“男”に助けられ、故郷に帰る術を探すために彼らの家であるという“マシャフ”という地に移ってから、早2ヶ月。
当時、モルジアナは“男”と、“男”が“マシャフ”から引き連れた数人の若者達と共に、東南の海洋国家“バルバット王国”本土の港へと訪れていた。
「済まないな、お前達。俺の我儘に付き合わせてしまって」
桟橋に着いた一隻の船を背に、モルジアナと“男”の前にズラリと並ぶ若者達へ、“男”が労いの言葉を掛ける。
それを受けて、“男”と同じような白や、灰色のローブに身を包んだ若者達が、皆嬉しそうに微笑み合った。
「いえいえ。我々は皆“大導師”様の弟子です。弟子が師の持ってきた面倒事に付き合うのは当然の事ですとも」
そんな若者達の中から一人進み出た青年が大仰な仕草を踏まえてそう皮肉を言うや、釣られて他の若者達も、違いないや、と次々に同意の意思を示して見せた。
そんな彼らの様に、どこか微笑ましげに苦笑する“男”――“大導師”を見上げていたモルジアナは、逸る気持ちのままに頬を膨らまし、彼を急かすのであった。
「もぅ、だいどうしさま! 笑ってないで、はやくカルタゴにいこうよ!」
「そう急かすなモルジアナ。どの道、船が着くまで2カ月は掛かるんだ。今すぐ乗ったところですぐ家族に会えるワケでもあるまいし――」
そこで一端言葉を区切り、モルジアナと頭の高さを合わせた“大導師”の薬指の無い左手の人差し指が、彼女達の前に並ぶ若者達に向けられた。
「お前が“マシャフ”に来て、この“バルバット”に辿り着くまでに、俺とお前は、幾度と無く俺の“兄弟”達の世話になった筈だ。その彼らに礼の一つも言わず背を向けるというのは、それはあまりに恩知らずではないか?」
言われて、はっとモルジアナは気付いた。
――そうだ。この人達は“マシャフ”で色んな事を教えてくれたし、“
それにお世話になった人には、ちゃんと御礼をいわないとダメだと、故郷の両親も確かにそう言っていた。それなのに、何も言わずにこのまま帰ったら、きっと両親はカンカンになって自分の事を叱る筈。何故なら、それはとても悪い事だから。
そう考えが至り、慌てて姿勢を正して、目の前の若者達にモルジアナは頭を下げた。
「あさしんのおにーちゃん、おねーちゃん! 今までずっとおせわになりました! このごおんはいっしょうわすれません!!」
たどたどしく、それでいて幼い子供なりに難しい表現を使ったその大きな声の礼の言葉は、見ている者を面白おかしく、それでいて無条件に笑みを浮かべる微笑ましさがあった。
再び微笑み合う若者の一団の中から、先程の青年とは別の、10代後半くらいの短髪の女性がモルジアナの前まで進み出て来た。
「ハイ、どういたしまして。でも、ボクらが“アサシン”だってばらしちゃうのは頂けなかったな~モルちゃ~ん」
サイドテールの赤髪の上に手を乗せるや、女性がワシャワシャとそれを引掻き回した。
それによって思いっきり頭を振り回されて目を回したモルジアナに、そうだよ、バラしちゃダメだよ、と他の若者達も笑いながら、冗談混じりに指摘した。
「でも、また何かあったら遠慮無く頼ってね。なんたって、ボク達は“アサシン”。人々の自由と平和の守り手だからね!」
去り際に、モルジアナの両肩に手を置いてそう告げた女性に賛同するように、他の若者達も威勢の良い声を上げ、囃し立てた。
そうして遂に出航時間を迎え、“大導師”と共に船に乗り込んだ後。
動き出す船に合わせて次第に小さくなっていく彼らが完全に見えなくなるまで、モルジアナはずっと、ありがとう、と感謝の言葉を叫び続け、ずっと、その小さな両手を必死に振り続けていた。
そして、そんな朗らかで優しかった“大導師”の弟子達の姿は、彼女の心の奥底に深く刻まれた。
それが、後の彼女のある“決定”の、一つの要因となったのは間違いなかった。
“大導師”が調べ上げたモルジアナの故郷“カタルゴ”の所在。それは“マシャフ”から南西の、“暗黒大陸”と呼ばれる大陸にある国だった。
その大陸は、西方に位置する“レーム帝国”の南方属州以南の大陸であり、一般的には未開の地として知られているため、そう呼ばれていた。
その地が未だ未開発なのは、そこに生息する多くの猛獣達が理由であった。
それも唯の猛獣では無い。
何とその地に住まう生物は、蛇や蛙のような食物連鎖上の地位が低い者だけでなく、コンドルやサーベルタイガーのような比較的上位に位置する者さえ、人を一瞬で死に至らしめる猛毒を持っているものが存在する。おまけに、いずれの固体もが極めて獰猛という話であり、それが“レーム帝国”が彼の地の開発に踏み込めない理由であった。
実をいえば、この大陸へ向かうには“バルバット王国”から向かうよりも、その南西に“マシャフ”が位置する“アクティア王国”から、更に海を挟んだ西に位置する“レーム帝国”を中継して、海路を渡って行った方が距離的には近かった。というか、そもそも“バルバット王国”は“マシャフ”を中心とした“暗黒大陸”のほぼ逆に位置する国であり、実際のところ遠回りもいいところだった。
では、何故敢えて“バルバット王国”を中継して向かうのか。
それは“アクティア王国”及び“レーム帝国”と、“バルバット王国”での“アサシン教団”に対する認識の違いが関係していた。それが、本来ならばより近い“レーム帝国”から出る船に乗るという選択肢を無きものにしていたのだ。
というのも、“アクティア王国”にしろ、“レーム帝国”にしろ彼ら“アサシン教団”は、言うなれば目の上のタンコブ。
“アクティア”南西の山間部に彼らの最大拠点“マシャフ”が存在し、度々“アクティア王国”や他の属領を始めとした周辺の国家や地域に何かしらの被害を及ぼしてきた。特に、一年程前の“聖地”を巡った第三次十字軍派遣の際は“アクティア”だけでなく、十字軍を派遣していた“レーム”の多くの要人も彼らによって暗殺されるという憂き目にも遭わされた。
されとて彼らを滅ぼそうにも、険しい渓谷の中に存在する“マシャフ”へ攻め入る事は並大抵の事では無く、結果、今日までその存在を許すに至っているのが現状なのだ。
と、そんな経歴もあって、現在も“アクティア王国”と“レーム帝国”内での“アサシン”に対する警戒は厳しく、“大導師”達だけならまだしも、何の訓練も受けていない幼いモルジアナを連れて乗船というのは至極難しかった。
逆に、“バルバット王国”は“マシャフ”から距離もあり、それまで拠点も存在していなかったため、そもそも“アサシン”という言葉自体がそう広まっていない状態だった。また、同時に“暗黒大陸”行きの船が出る数少ない港を持つ国でもあったため、一度この国を経由して“暗黒大陸”に向かうという、今回の帰路が出来上がったのだ。
要は、“急がば回れ”ということであるが、それが齎した効果はとても大きかった。
「だいどうしさまー! 見て見てー! おさかながいっぱいとんでるよー!」
爪先立ちで甲盤の縁から身を乗り出したモルジアナが、そこから見える一面の青い海と、隣に立つ“大導師”を交互に見ながら、きゃっきゃとはしゃいでいた。
その頭の中は、航海という滅多に無い体験や、初めて目にする海や魚によって刺激された好奇心によって、一時的に両親や故郷の事を忘れているようだった。
今はそれで良かった。
“バルバット王国”から出た船が“暗黒大陸”に着くまで、最低でも2カ月は掛かるし、そこから陸路を、休みを挟んで大体二週間ほど進む必要がある。その長い旅の間に、家族や故郷への想いを巡らせ過ぎて体を壊してしまうよりは、こうして戯れに浸って、一時でも頭の中を空っぽにしてしまうぐらいの方が良いのだ。
――といっても、
「きゃはは、きゃは――あっ……!?」
周りのものに夢中になり過ぎて、少なくとも俺には助ける手段の無い海へ落ちられても、それはそれで困るが。
咄嗟に掴む事の出来たワンピースの背を見て安堵の溜息を吐きつつも、そう思った大導師は一端船内に入る事を提案。それに詰まらなそうに頬を膨らませつつも従ったモルジアナの手を引いて、踵を返した。
それから、甲盤の中央に位置する船内への階段に着くまでの間、モルジアナが述べた感想を始めに、ちょっとした雑談を交わす事となった。
「あ~楽しかった~。モルね、うみ見るの初めてだったんだよ!」
「それは良かったな。次はお前の両親と共に見に来るといい」
“大導師”がそう返すと、フード越しに見下ろした少女の顔が満面の笑みを返して、元気良く頷いた。
「うん! 絶対おかあさんとおとうさんといっしょに見にいく! あと、だいどうしさまと、おでしのおにーちゃんおねーちゃんたちもいっしょに!」
モルジアナからして見れば、何の気兼ねも無く、ただ思った事をそのままに口にしただけだったのだろう。
だが、ほんの一瞬とはいえ、その返事が“大導師”を口ごもらせたのは確かだった。
「……いや。俺達がお前ともう一度海を見る事は無いだろう」
ゆっくりと首を振ってそう返した“大導師”に、どうして、と先程までの笑顔を不安げに曇らせたモルジアナが尋ねて来る。
辿り着いた船内への階段の一段目に足を下ろして、“大導師”がその返答を返す。
「それはモルジアナ。お前と、お前の両親が自由に、平和に生きるべき
いや。本来ならば、こうして少女の帰郷に付き合っていたかどうかすら分からない。
今の“教団”にとって重要な存在である彼が何カ月も“マシャフ”を離れること自体、本来ならば周囲が許しはしない。それをどうにか言い聞かせ、どうしようもなく危険な“あの果実”の力を使ってまでモルジアナの故郷を調べるという多大な苦労などせずとも、弟子達に彼女を任せて、砦の頂上で旅の幸運を祈るだけでも本当ならば問題は無かったのだ。
それを、敢えて無理をしてまで“大導師”自身が同行したのは、やはりあの奴隷競売の時に泣きじゃくっていたモルジアナに重なった、“かつての親友”の面影がそうさせたからなのだろうか。
何にせよ、帰郷したモルジアナと彼らが二度目の出会いを果たすような事はあってはならない。
それは十中八九、取り戻した筈の家族との平穏を、彼女が再び失ってしまった時に他ならないからだ。
「――住む世界が違う。お前が両親の下に戻った暁には、もう二度と会う事もあるまい。諦めてくれ」
――そして俺達の事など忘れ、お前の愛する両親共々幸せに暮らしてくれ。
最期に心中でそう付け加え、古めの木板が張り巡らされた船内の床を軋ませて階段を降りる“大導師”だったが、そこでモルジアナの手を掴んだままの左手が後に引かれた事に気付いた。
振り返ってみれば、階段の下から3段目で歩みを止め、無言で俯くモルジアナの姿があった。
いや、正確には無言では無い。
かすかにではあったが、下を向いていて見えないその口から、小さな嗚咽が聞こえて来たのだ。
それに気付いてしゃがみ込んでみれば、案の定、独特な目尻の大きな目から大きな水滴を溢して咽び泣く、くしゃくしゃの少女の顔があった。
「モルジアナ……」
その泣き顔に“大導師”ははっとさせられずにはいられなかった。
「なんで? なんでそんな事いうの? なんでだいどうしさまともう会えないの? だいどうしさまはモルの事きらいなの?」
「そういうことではない。お前の今後の事を考えればこそ、俺達はもう会うべきではないと――」
「分かんない……だいどうしさまのいっていること、分かんないよぉ……」
それでもなお続けられた“大導師”の言葉を、これ以上聞きたくないとばかりに、両耳を塞ぎつつ首を左右に振って、モルジアナが拒絶の意志を顕にする。
そんな彼女に、彼は再び“かつての親友”の姿を幻視した。
――ああ、そうだ。あの時も真実を伝えようとして、そうして“奴”との間に亀裂が生じたんだ。
あの時、身に染みた筈だ――“真実”を伝える事が必ずしも正しいことでは無い。“真理など無い”のだと。
だというのに、また同じ過ちを繰り返そうとしている。それも、こんな幼子相手に。
そこまで考えが至った時、俺は何て愚か者なのだ、と“大導師”は白いフードの下に自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。
だが、その行為がこの場を治めるに至った。
フードの下の彼の笑みに気づいたモルジアナが、それを不思議に思って一端泣き止んだからだ。
それを足掛かりに、すぐに“大導師”は先程の言葉を訂正した。
「そうだな。もしかすれば、いつかまた会う日が来るかもしれん。この世に“許されぬ行為など無い”のだ」
無論、その言葉の裏の本音は先程と何ら変わっていない。故に今彼が口にしているのは、可能性すら無い偽りだ。
だが、これで良い。
言葉を続けるにつれて、にわか雨が去って虹が掛かり出した晴天の空の如く、表情を晴れ上がらせていく少女の顔が、その証拠だ。
「大人気ない事を言って済まなかった。いつの日か、また海を見に行こうモルジアナ。今度は俺達だけでなく、俺の“兄弟”達や、お前の両親と共に」
「うん! いく! ぜったい見にいく! ヤクソクだよ、だいどうしさま!!」
遂にはその場で飛び跳ねる程に元気を取り戻したモルジアナに頷き返し、再び彼女を連れて船内の奥へ向かおうと、“大導師”は立ち上がった。
それで、その場はどうにか収まったように見えた。
しかし、それは誤りだ。
この後、すぐに思わぬ情報を彼らに手にする事になるのだ。
「お、どうやらお話は終わりのようですな」
そんな声が聞こえて、猛禽類の嘴のように尖ったフードの鍔を上に向けた“大導師”の目に、階段の上段側に立つ一人の男が目に入った。
見知らぬ男だった。その男を、彼に続いてモルジアナが見上げたところで、おどけるような態度で男が言葉を続ける。
「おおっと、失礼。ここを通ろうとしたところ、何やらお取込み中のあなた方に出くわしたものでして。降りるに降りれそうでもなかったので、暇つぶしついでに、つい盗み聞きをしてしまいまして」
いや、申し訳ない、と、飄々としてこそいるが申し訳無さそうな口調で謝罪する男の言葉に、確かに自分達が階段を塞ぐ形になっていた事に“大導師”は気づいた。
すぐに階段からモルジアナを降りさせ、彼女共々階段の横に下がる。
「こちらこそ済まない。つい話が立て込んでしまいました」
「いえいえ。途中からでしたが、こちらも勝手に貴方方の会話に耳を挟んでしまったのです。お互い様ですよ」
ようやく開いた階段を男が降り切るのを待ち、互いに頭を下げて謝り合う。
そしてその場から一足先に奥へ去るかと思われた男が、ふと、思い出したように“大導師”達の方へ振り返った。
「そういえば気になっていたのですが、お連れのそのお嬢さん、もしかして“ファナリス”ですか?」
「知っているので?」
若干の驚き混じりに、“大導師”は訊き返した。
“暗黒大陸”に住むとされる伝説の狩猟民族“ファナリス”。
その名前こそ、モルジアナを助けた例の奴隷競売で聞き及んでこそいたが、それがどんな人々なのかを“大導師”が知ったのは旅の準備を整えていた2か月半前の事。それも、“あの果実”の力でようやく知った事だった。
別に男が知っているのがおかしい、というわけでは無い。ただ、そうまでして苦労しなければ“大導師”すら知ることも無かった情報を、彼が知っていたのが意外だったのだ。
「ええ、知っていますよ。というのも私、こう見えて学者でして。“暗黒大陸”には珍しい生物が多く生息していますので、時たまこうやって調査で向こうに行くんですよ」
「成程。それで“ファナリス”の事も知っているというわけか」
確かに、それらしい肩掛け鞄を下げ、飄々としていながらも理知的な面持ちをした顔をしたその姿は、学者然としていた。
納得して頷く“大導師”に、男もまた、そういうことです、と頷き返した。
この時、“暗黒大陸”と聞いて頬を膨らませたモルジアナが文句を言おうとしたが、それを男に見られないようにしつつ“大導師”は手で制していた。
あくまで“暗黒大陸”という名は蔑称であり、響きの暗さもあって、彼女がその名前が嫌いなのを知っていたからこその行動だった。
「いや~。それにしても、まさか“また”“ファナリス”に会えるとは思いませんでしたよ」
「――“また”?」
この後、“大導師”はどうしようもなく後悔することとなる。
足元のモルジアナを見て、感嘆したようにそう言う男の言葉に、覚えた違和感のままに問い質すべきではなかったと。
自らの“目”が捉えた、男から滲み出る不穏な空気の意味を、もっと考えるべきだったと。
それが適わなくとも、男が“それ”を伝える前のこの時点で、聞こえないようにモルジアナを下がらせるなり、自分達がどこかへ移動するなりすれば良かったと。
海を見せて、モルジアナに一時でも家族や故郷の事を忘れさせた意味が無くなったと。
どうしようもなく高慢で、それ故に多くの過ちを犯したかつての己を省みた時と同じくらい、後悔することになる。
だが、いくら“大導師”という責任ある立場を任されたといえど、彼とて当時はまだ20代半ばの若者であり、どちらかといえば、まだ思慮も足りなかった方だ。
故に、滅多に無い船旅――それも、無垢で純粋な幼子を伴った――という状況に、己も知らぬ間に気が緩み、結果考えが至らなかったとしても、それは仕方なかったのかもしれない。
「……確か、そのお嬢さんを御両親の下にお送りになさるんでしたね」
“大導師”の疑問に対し、口を滑らせたとばかりに慌てて口を両手で塞ぐ男だったが、“それ”を言おうが言うまいが彼らの行先に待ち受ける事は同じと腹を括ったのか、一つ咳払いをしてから“大導師”への返答を口にした。
先ほどまでよりも、幾分か重い口調で。
「ええ、そうです」
「でしたら――やはりお伝えすべきですね」
だが、結局のところ、これで良かったのかもしれない。
何故なら、“それ”は先程の「“大導師”達ともう一度海を見れるか」という問答と違い、“いずれ近い内に必ず直面する未来”の話であり、今聞こうが聞くまいが、
「今の“暗黒大陸”に“ファナリス”はいません。――もう、誰一人として」
その結末が、いずれ訪れる事に変わりなかったのだから。
幼い少年が、宙高々と空を舞った。
それがつり上がり気味の双眸に映ったのが、時が来るまで静観を決め込んでいた筈の彼女が“カッとなった”瞬間であった
その事を、「まだまだ未熟だわ」と反省する事になる彼女であったが、それはまた後々の話。
今重要なのは、カッとなった彼女――モルジアナが起こした、一連の行動だ。
まず彼女が獲物に選んだのは、“標的”――“表面的には葡萄酒製造で名の通っている”大豪農ブーデルの、その背後に控える護衛二人の内の、左側。
距離にして10数メートル。普通ならば歩くなり走るなりして近づいてから“行動”に移したい距離だが、そのいずれもモルジアナには必要無い。
彼女がやったのは唯一つ――その場からの跳躍。
助走などしない。前方を遮る人々のせいでそれはほぼ不可能であり、元より“この程度の距離”を跳ぶのにその必要は無い。
一端折り畳んだ足を、押し込められたバネを開放するが如く伸ばすだけで、既に彼女の体は宙高く飛ぶに至っていた。
そこから重力と慣性に引かれて護衛の筋骨隆々な背中へ踊り掛かるまで数秒。
その間に右手を前方に突き出して照準とし、後方に掲げた左手の小指のリングを引っ張って、自らの“爪”を引き出す。
シャキン、というスライド音を立て、左腕に着けた腕当てから飛び出した“爪”が鈍い銀色の輝きを放った。
“アサシンブレード”――それが彼女の“爪”の名前だ。
腕当ての内側に取り付けられたスライド式の隠し短剣であり、小指に嵌めたリングを引く事により、薄い箱状の鞘に収められた刃の展開、及び納刀を行う事が出来る。一見して唯の腕当てとしか見てとれないその見た目を利用した暗器であり、同時に“彼女達”の象徴とされる武器である。
そしてその鋭い刀身が今、飛び掛かられた事に気付く事も無く、押し倒されて土に無骨な唇を合わせる事となった護衛の男の筋張った首に、吸い込まれるように刺し込まれた。
――まず一人。
後首、頸椎から喉までを貫かれて一瞬の内に事切れた護衛の首から、添えていた両手を離してブレードを引き抜く。
途端に、栓代わりになっていた刃が抜けて噴き出した少量の鮮血が、指切り手袋を嵌めた左手を染める。
それを意にも介さず、突然現れた第三者に葬られた同僚に茫然とするもう一人の護衛目掛けて、すぐさま同じ様にモルジアナは飛び掛かった。
最初、何が起こったのか理解できなかった。
故に、突然現れた何者かによって押し倒されたブーデルの護衛と同時に尻餅を着いたアリババは、あんぐりと口を開けたまま、目の前で繰り広げられる光景をただ見ているしか出来なかった。
そしてそれは、同じようにその場で尻餅を着いたブーデルも同じ様だった。
「あ、ああ……ああわ、あ……」
否、ブーデルは違った。
何故なら、彼の場合は目の前の状況を否応無く飲み込んでしまい、結果、恐怖で腰が抜けたためだったからだ。
そして、彼に状況の理解を強いたものは、今、磨き上げられた高そうなその靴を汚さんと迫っていた。
彼の目の前で仰向けに倒れた護衛の、穿たれたその首から流れ出るぬらぬらとした血だ。
そして今まさに、咄嗟に応戦しようとしたも、あっさり銀の“爪”の餌食となったもう一人の護衛の首からも血が噴き出したところだった。
どうにか、噴水のように噴き出る生命の水を堰き止めようとしたもう一人の護衛だったが、それが適う事は無く、程なくしてその巨体を同僚の上に重ねて、×の字を描く事となった。
そうして全てが終わった時、いつの間にやら完全に沈黙した群衆が作る円の中に残っていたのは、アリババと、ブーデルと、アラジンと、蹲る例の奴隷の少年と。
「……」
物言わぬ死体となって血だまりに埋もれるブーデルの護衛達の上に平然と立つ、白いローブの人物のみだった。
容易いものだった。
一人目は言うまでも無く、二人目は咄嗟に伸ばしてきた腕に合わせて懐へと入り込み、そのままブレードでガラ空きの喉笛を薙いでやった。
掛かった時間は1分とあるまい。
あまりに他愛無い、戦いとすらいえない不意打ちからの勝利に酔うような事も無く、されとて二人目の喉を切った際に噴き出て、フードだけでなくその下の頬や、肩のやや下で切り揃えた赤い髪にもひっ掛かった返り血を気にする事も無く。
はたまた、腰を抜かし、結果的に“行動”を映す絶好の機会にある“標的”に目をくれる事も無く。
未だに沈黙を保つ人々の視線の中、最初にモルジアナが向かったのは奥の方で蹲る奴隷の少年の所だった。
「大丈夫ですか?」
少年に歩み寄るや、一端左腕のアサシンブレードを閉まってしゃがみ込み、その背を擦りながらモルジアナは問い掛けた。
その問い掛けに、俯いていた頭をゆっくりと上げて少年が頷くが、その顔色は土気色に染まっている。加えて、彼のすぐ下には衝撃で吐き出したらしい吐しゃ物すらまき散らされているし、土に汚れたその顔にも擦り傷がいくつか付いている始末だ。
――酷い事をする。
改めて湧き出す怒りについ険しくなりそうになる顔を、幼い子供の前だという事を思い出してどうにか抑える。
そして、その口元に残った吐しゃ物の残りと涎をローブの右袖で拭ってやってから、スッと立ち上がって踵を返す。
「少し待っていて」
肩越しに少年に告げてから、改めてモルジアナは“標的”の方を見据えた。
“標的”――ブーデルは未だ恐怖から抜け出せないのか、変わり果てた自らの僕達を前に腰を地面に着け、抜け出てしまいそうな程に目を見開いている。
周囲には相変わらずの衆目の目。その奥には大通りに沿うように並ぶ露天。その更に奥には、街の中央側へ向けてズラリと並ぶ石造りの家屋の列。
こうなっては仕方ない。“標的”をここから連れ去って、適当な路地裏にでも逃げ込んでから必要な事を聞き出して、始末しよう。
そう決め、迫り行く彼女に気付いているのかどうかも分からないブーデルの下へ、ゆっくりとモルジアナは歩み寄る。
そうして、後はその後ろ襟に手を掛けるだけというところまで来たのと同じくして、
「“アサシン”だッ! “アサシン”が出たぞー!!」
群衆の沈黙が解かれた。
「“アサシン”っ!? 今噂になってる、あの!?」
“アサシン”。
誰かが叫んだその言葉に耳朶を打たれて、ようやくアリババは我を取り戻した。
同時に、自らがバイトをしている運送業の社長が、アラジンの紹介を終えて冷めきらない驚き混じりに言っていた、ある“注意”を思い出した。
『ま、まぁ、何だ。その、借金返す充てがあるなら、良いんだ、うん。あ、だが、それとは別にだな、街を歩く時は気を付けろよ、アリババ。今、チーシャンには物騒な奴が居座っているからな』
その“物騒な奴”とやらは、何でもここ一週間ほど前に現れ、瞬く間に3件、被害者数17名もの被害を出した凶悪犯だそうで、ここ数日仕事で出はからっていたアリババの耳には届いていない話だった。
行った罪は殺人。それも奴隷商ばかりを狙った犯行で、犯人の特徴も精々分かっているのは服装くらいらしい。
だが、その服装だけで犯人の正体は――正確には、その組織名や通称といった方が正しいが――は十分に判明していた。
『そいつは、常に神学者みたいな白いローブを着て、どこから出したかも分からない刃物で人を刺しては颯爽と逃げちまうらしい。――もう分かるだろ、そいつが何なのか』
彼らの事を、ある者は事に及ぶ時に大麻を服用するという噂から“
だが、結局のところ彼らはこう呼ばれるのが常であり、また彼ら自身もその名を名乗っていた。
人の目を掻い潜り、人の不意を突いて闇打つ暗殺者――“アサシン”、と。
そして、街を騒がせているその“アサシン”が今、目の前にいる。
「あ、ああ、“アサシン”? マジで? “アサシン”?」
段々、段々と湧き上がってくる驚愕と恐怖に震えて照準の定まらない人指し指を向けながら、ブーデルのすぐ傍に立つその白いローブをアリババは凝視した。
成程。上から下まで真っ白なそのローブは、フード周辺と左手に付いた返り血さえ無視すれば、確かに神学者のように見えない事も無い。
目深に被ったフードの下の顔は、後を向いているためアリババの位置からは確認できないが、その身長はざっと見て150cm程と差ほど高く無い。肩幅も狭い。また、腰には赤い布製、茶色い革製の順で二種類の帯が巻かれている。
そして更にその下は、左右に太股の半分ほどまでのスリットが入ったローブの裾が膝の下まで伸びている。驚く事に、裾と布帯の端、そしてその下の黒いスカートから覗く両脚は靴を履いておらず、足首に巻いた黒紐の下で健康的な色合いの肌が堂々と自己主張していた。
だが、最も目に着くのはその左腕だろう。
何せ、そこに着けられた革製の腕当ての内側、同じく革製の指切り手袋が嵌められた手首の付け根の辺りから、先程まで鈍い光を放つ“爪”――もとい、血塗れの短剣が確かに伸びていたのだから。
アレが恐らく噂の“どこから出したかも分からない刃物”なのだろう。
だが、それが分かったところでどうということは無く、その事実に改めてぞっとしたアリババの震えが酷くなるだけであった。
だが、すぐに怯えてばかりもいられなくなる。
件の“アサシン”の、すぐ右隣。つい先程までブーデルの左足の前だったそこで、首から下ろしていた金色の笛を握ったまま、地面に座り込んで茫然と“アサシン”を見る“彼”の姿を見つけたからだ。
(げぇっ! アラジン!?)
アリババに課せられた重い借金を返済する唯一の目処にして、彼の野望“
おまけに、呑気に見上げている。
その状況を見た人間は、彼で無くとも同じ事を考えるだろう――「殺してくれ」と言っているようなものだ、と。
(あ、あああ、アラジィン! ななな、何やってんだぁっ! 早くこっち来ぉいっ!)
“アサシン”に気付かれないよう、努めて静かに。
しかし、溢れんばかりの焦りと恐怖からガクつく口を必死で動かし、どうにか紡いだ言葉でアリババはアラジンに呼び掛けた。
が、それに対しアラジンが取った行動は、
ぷいっ
と、相も変わらず、悪意を込めてアリババから顔を背けただけだった。
(拗ねてる場合じゃねーだろバカヤロオオォォ! 死ぬぞっ! マジでぶっ殺されるぞォッ!!)
さっきよりほんの少し、それでもなお気付かれないように気を付けながら、音量の上がったアリババの悲痛な声が放たれる。
が、やっぱり返ってくるのは、ぷいっ、というアラジンの無視だった。
(ダァーッ! お前分かってんのか!? そいつ“アサシン”だぞ! 噂のおっそろしい殺人犯だぞっ! いくらお前でも敵わないっつの! そいつがお前に手ぇ出す前に、早く戻って来ぉい!!)
じゃないと、俺の人生が終わるんだよ!
最期に心の中でそう必死に本音を絶叫する頃には、“アサシン”が怖いやら、でも俺の野望と人生が掛かってるやらと、色々な思いと感情がない交ぜになってワケが分からなくなった彼の目には、遂には涙さえ浮かんでいた。
一方、件の“アサシン”ことモルジアナは、先程から後ろから聞こえてくる妙な囁き声を煩わしく感じ、フードの中で頬をむすっと膨らませていた。
――ウルサイな。
どうやら、その声は足下の青色の髪にターバンを巻いた少年に向けて放たれているようだ。
チラリと、肩越しに声の方を覗いて見れば、途端に、ひいいぃぃっ、とあの金髪の少年が情けない悲鳴を上げながら、もの凄い勢いで後ずさる姿が見えた。
その勢いに、同じように悲鳴を上げて、後退する少年の道を開けるように周囲の人々も後ずさる。
その様を見て、モルジアナは思った――馬鹿馬鹿しい、と。
彼らは自分達が彼女の次の獲物にされる事を恐れて、そういう行動に出ている。
だが、それは“まず”有り得ない可能性だ。
“アサシン”には“掟”がある。その“掟”の一つとして『罪なき者を殺めるなかれ』というものがある。
“掟”は絶対だ。それを守り、人々の平和と自由のために戦うからこそ、“アサシン”は冷酷な殺人鬼ではなく、“正義の味方”として在れる。信頼し尊敬する“兄弟”達が皆そう豪語するように、モルジアナ自身もまたそう思っている。
だが、彼らはその事を知らない――知ろうともしない。だから、次の犠牲者になるまいと無駄に怯え、無駄に逃げ回ろうとする。
だから“馬鹿馬鹿しい”のだ。どうしようもなく。
だが、そんな事は今はどうでも良い。そんな事に気を回している暇は無い。
どうせ、もうそろそろ来るだろうから。
「来たッ! 町警史ィ! ここだ! こっちに“アサシン”がいるぞォッ!!」
不意に、大通りの奥が騒がしくなり、すぐさま群衆の中の誰かがそう叫んだ。
予想通りのタイミングだ。
すかさず、未だその場で呆けるブーデルの襟首を掴んで強引に自分の方に向かせる。
「っ! な、何だ貴様! 何をする離――」
それによって、半ば失っていた意識を取り戻すや、取り乱すブーデルにモルジアナは淡々とこれから行う事を告げ、
「ブーデルですね。一緒に来てもらいます」
肥え太ったその腹へ、それなりに手加減した右ストレートをめり込ませた。
その一発によって、問答無用で昏倒する肥満体の後ろ襟を右手で掴んで地面に引き摺りつつ、もう一度例の奴隷の少年の下へ駆け寄る。
そしてキョトンとした表情を浮かべる彼に、お待たせしました、とだけ告げて、空いている左腕でその小さな体を抱き上げた。
そうする頃には、群衆を無理やり掻き割って来た二人の町警史が、手にした警棒を構えて彼女への威嚇を行っていた。
「“アサシン”め!
「今日こそひっ捕えてやる! 覚悟しろ!!」
各々がそう怒鳴るや、一斉に警棒を振り上げて駆け寄ってくる町警史達。
鬼のような形相で迫ってくる彼らだったが、しかしモルジアナはそれを一瞥しただけで気に留める事も無く。
町警史達が今まさに組み押さえようとしたその一瞬前には、既に彼らや群衆、青い髪と金髪の二人の少年達の頭上十数メートルの高さまで、右手の気絶したブーデルと、左脇に抱えた少年諸共、彼女は飛翔していた。
続いて、大通りに並ぶ適当な露店の屋根に着地。布で出来たそれをトランポリンの如く窪ませて、もう一度高々と彼女は飛び上がる。
そうして露店の奥の、漆喰の塗られた民家の屋根に着地するや、勢い余って打ち付けられた町警史達の頭が鳴らした中身のあまり無さそうな音と、群衆のざわめきを後に。
平坦な屋根の上を、猛禽類の尾羽のようにローブの後裾とスカートをはためかせて、モルジアナは駆け出した。
後半の「俺の金づるがああぁ!」とばかりに必死なアリババ君は差っ引いた方がテンポ良くなったんじゃないかと、ちょっと思わないでも無いです。
何はともあれ、感想、御指摘お待ちしております。