘩の上に喧嘩を重ねてまた喧嘩。両親は毎日つまらないことで激しく言い争うようになった。私は両親が喧嘩するたびにこの三畳間に避難していたが、部屋の薄い壁では親が互いを罵り合う声を遮ることは到底できなかった。私が中学生の間ずっとそんな日々が続いた。

 しかし、そんな両親の喧嘩はある日を境にぱったりとやんだ。それは高校入学を目前に控えた春休みのこと、つまりはつい最近のことだった。再び夫婦円満になった、からではもちろんない。逆だ。二人の仲は決定的に壊れてしまった。原因は知らない。知りたくもない。ただ私の気づかないところで何かがあって、それが両親の仲を破滅させた。

 このところお父さんとお母さんの口喧嘩はそれまでが嘘だったかのように息をひそめている。その代わり、二人はお互いがお互いを完全にいないものとして過ごすようになっていた。「おはよう」とか、「ただいま」とか、そんな最低限の言葉のやりとりすらしない。朝、無言で仕事に行って、夜遅くに帰って来てご飯とお風呂を済ませるとさっさと自分の部屋に閉じこもる。言葉を交わすどころか顔を一度も合わせない日もあるくらいだ。

 そうした両親の態度は私に対してもほぼ同様だった。挨拶をすれば返してくれるだけいくらかマシという程度で、私から積極的に言葉をかけない限りにおいて、両親はやはり私をいないものとして扱った。もはや私とお母さんとお父さんは親子でも夫婦でも家族でもなく、ただ同じ家に住んでいるだけの赤の他人でしかない。

 がらんどうだ。

 この家にはもう何もない。思いやりがなくなった。温かみを失った。笑顔が消えた。最近ではもう悲しみも怒りすらも生まれない。しんとした我が家にはただただ虚無感だけが漂っている。

 ここは私の居場所じゃない。一刻も早くこの家から出ていきたい。最近特にそう思うようになった。そんな私のたった一つの希望は三年後にある。どこか遠い地方の大学を受験して合格すれば私はここを抜け出せる。ここを抜け出してどこかに行けるなら私はどこに行きたいのだろう。温かい場所がいい。特別にぎやかでなくてもいい。落ち着いていてすっと心が安らぐ。そんな場所に行きたい。

 けれどそれは未来の話だ。じゃあ、それまで私はどこに居ればいい? 私には三年間を過ごす居場所が必要だ――とそう考えた時、私の脳裏になぜか今日出会ったばかりのほにゃりとした先輩の笑顔が浮かんだ。

 

「入部待ってるよ、奈々ちゃん」

 

 彼女は最後にそう言っていた。あんな風に笑顔で下の名前を呼ばれたのはいつ以来だろう。誰かに手を握られて歩いたのはいつ以来だろう。

 

(麻雀部かあ……)

 

 それはきっとこの三畳間に居るよりはずっとマシに違いない。天井をぼんやりと見つめながら私はそう思った。

 

                      ***

 

 カチャ。麻雀の牌が当たる音が部室に響く。

 五月。大型連休が終わってから一週間ほどが過ぎたある日の放課後。私は部室で麻雀を打っていた。結局、私は麻雀部に入部した。麻雀部にしたのは、脚立の一件がきっかけではあったのだけど、麻雀のルールを知っていたので、さほど入部するのに敷居が高い部活ではなかったという点も大きかった。

 私に麻雀を教えてくれたのは父親だった。お父さんがパソコンで麻雀をやっているのを見て私もやりたいって言ったのがきっかけだったと思う。あの頃はまだ両親の仲もよくて、お母さんも私といっしょにルールを覚えて、家族で三人麻雀をしてよく遊んでいた。もっとも両親の仲が険悪になってからはそんな風に遊ぶこともなくなってしまったので、私も麻雀からすっかり遠ざかってしまっていた。けれどルールはまだ覚えていたし、まったく親しみのないことをやるよりはいいかなと思って私は麻雀部に入部届を出した。昔取った杵柄だし、ひょっとしたらあっさりレギュラーになれたりして、なーんて下心も入部を後押しした。

 しかしだ。麻雀部に入ってたったの一か月半で、本当に団体戦のレギュラー争いに加わることになるとは思わなかった。入部して初めて知ったことだが、鳴海高校麻雀部は西東京ではかなりの強豪らしく、八十人近くの部員によるレギュラー争いは熾烈を極めていた。鳴海高校では基本的に部内ランキングの上位五人が団体戦のメンバーに選ばれる。今現在の私のランキングは七位でこれは一年生の中では最高順位だ。入部するまで知らなかったことだが、どうやら私はけっこうなお手前らしかった。

 夏のインターハイ予選の申し込みが迫った今日、レギュラー決めは佳境に差し掛かっていた。というか今日がその最終日だ。今、私と卓を囲んでいる三人はそれぞれランキング四位、五位、六位で全員私より順位が上だ。このうち四位の先輩はすでにレギュラー入りが確定している。けれど、その他の私を含めた五~七位は成績がかなり僅差のためこの一局の結果次第では誰でもレギュラーになれる可能性があった。

 夏の大会のレギュラーが決まるという注目の一戦のため、麻雀卓の周りには十数人の見学者がぐるりと立って試合を観戦している。監督や部長、副部長まで見ているというのだからなんとなく緊張する。

 ちなみに七位の私はトップで終わらないとレギュラーになれないという一番不利な状況で対局に臨んでいたのだけど――

 

(これは出来過ぎかなあ……)

 

 私はぶっちぎりのトップでオーラスを迎えていた。馬鹿ツキというのはこれだ、と言わんばかりの勢いでここまで来てしまった。速攻で聴牌、アガリという駆け引きもへったくれもない試合進行だった。しかもここに至って今日一番、手牌がすごいことになっている。今年の運をすべて使い果たそうとしているのではないかと心配になるような五巡目での聴牌だった。

 

「あっ」

 

 次に来た牌をみて私は思わず声を上げた。なんとなく来るんじゃないかという予感はあったがまさか本当にできてしまうとは。私はぱたりと牌を倒した。

 

緑一色(リューイーソー)。32000です」

 

 緑に染まった私の手牌を見て先輩たちの顔が絶望に染まった。残り点数の少ない先輩たちにとってそれはまさしく死刑宣告だった。

 人生初の緑一色。なにもこんな場面でできなくてもいいだろうに。私の役満は綺麗に全員をふっとばして対局を終了させた。少し申し訳ない気持ちになりながら私は「ありがとうございました」と頭を下げ、席を立った。

 私はレギュラーになった。

 

                      ***

 

 よく来る自販機の前。私はいつもどおりミケ先輩と理瀬先輩に挟まれて座っていた。手にはお祝いといっておごってもらったいちご牛乳がある。

 

「いや〜、びっくりしたよ。一年生が夏の大会でレギュラー取るなんて過去めったにないことだよ。もうっ、奈々ちゃん、えらい」

「ちょっと……ミケ先輩。暑苦しいです。抱きつかないでください」

「遠慮はいらないよ~。ほら、よしよししてあげる~」

 

 隣からがっしりと抱き付かれよしよしと頭を撫でられる。私は犬か。

 ミケ先輩はスキンシップが過剰で異常だ。朝、おはようと言って抱き付いてくるし。電車で隣に座ったかと思うといきなり太もも触ってくるし。理由もなく胸触って来るし。怒っても全然止めてくれないし。もう変態と言って差し支えない。止まることのないミケ先輩の変態ぶりに、最近、悟りの境地に達し始めた私はもうほとんど抵抗を諦めている。ミケ先輩を止められるものなんて理瀬先輩の拳骨以外にこの世に存在しないのだ。

 

「レギュラーになれたのはたまたまついていただけです。今日は打っていて怖くなりました」

「まあ今日はそうだったかもしれないね。ダブリーに、嶺上開花(リンシャンカイホー)に、流し満貫(まんがん)に、緑一色だもんね。珍しい役のオンパレードだったよ」

 

 からからとミケ先輩が笑う。理瀬先輩も笑いながら言った。

 

「まあ、今日はおいといてもあとは実力だろ? うちのランキングの計算方式はまだ対局数の少ない一年生には不利なはずのにたった一か月半で五位まで順位を上げたんだから」

「だよねー。わたし、最初に胸揉んだ時からこの子はただ者じゃないと思ってたんだよね」

「何で判断してるんだ、お前は」

 

 あきれた表情で理瀬先輩が呟く。変態のミケ先輩と違って理瀬先輩はもう憧れの先輩だ。ロングの黒髪はサラサラできれいだし、背はすらりと高いし、美人だし、頼りになるし、麻雀は上手だし。何でこの人が部長じゃないのだろうと思わずにはいられない。

 ちなみに今しがた、私のランキングは五位になったばかりだけど、この二人ももちろんレギュラーで当然ランキングは私より高い。今は理瀬先輩が一位で、ミケ先輩が二位だ。もっともこの二人はいつも僅差でトップを争っているため、順位はよく入れ替わっていた。

 

「本当におめでとう。よくやったな、奈々」

 

 理瀬先輩は私の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。理瀬先輩の手が動くたびにくすぐったいような感覚が伝わって来て、それが心地よかった。

 

「理瀬先輩……うれしいですけど、ちょっとだけ恥ずかしいです」

 

 私がそう言うとミケ先輩が目を丸くした。

 

「あれ? わたしの時とリアクション違いすぎない? なんで?」

「さあな。胸に手を当てて普段の自分の行いをよーく振り返ればわかるんじゃないか?」

「え、そう?」

 

 ミケ先輩が理瀬先輩の胸に手を伸ばした。ピキリと理瀬先輩の表情が固まる。

 

「あれ? 理瀬、胸またおっきくなった?」

「誰が私の胸を触れって言った!」

 

 お約束の拳骨がミケ先輩の脳天に落ちた。あうーとミケ先輩が痛そうな声を漏らして頭を押さえる。うん、自業自得だ。この二人はいつもこんな感じで夫婦漫才をしている。聞けば幼稚園の頃からの付き合いらしい。理瀬先輩いわく腐れ縁だとか。

 麻雀部で私はこの二人の先輩といっしょに居ることが多かった。その主な原因はミケ先輩だった。あの脚立事件で顔見知りだったせいか、入部当初からミケ先輩は私によく話しかけてきた。彼女は「後輩とのコミュニケーションだよ~」とか「奈々ちゃん見てるとかまいたくなるんだよね」と近づいて来ては、

 

「よしよし、今日も撫で心地の良い頭だね」

「お菓子いる? 食べさせてあげよう。ほら、あーんして、あーん」

「ようしっ。抱っこしてあげる~」

「ほうら、おいでー、おいでー。ちっちっちっち、るーるるるー」

 

 私の扱いについて言いたいことは色々あるけれど。なんで私はこの先輩とよろしくやっているのだろうと首をひねりたくもなるけれど。気がついたら私はミケ先輩といっしょに居るようになり、それがきっかけで理瀬先輩とも仲良くなった。先輩たちに挟まれて過ごす毎日はすごく楽しくて居心地が良い。

 まあ理瀬先輩は言うに及ばず、ミケ先輩も一応……変態染みたスキンシップにさえ目をつむればいい先輩だ。先輩に恵まれ、そして今日はレギュラー。私の麻雀部での生活はおおむね順調に回っている。考えるだけで気分が重たくなるたった一つのことを除いては。きっと今日も、いやレギュラーになった今日だからこそ、たぶんそれはあるに違いない。私がそれについて考え込んでいると、暗い表情になっていたらしく、ミケ先輩と理瀬先輩が両側から私の顔を覗き込んでいた。

 

「どしたの、奈々ちゃん? すこし元気がないように見えるけど」

「悩み事か? それとも体調が悪いとか……」

「いえ、何ともありません。ただ今日は結構プレッシャーのかかる一局をうったので少し疲れたみたいです」

 

 私は慌てて適当な理由を取り繕った。二人ともけっこう目聡いから困る。

 

「そうか……。それなら、今日は早く家に帰って休んだ方がいいかもしれないな」

「はい。そうします」

 

 笑顔で答える私に対して少し理瀬先輩はまだ何か言いたげな表情だったが、私がそのまま笑顔でいると、理瀬先輩は何も言わずに立ち上がった。

 

「じゃあ私たちはそろそろ監督のとこに行かないと。もうミーティングの時間だ。ほら、行くぞ、ミケ」

 

 理瀬先輩が促すがミケ先輩は動かず、じーっと私の顔を見ている。

 

「何ですか?」

「本当に大丈夫?」

「……はい、大丈夫です。早く行かないと監督がおこりますよ」

 

 私がそう言うとミケ先輩はしぶしぶ立ち上がった。

 

「むー、しかたないなあ」

「文句言うな。これも部長、副部長の仕事のうちだ。じゃ、奈々。また明日」

「はい、また明日」

 

                      ***

 

 先輩たちと別れると、私は帰宅するため昇降口まで移動した。下駄箱に手を入れるとくしゃりと紙の感触がした。やっぱり。私はため息をつきながらそれをとりだした。中から出てきたのはノートの切れ端だった。紙には乱雑な字でいろいろと悪口が書き並べられていて、最後は「さっさと退部しろ」という文句で締めくくられていた。今日はまた内容が一段とひどい。

 こういう手紙が下駄箱に入っていたのは一度や二度のことではない。

 鳴海高校のレギュラー争いは熾烈だ。ミケ先輩と理瀬先輩はともかくとして、ランキング三位以下の順位の変動は激しく、レギュラーになるのはもちろん留まるのも大変だった。そんな中ついこの間入部して来たばかりの一年生の私が勝ち続け、レギュラー争いに加わったのは他の部員にしてみれば相当に面白くないことだったらしい。その証拠に私が勝ってランキングを上げれば上げるほどこういった嫌がらせを受ける回数も増えていった。

 今日、私はとうとうレギュラーになった。それは嫌がらせの主からしてみれば一番面白くないことに違いなかった。だから直後のこのタイミングで何か嫌がらせがあるかもしれないという予想と覚悟はしていた。

 けれどやはり実際にやられてみると心が痛む。ずきりというよりはじくじく痛むという感じ。最初はそのうち慣れるだろうと思っていたけれど全然そんなことはなく、むしろ嫌がらせを受ければ受けるほど痛みは大きくなっている。

 私にとって一番辛いことは嫌がらせの内容そのものよりも、はっきり誰とはわからない相手から悪意を向けられているという事実そのものだった。私にはいじめられたり疎外されたりといったような他人からの並々ならぬ悪意に苛まれた経験がなかったので、今の状況は大きな戸惑いだった。正体不明の誰かから向けられる悪意がこんなに辛いものだとは知らなかった。

 今のこの状況は本末転倒なのかもしれない。家にいる時間が嫌で、それを減らしたくて入った部活なのに、ここでも嫌な思いをしなくてはいけないなんて。だけど私は麻雀部を辞める気にはなれなかった。その理由はミケ先輩と理瀬先輩だ。

 ミケ先輩や理瀬先輩といるとふと家族仲良く麻雀をして遊んでいた頃のことを思い出す。あの頃の私は何も知らずただただ無邪気に笑っていた。自分がどれだけ大切でかけがえのない時間を過ごしているのか気がついていなかった。ようやく気がついた時には、私はすでにそれを失っていた。

 けれど今、私は先輩たちと過ごす時間の中に、失ってしまったはずの温かさと安心を確かに感じている。ミケ先輩の陽だまりのような笑顔は、理瀬先輩のまっすぐな優しさは、私の心の欠けた部分をそっと埋めてくれる。いつの間にか私は、親鳥の柔らかな羽の下から丸まって動こうとしない雛鳥のように、二人のそばを離れたくないと思うようになっていた。

 今日、自販機のところでミケ先輩や理瀬先輩と別れられたのは本当に都合がよかった。二人にはこのことを絶対に知られたくない。部内でこんなことが起きていると知ったら、部長、副部長である二人はきっと気に病む。

 それに知られたくないわけはもう一つある。今回の問題の原因は間違いなく私だ。それを知った時、ミケ先輩や理瀬先輩は私のことをどう思うだろうか? たとえば部内に厄介事を発生させた私を疎ましく思うようになるかもしれない。嫌われるかもしれない。そしたら私はもう今までのように二人といっしょにいられない。

 ミケ先輩と理瀬先輩はそんなことで他人を嫌いになるような人じゃない。そう思う一方で、私はそんな想像をせずにはいられなかった。私は人と人の仲ほど不確かなものはないことをよく知っていた。私の両親がそうだったように、何かのふとしたきっかけで簡単に壊れてしまう

 私はミケ先輩や理瀬先輩との今の関係がなくなってしまうことをひどく恐れていた。二人といっしょにいる穏やかな時間を失いたくない。心をふわりと包み込むような二人の優しさやぬくもりをずっと感じていたい。だから、先輩たちにこのことは秘密だ。私が胸の内にしまい込んでおく限り今の時間はかわらず続いていく。たとえ心が痛くても、その方がずっといい。そう思っていたら突然後ろから肩をつかまれた。

 驚いて振り返るとミケ先輩が立っていた。ミケ先輩の視線はじーっと私の持っているノートの切れ端に注がれていた。私は慌ててそれをポケットに隠した。なんとか平静を装ってミケ先輩に話しかける。

 

「いきなりなんですか、ミケ先輩。びっくりしました。ミーティングだったんじゃ――」

「いつから?」

 

 私はぎくりとした。表情が強張る。私の言葉を遮ったミケ先輩の声は妙に低く淡々としていた。いつものほんわり柔らかい雰囲気は微塵もない。私が答えられないでいると、ミケ先輩はぎりっと唇をかんだ。私の肩をつかむ手にわずかに力がこもった。

 

「いつからこういうことされていたのかって聞いてるの」

「あの、ミケ先輩。こういうことって――」

「ごまかさないでよっ!」

 

 鋭い声に私は口をつぐむ。ミケ先輩の眼には確かな怒りが浮かんでいた。 

 

「これが初めてじゃないよね?」

「そう……です、けど。でも、こんなの全然大したことじゃないし――」

「大したことだよっ!!」

 

 ミケ先輩の大声が辺りに響いた。たまたま周りにいた生徒が何事かとこちらを見た。

 

「こっち来て」

 

 ミケ先輩が私の手を引っ張った。私は引かれるままミケ先輩の後ろに続く。普段怒らない人が怒ると怖いなんていうのはよく聞く話だけど今のミケ先輩はまるで怒り狂う虎のようだった。

 ミケ先輩につれてこられたのは近くの空き教室だった。ミケ先輩は教室に入るとぴしゃりとドアを閉めた。夕暮れの茜色に染まり始めた教室でミケ先輩と私は向き合った。歩いているうちにクールダウンしたのかミケ先輩の表情はさきほどより幾分穏やかだった。

 

「さっきは大きい声出してごめんね。驚かせちゃったね」

 

 ミケ先輩が謝る。声もいつもの柔らかい調子に戻っていた。私はほっとした。

 

「さっき奈々ちゃんの様子が変だったのがどうしても気になったから理瀬にミーティング任せて追いかけてきちゃったの。それでもう一度聞くけどいつからこういうことされていたのかな? 正直に答えて」

「それは……ランキングが上位になった頃からです」

「そう……」

 

 私の答えにミケ先輩は小さく息を吐いた。

 

「ごめんなさい」

「どうして奈々ちゃんが謝るの?」

「それは、その……私が一年なのにレギュラーなんかになるから」

「そんなの全然悪いことじゃない。むしろ誇るべきことだよ。大体ランキング方式でレギュラーを決めているのは監督なんだから奈々ちゃんに責任なんてない」

「でも……」

 

 私が口ごもるとミケ先輩は弱々しく笑った。いつもの見ていてほっとするような優しい笑顔とは違う自分を責めるような悲しい笑みだった。

 

「謝らなくちゃいけないのはむしろわたしの方だよ。奈々ちゃん、ごめんね」

「え?」

「わたし、部で起きている問題をずっと見落としてた。本当はもっともっと早くに気がつけたはずなのに。そのせいで奈々ちゃんに辛い思いさせちゃったから。だから、ごめん」

「やめてください。それこそミケ先輩が謝るようなことじゃないです」

「謝るようなことだよ。だってわたしは部長だもん。最近、奈々ちゃんが元気ないのには気づいてたのに……」

「だからやめてください! 私は私のせいでミケ先輩にそんな顔してほしくありません」

 

 気がつくと私は叫んでいた。突然の大声に驚いたのかミケ先輩は目を見張った。

 

「私、先輩を困らせたくありません。迷惑かけたくありません。もしそれで先輩たちに嫌われたりしたら私また一人ぼっちになっちゃう。そんなの嫌です……」

 

 そこまで言って私ははっと我に返った。思わず本音が零れていた。私が固まっていると、ミケ先輩が「ばかだなあ」と小さくつぶやいて、突然私を抱き寄せた。戸惑う私の背中をミケ先輩がやさしく叩く。ミケ先輩にそうされていると急に目頭が熱くなって視界が歪んだ。涙が一筋頬をつたって零れ落ちた。涙はあとからあとから溢れ、我慢できなくなって嗚咽が漏れた。

 

「本当にばかだなあ、奈々ちゃんは。わたしも理瀬もそんなことで奈々ちゃんのこと嫌いになるわけないじゃん」

「だって……」

「わたしは奈々ちゃんのこと好きだよ。可愛い後輩だと思ってるよ。だから奈々ちゃんがレギュラーになってくれてうれしいよ」

 

 ミケ先輩が私の頭を優しくなでて言った。

 

「確かに奈々ちゃんがレギュラーになったことでレギュラー枠は一つ埋まってしまった。そのせいでレギュラーになれなかった部員がいるのは事実だよ。でもそれはわたしを含めたレギュラー全員に言えること。限られた枠を正々堂々争っての結果なんだから仕方ないよ。勝負の世界はきびしーからね」

 

 でもね、とミケ先輩は言葉を紡ぐ。

 

「奈々ちゃんが入部したおかげでうちの部は前よりずっと強くなった。わたしもだけどみんな一年生に負けてたまるかって熱心に練習するようになったから。だから奈々ちゃんが気にすることは何にもないんだよ」

 

 ミケ先輩の言葉から、触れ合う体からじわりと温かさが伝わって来るようだった。それは心地よくてうれしくて、けれど涙は全然止まらなくて、私はミケ先輩に体を預けてみっともなく泣きじゃくった。泣き止むまでずっとそうしていた。

 

                      ***

 

 帰り道。私はミケ先輩と駅まで歩いていた。ミケ先輩は私の二歩先を歩いていた。右手に学生鞄、左手にスマホを持っている。私はさっきみっともなく泣いてしまったことが気恥ずかしくって、その後ろをとぼとぼと歩いていた。駅近くのコンビニまで来たところでミケ先輩はぴたりと足を止めた。

 

「奈々ちゃん、アイス食べよっか」

「え?」

「レギュラー祝いだよ。先輩がおごってあげる」

「いいです。さっきジュースおごってもらいました。自分で払います」

「いーの。わたしがお祝いしたいんだからおごらさせてよ」

 

 ミケ先輩に引っ張られてコンビニに入り、アイスを買う。そのまま私たちはコンビニのイートインスペースの椅子に並んで腰かけた。

 

「はい、あらためましてぇ~、レギュラー入りおめでとう」

「あ、ありがとうございます」

 

 買ってもらったアイスを口に入れる。ひんやり冷たい感触とともにバニラの甘い香りがふわりと口の中に広がる。個人的な意見だけどアイスはバニラ味が一番おいしいと思う。見た目も白くてきれいだし。

 

「おいしい?」

「はい!」

 

 私がそう答えるとミケ先輩が笑った。

 

「何ですか?」

「べつにー? アイス食べて元気になるなんて、小さい子どもみたいだなあと思っただけ」

「なっ」

 

 まさかミケ先輩に子ども扱いされようとは心外だった。けれどアイスで気分が上向いたことは事実だったのでどうにも言い返せない。からかうようなミケ先輩の視線に耐えかねて私は顔をそむけた。ミケ先輩はしてやったりという顔をして自分のアイスを口に入れた。

 

「さーて、これでレギュラーも決まったし、あとは夏のインハイに向けて突っ走るだけだね」

 

 夏のインターハイ選手権。各地の麻雀部員がプロに直結する成績を残すべく覇を競う一大イベントだけど、全国大会に至るまでの道のりは険しい。全国大会の前にはまず予選があって、そこで優勝して代表校にならなければお話にならないが、私たち鳴海高校が属する西東京地区は全国でも一、二を争う激戦区だった。東京都は東西二つのブロックに分かれてもなお群を抜いて出場校が多いからだ。

 

「うーん、まあ確かに学校の数は多いんだけど……西東京で一番のネックになるのはそこじゃないんだよね」

「どういうことですか?」

「西東京には白糸台高校が出てくるんだよ」

 

 後ろから声がした。振り返ると理瀬先輩が立っていた。

 

「理瀬先輩? どうしてここに?」

「ミーティング終わってミケにメールしたらここで待ってるっていうからさ」

 

 席に座りながら理瀬先輩が答える。私の隣に腰を下ろした理瀬先輩は私の顔をまじまじと見た後、安心したように笑った。

 

「よかった。もう大丈夫そうだな」

「はい。もう平気です、ミケ先輩にはその……お世話になりましたから……」

「そっか。ミケもたまにはいいことするな」

「たまにはは余計だよー」

 

 ミケ先輩が不満げに口をとがらせた。理瀬先輩は「いやいや、そんなことないだろ」といいながら自分のアイスを開ける。ストロベリー味だった。

 

「それで白糸台って――」

 

 私が聞くと、理瀬先輩はあきれたように眉をひそめた。

 

「なんだ知らないのか? 王者、白糸台高校。昨年のインハイを制した最強の高校さ。私たちが全国に行くにはそこを倒さないといけない」

「去年わたしたちは白糸台と当たる前に負けちゃったから直接は戦ってないけど超すごいんだよー。みんな化け物みたいに強いの」

「そうだな、ああいうやつらが全国区の魔物なんだろうな。いや、王者だし魔王かな?」

 

 ミケ先輩と理瀬先輩が脅かすような調子で言った。魔王って……ダメだ、全く勝てる気がしない。いったいどんな高校なんだろう? 私の中で白糸台のイメージがすごいことになっていると、ミケ先輩と理瀬先輩が笑った。

 

「大丈夫だよ。奈々ちゃんも立派な一年生エースなんだから」

「そんな。ランキングじゃ、まだレギュラーの中で一番下です」

「いやいや、言ったろ。うちのランキングの算出方式は一年には不利だって。私もミケも、監督だって奈々の実力は順位以上だって認めてるさ」

 

 そう言うと理瀬先輩は鞄を開けた。中から何かを取り出し私の方へ差し出した。綺麗な柄をした小袋でいかにもプレゼントという格好をしている。

 

「ほら、奈々」

「えっと……」

「レギュラーおめでとう。ミケにはアイスおごってもらったんだろ? これはあたしから」

「いや、でもジュース……」

「あれはあれ、これはこれだ」

 

 ぐいっとお祝いの品をもう一度突き出される。私は「ありがとうございます」とそれを受け取った。

 

「開けていいですか?」

「もちろん」

 

 小袋の中身を取り出す。桜の花を模したヘアピンだった。

 

「へー、かわいいヘアピンじゃん。どしたの、これ?」

「ここに来る途中で買った。良さ気なデザインだったから丁度いいかなって」

「はい。すごく綺麗です」

「やっぱり? 貸してみ。つけてやるよ」

 

 ヘアピンを渡すと、理瀬先輩が「どこにつけようかな」と私の髪をいじる。

 

「へえ、奈々は髪の毛さらさらだな」

「でしょー。ついつい触りたくなっちゃうんだよね」

「お前は自重しろ」

「それはできない相談だよー」

「いや、してください。相談」

「よし、できた」

 

 理瀬先輩が満足げな顔で頷いた。ほら、とミケ先輩が折り畳みの鏡を出す。うん、結構似合っているんじゃなかろうか。鏡に映った自分を見て私は心の中でひっそりと自画自賛した。こうやって鏡で見るとちょっと派手な感じだ。同じものを店頭で見かけても自分で買う勇気は出ないと思う。

 

「うん、我ながらいいチョイスだったな」

「奈々ちゃん。すごく似合ってるよ。それつけて試合したらいいんじゃない? きっと雀力が三倍くらいに増幅するよ」

「増幅するメカニズムが分かりません」

「そのヘアピンを通してわたしたちのパワーが奈々ちゃんにチャージされる……とかはどう?」

「いや、聞かれても……」

「ははっ、そんなことができたら楽に全国へ行けていいけどな」

「だよねー。わたしも理瀬もさ、中学の時からずーっと麻雀部だけどまだ一回も全国って行ったことないんだよ。でも今年はなんとなく行けそうな気がするんだ」

「ああ。さっき監督が言ってたけど今年は監督が就任してからのチームの中で一番強いってさ」

「ミケ先輩も理瀬先輩も全国に行きたいんですか?」

 

 私がそう尋ねると二人はきょとんとした表情をした。

 

「いまさら聞くようなことか?」

「そうだよー。なんのために練習してると思ってるのさ?」

 

 二人は当然と言った口調で答えた。私はバカなことを聞いたと苦笑いした。麻雀部の部員が全国大会を目指す。至極当然。特に鳴海高校のような強豪校なら普通そうだ。

 けれどそれは私には当てはまらない。私が全国大会に出たいと思っているかというと実はそうでもない。そもそも麻雀部に入った理由だって家にあまり帰りたくない、それだけだ。部活でミケ先輩や理瀬先輩と麻雀を打ったり、こうしてお菓子を食べながら話しているだけで私は楽しいし満足だった。私には全国を目指そうと必死になれるだけの理由がなかった。それは部を代表して試合に出るレギュラーとしてあまりにふさわしくないことだ。

 ミケ先輩は言った。限られた枠を正々堂々争っての結果なんだからしかたないと。それはきっと正しい言葉なんだと思う。けれど楽しいってだけで麻雀を打っている私は、そもそもレギュラーを争う資格すら最初から持っていなかったんじゃないだろうか? そう思うと罪悪感めいた感情で胸がずしりと重くなった。

 

「ま、わたしも理瀬も今年で最後だしねー。やっぱ行きたいよ」

 

 ミケ先輩が何気ない一言でさらに胸が重たくなる。そうだった。ミケ先輩も理瀬先輩も三年生だから夏の大会が終わったら引退してしまう。時間は止まってくれない。その時はいずれ必ずやって来る。ミケ先輩と理瀬先輩の間に挟まれて、こうして笑い合う心地のいい時間もいつかは終わってしまうんだ。

 暗い考えがぐるぐると頭の中を回る。そんな風に考え込んでいると、理瀬先輩とミケ先輩が両側から私の顔を覗き込んで言った。

 

「また悩み事みたいだな?」

「ほらー、先輩たちに何でも言ってみるといいよ?」

「……私ってそんなに顔に出やすいですか?」

「んー、わかりやすいよね?」

「ああ。すぐに分かる。それでどうした?」

 

 理瀬先輩に促されて私は頭の中でぐるぐる回っている想いを吐き出した。今日は二人に頼ってばかりだ。

 

「全国に行きたいわけでもない自分はレギュラーにふさわしくないんじゃないか……かあ。奈々ちゃんは色々考え過ぎだと思うなあ」

「私もそう思うな。大体、私だって全国に行きたい理由なんてはっきりしてないぞ」

 

 理瀬先輩の言葉は意外だった。麻雀部の中で全国大会に誰よりも熱心なのは理瀬先輩だと私は思っていたからだ。そう言うと理瀬先輩は苦笑した。

 

「確かに全国には行きたいけどな。漠然と憧れみたいなものがあるし……。でもそれは一番の理由じゃないな。なんて言うのかなあ。たぶん……終わりたくないんだよ」

 

 理瀬先輩にしては珍しく歯切れが悪い。するとミケ先輩が「それ、わかる」と頷いた。

 

「わたしもそうだもん。終わりたくない。続けていたいから私は全国に行きたいんだと思う」

「どういうことですか?」

「うーんと、さっき奈々ちゃんも言ってたことだけど、今のこの時間はそう遠くないうちに終わってしまうよね。しかたないことだけど、それはやっぱりすごく寂しいよ」

 

 でもね、とミケ先輩が続ける。

 

「だからこそわたしは勝って、勝って、勝ち進んで、この楽しい時間を少しでも長く過ごしたいって、そう思うんだ」

 

「そうだな。たぶん私もミケと同じ理由だと思う。あのな、全国を目指す理由だけど、麻雀部で過ごす時間が楽しい、それでいいんじゃないかな」

 

 理瀬先輩が頷いて言った。

 

「え?」

「そうだよ。きっとみんなで全国大会に行けたら、今この時間がもっと楽しく、最高になるよ」

 

 ミケ先輩が優しく笑った。すると胸が急にふわりと軽くなった。なんだろう。今日のミケ先輩はミケ先輩のくせにすごく先輩っぽい。

 そうだ。私はもっとミケ先輩や理瀬先輩といっしょに居たい。みんなで全国に行って、それでもっといっぱい楽しい時間を過ごせたら、それはきっとすばらしいことに違いない。

 それに全国大会が先輩たちの望みというのなら、私はそれを叶えるための先輩たちの力になりたい。二人に迷惑をかけてばかりの自分なんていやだ。そして今の私がミケ先輩と理瀬先輩にお返しできることはきっと麻雀しかないと思う。

 

「ミケ先輩、理瀬先輩」

 

 二人が私を見る。

 

「私も全国に行きたいです。絶対行きましょう。ううん、私が連れていきます」

 

 私がそう言うと、二人は驚いたようにぱちくりと目を瞬かせた後、「頼もしい後輩だな」「期待してるよー」と言って笑った。

 

                      ***

 

 翌日から私に対する嫌がらせはぱったりと止んだ。どうやらミケ先輩と理瀬先輩が何かしてくれたらしい。嫌がらせをしていた部員の不満がなくなったわけではないのだろうけど、直接的な行為がなくなっただけでもありがたかった。私はミケ先輩と理瀬先輩にお礼を言おうとしたけれど、二人は何のことだかわかりませんと素知らぬ顔ですっとぼけるばかりだった。私は何となく二人ともずるいと感じた。

 それから麻雀部での生活は急に忙しくなった。インターハイに向けての強化合宿や練習試合などで月日は飛ぶように過ぎていった。ミケ先輩と理瀬先輩を全国に連れていくという目標を新たに立てた私は、以前よりずっと麻雀に熱心になっていた。

 そして迎えた夏のインターハイ。私にとって初めての、そしてミケ先輩と理瀬先輩にとっては最後の大会が始まった。大会で私は先鋒にオーダーされた。先鋒はふつう各校で一番強い人間が据えられるエースポジションだ。そこに私がオーダーされたのは私の麻雀のスタイルが主な理由のようだった。これまでの対局データを分析した監督は私の振込み回数が他のレギュラーと比べて極端に少ないことに目を付けたらしい。監督の作戦はこうだった。まず各校のエースが暴れ、試合が荒れることの多い先鋒戦を私が最小限の損害で切り抜ける。そして後半、中堅と大将にそれぞれオーダーされた理瀬先輩とミケ先輩の火力で勝負する。

 要はなるべく点数を残して難所を終えろというのが監督から私への指示だった。監督は「おまえならそれができる。信頼しているぞ」と言った。私はなんとも微妙な内容の指示に苦笑いしながら、「がんばります」と答えて試合に臨んだ。しかし物事にはイレギュラーがつきものだ。予定を立てても現実にはそうならなかった、なんてことは多々ある。今回もその例に漏れず、残念ながら監督の作戦通りに事は進まなかった。試合の結果は――

 

「もうっ、奈々ちゃん最高っ! さっすがうちのエースだよー」

「抱きつかないでください」

 

 インターハイ西東京予選初日。帰りのバスの中でミケ先輩は上機嫌でいつものセクハラ行為に走り、私はそんなミケ先輩をいつもの悟りの境地で受け入れていた。ミケ先輩の機嫌がすこぶるいいのにはもちろん理由がある。今日、私たち鳴海高校は予選を完勝といっていい内容で勝ち上がった。先鋒の私が他校をぶっちぎり、そのリードを保ったまま逃げ切るという王道の展開で、監督は「まいったなあ。作戦意味なかったわー」と苦笑していた。

 

「三回戦の時とか親リー相手に押して押しての倍満だよ。心臓に悪かったけど奈々ちゃんすっごくかっこよかったよ」

「あれは裏ドラがうまく乗っただけで……たまたまです」

「乗らなくても跳満だよ? 十分すごいっ」

「あ、ありがとうございます……あの、暑苦しいです、離れてください」

 

 口ではそう言いつつ私はそれほど悪い気はしていなかった。いつもはうっとうしく感じるミケ先輩の頬ずりが今日はさほどでもない。きっと勝利の余韻がまだ残っているからだろう。柄にもなく私は浮かれているらしい。

 

「ほんと大活躍だったぞ。私なんて緊張しちゃって大変だったのにさ」

「理瀬は初戦とか手震えてたもんね」

「やかましい」

 

 理瀬先輩も今日は上機嫌だ。緊張したといいつつ理瀬先輩も今大会初の役満を叩きだし、大活躍だった。

 

「けどみんなが稼いで点差つけちゃうから大将のわたしの見せ場がなかったよー。わたしは今日、喰いタンとか役牌とか安手ばっかりだったもん。わたしも役満とか倍満、アガリたかったなあ」

「いや、そんな高いの必要ない」

「速攻逃げ切りが最善です」

「ええー? なんか寂しいじゃん」

 

 アヒルみたいに口をとがらせるミケ先輩が面白くて私も理瀬先輩も声を上げて笑った。

 

「でもミケ先輩が楽なのはいいことだと思います。明日もミケ先輩の見せ場がないくらい私が稼ぎます。私にドーンと任せてください」

「うん、ありがとう……でも、あんまり背負い込まないでね」

「はい?」

「ううん、なんでもないよ~。明日もがんばろうね、奈々ちゃん」

「はいっ……ってちょっとミケ先輩、なんで胸触って――」

「よいではないかー、よいではないかー」

「よいわけあるかっ」

「あう~」

 

 理瀬先輩の拳骨が落ちミケ先輩は痛いよ~と頭を押さえる。いつも通りの私の日常がそこにはあった。

 何もかもが順調だった。この調子なら明日はきっと決勝に行けるし、そこで白糸台だって倒せる。そしたらもう全国大会だ。私はこの時、そうなることを信じて疑わなかった。

 けれど、それはただの幻想だった。

 その翌日、決勝で私たちは負けた。優勝したのは下馬評通り白糸台高校だった。

 負けた原因は明らかに私だった。先鋒戦が終わった時点で白糸台は二位の私たちに十万点近い点差をつけていたからだ。私は白糸台の先鋒相手に手も足も出ず、完膚なきまでに叩きのめされた。試合終了後、監督は私に一言だけ「相手が悪かった」と言った。理瀬先輩は「よくがんばったな」と泣きじゃくる私の頭を撫でた。ミケ先輩は何も言わず、いつかしてくれたように私を抱きよせて背中をそっと叩いた。ミケ先輩も理瀬先輩も泣きたいぐらいに悲しいはずなのに、私に怒りを向けることもなくただただ優しく接してくれた。

 私には先輩たちのその優しさが辛かった。どうして私を責めないんですか? 私のせいで負けたのに。いっそ責めてくれれば――そんな風に考えさえした。

 私は自分の不甲斐なさが何より許せなかった。決勝戦。私はいつも通りに打てなかった。開いていく点差を何とかしようとして自分のスタイルを崩してまで無理をした。結局、その隙をつかれて私は放銃しさらに失点を重ねた。もし私が当初の監督の作戦通り大きな失点をしないように心がけて打っていたならこれほどまでに白糸台との差が開くことはなかっただろう。そうしたら私たちが勝つ可能性だってあったかもしれない。逆転できたかもしれないのに。

 結局、私は自惚れていたんだ。そんな実力もないくせに自分が先輩を全国に連れていくんだって息巻いて暴走して自滅した。本当にチームのことを思うなら、勝利を願うなら、私はあんな打ち方をすべきじゃなかった。

 私たちのインターハイは終わった。ミケ先輩たち三年生は引退。私もほどなく退部届をだした。監督は驚いて理由を尋ねてきたけれど、私が家の都合ですと言うとそれ以上は追及してこなかった。うちの家庭に問題があることは学校側にもなんとなく伝わっていたのだ。私が麻雀部を辞めたことを聞いたミケ先輩や理瀬先輩が心配してくれたけれど、私はあいまいに笑って全部ごまかした。正直、二人に会うのは辛かった。会った後いつも申し訳なくて泣いた。

 夏休みに入ると先輩たちと会うことはなくなった。先輩たちには受験勉強があったし、私は私で忙しかった。家庭の事情、というのは顧問に対する都合のいい文句ではあったけれどあながち嘘でもなかった。両親の離婚が決まったからだ。どうやら両親の仲が決定的に変わってしまった時分から、私の知らないところで離婚の準備は着々と進められていたらしい。私は母親に引き取られ九州の母の実家へと引っ越すことになった。急な話だった。

 両親から離婚の話を聞かされた時、私は先輩たちと別れなければならないという寂しさと、もう会って辛い思いをすることがなくなるという少しの安堵を感じた。

 そうして夏休みが終わる前に私は引っ越した。何もかもから逃げるように私は東京を離れたのだった。

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