土日が過ぎて月曜日の昼休み。いつものように裏庭で昼食を済ませた私は教室への帰り道を歩いていた。すると前方に両腕に紙袋をひっかけ、段ボール箱を抱えながら廊下を歩いている女子生徒の姿が目に入った。どこかで見たことがあるような……と思ったら梢だった。
梢は持っている荷物が重たいせいか足取りがふらついていて今にも転びそうだった。ちょうど彼女に用もあったので私は梢に近づいて声をかけた。
「手伝おうか?」
「ああ、平坂さん。こんにちは」
重い荷物を運んでいたためか、梢の顔は上気してほんのり桜色だった。それを見てあることを思い出し、むくむくと悪戯心が沸き上がる。
「あれ? やっほーじゃないの?」
私がそう言うと梢の顔がポンと真っ赤に変わった。慌てて謝る。
「ごめん、冗談」
「ううっ……平坂さんは意外といじわるなんですね」
「お詫びに荷物持つよ」
私がそう言うと梢はふるふると首を横に振った。
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「全然……全然余裕です」
「この先階段あるけど」
「うっ……」
梢があからさまに顔をしかめる。
「やっぱり持つよ」
「でも……」
「いいから貸して」
埒があかないので梢が抱えている段ボール箱を奪い取る。
「すいません、手伝ってもらって。病み上がりなのに」
梢が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ううん、もう全然平気だから。何でこんなに荷物持ってるの?」
「副会長に職員室に資料を取りに行くよう頼まれて。遥さんが手伝おうかって言ってくれたのですけど、まさかこんなに量があるとは思わなかったもので断ってしまったんです」
「そうなんだ。そういえば副会長にはまだ会ってなかったかな」
「そうですね。この間は病欠でいらっしゃられなかったので。砥上沙夜さん。私たちと同じ二年生ですよ」
砥上沙夜。聞き覚えのない名前だ。少なくとも同じクラスになったことはないはずだけど……。その辺は我ながらあてにはならない。私は人の顔や名前を積極的に覚えるタイプではない。自慢にもならないが一年の時も級友の顔と名前は半分くらいしか一致していなかった。
階段に差し掛かる。一階のここからだと生徒会室のある四階までそこそこ登らないといけない。
「ねえ、水町さん――」
「梢でかまいませんよ? みんな名前で呼びますし」
「そう? じゃあ私も奈々でいい」
「はい、わかりました。それで何ですか、奈々さん」
「うん。お見舞いの本、ありがとう」
私は礼を言った。実は藤咲がお見舞いに来た時、「梢ちゃんからおみまい~」と小説を手渡されていた。初めて会った時、梢が呼んでいた推理小説だった。お見舞いの品が小説だなんて聞いたこともなかったが休日わりと暇を持て余していた私にはありがたかった。
「あれ、まだ読みかけだからもう少し借りていてもいい?」
「ええ、もちろん」
「やっぱりあのシリーズは面白いよね」
「ですよね」
梢がにこりと笑った。その笑顔を見て思ったことを私はそのまま口に出した。
「梢ちゃんは本当に本が好きなんだね」
「そうですね。小さい頃からずっと本の虫です。昨日は『逆様プラネタリウム』という本を読みました。すごくおすすめです」
そのタイトルは私も読んだことがあった。主人公の女子高生が天文部の先輩に初恋をするというあらすじのバカ売れした恋愛小説だ。評判の高さにつられて私も手に取ったのだが、純粋な主人公の恋心の描写に引き込まれて一気読みしてしまった。
「ひょっとして読んだことありました?」
「うん、すごくいい話だった。もうすぐ映画が公開されるよね」
「そうなんですよ。映画も楽しみです」
「梢ちゃんは映画も好きなの?」
「はい。映画館に行って大画面・大音量で見るのが好きです。レンタルしてきて家でまったり見るのも悪くありませんが、やっぱり映画館の迫力には勝てません」
「何かわかるかも。私も好きな作品は劇場で見たい派だからよく映画館に行くんだ」
本好きで映画好き。梢は案外私と趣味が近いのかもしれない。
「実は私、以前から奈々さんのことよく見てたんです」
階段を上りきったところで梢が突然そんなことを言い出した。
「奈々さん、教室でよく本を読んでいたでしょう? 普段はあまり表情が変わらない人なのに本を読んでいるときは、楽しそうに微笑んだり、悲しそうに眉を顰めたりするんです。それでああこの人は私と同じできっと本が好きなんだろうなって思いました」
梢の言葉に私は頬が紅潮するのを感じた。自分が本を読んでいるときの自分の表情をことさらに意識したことはなかったけど、そんなんだったのか。急に恥ずかしくなってきた。
「そうしているうちにいつの間にか奈々さんとお話してみたいなあって思うようになって、でも私は人見知りで全然話しかけられなくて。だから美織ちゃんが奈々さんを生徒会室に引っ張って来たときはびっくりしました。美織ちゃんはさすがだなあって思いましたね」
確かに藤咲のコミュニケーションスキルはすごい。こっちが身を引く間もない速さで距離を詰めてくる。私が苦笑すると、私の考えていることが分かったのか梢もくすりと笑った。
「奈々さんは麻雀部に入らないって美織ちゃんに聞きました。正直残念ですけど、それでまた教室で本を読んでいるのを見ているだけになるのは寂しいと私は感じます」
だからと梢は言葉を続ける。
「せっかく仲良くなるきっかけを美織ちゃんが持ってきてくれたんだから人見知りなんて言ってないで頑張ってみようと思ったんです。さすがに美織ちゃんみたいに会った翌日にお泊りとはいきませんけど。実は美織ちゃんに本を届けてもらったのは、奈々さんが本を返しに来るときに一度話す機会ができるからという下心があったからなんです。ずるいですね、私は」
梢は少しはにかんで、それからおずおずと言った。
「あの奈々さん、良かったら私と……友達になってください」
梢は言い終わると色白の顔を真っ赤に染めて私の方をみた。その様子は同性の私がこんなことを言うのもなんだけど可愛すぎた。梢の背が低いせいで上目遣いで見られている感じになっているのが破壊力を上げていた。私は思わず言葉に詰まってしまったけれど、なんとか口を開いた。
「……梢ちゃんはかわいいね」
「な、な、なんですか、急に」
「いや、初めて会った時から可愛い子だなとは思ってはいたけれど……彼氏とかいるの?」
「はい?」
「もしいないなら私、友達じゃなくて彼氏に立候補したいかも」
「にゃにゃさんはいきなり何言ってるんですかっ!?」
「にゃにゃさん?」
「なにゃさんです」
「残念、言えてない」
「うぅ~、またからかいましたね」
「ごめん。ほら、着いたよ」
そんなことを言っているうちに生徒会室の前まで来ていた。両手がふさがっている梢に変わって私はドアを開けた。
***
生徒会室に着くと、遥と他にもう一人いた。副会長だろう。話をしたことはないけれど、何度か見かけたことのある同学年の女の子だった。顔を隠すように頬にかかった長い黒髪と病的なまでに白い肌がすごく印象的だったので覚えていた。
「あら、お客さんね」
モノクロの彼女が私の方を見てそう言った。
「途中でたまたま会って手伝っていただいたんです」
梢が机に荷物を置きながら答えた。私もそれにならって段ボールを置くと副会長に向き直る。
「平坂奈々です」
「私は砥上沙夜。生徒会の副会長をしているわ。よろしくね、平坂奈々さん。私、貴女とお話がしてみたかったの」
「はあ……」
じっとこちらを見る沙夜に少したじろぎながら私は何ともしまらない返事をした。私は生徒会室に入って沙夜と初めて目を合わせたその瞬間から何となく嫌な予感がしていた。この女の子に関わるとろくなことがないと直感が警報を鳴らしていたのだ。なるべく早くこの場を離れたい、そんな私の内心を知らぬ彼女が次の言葉を言う。
「私は貴女に興味があるわ」
ぞくりとするような一言だった。まるで冷たい手を首元にかけられ、じわりと締め付けられたかのような嫌な感じに、私は自分の直感はどうやら正しいらしいと確信した。
「おおっ、沙夜ちーが平坂さんを口説いてる」
「遥。頭の悪い茶々を入れるのは止めなさい」
「ひどっ」
「平坂さん。出会って早々で悪いのだけれど貴女に一つ頼みたいことがあるの。かまわないかしら?」
出会って早々の、ほぼほぼ初対面だからこそ、絶対に嫌だと強く拒否することはできなかった。かまわないも何も内容を言ってもらわないと何とも返事できない。代わりに私がそう言うと、彼女は「別に大したことではないわ」と笑った。
「皆から貴女の話を聞いていてね。私は貴女の麻雀に興味があるの。だから、平坂さん、今から私と麻雀を打ちましょう」
沙夜の唐突な提案に私は目を見開いた。
「今から?」
「ええ、今から。だって放課後だと美織がいるでしょう? あの子は止めるに決まっているわ。だから美織がいない今が好都合なのよ」
「授業は?」
「貴女のクラス、午後は中富先生の体育だからお休みしても平気よ。あの先生はサボりくらいでとやかく言わない人だから」
「えっと、でも私は――」
「発作のことは聞いているけれど問題ないわ。だって最後まで打ち切ることが目的ではないもの。私は貴女の麻雀が見れればそれでいいの。だから倒れるまで打ってもらえばそれでいいわ」
沙夜は何でもないことのように無茶苦茶なことを言った。授業をサボって倒れるまで麻雀を打てだって?
「沙夜さん、それは流石によくないと思います」
あんまりな提案に私が呆然としていると、梢がやんわりと止めに入ってくれた。しかし、沙夜はまったく意に介さないようで私をじっと見て返事を待っている。自分ではっきりと断るしかなさそうだった。
「すいませんけど――」
「インターハイ西東京予選決勝」
彼女の言葉に私は思わず口をつぐんだ。
「牌譜見たわ。ずいぶんとひどい負け方をしたみたいね」
沙夜の言葉には棘があった。私はむっとして彼女を見たが、彼女は悪びれる様子もない。それどころか彼女の眼は意地の悪い魔女のように光っていた。
「あら、気に障ったかしら。貴女は敗退を自分の責任だと思って気に病んでいるようだけれど、美織の言うとおりだわ、それは貴女のせいじゃない。いや、貴女だけのせいじゃないと言うべきね。だって――」
彼女は楽しいことでも言うかのようにささやく。
「先鋒が貴女でも他のレギュラーでも、どちらにしても負けていたでしょうから。何せ他のメンバーは一年生にエースポジションを取られるような上級生たちだもの。貴女の先輩たちはよっぽどふがいなかったみたいね」
かちりと私の中でスイッチが入った。今何て言った、この女。
「何も知らないくせに人の先輩をばかにしないで」
思った以上に低い声が出て、自分はどうやら相当に腹を立てているらしいことを自覚した。沙夜の安い挑発だと頭ではわかっているけれどどうにも抑えがきかない。
「ええ、私は何も知らないわ。だから知りたいの。白糸台が強すぎたのか、それとも貴女たちが弱すぎたのか。貴女がエースだったんでしょう? 打ってみれば自然と程度もわかるというものよ」
「くだらない」
「あら、逃げるの?」
「……やらないとは言ってない」
私の返事に沙夜は口元をゆがめた。その時、私は意地悪な笑みとともに沙夜からわずかに異質な気配が漏れでたように感じた。それはあの夏、宮永照から感じたものにほんの少しだけ似ている気がした。
***
東一局 親・八波遥
結局、勝負することになってしまった。軽く挑発されたくらいで我ながら短気なことだと思う。けれど私にとってミケ先輩と理瀬先輩は特別で、二人への侮辱を聞き流せるはずもなかった。カチャカチャと牌のぶつかる音が生徒会室に鳴る。私たちが囲んでいるのはこの間と違って全自動卓だった。修理に出していたのが戻ってきたんだよんと遥がどこか自慢げに言った。全自動卓はいちいち山を手で作る必要がないから楽でいい。
手牌 {一萬四萬三筒三筒六筒七筒一索二索三索四索五索七索西} ツモ {八索}
引いてきた八索を手牌に入れて、代わり一萬を切る。調子はまあまあ。とりあえずは平和が見えているし、索子が七種類来ているからツモ次第では一気通貫になるかもしれない。
(さて、あちらさんは――)
私は対面に座ったモノクロの少女に目をやった。砥上沙夜。いまのところ沙夜から異常は、あの夏の決勝戦で宮永照から感じたようなものは、感じられない。捨て牌もいたって普通だ。
(――というかそもそもそれが当然だって)
沙夜を必要以上に警戒していることに気がついて私は苦笑した。そもそも宮永照クラスがこんなところにいるわけない。ああいう牌に溺愛されているとしか思えない異常な打ち手がそこら辺にほいほいいたらそれこそどうかしている。それにこの東一局で注意すべきは沙夜よりもむしろ遥の方だ。
「リィーチ!」
(早速来た)
遥がリーチ棒を場に出した。親リー。遥の捨て牌はわかりやすく索子と筒子に偏っている。十中八九、萬子の染め手に違いなかった。仮に混一色だとしても満貫クラスの打点に到達する。振り込んだら一大事だ。もっとも私にその心配は無用だけれど。
私は遥の親リーに対して迷わず浮いていた四萬を切った。すると対面の沙夜が薄く笑った。梢や遥も予想通りというような表情をしている。この反応。どうやら私の性質は麻雀部のみなさんにばれてしまっているらしい。
萬子の染め手っぽい捨て牌をしている遥に対して生牌の四萬はどうみても危険牌だ。常識的にはまず捨てない。けれど私にはそれが安牌だという確信があった。
私に限って振り込みはありえない。私は牌にさわるとそれが他家の当たり牌か否かなんとなくわかる第六感のようなものを昔から持っていた。理由なんて聞かれても困る。ただ昔からそうだったとしか言えない。デジタル打ちの人間はそんなオカルトあり得ませんと言うだろう。けれどこの感覚にしたがっていて振り込んだことはほとんどなかった。
そしてあの日。宮永照との試合を通して私のこの感覚はより強いものとなった。本当に百発百中で当たり牌が分かるようになった。危険な牌に触れると体にぞくぞく冷たい感覚が走るのだ。点数が高い手ほどその感覚は顕著に表れた。
今回の遥のアガリ牌は西だ。西は私の手牌に一枚あり、さらに場に一枚切れている。この状況で西がアガリ牌になるということは国士無双を除外すれば西単騎待ちのみ。残り一枚の西が出てこない限り、遥に和了はない。けれどたぶん遥なら――
「よっしゃあ、ツモ」
{一萬二萬三萬七萬七萬七萬七萬八萬九萬西北北北} ツモ {西}
「立直、面前自摸、混一色、裏ドラは……ざんねーん。12000点いただきます」
遥が満貫を和了した。予想通りだった。
東一局一本場 親・八波遥
遥の連荘。いきなり高打点で和了した遥はご機嫌な様子で牌を切っている。
この間麻雀を打った時に梢が言っていた。「遥さんは序盤に大きなアガリをすることが多いんです」と。理論的にあり得ない統計。それはオカルトに他ならない。前回と今回の打ちぶりを見る限り遥のスタートダッシュはどうやら本物らしかった。
麻雀において序盤で高打点のアガリを成功させることは大きなアドバンテージにつながる。大きな点差があれば無理に押していく必要がなくなるし、早アガリで局を進めていくことも可能になるからだ。
けれど残念ながら遥の地力は高くない。麻雀を初めて半年くらいと言っていたし無理もないことだけど、それでも同じ麻雀歴のはずの梢と比べても粗が目立つ、というのが彼女と半荘一回打ってみての私の感想だった。もちろん半荘一回ですべてを推し量ることなんてできない。けれど、遥はとにかく大きい手を狙うことに終始しているように見える。だから放銃が多いし、聴牌速度も遅くなってしまっている。そのへんが初めに奪った大量リードを守り切れずに遥が負けてしまう原因なのだろうと私は当たりをつけていた。
その証拠とでも言うように遥が二索を切った。この終盤にドラ傍の二索。かなり不用意な捨て牌だった。
{二萬二萬一筒二筒三筒五筒六筒七筒二索二索白白白} ロン {二索}
「それロン。白のみ。1300だよ、八波さん」
東二局 親・平坂奈々
(聴牌……)
今日はツモの調子がいい。親番六巡目にして私は七対子を聴牌していた。七対子のみだからそう高い点ではないけれど、親番だからとりあえず和了できればいい。可能ならトップの遥から直撃をとりたいところだけど……無理そうだ。
「ロン、2400」
{九萬九萬一筒一筒五筒五筒八筒八筒四索四索白白中} ロン {中}
私の対面――沙夜からアガリ牌が出てきたので私は牌を倒した。点数が変動して沙夜が最下位になる。目論見とは違う相手から点棒をとってしまったが、これはこれで悪くない結果だ。もともとこの麻雀自体が沙夜に売られた喧嘩なわけだし、沙夜がビリだと思うとそれなりにいい気分だった。どうだと私は少し愉快な気持ちで沙夜の方に視線を向けて、そして一瞬で冷めた。
沙夜の吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳がじっと私を捉えていた。まるで標的を観察し、丸呑みするその時が来るのをじっと待っている蛇のような眼だった。沙夜が不意に口を開く。
「
「どういう意味?」
「言葉通りよ。七対子のみのその手……貴女はどうしてリーチをかけなかったの?」
「それは――」
「当たり牌がわかるのにリーチをかけて他家に振り込んだら馬鹿らしいから? 本当にそう? 貴女はそれを言い訳にしているだけなのではないかしら?」
沙夜の言葉に私ははっと息を呑んだ。沙夜の言わんとしていることが嫌と言うほどわかったからだ。どういうわけかこの人は私を全部知っている。危険牌察知だけじゃない。もう一つの性質も私がそれを使えないことまで含めて見抜いている。沙夜はあの宮永照のようにすべてを見透かしている――?
「次、行きましょうか」
彼女がすっと私から視線を外して言った。私はいつの間にかじわじわと心のうちに暗い恐怖感が広がり始めているのに気がついた。ずきり、といつもの痛みが頭に走った。
東二局 一本場
「ロン。1300」
{七萬八萬九萬六筒七筒八筒四索四索東東東北北} ロン {四索}
六巡目。ここまで静かだった沙夜が遥からアガった。風牌のみの安手。点数だけ見ればなんてことのない和了だ。それなのに私はひしひしと嫌な気配を感じていた。この先で良くないことが鎌首をもたげて待っている。そんな根拠のない不安が胸の内にうずまく。
(とにかくもう一度上がってペースを取り戻す)
私は不安を打ち払うようにそう決めた。そうしないと沙夜に勝負を一気に持って行かれてしまいそうな気がした。
東三局 親・水町梢
(なにこれ……)
手牌 {一萬四萬七萬三筒五筒九筒二索九索九索西北白中}
ひどい手牌に私は頭を抱えた。早く上がりたいのに配牌からどうしようもなく重たい手。しかも調子の良かったツモにも陰りが生じ始めているようで全然手が伸びない。私は焦りを感じていた。
いまのところ穏やかにゲームは進行している。けれどそれは表面上の話だ。さっきから対面の沙夜から感じるプレッシャーがじわじわと増していた。このままじゃ――そう思っていると沙夜がぱたりと手牌を倒した。
{八萬八萬二筒三筒四筒三索五索東東東南南南} ロン {四索}
「ロン。自風、場風。2000」
梢が放銃した。沙夜の和了で私の心の内の不安が一気に膨れ上がる。私には東二局、三局での沙夜の安上がりはこれから大きな手を和了するための準備運動のような気がしてならなかった。もしそうなら、最悪なことにちょうど次から沙夜の親番だった。
東四局 親・砥上沙夜
「さて、私の親番ね」
サイコロを回しながら沙夜が言う。
「一昨日の麻雀ではトップだったと聞いているけれど言っておくわ。梢を倒したくらいでいい気になってもらっては困る。彼女は私たち麻雀部の中でも最弱」
「誰が最弱ですかっ」
「あら、真剣勝負して私に勝ったことあったかしら」
「それは……その、今からです。今から勝ちます」
「そうねえ、梢ビリだけど」
「さっきまで沙夜さんがビリだったじゃないですか」
「あら、そうだったかしら? でも今からトップになるわ――」
彼女がまっすぐと私を捉えて言い放つ。途端にぞくりとするような圧迫感が私を襲う。この感覚を私は知っている。これはあの決勝戦の時と同じだ。
「ポン」
九巡目。私が捨てた中を沙夜が喰い取った。その次順。牌をツモった瞬間、私の全身に寒気が走った。危険を知らせるいつもの悪寒だった。
(掴まされた――)
{四萬五萬三筒五筒七筒八筒九筒二索三索六索七索九索九索} ツモ {一萬}
ツモは一萬。この感覚。沙夜の手は相当大きな手だ。それに引き換え私はまだ平和の二向聴だった。おまけに引いてきた一萬は今のところ完全に浮いてしまっている。自分が和了して沙夜を止めるのはかなり難しい。
(それ、ダメ――)
数巡後、私が一萬の扱いに困っているうちに遥が場に一萬を出してしまった。沙夜がばたりと手牌を開く。
{二萬三萬二筒三筒四筒五索五索東東東中中中} ロン {一萬}
「ロンよ、遥。中、ダブ東、ドラ二。12000」
東四局一本場 親・砥上沙夜
「ポン」
遥が切った東をすかさず沙夜が喰い取る。これでまたダブ東確定だ。そう言えばさっきから沙夜のアガリには必ず風牌が絡んでいる。それが沙夜の性質なのだろうか。
「チー」
再び沙夜が鳴く。今度は梢から出た四萬を喰い取っていた。風を味方につけた沙夜がどんどん速度を上げていく。攻めが早い。追いつけない。
「ツモよ。ダブ東のみ。4200」
{二萬三萬四萬六筒七筒八筒二索三索東東東中中} ツモ {一索}
沙夜が歌うように言う。まだ彼女の連荘は終わらない。
東四局二本場 親・砥上沙夜
沙夜はこれで四連荘だ。私の性質を見透かした上、連荘するなんてこれじゃまるで本当に宮永照みたいだ。流石に打点上昇はないみたいだけど、それでも沙夜の闘牌からはあの決勝戦を意識せずにはいられない。
ずきり。頭に鈍い痛みが走る。まだ南入もしてないというのに私の頭の奥にはもうあの夏の記憶がちらつき始めていた。何とかして沙夜を止めないといけない。なのに――
「チー」
沙夜が鳴く。一、二、三索が卓上に並ぶ。一副露。
「ポン」
今度は白だった。二副露。焦る私を置いて沙夜がどんどん速度を上げていく。
「カン」
さらに沙夜は白を加槓した。めくれた槓ドラ表示は二索。沙夜が梢から喰い取った三索にドラが乗ってしまった。沙夜が笑みを浮かべながら、嶺上牌を引く。そしてさらに笑みを深めた。
「今日はついてるわ。ツモ。ダブ東、白、嶺上開花、ドラ一。4200オール」
{二萬三萬八筒八筒一索二索三索東東東白白白白} ツモ {四萬}
東四局三本場 親・砥上沙夜
だんだん頭がぼうっとしてくる。梢が先ほどからこちらを心配そうにちらちらと見ているのがわかった。このままじゃいけない。今私に必要なのは沙夜の支配を断つ和了だ。アガるには沙夜に速度で勝たなきゃいけない。幸い今回は配牌がよくタンヤオと三色が見えている。だったらーー。
(鳴いて速度を上げる)
「チー」
私は上家から二筒が出たのを見てすぐさま喰いとった。これで一向聴。これなら沙夜よりも早く和了できるかもしれないと思って、そこで私ははたと気がついた。速度で勝つために鳴く? これでは本当にあの決勝戦のようだ。あの時無理に鳴いて、受けを少なくして、その先に何があった? 私はまた同じことを繰り返そうとしている?
記憶がちらつく。沙夜と彼女の顔がダブり始める。違う。ここは決勝戦の卓じゃない。それに私もあの時とは違う。だって今の私には当たり牌が完全に見える。大丈夫だ。弱気になろうとする心に私は必死に言い聞かせた。
「少し早いけれど、やってみようかしら」
呟く声が聞こえた。対面から白い手がすっと伸びて来て卓上に点棒を置く。
「リーチ」
その声と同時に強烈な痛みが頭を揺らした。視界が歪む。さっきのリーチは誰の声? 沙夜? それとも宮永照? わからない。対面の沙夜の顔に彼女の顔が重なる。上家が牌を切った。次は私の番だ。山に手を伸ばす。
ぞくり。牌に触れた瞬間、悪寒が走った。わかる。このツモ牌は危険だ。切ってはいけない。それなのにどうしてツモ牌を持つ私の手がそのまま河の方に伸びている? このままじゃ、親に振り込んでしまう。また記憶に呑まれる――
「え? あ、それロンです。三色のみ、3500」
戸惑ったような梢の声が聞こえた。ひどく遠くから聞こえてきたその声で私は現実に帰って来た。わずかに頭痛が和らぐ。ぼんやりと卓上に目をやると、私は八索を切っていた。それで梢に振り込んだらしい。
「あら、わざと振り込んで連荘を止めるなんて姑息な手を使うわね」
沙夜がからかうように言った。違う。わざとじゃない。私はツモ牌が他家の当たり牌だってわかっていた。それなのに何かに引き込まれるように、初めからそうするのが決まっていたかのように、私は当たり牌を捨ててしまっていた。今はたまたま梢のアガリ牌だったけれど、もし親に、沙夜に振り込んでいたら私は――。
ずきり。一瞬遠ざかった痛みがぶり返す。ずきずきと刺すような痛みが頭に走る。思わず呻いて私は頭に手を当てた。隣から梢の小さな悲鳴が聞こえた。
(やばい、もう限界……)
私がそう思うのと同時だった。勢いよく生徒会室の扉が開いた。