もしもモルさんが暗殺者だったら   作:コナー

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第三夜

 偶然出会った学者から得た、目的地にして故郷たる“暗黒大陸”に“ファナリス”がいないという情報。

 その詳細を確かめるという名目で場所を変えてその続きを聞き出したが、詳しいことまでは分からなかった。彼の学者も人伝に聞いた話で、大規模な奴隷狩りに遭ったか、それとも、それを嫌がって他の地に移り住んだかも定かでは無いらしく、その詳細を確かめることも彼の今回の船旅の目的だそうだからだ。

 学者との話を終えた後、根も葉も無い噂だったようだ、心配する必要はない、と不安げな表情を浮かべたモルジアナに一応答えはしたが、生憎と、その解答が少女に内に燻り出した不安を拭い去るには至らなかった。

 最初の内、例の学者と会ってから一カ月程までは、まだ良かった。最初の日のように、雄大な海に心奪われてはしゃぐ少女の姿を、まだ見ることが出来たからだ。

 だが、航海期間の半分を過ぎた辺りから、次第にモルジアナが思いつめたような表情をするのを目にする機会が多くなり、食事も少しずつ残すようになっていった。寝付く時間も次第に遅くなっていった。

 唯でさえ、航海というのは厳しいものだ。途中途中での補給こそあれど、船という閉鎖空間の中で、限られた物資や食料を遣り繰りしなければならないし、美しいだけでなく、ちょっとした要因の変化で晴天が荒れ狂う大嵐に変化する大海原の気まぐれさにも上手く付き合っていかなければならない。

 そんな苛烈な海上の旅で、次第に不摂生になっていくそんな生活を送っていればどうなるか。

 “暗黒大陸”まで後半月というところで、遂に幼い身体を壊して客室のベッドで寝込むこととなったモルジアナと、その傍らで彼女の額から取り上げた濡れ布を冷たい水に浸して絞り上げる“大導師”が、その答えだ。

 

「気をしっかり保て、モルジアナ。まだお前の故郷に辿り着いてはいない」

 

 固く絞った布を熱の籠った額に乗せ、荒い息を立てて魘される少女の片手を優しく握って、“大導師”は語り掛ける。

 その言葉を受けて、火照って痛々しい顔に必死に作った微笑みを浮かべ、モルジアナもまた希望を口にした。

 

「だ、だいじょうぶ、だよ、だい、どうしさま……だ、だって、しんじつなんて、ないん、だよね?」

 

「そうだ。あの学者の言葉は、彼自身が見聞きしたものではない。そんなものに惑わされてはいけない。何が正しいかを決めるのは、己自身だ」

 

 ベッドの脇に設置された棚の上に置いてある粥を取り、スプーンで掬い取った一口を彼女の口へ運ぶ。

 それをモルジアナが口に含み、弱弱しくも咀嚼するのを確認してから、彼は語気を強めて言葉を続けた。

 

「信じろ、モルジアナ。お前の両親は故郷にいると。今も、お前が無事な姿で帰ってくることを、心待ちにしていると。必ず辿り着くのだ、故郷(カタルゴ)に」

 

 そして、その言葉に力を振り絞って頷き返す少女の口に、もう一度粥を運んでやる。

 そんな遣り取りを何度か繰り返し、“暗黒大陸”に着くまでにどうにかやり過ごしてこられたのも、一重にモルジアナが“ファナリス”だったからこそ。例え奴隷商人から付けられた枷は外せなかったとしても、その血は同じ年代の子供を上回る生命力を確かに与えていた。

 いや、それだけではない。加えて、少女は何よりも懇願していた。故郷へ帰ること。そして愛する両親の下へ帰ることを。

 その想いと、彼女の気丈な性格。そして“大導師”という心強い味方の存在があればこそ、出だしとは打って変わったこの辛い旅をモルジアナは乗り越える事が出来たのだ。

 だが、それにも限度がある。

 いくら想いがあっても、優秀な血を受け継いでても、頼れる味方がいても。幼い少女が身体を、そして心を、日に日に衰弱させていくことを止めるまでには至らなかった。

 そして、そんな彼女を介抱し続ける日々は“大導師”にも少なからず影響を及ぼしていた。

 付きっ切りで少女の看病を続ける肉体的疲弊と。病床の中で親を求める彼女の姿と、やはりそれに重なる、同じように親を求めていた“かつての親友”の痛々しかった姿との、二重の精神的疲弊という形で。

 それに彼が耐える事が出来たのは、日々の修練の賜物であり、また“アサシン”として培った忍耐力。そして自分以外にこの娘を親元へ導く者はいないという、使命感があったからこそだ。

 そして、そんな船旅の果てに、遂にモルジアナと“大導師”は“暗黒大陸”に辿り着いた。

 肉体的に、精神的にも多大な疲れを強いられた彼らには、もはや一刻の猶予も無い。

 すぐさま馬を調達するや、敢えて休息をほとんど挟まず、それを走り潰す勢いで先を急いだ。その結果、予定していた二週間を大幅に短縮した一週間で目的地に辿り着き、尚且つ猛獣に出会う事も無かったのは行幸だった。

 それも、所詮は不幸中の幸いに過ぎなかったが。

 そうして、その地に辿りつく事が出来たモルジアナと“大導師”を出迎えたのは。

 ここにたどり着くまでに延々と見続けてきた、悠然と、果て無く広がる大地と。

 心地良い風を受けて靡く一面の草原と。

 青々と生い茂った葉をさざめかせる大樹の群れと。

 地平線の奥から昇りながら、少しずつ彼らとその周辺を暖かく照らし上げていく穏やかな朝日と。

 そして彼らと同じように朝日の光を受け、無残にへし折れた木材や砕けた石壁、焼け焦げた地面を晒す、変わり果てたカタルゴの街並であった。

 

 

 

 記憶の中のそこは、とても豊かな場所だった。

 幾つも青々と生い茂った大樹が立ち並び、柔らかな草原が風を受けて靡く広大な土地。

 その雄大な大地の上を歩く、穏やかな草食動物の群れ。

 何本もの丸太を合わせて作られた家が並び、角ばった石のブロックを並べて作られた壁が周囲を覆う街。

 その中を行き交い、世間話に興じたり、狩ってきた動物の毛皮や肉を運んで来たり、何処からか持ってきた珍しい物を露店に並べて売ったりしていた、自分と同じ赤い髪の人々。

 そして、近くの草原で他の子ども達と遊んできてクタクタになった自分を、いつでも優しい笑顔と共に迎えてくれる両親。

 とても、豊かな場所だった。

 ……その筈だった。

 

「あっ、あそこ! あそこね、いつも石屋のおじちゃんがめずらしい石を並べてたんだよ! すっごくキレイだったんだよ!」

 

 “大導師”に抱き上げられた状態で大通りを進んでいたモルジアナが、その途中の一角を指差して叫んだ。

 整えられた平坦な地面の上に構えられた露店で、髪と同色の無精髭を生やした店主がいつも快活な声と笑顔で迎えてくれたそこは、今は地面が抉れ、小規模のクレーターと化していた。

 “大導師”は、無言だった。

 

「あっちはね、だいよくじょうなんだよ! みんなでいっしょにおふろに入って、みんなせなかをながしあいっこしたりしたんだよ!」

 

 次に彼女が指したのは、右側の奥手。

 へし折れた木材の鋭利な先が剣山のようにそこら中から飛び出る民家だったものの群れの奥に、元は優美な彫刻が成されていたのだろう、砕けて折れた四方の柱に囲まれた、ボロボロの石造りの大浴場だったものが見えた。

 “大導師”は、無言のままだった。

 

「あとね! あそこのとうは、ひのとりさまにおいのりするためにたてたんだよ! ひのとりさまはね、お日さまのおともだちだってみんながおしえてくれたんだよ!」

 

 大通りを進むうちに辿り着いた、街の中心に立つ石の塔。

 その上方には、確かに火の鳥のレリーフが刻まれていたのだが、今は中ほどに入った大きな罅によって翼の端くらいしか見えない。

 そうして塔を超え、その向かいにも続く大通りを更に進んだ先。あと少し進んだところで逆側の出入り口に着くかというところまで進んだところで、“大導師”の腕の中から飛び出したモルジアナは、こっち、とだけ彼に伝えて、一足先にそこから左の脇道の方へ向かった。

 その先にある筈なのだ、彼女が最も行きたかった場所が。

 温かい笑顔と手料理で出迎えてくれる母が。

 太い腕で小さい自分の身体から、とても大きな動物まで担いで見せた、力持ちの父が。

 正直、こうやって走るのは辛かった。船の中で崩した体調は未だに優れない。だから“大導師”がここまで抱き抱えていてくれた。

 頭痛がする。体が熱っぽくて怠い。でも構わない。

 ずっと辛い思いしてきたその甲斐が、その先にあるのだから。

 愛する両親が、優しい母と父が待つ家が、自分の背より少し高い塀が並ぶこの小道を右に曲がったところにある

 

「お母さーん! お父さーん! ただ……」

 

――筈だったから。

 だから言おうとした、「ただいま」という台詞も、その口を出切る前に引っ込んでしまった。

 モルジアナの背よりも遥かに高い壁の上に立派な屋根が付いていた一戸建てだったのに、いつの間にか彼女の背より低くなってしまった壁の、その上にも、その中にも何も無くなってしまった、変わり果てた家。

 その周囲に万遍なく散らばる木片は、かつて屋根や壁だったものだけでなく、家族全員で囲んだ机や、丸田を短く切った簡素な椅子、三人で一緒に使っていたベッドの破片も間違いなく混ざっているだろう。

 そして何より、ここまで見てきた街がそうであったように、ここにも、誰も、いなかった。

 

「モルジアナ」

 

 不意に聞こえた静かな声に、はっとモルジアナは振り返った。

 見れば、“大導師”がゆっくりと歩いて来ていた。

 心なしか、その顔を覆うフードの影が、一段と濃い気がした。

 ――いけない。

 すぐに気を取り直し、彼の方に向き直った。

 

「あっ、だいどうしさまぁ! 遅いよぉ、もぅ! モルが先に着いちゃったよ!」

 

 ふくれっ面を作り、気分を害したような素振りを見せてみせる。

 そうすると、いつも「ああ、済まない」と愛想の無い返事を返してくれるのだ。少なくとも、この4か月はずっとそうだった。

 ところが、その言葉を受けた“大導師”は黙ったまま。

 ただ、モルジアナに歩み寄るままだった。

 そんな“大導師”の態度を不思議に思いながらも、もう一度モルジアナは家の方を向いて、元気な声を上げた。

 

「ここがモルのおうちだよ! “マシャフ”みたいに大きく無いけど、木のにおいがして、すっごく涼しいんだよ!」

 

 そうかつての自分の家について紹介するモルジアナに対し、やはり“大導師”は無言のまま。

 ――なんで、なにも言ってくれないの?

 次第に、モルジアナの心に不安が蓄積していった。

 その不安は、必ずしも沈黙を保ち続ける“大導師”によるものばかりでは無いことに、彼女はまだ気づいていない。――気付いていない振りを続ける。

 それに熱のせいだろうか。何故か、視界も次第にぼやけて来ていた。

 これではいけない、と思った。ここまで連れて来てくれた“大導師”に、せめてもの礼として、自分の故郷がどんなところなのかをもっと知ってもらわないと。

 そのために、モルジアナは空元気を振り絞って、より一層大きな声を上げようとした。

 

「い、今はきっと、かりに行ってていないんだと思うけど、いつも、お母さんとね、お父さんがね、おかえりって言って、抱きしめてくれるんだよ! お、おいしいシカのお肉のスープを――」

 

「もういい」

 

 やっと、“大導師”が返事を返してくれた。

 だが、そんな言葉を彼女は聞きたくなかった。

 

「――き、きっとだいどうしさまにも、ごちそうしてくれるよ! ほ、ほんとうにおいしんだよ! だから、だから――」

 

「もういいんだ」

 

 次第に縺れ出す口でそこまで、絞り出すように言い掛けたところで、指が一本無いが、しかし優しくて、温かい手が、モルジアナの頭に置かれた。

 今までなら照れ臭くも嬉しく感じた筈のその行動が、何故か今は、そんな風に思えなかった。

 

「……やめてよぅ……」

 

 さっきより、頭痛が酷くなっていた。視界のぼやけも、酷くなるばかりだった。目頭すら、熱くなり出していた。

 それでも、モルジアナは耐えようと頑張った。

 やっと、待ち望んだ故郷に帰ってきたのだ。

 今はいないが、両親も、街の皆も、きっとすぐに戻ってくる。“真実なんて無い”のだから、もう誰もいないなんて、そんな事は絶対に無い。

 だから、止めて。

 もう少し、待って。

 ほんの、ほんの少しでいいから。

 もう少し、待って。

 そう、言葉に出来ない言葉で、必死にモルジアナは頼み込んだ。

 奴隷にされそうだったところを助けてくれた恩人に。海というものを始めて見せてくれた恩人に。長い時間を掛けて、ここまで連れて来てくれた恩人に。

 優しい“大導師”に、今にも崩れてしまいそうなその顔を見られないように、背を向けながら。

 でも、駄目だった。

 ゆっくりと首を振られて、そう言われては、もう耐えようがなかった。

 

「“ここにいても、誰も帰ってこない”。――もう、いいんだ」

 

 ……分かっていた。

 でも、考えたくなかった。――聞きたく無かった。

 だが、言われてしまった。聞いてしまった。

 その言葉が決定的な罅となって、必死に塞き止めていたものが一気に流れ出すのを、もはやこの少女に止める術は無かった。

 次の瞬間、長いローブの裾に覆われた“大導師”の足にしがみ付き、溢れ出る激情のままに、モルジアナは絶叫していた。

 変わり果てた故郷に、もう会えない両親への想いに、特徴的な目元から際限なく湧き出る涙で、男の白い裾を只管に濡らし、汚していく。

 それを跳ね除けるようなことも無く、幼い身体を悲しみに震わせる少女の為すがままに、唯、その赤い頭を撫でてやりながら、“大導師”はその支えとなってやった。

 

「……“済まなかった”」

 

 何故か告げられたその謝罪の言葉の意味も、フードの下で悲哀と罪悪感の色を帯びたその目も、今の彼女が気づくことは無かった。

 数年後、“レーム帝国”の南方属領に加わり、多くの人々が移り住むと共に開発が進み、そこに広がる廃墟と化した街(かつていた人々の生活の残り香)すら消えることになるそのサバンナの一角で。

 たった一人取り残された幼い少女の悲痛な慟哭が、泣き疲れて一時の安らかな眠りを迎えるその時まで、延々と、延々と響き渡った。

 

 

 

 傍から見ても90kgは下らないだろう肥満体のブーデルを引き摺り、奴隷の少年も抱えて高々跳躍するという離れ業を見せた“アサシン”を、未だ恐怖に引き攣った目でアリババは追っていた。

 本来なら、スゲー、とでも感嘆の言葉を送ったりしたのだろうが、相手が相手であり、状況が状況だっただけに、そういう発想すら浮かばなかった。

 そんな彼を尻目に、奥の露店の、そのまた奥の民家の屋根に降り立つや、あっという間に街中の方へ駆けていって見えなくなった“アサシン”に、打ち付け合った頭を押さえて悶絶していた町警史達が怒号を上げながら続いて行った。

 それで終わりかと思いきや、一連を見守る過程で再び沈黙していた群衆を掻き分け、

 

「“アサシン”はどこだーッ!」

 

更に十数人の町警史が警棒を振り回し、砂埃を巻き上げて“アサシン”と最初の二人が向かった方へ駆けていった。

 彼らが眼前を通り過ぎ、しばらく耳の中で反響し続けていたその靴音が止んでから暫くして、その時になってようやく脅威が去った事を悟って、アリババは吊り上げていた両肩を下げたのであった。

 

「……た、助かった……」

 

 “アサシン”の獲物が最初からブーデル一人だった事など知る由もなくば、これまで奴隷商ばかり狙ってきたという話の信憑性もどれ程のものか知れたものではない。

 故に、自分も狙われる可能性があったと思い込んでいた彼は、こうして命が助かった事に心の底から安堵した。

 そしてすぐさま、この場に残ったもう一人の生存者の下へアリババは這いずり寄った。

 

「アラジン! 無事かアラジン!?」

 

 アリババが安否を気遣った青い髪の少年は、折り重なったブーデルの護衛達の死体の傍で、“アサシン”達の消えた屋根の辺りをボーッと見上げていた。

 その背に掛けた彼の声に一瞬振り返りこそしたものの、本来大きな青い瞳が踊っている筈のその顔をすぐに忌々しそうに、親の仇でも見るように歪め、ぷいっと相も変わらず明後日の方向へ背けるのであった。

 ――無事みたいだな。

 それを確認できただけ、良しとしよう。ここは寛大な心を持って、良しとしよう。後で“迷宮(ダンジョン)”でタップリ働いてもらうから、それで良しとしよう。

 いい加減プッツンしてしまいそうな自分をどうにかそう言い聞かせ、ざわつく心を落ち着かせるために一端深呼吸する。

 ――よし、冷静になった。もうキレてない。イラッともしてないぞ。

 

「そ、そうだよな。目の前でいきなりあんなモン見せられたんだもんな、どうしたらいいか分かんないよな。うん、分かる。俺も怖かった、チョー怖かった。ちびりそうだった。でもな、もうあんな血生臭い殺人鬼と遭うことなんて二度と無いからさ。さっさと忘れて、俺達は“迷宮(ダンジョン)に行こうぜ。夢と希望が詰まった楽しい冒険に行こうぜ。な?」

 

 仏のような優しさを持って、聖人のような慈悲を持って、思い付く限りの思いやりの言葉を、清々しい笑顔とサムズアップと共に掛けてやる。

 それに対し、アラジンの返答はこうだった。

 

「……一人で行けば?」

 

 地獄のコキュートスもかくやというような冷たさと、もう話しかけるなという拒絶の意が言外に詰まった一言。

 やはり合わせず、そっぽを向く顔。

 次の瞬間、自分の中でプッツンと何かが切れる音を、アリババは耳にした。

 

「いい加減にしろこのガキッ! 下手に出てたら調子に乗りやがって、俺が一体何をし――」

 

 が、アラジンの胸倉を掴み上げてのその激怒もすぐに納めざるを得なかった。

 

「あ! 町警史! アイツら奴隷泥棒(未遂)だ!」

 

「え?」

 

 アリババの怒鳴り声に気付いたのだろうか。

 群衆の中から身を乗り出した誰かが、アリババとアラジンを指差していた。

 

「何ぃっ!? “アサシン”だけじゃなく盗人だとぉ!?」

 

「え? え?」

 

 しかも間の悪い事に、その応答を発したのは先の“アサシン”の襲撃の犠牲となったブーデルの護衛達の死体の検証のために、下手人を追わずそこに残った町警史2名。

 彼らがいたのは、アリババのすぐ後ろであった。

 

「あの憎たらしい殺人狂(フィダーイー)に託けて人様の奴隷(モノ)を盗もうとはいい度胸だな! 小僧共ぉ!!」

 

「え? え? え?」

 

 もはや、聞き分けの無い子供を叱る余裕など無かった。

 “アサシン”の脅威が去ったのも束の間、すぐさま訪れた奴隷泥棒の冤罪の脅威の前にしどろもどろした後、問答無用で取り押さえようと飛び掛かってくる町警史達に対しアリババが取ったのは、アラジンを小脇に抱えての反射的な逃走であった。

 

 

 

「結局こうなるのかよチクショー!!」

 

 そうヤケクソ気味に叫びつつ走り出したアリババが、集まる外野に塞がれた大通りを強引に突き抜ける中、その右脇に抱え込まれたアラジンは相も変わらず拗ねていた。

 むしろ、この状況をほんの僅かではあったが、良い気味だとも思っていた。

 何せ、“友達”だと思っていたのに、彼にとって自分は体の良い“家来”でしかなかった。アリババがバイト先の社長に自分の事を紹介する際、ハッキリとそう言っていた。それも、事前に“友達”だとアリババ自身が言っていたのに、だ。

 詰まる話、アラジンは裏切られたと思っているから、怒っているのだ。

 最も、当初アリババは彼の事を『迷宮(ダンジョン)を攻略し、がっぽがっぽ稼いで借金も帳消しにするための手段』としか考えていなかったため、最初から利用されていただけというのが真実なのだが。

 まぁ、つい最近になってようやく外に出る事が出来た、文字通りの“箱入り”だったアラジンにその意図を悟れというのも、それはそれで酷というものだ。

 

「待てぇ! この盗人共がぁ!」

 

「神妙にしろぉ!!」

 

「だから違うっつーのぉ! 鎖切ったの俺じゃねーし、奴隷(あのガキ)盗んでったのも“アサシン”だっつーのォ!!」

 

 後ろからは、もの凄い勢いで町警史と呼ばれていた男二人がアラジン達を追い掛けて来る。

 それに涙目になりながら喚き返すアリババの言葉は、残念ながら彼らの耳には全く届いていないようだった。

 ――知らないけど。

 ぷいっと、一瞬だけアリババを見上げていた顔をすぐに別の方向に向け直した。

 すでにアリババの事や、今自分達が追われている真っ最中だということは頭の片隅に追いやられていた。

 代わりに彼が思い浮かべたのは、先の“アサシン”と呼ばれていた少女の事。

 少女と、そう分かったのは、直前までその脛を打ち抜こうとしていたブーデルの傍で、彼がフードの下に隠れたその顔を見上げる事が出来たからだ。

 自分より年上らしい、可愛らしい顔立ちの少女だった。独特の目元と、瞼の上辺りで切り揃えられた赤い髪が、確かにフードの薄暗い影の中に覗けた。

 そして何より、“とても優しそうに見えた”。

 実際、あの少年を気遣うような素振りを見せていた辺り、そう感じた事に間違いは無さそうだったが、それが逆にアラジンを不思議に思わせていた。

 何で、あんな優しそうなお姉さんが人を殺したんだろう、と。

 いくら世間知らずといっても、彼とて根は心優しい少年だ。今アリババにしているような年相応の、あくまで年相応の意地悪をする程度の悪意を持つ事はあっても、本質的に善人であることに変わりは無い。

 故に、例え常識というものを持たなくとも、殺人が“悪い事”であることは知っている。

 だから、あの優しそうと感じた少女と、瞬く間に彼女が行った殺人という悪行とのギャップが彼の中に疑問を渦巻かせ、同時にちょっとした興味を抱かせていたのだ。

 最も、それはあくまで“アサシン”の少女個人に向ける興味という意味であり、“(お姉さん)”として向ける興味ではない。

 それどころか、全身を覆うローブの下に隠れた、モリモリとした筋肉の存在を本能的に感じ取った時点で、そういう意味での興味はアラジンの中から綺麗さっぱり失せていた。

 さて、そんな事をアラジンが悶々と思考していた内に、

 

「追いつめたぞ、奴隷泥棒め!」

 

「盗んだ奴隷(モノ)はどこにやった!? 正直に吐いて投降しなければ、強制連行だ!」

 

進行方向にあった横道から別の町警史達に先回りされ、すっかり彼らに囲まれて逃げ場の無くなったアリババとアラジンという構図が出来上がっていた。

 

「じょ、冗談じゃねぇぞ! まだ“迷宮(ダンジョン)”の入口にすら触れてもいないってのに、ワケ分かんねー内に泥棒にされて捕まる(ゲームオーバー)なんてっ……!」

 

 チラリと横目で上を見上げて見れば、冷や汗を流して動揺を顕にするアリババの顔があった。

 そしてその刹那、必死に探した末に見つけた一つの光明に縋るように、彼の顔が一気にアラジンの間近まで迫って来た。

 

「頼むアラジン! このまま捕まったらもう冒険どころじゃ無くなる! 俺だけじゃなくて、社長やバイト先の皆にとんでもねぇ迷惑掛けることになっちまう! 何でお前が未だに拗ねてるのか分かんないけど、頼む! 助けてくれ! この通りだっ!!」

 

 周囲からにじり寄ってくる町警史達の突き刺さるような視線の中で、何度も頭を下げ、必死にアリババが懇願して来る。

 正直、この時点でいい加減怒るのを止めて、助けてやろうかとアラジンは逡巡した。

 こうまでして頼み込む彼を無碍にするのも気が咎めたのもそうだし、こうしていて被害を被るのが彼ばかりでは無いのもそうだが、「もしかしたら」程度の認識ではあったが、アリババがこうして窮地に陥っている理由は自分にあるからじゃないのかと、薄々気が付いていたからだ。

 だが、肝心な事について撤回が為されていない事に気付き、すぐに彼はそっぽを向き直した。

 

「……ヤダ」

 

「何でだよぉっ!? そんな事に言わずに、頼むよぉっ!! 一緒に迷宮(ダンジョン)攻略するって言ったじゃないかぁ! 俺達仲間じゃないかぁ! 相棒じゃないかぁ! ()()()()()()()()!!」

 

 ここでの幸運は、遂には恥も外聞も無く喚き立てるまでに至ったアリババが、無意識に、偶然にもアラジンが最も聞きたかった言葉を発言した事。

 耳を震わせて聞いたその言葉を引き金に、それまで抱いていた鬱屈とした思いが一瞬の内に霧散し、夜明けと共に昇る朝日の如く晴れ晴れとした気持ちへと早変わりした、良くも悪くも単純で純粋な彼の在り方であり。

 そしてその気持ちのままに、彼らを取り押さえんと、一斉に警棒を振り上げて飛び掛かる町警史達に怖気づく事無く、迷わず首下の笛を咥え、自らの一番の“親友”を呼んだアラジンの行動の速さであった。

 

「来て! “ウーゴ”くん!!」

 

 

 

 一方、大通りより東の民家の屋根の上。

 一つ前の屋根からそこに降り立ったモルジアナは一端立ち止り、背後と下の道路を見回した。

 先程まで態々攀じ登って来た数人の町警史達がいた屋根には、今は自分と連れて来た少年とブーデル以外は誰もいない。

 下の石畳の道路も同様で、そこから見上げるのはそんなところに立つ彼女を珍しがるか、あるいはその正体に気付いて怯える一般人のみ。

 先程まで聞こえていた制止の声も無ければ、“ファナリス”の特徴の一つたる犬以上の嗅覚もまた、警棒の木と塗料の臭いも、町警史の制服の汗臭い臭いも近辺に存在しない事を伝えていた。

 どうやら、撒いたようだ。

 現状をそう判断し、さて人目に付かない所にいこうと腰を屈めた。

 突然、来た方から届いた轟音が鼓膜を打ったのはその時だった。

 ――何?

 そう思って来た方、つまり大通りのあった辺りに振り向いて、思わずモルジアナは目を剥いていた。

 場所は、大通りから少し彼女側に逸れた、脇道の辺りだ。 “チーシャン”に来て最初の任務で使った道だ、まず間違いない。

 だが、“アレ”は一体何だ?

 土を巻き上げ、恐らくは進路上にあった露店や民家の成れの果てだろう粉々の木片も伴って疾走する、あの“青い巨人”は、一体何なのだ?

 遠くからでも分かるその威容のままに、ダンダンと文字通り地を震わせる足音を立てて街の中を駆け抜けたその巨人――青い、筋骨隆々の体に白い褌一丁の姿で、首から上が無い。その無い頭部の代わりに、ついさっき見たような気がする青色と金色が連なってくっ付いていたような気がする――は、街を囲うレンガの壁を抜けて郊外に出るや、その首元から吸い込まれるように消えてしまった。

 後に残ったのは、暫しの巨人の足音の残響。

 それから抜け出すや、足下の人々が皆例の巨人のいた辺りに釘付けになっているのを好機とばかりに、モルジアナは移動を再開する。

 向かうは更に東。“あそこ”なら人目に付く事もないだろうし、先に“拠点”に少年を預けてから、この男に話を聞く事も出来る。

 飛ぶように屋根から屋根へ駆ける中、左腕の少年と、右手に掴んだブーデルを一瞥し、続いて先程の巨人を思い浮かべたモルジアナが思った事はこうだった。

 ――“大導師”様なら、何か知っていらっしゃるかしら?

 才気溢れ、あらゆる知識や知恵を自分だけでなく、多くの“兄弟”達に授けてくれる恩師の姿を頭に描いた彼女の足は、更に目的地目掛けて加速するのだった。

 

 

 

 不意に襲い掛かった鋭い冷たさに、ブーデルの意識は強引に覚醒させられた。

 驚いて瞼を開けば、そこから何かが流れ込み、目を沁みさせる。

 どうやら、冷え切った水を掛けられたらしい。

 口の中にまで浸透して来る無味無臭の液体からそう悟ったブーデルがやったのは、自らを濡らす水を振り払うことでもなく、また口内に侵入してきた水を吐くわけでもなく。

 その水が入っていたのだろう、濡れた木製の桶を石畳の地面に落した、白いローブを憤怒の形相で睨み付ける事だった。

 

「きっ、貴様あの時のぉ~!」

 

 間違い無い。あの時、大切な商品をめちゃくちゃにしてくれた運転手のガキと不愉快極まりない笛のガキを見かけてちょっと脅し付けてやっていたところを、突然現れて僕二人を殺し、彼自身にも蛮行を振るった、不届き千万な輩。

 彼も、彼の“大顧客”からその話を既に聞き及んでいた。今、この“チーシャン”を騒がせる暗殺者の話を。

 

「薄汚い“アサシン”めがあぁ~! よくも、よくもこのわしにこのような無礼な真似をおおぉぉぉ!!」

 

 火山が噴火するが如く怒りを噴き上がらせ、憎悪と殺意に満ち満ちた声を、歯ぎしりと共に目の前の“アサシン”へブーデルは叩き付けた。

 そこにいるのが、あるいは例の運転手のガキだったなら、恐れ慄いて土下座の一つ二つはしたかもしれない。

 だが、今彼の目の前にいるのは例のガキではなく、“アサシン”だ。

 例え、薄汚くて狭い裏路地のど真ん中に立つそれが、白いフードから艶やかな赤い髪が漏れた、背も体格もブーデルより小さい、十代半ば程度の少女のように見えたとしても、その事実に変わりは無い。

 ましてや、自らの後を守らせていた屈強な護衛達を少女は一瞬のもと葬っているのだ。

 なればこそ、尚の事その姿に根拠の無い勝てる見込みを見出し、怒りのままに殴り掛かるなどいう愚の骨頂をブーデルは犯すべきではなかった。

 ましてや、その果てにコイツを“大顧客”辺りに突き出し、あのガキ共にくれてやろうとした、そして“これまでくれてやって来たドブネズミ共と同様の報い”を与えてやろう等と、思うべきでは無かった。

 

「死に腐れこの小娘が――ふぶぉっ!?」

 

 最も、その大ぶりな一撃をかわされた上での右ジャブ一発と、それに伴ってゴミの散乱する石畳の上に背を強かに打ち付けるというおまけが追加されるだけであり。

 抵抗しようがすまいが、この後に彼に加えられる一連の仕打ちに大きな変化があるわけでは無かったが。

 

「う、お、お……ごっ!」

 

 呻き声すら満足に洩らす間もなく、地に仰向けになった彼の襟首を掴んだ“アサシン”によって、罅割れた右側の壁に、今度は意図的にその背を叩き付けられる。

 途轍もない衝撃だ。とても、目の前にいるような小娘によって加えられたものとは思えないそれによって、肺の中の空気を強制的に排出させられたブーデルは一瞬呼吸困難に陥る。

 そこに間髪入れず、更に“アサシン”が力任せに彼を壁に叩き付ける。

 たまらず、再び意識がとびそうになったところで、すかさず空いている左手による平手打ちが朦朧とした彼の意識を強引に呼び覚まさせる。

 

「っ! はっ、ぶほぉ、ぶほっ、うぉほっ……! き、貴様ぁ、わ、わしにこんな事をして、唯で済むと――」

 

「思っています」

 

 肺が求めるがままに息を吸い、そのせいで軽い過呼吸に陥るも怒りを失わないままに怒鳴りつけようとしたブーデルに更に加えられたのは、鼻骨を叩き割るヘッドバッドであった。

 メキャリと、小さいながら生々しい音の後に、中程で折れ曲がってしまった鼻からだくだくと血が流れ出し、怒髪天を強引に沈めさせる強烈な痛みが放たれだした。

 

「は、はがっ、はが()ふに()がっ……!」

 

 折れた鼻を押さえて悶えようとしたブーデルだったが、襟元からぐいっと引き上げられた彼はもう黙らざるを得なかった。

 

「いくつか質問をします。答えて下さい」

 

 それ以外の行動は何一つ許さない――そんな身も凍るような言外の威圧感の前には、震える事は出来ても、怒りを込み上げさせることはもう適わない。

 もはや、彼はその権力と悪知恵のままに“ドブネズミ共”すら好きに出来る“大豪農”ではない。

 鷹の爪の中で捕食の時を待つ、哀れな獲物でしかなかった。

 

 

 

「あなたは葡萄酒造“のみ”で巨万の富を築いた大豪農――それは本当ですか?」

 

 手始めにそんな分かり切った質問を振ったのは、怯えて切ったブーデルを多少なりとも落ち着かせるためだ。

 間違っても手心を加えたわけではない。この男にそんな必要は無い筈だ。

 ぶんぶんと、未だ血の止まらない鼻を押さえて慌ただしく首を上下させるブーデルだったが、しかしそれが嘘であることをモルジアナは既に知っていた。

 だから、静かに首を振って、その返答を彼女は否定した。

 その対応に文句を言おうとして、されど鼻の痛みにそんな事をすればどうなるかを思い出したか、遺憾そうな唸り声を上げるだけに留めたブーデルを無視して、モルジアナは尋問を続けた。

 

「次の質問です。先程、大通りで口論になっていたようですが――100金貨(デイナール)の借金とはどういうことですか?」

 

 先程、この男を尾行していた過程で耳にした、例の少年達との口論。その果てに、一時の感情に身を任せて護衛二人を葬ってからの、強引な運びになってしまった。その事についての言い訳は後で考えておくとして、今は異様な額のこの借金について聞き出そう。

 

「喋って下さい。ただし、余計なマネはしないように」

 

 最も、少し騒がれたくらいならどうという事も無い。

 この辺りに、既に人はいない。“2ヶ月程前に全員連れて行かれたのだから”。

 それだけ告げると、ぽつぽつと震える声でブーデルが語り出した。

 

「そ、その借金は、あの小僧共が、砂漠ヒヤシンスを追い払うために駄目にした、わしの(商品)の弁償代だ。――べ、別におかしい事等あるまい!」

 

 ――確定だわ。

 フードの下は無表情のまま。されどその口元を横に伸ばして、確かにモルジアナは笑っていた。

 最期に、唾すら飛ばすほど力を込めてそう断言するブーデルであったが、対照的に泳いだ目が、その言葉の中にある“嘘”の存在を如実に語っていたからだ。

 もう一度、彼女は首を左右に振った。

 

「そのお酒は、本当に100金貨(デイナール)もの価値があるんですか?」

 

「! ど、どういう意味だ! 貴様、わしの酒にそんな価値が無いと抜かすのか!」

 

 紛いなりにも、自分が手塩に掛けて作り上げた逸品を馬鹿にされたからだろうか。

 豚のように肥え太ったその顔に急激に赤みが増し、青筋が立ち始めていた。

 このままなら、確実に逆上して騒ぎ出す。

 もう一度、今度は足の方でもお見舞いしてやろうかと一度思ったが、敢えてそんなブーデルを無視してモルジアナは、さぁ、とだけ首を傾げて見せた。

 

未成年(わたし)にはお酒の価値など分かりません。――けれど、“本来廃棄すべき失敗作”にまでそんな価値があるかどうかくらいは、分かるつもりです」

 

 そう問い掛けるように話を振った途端、再び贅肉だらけの顔がさーっと蒼白になった。

 当然だ。

 それが、すなわちこの男の暗部に繋がるのだから。

 

「あなた個人については、調べはほとんど付いています。――葡萄酒製造の過程で出来た失敗作を、他の誰かの手でダメにさせ、それを高い価値を持つ“本物”と偽って、法外な借金を背負わせる。そして借金の返済が出来なければ、その者に何らかの形で受ける必要の無い罰を与える」

 

 それがこの男の、もう一つの資産の稼ぎ方。

 葡萄酒製造で生み出される廃棄物の効率的な再利用(リサイクル)という名目の下で生み出された、“大豪農”ブーデルのもう一つの顔であり、“稼ぎ方”であった。

 ある時は自らが雇った従業員。ある時は邪魔な同業者。またある時は、道行く中で目に付いた知らぬ顔。

 自らの気分を害したか、あるいは“使えない”からか。

 ともかく、何かしらの形で目に付いた人間に高級酒と偽った失敗作を、自らや部下の手も使って“そいつ個人の手で”駄目にさせ、それを理由に一族諸共借金地獄に追い込む。

 その偽りの借金を返済し切れればそれで良し。仮に出来なくとも、そこから大金を作る方法はいくらでもある。

 

「何人の人間を売ったんですか? 何人の人間の人生を金に変えたんですか?」

 

 あるいは娼婦か。あるいは砂漠の労働者か。あるいは野生の、それとも人に飼われた獣の餌か。

 だが、金と法の下に自由と平穏を奪われたその哀れな人々を、端的に言い表わすのに相応しい言葉がある。

 

「一体、何人の人々を“奴隷”に堕としたんですか?」

 

 その言葉を口にした時、ブーデルの襟を掴む手をモルジアナはより一層、震え出す程に強く握り締めていた。

 自らの口で敢えて発したその言葉が、彼女が最も嫌いな言葉だからだったからだ。

 そして、

 

「……な、何が悪いというのだそれが! わしは唯、失敗した酒を無駄にしたくなかっただけだ! 捨てるしかないものを、金に変えただけだ! 無意義で無価値なものを、この頭を使って有意義で価値ある商売にしただけだ! その過程で、地べたで這い蹲るだけのドブネズミ共に“商品”という価値を与えたではないか! それの何が悪い!!」

 

他者の自由を奪っておきながら、自らの罪の重さも介さず、法と権力に託けて身勝手な理由の下に行動を正当化するこの豚男のような悪党は、彼女の最も嫌いな人種だ。

 だからこそ、豚のように耳障りな声で喚き上げるこの男を今すぐ消してしまいたい衝動を抑えるために、もう一度モルジアナはブーデルを引き寄せ、手加減する事無く壁に叩き付けた。

 途端、壁を揺らす鈍い音と共に、ブーデルの襟を掴んでいた彼女の右手に、何かを凹ませたような感触が伝わった。同時に、ひぎぃ、という汚い悲鳴がブーデルの口から漏れた。

 どうやら、右側の鎖骨をへし折ってしまったようだ。

 構わない。後一つだけ聞けば、その後は始末するだけなのだから。

 

「――最期に訊きます。あなたが“大顧客”と呼んでいた者。“彼”は、つい2ヶ月ほど前から、あらゆる手段を講じて自らの下に奴隷とされた人々を集めている。現に、ここ最近この街(チーシャン)では奴隷商人の姿が散見されたし、“この辺り”に住んでいた人々も忽然と姿を消した。そしてあなたも、酒と共に、陥れた人々を度々彼に売り付けていた筈」

 

 一端、襟首を掴んでいた手を無造作に離し、ブーデルを下に落とす。

 それによって、彼をフード越しに見上げていた先程までから一変、今度はモルジアナが、氷のように冷たい無表情のままに、折れた鎖骨を押さえて呻くブーデルを見下ろす形となった。

 

「答えて下さい。“あの男”の――“チーシャン”現領主“ジャミル”の目的は何なのかを」

 

 それが、彼女の今回の任務における、最大の“標的(ターゲット)”であり、最大の罪人。

 そしてその目的を聞き出すための駄目押しとばかりに、敢えて見えるように左腕のアサシンブレードを引き出す。

 答えなければ、死あるのみ。そう思い込ませることで、より確実に情報を聞き出すためだ。

 だが、残念ながらその目論見は意味を為さなかった。

 

「し、知らん、知らん! 確かに領主様は最近手持ちの奴隷(モノ)を増やしておられるようだが、何でかなど、わ、わしは知らんぞぉっ!!」

 

 ぎらつくブレードの刀身に完全に竦み上がったブーデルが小刻みに頭を振りながら答えたのは、“知らない”の一点張りだった。

 これほど絶体絶命という言葉が相応しい状況において、嘘を吐く事が出来る人間は相当に限られて来る。そして、間違い無くこの男はそういう人種では無い。

 つまり、領主の目的については本当に知らないのだろう。

 結果として時間を無駄にしただけに過ぎなかった自分の行動に嘆息し、後退し切れず壁にへばり付いていた豚男の襟元を、もう一度モルジアナは掴み寄せた。

 

「もう結構です。――貴方にもう用は無い」

 

 その言葉の意味は、もはや考えるまでもない。

 だからこそ、彼は今までで最も引き攣った表情を浮かべているのだ。

 無情な死刑宣告による、その絶望を覆さんがために。

 

「や、止めろ! 止めろっ! わしはまだ死にたくない! ――そ、そうだ! か、金を払おう! 貴様が好きなだけの額を払おうっ! な、何ら家だっていい! 葡萄酒(商品)だって好きなだけくれてやる! “奴隷”だって買ってやる! わ、わしはブーデルだ! 葡萄酒造の大豪農だ! “地を這うねずみ如き”には及び付かない金を持っている! “命の売買だって出来る”! 何だって買える! だから、だからっ! ()()()()()っ!!」

 

 それは金の亡者の傲慢であり、また死刑囚の最期の告解でもあった。

 だが、それが聞き入れられる事は無い。――決して聞き入れはしない。

 故に、彼女が行ったのは開放ではなく、ただ“彼の誤解を解いた”だけだった。

 

「命は金では買えない。貴方の強欲の犠牲となり、鎖に縛られる事となった人々の命も。金に腐ってしまった、消えるべき悪党(貴方)の命も」

 

 その言葉が必死の形相をしていたブーデルを完全に絶望へと追いやったその刹那。

 贅肉がたっぷりと詰まったその腹の中心――人体急所の一つ、肝臓へ、迷う事無くモルジアナはアサシンブレードを突き入れた。

 見開いていた瞼をなお一層大きく開き、白眼を剥いたブーデルだったが、突き立った銀の“爪”を引き抜かれるやボトボトと腹から血を垂れ流し、掴まれていた襟元を離されると共に力無く石畳の上に尻餅を着く。

 それから程無くして、彼の命の灯火は完全に消え去った。

 その方法の如何はともかく、“葡萄酒”という武器を駆使し、誰もが羨む巨万の富を築いた筈の大豪農の最期は、あまりにも惨めで、汚らしくて、呆気なかった。

 

「眠りなさい、安らかに」

 

 罅割れた漆喰の壁に寄り添うように座り込んだブーデルの死体の目を閉じさせる。

 そうして恐怖に引き攣っていた筈の顔を安らかな寝顔へと変えた後、革帯に挟んでいた白い羽根を彼の傷口に押し当てた。

 流れ出したばかりの血を吸い取り、赤黒く変色した羽を再び帯の中に戻して、誰もいない貧困街(スラム)の路地の奥へモルジアナは踵を返す。

 眠るようにそこに座り込む“標的”だった者の亡骸を背に、白いローブがゆっくりと、溶け込むように“チーシャン”の闇の中へ消えていった。

 

 




と、いうわけでブーデル暗殺完了。最後の掛け合いはアサクリ恒例のお説教タイムでイメージして頂けると幸いです。

そしてカタルゴの描写はアレで良かったのか、今でもちょっと不安だったり。

さて、ストックが普通に無いので、今回もそうでしたが、また次話も凄く遅くなると思います。

それでもどうか、何卒お付き合いを。
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