もしもモルさんが暗殺者だったら   作:コナー

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第四夜

 再び目を覚ました時、来た時と同じように栗色の毛の馬の背に跨る“大導師”の腕の中で、落馬しないように支えられながら眠っていたという事が、最初にモルジアナが気付いた事だった。

 

「――起きたか」

 

 上からの声に反応して見上げれば、“大導師”もまた彼女を見下ろしていた。

 これまでも、そしてこれからもずっとそうなのだが、目深く被られたフードの下、鼻から上までは正面からはなかなか見えない。だが、こうやって見上げるような形であれば、薄暗い影に覆われたその目元も見る事も出来た。そしてその目元はいつも鷹のように鋭く全てを見据えるかのように深い輝きを放っているのだ。

 だが、その時に見えた“大導師”の目は少し違った。

 その時の“大導師”の目は、確かに謝罪の念と悔恨に曇っていたのだ。

 そして、それがどういう意味かは当時はまだ分からなかったし、その詳細を知るのはもう何年か後の事だった。

 

「……だいどうしさま……」

 

「これから“マシャフ”へ帰る。帰った後は、今後のお前の身の振り方を考えよう。――いいな?」

 

「……うん」

 

 一方で、そう気の無い返事を返すモルジアナの目は未だ赤く腫れ上がっているだけでなく、著しく生気も欠けていた。

 今、彼女の頭の中は酷く茫洋としていた。

 奴隷商から救い出され、“大導師”によって与えられた帰郷という希望も、船旅によって壊した体を引っ張り続けて来た、愛する両親との抱擁という期待も、もうその心の中には一片たりとも残っていない。

 瓦礫とうち捨てられた家屋のみが並ぶ故郷だった地と、もう誰一人としてあの場所に帰ってくる事は無いだろう人々(ファナリス)という現実が、彼女の中に確かにあった筈のそれらの気持ちを完膚なきまでに、無慈悲なまでに粉砕してしまった。

 そしてその無情な事実を少女の頭が理解するには、今しばらく時間が必要だった。

 そうして、それ以後無言のままだった“大導師”と、かぽかぽと草原を踏み敷く馬の足音のみが続いた沈黙の中でその時間を済ませたモルジアナが呟いたのは、

 

「……どうして……?」

 

という一言だった。

 今の彼女の心境を如実に表わすその言葉に、“大導師”のフードの先端が下に傾けられる。

 

「お母さんね、モルにうれしい事あるとね、いつも「ひのとりさまにお礼をいいにいこうね」って、ひのとりさまのところにつれてくの」

 

 記憶の片隅に残る、無邪気に笑う自分に笑顔を向けて、その手を引きながら街の中央の火の鳥の塔へ歩いて行く母の姿。

 だが、幸福を感じていた思い出として頭に深く刻み込まれていた筈のその記憶が、今や酷く不鮮明で廃れていて、思い出してもちっとも嬉しく感じなかった。

 

「「なんでお礼をするの?」ってきいたらね、「ひのとりさまがモルをいい“うんめい”にみちびいてくれたからだよ」って、いつもそう言うの。ひのとりさまは、いい事をした人や、すごくつらい目にあってもがんばった人に、たのしい“うんめい”や、うれしい“うんめい”をはこんできてくれるって」

 

 そこで一端言葉を区切って、モルジアナはもう一度“大導師”の顔を見上げた。

 その顔は、精一杯の笑顔を作ろうとして、しかし湧き上がる別の感情が邪魔してそれを浮かべることが出来ない。およそ幼い少女がするべきとは思えない、そんな歪な表情だった。

 

「ねぇだいどうしさま……モル、がんばったよね? ドレイにされそうになったり、“マシャフ”で帰るじゅんびができるまで我慢したり、おフネで病気になったり、色んなつらいことがあったけど、でも、がんばったよね? がんばって、かえってきたよね?」

 

 そうだ。ここまでずっと頑張ってきた。

 家族に会いたいがために、爽やかな風が頬を撫でた、あの故郷に帰るために。

 だというのに――。

 

「ねぇ……どうしてなの? モル、いっぱいがんばったのに、なんでひのとりさま、こんなつらい“うんめい”をもってきたの? まだ、がんばりたりなかったの? もっとつらい目にあっても、がんばらなきゃいけないの?」

 

 次第に、声が弱弱しくなっていく。

 もう何も無い。家族や故郷への希望や期待はもとより、良い“運命”のために今を頑張ろうとする気持ちも。

 最も訪れる事を待ち望んでいた最高の“運命”を、最も見たくなかった最悪の“運命”によってズタズタに引き裂かれた。そんな経験をしてしまった少女が如何に気丈であろうと、なお良い“運命”のために頑張ろうとする意思など持てる筈が無い。

 それでもなお持てるものがあるとしたら、それは前へ進もうとする努力を否定する無気力であり、進化を続けようとする生命を嘲笑う退化であり。

 そして、自らへの理不尽な仕打ちに対する、“運命”そのものへの。

 

「もぅ……やだ。もぅ……いやだよぉ。なんで、モルだけ、こんなにつらい“うんめい”ばっかりなの? もぅやだ……。つらい“うんめい”しかみちびいてくれないひのとりさまなんて、きらい。いっぱいがんばったのに、いっぱいつらかったのに――」

 

――恨み、憎しみ。

 それが、次第に少女を黒く変えていく。

 心を。身体を。そして、その魂を。

 少しずつ。しかし、着実に。染め上げていく。

 そうして腹の奥に募って来る黒い鬱憤のまま、遂に決定的なその言葉をモルジアナは口にしようとして、

 

「“うんめい”なんて……“うんめい”なんて……“うんめい”なんて、だいきら――」

 

「止めろッ!」

 

しかし、すぐさま発せられたその一喝に、ビクリと背筋を立たせて中断した。

 強い、とても強い声だった。

 それまで彼と過ごしてきた中で、あんな風に声を張らせる彼を見たのは、それ以後もそう多くは無かった。

 そして、反射的に顔を上に向けたモルジアナの目に映ったその時の彼の顔は、彼女の生涯で二度と忘れることが出来ない顔となるのだ。

 

「――“運命”を、恨むな」

 

 しばしの沈黙の後、そう語り掛けるように告げた“大導師”の、必死さと懺悔の念に塗れたその顔は。

 

 

 

 “大導師”の“目”は、その時のモルジアナの身に起きていた変化を詳細に捉えていた。

 つい先程まで、確かに彼女の体は青い燐光に包まれているだけのように見えていた。その光が今は、端々から徐々に、黒ずみ出していた。

 その現象自体は、今まで行ってきた数々の任務の中でも何度か見て来たものだ。その黒ずむ現象が起きるのは大抵が暗殺対象か、あるいは任務を遂行する過程で消さなければならなかった人間が大半であったが、時として一般人――それも、奴隷や貧困層の人間等、過酷な境遇に置かれた民にも度々見られた。

 いつしか、その現象が起きた人間に共通点がある事に彼は気付いた。――いずれの者もが、己に与えられた“運命”を恨んだという共通点に。

 そして、その中で彼によって命を絶たれる事の無かった、あるいは免れた人々は往々にして、その性質を破滅的で、邪悪なものへと変貌させていた。

 その現象が一体何なのか。何故、自分の“目”でそれを見る事が出来るのかを、自らの“目”の出所同様に彼は知らない。

 だが、今確かな事が目の前にある。

 この4ヶ月超を共に過ごした幼い少女が、今まさに、変貌し掛けているというその現状が。

 この数ヶ月間で、何度もあの日の“親友”の姿をその身に重ねた救うべき幼子が黒く染まり掛けている――“あの日の過ちを繰り返そうとしている”という、その事態が。

 そして気付いた時には、それこそどうしようもない悪人を前に怒りを押し殺し切れなかった時くらいにしか出さないような声で、彼は叫んでいたのだ。

 

「――“運命”を恨んだとて、悔やんだとてどうとなるものでもない。どれ程辛かろうが、どれ程憎かろうが、過ぎてしまったものは、失ってしまったものはもう戻らない。――先へ進む事すら、ままならなくなる」

 

 驚きのあまりか、瞼の晴れた目をキョトンとさせて彼を見上げるモルジアナへ、諭すように“大導師”は告げた。

 かつて師に問われた、“教団”に生まれたことを悔やんだことは無いか、という質問に対する答えそのままのそれが、26年余りというまだまだ先のある人生の中で見出した、“運命”というものに対する彼の答えだ。

 彼もまた、これまでの人生で多くのものを失った。

 両親。例の“親友”。愛した女性(ひと)。そして、師。

 何度絶望したか。何度悔やんだか。何度悲しみに暮れたか。

 だが、その度に彼は思い知らされたのだ。どれ程悔やんだとて、どれ程憎んだとて、失ったものは戻って来ないことを。そして、そんな事をしたところで、唯空しいだけだということを。

 そして、そんな辛い“運命”を乗り越えた先には、必ず“自由”と平和に裏打ちされた幸福があるということも。

 だから、彼は得る事が出来た。“アサシン教団”始まって以来の天才とまで謳われたその実力を。何者にも代えがたい新たな“親友”を。そして、かつての奢り高ぶった自分を省みた結果に得た、今の自分を。

 だからこそ、例えにどんなに辛かろうと、例えどれ程の理不尽に遭おうと、前へ進む事をモルジアナに止めて欲しくは無かった。

 

「“運命”を恨んではいけない。それにモルジアナ。お前には、そんな大き過ぎるものよりも前に、もっと身近に、恨むべき者がいる」

 

 例え、そのために彼女に恨まれる事になろうとも。

 それが事実であり、尚且つ“運命”であるならばこそ、受け入れる事が出来る。――受け入れなければいけない。この娘も、自分自身も。

 

「――今この地(カタルゴ)がどうなっているかを、俺は本当は知る事が出来た。より知識を引き出す事が出来た。だが、そうしなかった」

 

 否、出来なかった。

 “あの果実”を使い過ぎて誘惑に飲み込まれ、最期に見た師と同じになる事を恐れたのだ。

 だから、“カタルゴに辿り着いた自分とモルジアナ”の姿が頭の中で像を結んだその時点で、彼は“アレ”を使う事を止めてしまった。

 もっと深く、もっと前の事を、もっと先の事を見ていれば、誤魔化すなり、事実を伝えて諦めさせるなりすることが出来た筈だ。

 それをしなかったために、今のモルジアナがいる。

 全ての希望を失い、明るい笑顔を浮かべていた顔を疲れさせ、今まさに黒く染まろうとしている目の前の幼い少女が。

 彼の間違った行いが故に、あの時の“親友”同様に、心身共に傷つき果てた哀れな娘が。

 

「全ては、俺の責任だ。俺の弱さが故の、過ちの結果だ。それが、お前をこれ程までに傷付けた。“奴”にしたのと同等の、いやそれ以上の仕打ちをお前に与えた。お前が真に恨むべきは“運命”じゃない。この、俺だ」

 

 そう奥歯を噛み締めて告げる“大導師”の頭にあったのは、今まで犯してきた数々の過ちの記憶。

 素直じゃないところがある今の“親友”が左腕と弟を失ったのも、高慢だった自分のせい。

 あの任務の失敗の末に“マシャフ”が敵に攻め込まれ、多くの“兄弟”達が命を失ったのも自分のせい。

 目の前の少女が“運命”に憎悪を向けてしまう程に傷ついたのも、自分のせい。

 そして、“彼”の父の事を教え、結果的に“彼”に憎しみを与えてしまったのも、また――。

 

「――俺のせいだ。何かも、全て。だからモルジアナ。俺を、恨め。俺に、贖罪をさせてくれ」

 

 沸々と蘇って来るその記憶が、彼の冷静さを次第に失わせていく。ある種の熱が、彼を狂わせていく。

 次第に、周囲の変化に対して鈍感になっていく。

 

「お前が、俺を“奴”のように嘘吐きと罵るならば、甘んじてその言葉を受け入れよう。お前が右の薬指も切れというならば、今この場で切り落そう」

 

 だから気付かなかった。

 色を失っていた少女の瞳が、段々と潤いを取り戻していく様を。

 

「お前が俺の死を望むならば、喜んで俺は、この喉を掻っ切って――」

 

「だいどうしさま」

 

 小さな声だった。

 だが、消え入るようなか細い声では無く、むしろ込められた悲哀が故にはっきりとした声だった。

 その声によって、自らの罪の念に呑まれ掛けていた意識を現実に引き戻させられた“大導師”は視線を下方に向けた。

 彼に抱かれた少女が、変わらず彼のフードの中の双眸を見つめ返していた。

 その特徴的な目元には、当に枯れたように思えていた涙が少し、溜まっていた。

 

「だいどうしさまは、モルにうらんでほしいの?」

 

 そう問い掛けるモルジアナを浸食していた黒は、今その一時において、その侵攻を止めていた。

 

 

 

 “チーシャン”の貧民街(スラム)の一角。

 平線の向こうに落ち掛けてオレンジ色になった日の光が照らす、人っ子一人居ない閑散としたボロ家の群れの外れの方に、“そこ”はあった。

 周囲を砕け掛けた漆喰の屋根に囲われた“そこ”は、一般の人間が見れば、さぞ不思議がることだろう。何せ、“そこ”は本来あるべき出入口が無く、2m程の高さの直方体を織り成す四方の壁は一面が穴はおろか罅一つ無い。

 否、出入口そのものは存在する。平らな屋根の半分程に広がる四角形の大穴が、それなのだ。

 何故、そのような場所に出入口が設けられているのか。

 少なくとも、通常はそのようなところに設けられた出入口を態々利用する者はいない。

 いるとすれば、それは余程酔狂な者か、さもなくば、敢えてそれを利用する者かの、大体その二択に分けられるだろう。

 そして今、どこからともなくその奇妙極まりない出入口へ飛び込んでみせた白ローブ――モルジアナは後者であった。

 出入り口を潜り抜け、その先にある四方に観葉植物が置かれた休憩室のカーペットの上に降り立った彼女は、背後の“A”の文字を捩ったような紋章が大きく描かれた壁を背に、前方に存在する長方形の至極真っ当な出入り口へ進む。

 そして、出入り口を抜けるやフードを脱ぎ、独特の目元と緩やかに垂れる赤いサイドテールを顕にした。

 

「安全と平和を」

 

 休憩室を抜けた先にあるのは、任務や情報を受け、報告を伝えるための作戦会議室(ブリーフィングルーム)

 先程潜ってきた出入り口以外に光が入る場所の無いその薄暗い部屋に入ってすぐの右側の木製のカウンターで、青銅製のゴブレットを磨いていた女性がモルジアナの告げた“合い言葉”に気付き、一端作業を中止して彼女に返答を返した。

 

「あら、お帰りなさい“兄弟”」

 

 女性、と先程そう表しはしたが、実際のところその容姿は一目見てそうとは分からない者の方が多いだろう。何せ、彼女の体はそんじょそこらの大男よりもなお高く、幅が広く、筋骨隆々の体を持ち、ほぼ長方形といって差し支えない輪郭の中に収められた独特の目鼻立ち――妙に高い鼻と、妙に小さい目と口の組み合わせが、際立った異彩を周囲に放っている。

 その身体を覆う、モルジアナのそれと同様の色をしたローブと、濃い紫の上着に関しては、もはやはち切れんばかりに四方へ引っ張られている有り様だ。

 その、誰もが一瞬は戸惑いを覚えてしまうだろうその女性に臆する事も無くその前に進み出るや、自らが殺めたブーデルの血によって赤黒く変色した羽を革帯から抜いて、薄らと埃を被ったカウンターの上にモルジアナは突き出した。

 

「ブーデルは死にました」

 

 淡々したその報告と共に羽を受け取るや、それで、と女性が報告の続きを促して来る。

 それに従い、両腕を後ろに組んで、淡々とした口調のままモルジアナは言葉を続ける。

 

「葡萄酒製造の過程で発生した粗悪品を利用し、人々を自らの利益に変えていたという彼の罪は確かでした。今回もそのために商品と共に粗悪品を自ら輸送していたようです」

 

 最も、その粗悪品については本物の商品諸共、今や“砂漠ヒヤシンス”の腹の中に収まってしまったわけだが。

 

「それと、残念ながら領主の目的については何も知りませんでした。得られたのは、彼が自らの下に奴隷(貶められた人々)を集めているということだけです」

 

「とっくの昔に手に入ってる情報ね」

 

 少しばかり、女性の声のトーンが残念そうに下がった。

 実際、彼女だけでなくモルジアナも、新たな情報が得られなかった事を内心無念に感じていた。

 

「これであなたが消した罪人は“9人”。その大半の口を割らせてきたっていうのに、未だに根幹が見えて来ないとはね」

 

 思いの外用心深い事だわ、と最大の標的への苦々しげな賞賛を口にした女性に頷き返すその傍らで、

 

「――もう、“9人”も消したんですね」

 

自らのこれまで行いに、少しばかりの驚嘆をモルジアナは口にした。

 その言葉に、怖気づいた? 、と心にも思っていない事を返す女性に首を左右に振ることで返事を返した彼女の口元は、自信に満ちた緩やか弧を描いていた。

 

「まだ消すべき者も、救うべき人々もいます。彼らの全てに手を下す時。そして彼らの鎖を断ち切る時がもうそんなに近づいているんだと、そう思っただけです」

 

 そしてまた、この任務を終わらせる時も近づいている。

 “一人前(アサシーノ)”昇格後の初仕事として請け負った、“チーシャン”領主“ジャミル”、及び彼に関係する人物達の動向調査と暗殺の任務を。

 彼らに奴隷の身に堕とされた人々の可能な限りの解放という副題の達成も含めた、有終の美を飾った上で、この世で最も敬愛する“大導師”にその旨を報告するという、その時が近づいているのだ。

 そう思って、その無表情につい笑みが浮かんでしまう程に、モルジアナの心は高揚したのだった。

 

「そうね。そして、あなたとこの“チーシャン支部”で衣食住を共にするのも後少しなのねぇ、“ヘイザム”」

 

 一方で、女性の方はカウンターに二の腕を下し、どこか寂しげな溜息を吐いた。

 致し方ない。任務が終わればどう転ぶにせよモルジアナは“チーシャン”を去ることになり、当面“そこ”は彼女一人だけの家と化すのだ。――“誰もいない家”程、寂しいものは無い。

 であればこそ至極全うなそのぼやきの意味を悟り、緩やかな弧を描いていた口元をモルジアナは真一文字に戻すのであった。

 

 

 

 “アサシン教団 チーシャン支部”――それが“そこ”の正式名称だ。

 真っ当な人間の寄り付かない貧困街(スラム)の、そのまた離れの方に設けられた“チーシャン”での“アサシン教団”の拠点であるそこには、現在モルジアナ以外の“実働隊”――実際に暗殺等の任務実行を担う“アサシン”はいない。

左程治安が悪いわけでも無かった故に大きく行動する必要も無かったため、元より配置数が少なかったこの街の“実働隊”が、現在内紛の多発等で情勢の芳しくない“バルバット王国”を始めとした周辺地域の拠点へ全員回されてしまっているからだ。

 そこへ舞い込んできたのが、2か月程前より見られ出した現“チーシャン”領主“ジャミル”の不穏な行動、及び同時期から“チーシャン”で散見される数が増えた奴隷商人達についての報告だった。

 領主は、元より悪名高い人間として知られていた。癇癪持ちで、奴隷や犯罪者をいたぶる事を趣味とするサディストとして、市民から恐れられていた。

 だが反面、街のインフラ整備や興業、治安維持等の領主としての仕事に目立った卒は無く、無実の民を繰り返し処刑する、市民を誘拐して奴隷にする、といった“教団”が動くに十分な罪を犯すような素振りは今まで無かった。そのため、極めて際どいところではあったが、今まで彼女、ひいては“教団”のマークから外されてきたのだ。

 そんな領主が最初に起こした不穏な行動とは、貧民街(スラム)からの住民退去だった。

 それ自体はどうという事は無い。治安維持の一環として、犯罪者の寝床になりやすい貧民街(スラム)から人払いをするというのはよくある話であり、太っ腹な統治者であれば、再開発を加えたうえで住民を帰させるということも無いわけでは無い。

 だが、住民の退去が為された後も貧民街(スラム)に開発の手が加えられるような事は無かった。というか、住民退去とこそ書いたが、そもそも退去勧告の類は一つも出ていない。であるにも関わらず、貧民街(スラム)の住人は日を追うごとに少しずつ、まるで煙のように消えていったのだ。

 それに、このころから“チーシャン”では奴隷(商品)を引き攣れて歩く奴隷商人の姿が多く見られるようになっていた。もし前述の貧民街(スラム)の件が治安維持を考えての事ならば、まずこちらをどうにかするのが道理というもの。

 ましてや、彼らの行先が往々にして当の領主の屋敷とあれば、唯でさえ良いといえない市民からの評判を更に貶めるその存在に対処こそすれ、放っておく理由はない筈だ。

 そして、そんなチグハグな領主の行動に疑念を抱いた彼女は、その調査のために“実働隊”の派遣を本部たる“マシャフ”に要請。

 そうして、今はこの支部を離れている“実働隊”の“アサシン”達の代わりに“チーシャン”に訪れたのが、若干13歳にして一人前(アサシーノ)昇格という、“大導師”をも超える異例の出世を治めた天才少女。

 その才能と“大導師”自らが“教団”に引き入れたという経歴から“ヘイザム(若き鷲)”という渾名で呼ばれるようになった、“アサシン教団”唯一の“ファナリス”にして期待の新人(ホープ)

 既に現役を退き、裏方としての仕事に従事している筋骨隆々の“チーシャン支部”管区長――バートリーの目の前で無表情を崩さない赤髪の少女、モルジアナであった。

 

「――それはそうとモルジアナ」

 

「何でしょうか?」

 

 ただ、いくら天才といったところで、そこはほんの1ヵ月程度前に一人前(アサシーノ)になったばかりの新米で、高々14年弱生きた程度の小娘に違い無いというべきなのか。

 

「あなた、随分ハデに立ち回ったようね? 大勢の前で護衛を斃してからブーデルを拉致したんですって? “お店”の娘達が、早速町中に噂が広まっているって教えてくれたわ」

 

「それは――」

 

「今回はそうしろなんて指示を出した覚えはないわ。というか、それ以前に――」

 

 一端言葉を区切り、薄暗い部屋の奥へバートリーは視線を動かす。

 そこでは、一人の少年が薄いブランケットを小さな体に掛けて寝ていた。

 その少年が何者なのかはまだバートリーは聞いていないが、その正体は彼の足首の鎖が切れた枷で十分理解できた。

 

「あの子は一体何なのかしら?」

 

 未だ優れない顔のまま眠り続ける奴隷の少年から、視線をモルジアナに戻して問いかける。

 その際に一瞬視線を逸らした彼女の顔が、バツが悪そうに頬を少し膨らませた、年相応の不貞腐れ顔を浮かべていたのをバートリーは見逃さなかった。

 

 

 

 それらの話は、絶対振られるだろうと思っていた。

 これまで請け負ってきた任務で消してきた数は8人。その内、敢えて人目に付くようなハデな遣り方で消した者が、ブーデルを除いて3人いた。

 そうしたのは、今回の任務のもう一つの目的――今後“チーシャン”に奴隷商が足を踏み入れる事が無いように、奴隷商人達への見せしめにするという目的のためだ。そのために、業界で名の知れていた件の3人については、その護衛諸共衆目の前で敢えて大立ち回りをした上で殺して見せた。

 つまり、今街中で騒がれている“アサシン(彼女)”の噂は大衆に敢えて見聞きさせたそれらの件についてのみの話であり、本当は誰も知らない内に後5人、モルジアナの手で尋問をされたうえで“行方不明”になっているのだ。

 だが、今回のブーデルについては違う。

 あくまで、彼の奴隷売買は本業で葡萄酒製造のついでに行われた副業だった。故にそっちの業界での彼の名は無いに等しい。よって、本来ならば“行方不明”の5人同様、衆目に気づかれない内に拉致、尋問の末暗殺する算段だった。

 そうせずに、何故衆目の前で護衛を斃してからブーデルを拉致するという強引な手際になってしまったかといえば、その理由は部屋の奥で未だ土気色の顔のまま寝息を立てる茶髪の少年にあった。

 

「……あの子を、救うためです」

 

 正直にいえば、あんな年端もいかない子供を言い訳に使う事は憚られた。

 だが、かといって目の前の相手に嘘を吐き通せる自信は無かった。

 いくら現役を退いているといえど、バードリーもかつては師範たる“導師長”――“マスターアサシン”の一人であり、現在は情報を精査し、他の“アサシン”達の任務遂行の補助を担うこの支部の管区長だ。彼女のような若輩者の考えついた嘘など容易く見破ってしまうだろう。

 だから、“嘘にはならない”程度の脚色を加えた上で、事の次第をモルジアナは正直に話すことにした。

 

「あの子は、ブーデルに暴行を受けていました。それを見捨てて、予定通りの形で彼を連れ去ることを優先していれば、彼はもっと酷く痛めつけられていました。いえ、もしかしたら――」

 

「殺されていたかもしれない。だから助けた?」

 

 どこかな胡散臭げな視線を返すバートリーに、モルジアナは頷き返す。

 他人の奴隷を盗むことが重罪であるように、他人の奴隷を勝手に“壊す”こともまた重罪として扱われる。

 だが、奴隷どころか一般人すら“ドブネズミ”呼ばわりしていたブーデルの事だ。絶対にやらないという保証も無くば、その気になれば奴隷一人“弁償”し、罪を帳消しに出来るだけの財力を彼は保持していた。

 本当に、少年はあの場で彼に蹴り殺されていたかもしれないのだ。

 

「虐げられる民を救う事も、また“アサシン”の使命です」

 

「それに従ったまで、と。――成程、立派な事ね」

 

 ふむ、とバートリーが感心したように頷く。

 どうやら納得してくれたようだ、と内心安堵し掛けたモルジアナだったが、すかさず掛けられた言葉にそう判断したのが間違いであると否応なく知らしめられた。

 

「“本当にそこまで考えて行動したなら”、の話だけど」

 

 思わず、特徴的な目元を動かしていた。

 どうやら、感情に先走って動いていた事は既に見抜かれていたようだ。

 なら、これ以上何かを言い繕ったとて意味は無い。

 

「あなたねぇ、私があの坊やの事を聞いた時、思いっきり都合悪そうな態度取ったでしょ。あんな態度見せといて悟られないと思ったの? “アサシン”であることを理由にするなら、もう少し自分の一挙一動に気を配れるようにしてからになさい」

 

「……すみません」

 

 ――まだまだ未熟だわ。

 内心でそう自省しつつも、素直に謝罪の言葉を口にし、モルジアナは頭を下げた。

 それに対ししょうのない子供の相手に少し疲れたような溜息を吐いてから、諦めたようなバートリーからの指示が下った。

 

「まぁいいわ。これからすべきことは分かってるわね? あの子を連れて行きなさい、いつも通り」

 

 それは分かっている。いつまでも“教団”に無関係の人間を支部内に置いておくわけにはいかない。

 彼もまた、これまでこの街で解放した奴隷(人々)と同じように“連れて行かなければならない”。

 

「承知しています。ただ――」

 

「ただ?」

 

「もうしばらく、あの子をここで寝かせてあげてくれませんか? まだ、体調が優れていないようなので」

 

 未だ土気色の顔をする少年の額には、まだ脂汗が滲み出していて、彼の赤毛が混じった髪をそこに張り付けていた。

 まだまだ痛々しいその様を、心に重いモノが伸し掛かったような感じを受けながら見つめるモルジアナの前で、

 

「あなたに言われるまでも無いわ、そんなこと」

 

一際大きい、呆れたようなバートリーの溜息がカウンターの上の埃を舞い上げた。

 

 

 

 どうしてだろうと、その時の“大導師”の様子を見上げてもう一度、モルジアナは思った。

 “運命”を恨むかどうかなんて、彼女の勝手であり、彼には何の関係も無い筈だ。

 なのに、どうして“大導師”はこんなにも自分が“運命”を呪うのを止めさせたがるのだろうか。

 どうして、“運命”じゃなくて、彼自身を恨めと言うのだろうか。

 大体、そんな事出来るわけが無い。

 

「何で、だいどうしさまをうらまなきゃいけないの? だいどうしさまは、モルを助けてくれたよ? “マシャフ”にも連れてってくれたよ? 海もみせてくれたよ? モルがびょうきになった時も、おせわしてくれたよ? カタルゴにだってかえってこれたよ? いっぱいいっぱい、だいどうしさまはいいことしてくれたよ?」

 

 彼には、いくつもの恩がある。

 それこそ、良く分からないが彼が犯したという過ちなんて頭の片隅にすら残らない程の、いくつもの大恩がだ。

 そんな“大導師”に感謝の念こそあれど、いくら期待していた“運命”が訪れなかったからといって彼を恨む気には到底なれない。

 ただ、思い詰めたような顔をフードの中に浮かべてそう言い連ねる彼は見ていてどうしようもなく哀しげで、辛そうだった。

 そんな“大導師”を目にするモルジアナ自身も、また辛かった。

 きっと、彼がこんな顔をするのは自分のせいだ。

 どうしたら、こんな顔を止めてくれるだろうと、幼い頭で考えてみた。

 

「ねぇ、どうしてだいどうしさまはそんな顔するの? モルが“うんめい”うらむのが、そんなにイヤなの? そんなにモルにうらんでほしいの? むりだよぉ。モル、だいどうしさまのこと、うらめないよぉ……」

 

 だが、どうすべきなのか全く分からない。

 “大導師”の言う通り、彼を恨めばいいのか? 嘘吐きと言ってやればいいのか? 右手の指も切り落とせと言えばいいのか? 「死ね」といえば良いのか?

 ――いや。ぜったい、いや。

 激しく首を振って、モルジアナは否定する。――そんな事、言えるわけが無い。

 されとて、一度抱いてしまった“運命”への恨みを消し去る事もまた出来そうにない。

 なら、どうすればいい。

 どうすれば、“大導師”はこの顔を止めてくれる? どうすれば、彼にこんな辛そうな顔をさせたままにしないでおける?

 必死に、なおも幼い頭を回して考えるも、その答えは皆目見当もつかない。四方八方塞がりだ。

 それでもなお思考を続けるも、しかし答えを得られない。

 そんな堂々巡りを続けている内に、遂には額の熱がぶり返し出してワケが分からなくなったモルジアナは目尻に溜まっていた涙をポロポロと流し始めるが、それでもなお“大導師”の顔を元に戻す方法を考える事を止めない。

 どうすればいい? どうしたらいい? ――次第に、そんな問い掛けの言葉だけで埋め尽くされていく彼女の思考と口を止めたのは、他ならぬ“大導師”だった。

 気付けば、優しくモルジアナの頭を撫でる彼の顔はあの辛そうな顔から、笑顔に変わっていた。

 

 

 

 ――何を熱くなっていたのだ、俺は。

 先程まで、自分のせいで再び泣き出してしまう程に悩ませていた少女の頭をあやし付けるように撫でながら、“大導師”は自嘲の笑みを浮かべていた。

 あの時と同じだ。 “もう会う事が無い”という真実を唯付き付けて、相手が年端もいかない子供だということも忘れて傷付け掛けた、船旅を始めたばかりのあの時と。

 本当は唯謝罪したいだけなのに、いつの間にか自分の世界にのめり込んで、どうしようもなく傷ついたこの娘を更に追い詰めてしまっていた。

 結局それも、“アレ”に誘惑される事を拒んだのと同じ自らの弱さと、これまでの多くの過ちの原因となった、未だ捨て切れていない高慢さが故の結果だ。

 かつて、友は言ってくれた――お前はもう、かつてのお前ではない、と。だが、結局そのかつての自分と同じ事を繰り返している、今の自分は何なんだ?

 あの日の、自分を救ってくれた友の言葉を無碍にするつもりは毛頭無い。だが、それでも思わずにはいられなかった。

 

「――情けないな」

 

「だいどうしさま?」

 

「俺は唯、お前に“運命”を恨んで欲しくなかっただけだ。お前を、結果的に“運命”を恨ませるように仕向けてしまった事を、謝りたかっただけなんだ。それなのに、いつの間にか俺は、お前に俺が犯してきた数々の罪の断罪を強要していた。そのせいで、またお前を傷つけてしまった」

 

 本当に俺は高慢ちきで、成長しない、度し難い男だ、と。

 そして一度溜め息を吐いて調子を整え、少女の大きな赤い目を見つめて、本当に伝えたかった事を“大導師”は告げた。

 

「よく聞いてくれ、モルジアナ。今回の帰郷は、確かにお前にとってどうしようもなく酷い結果に終わった。何かに憎悪を向けなければ、やりきれないだろう。だが、それでも“運命”を恨んではいけない。それをするには、俺達人間はあまりにも弱くて、脆い。いくら“運命”を恨もうが、悔やもうが、訪れてしまったそれは、人間(俺達)の手に余り過ぎるんだ」

 

 そこまで告げた時、無言でこそあれ、モルジアナの俯いた顔は確かにこう言っていた。――あんなに酷い目に遭ったのに、そんなの理不尽過ぎる。

 そう彼女が感じてしまうのも仕方ない。ここまでの言葉は、「何も恨むな」と言っているのも同然だ。どんな聖者であろうと難しかろうそれを、たかが4,3歳の幼子が出来る訳が無い。

 だが、彼の話はこれからが本番なのだ。

 

「だがな、代わりに人間には皆権利が与えられている」

 

「けんり?」

 

「“運命”を受け入れ、その先にある“自由”と平和を享受する権利――この世界の混沌とした美しさを理解し、それに伴う困難を乗り越える事が出来る、人間だけの特権だ」

 

 それがあるからこそ、人間には“運命”を恨む権利も、気にいらない“運命”を変える力も与えられてはいない。故に与えられた“運命”を乗り越え、その先にある“自由”を謳歌する事こそが、人の在るべき姿なのだ。

 そして、それこそが彼ら“アサシン”が存在する意味でもある。

 

「よくわかんないけど……みんな“じゆう”だから、どんな“うんめい”がきてもへっちゃらってこと?」

 

「そんなところだ」

 

 少女なりに噛み砕いた解釈に、“大導師”は頷き返す。

 だが、それに対して遺憾があるらしく、モルジアナは首を左右に振った。

 

「でも、モル、ドレイにされそうになったよ?とっても重たいくさり付けられて、全然“じゆう”なんかじゃなかったよ? いまだって……」

 

 “大導師”の考え方と、これまで自分が受けて来た仕打ちが矛盾している、という事なのだろう。

 

「確かに、この世界にはお前のように、一部の身勝手な人間のせいで“自由”や平穏、それ以外にも多くのものを奪われた人々が大勢いる。彼らに今俺が言った事を唯告げても、何も奪われていない人間の戯言だと撥ね付けられるのが関の山だろう。だが、だからこそ“アサシン(俺達)”がいる」

 

 法に笠を着て、あるいは権力や財力に任せて他の者に隷属や不平等を強いる罪人を討ち、人々に自由と平穏を取り戻す者達が。

 闇に紛れ、光に奉仕する者達が。

 人々の“自由”と平和の守り手が。

 

「だからこそ、俺はあの奴隷競売の場でお前を救った。奴隷の身に堕とされる寸前にあった幼子に、野を駆け回る“自由”と、愛すべき親と分かち合う平和を取り返してやりたいがために」

 

 本当の事をいえば、それは理由の全てでは無い。あの日の“親友”の姿をモルジアナに重ねたという、もう一つの極々個人的で身勝手な理由も確かにあったからだ。

 だが、自らの口で述べたその理由そのものに、嘘偽りは一切無い。

 

「――とは言ったが、両親との平和までは、取り戻してやることは適わなかった」

 

 それどころか、実際に少女に与えたのは、変わり果てた故郷と、煙のように消えてしまった両親という残酷な現実であり、その身を黒く染め出す程の絶望と“運命”への憎悪だった。

 本末転倒もいいところだ。

 そして、その落とし前の付け方を、“自分を代わりに恨ませる”という方法一つに縛ってしまった事は、なお悪かった。

 

「埋め合わせをさせて欲しいんだ、モルジアナ」

 

「うめあわせ?」

 

「俺に出来ることであれば、何でも良い。お前が望むことを言ってくれ」

 

 そうする事で、せめてもの証明にしてやりたいのだ。

 どれ程までに過酷な“運命”に挫けそうになったとしても、必ずその先に“自由”と平和に裏打ちされた幸福が待っているという事を。

 

「……ホントに、何でも良いの?」

 

「ああ、何でも良い。――必ず叶えて見せる」

 

 もう一度、彼女の両親を探す事でも。あるいは、他の“ファナリス”がいる地へ導く事でも。――そういう願いが返ってくるだろうと、“大導師”は高を括っていた。そして、再び“アレ”の力を借りなければいけないかもしれないそれらの願いのために粉骨砕身する覚悟を、彼は固めていた。。

 だから、暫し俯いて考えるような素振りを見せてから告げられたモルジアナの“願い”は、普段から落ち着きを取り戻していた筈の彼を心底呆気に取らせた。

 それが彼が予想していた“願い”に比べあまりに容易で、そしてあまり予想外だったからだ。

 

「……モルね――」

 

 だが、その“願い”を“大導師”が無碍に断る事は無かった。

 否、出来なかった。

 彼女がそう答えた時、幼子には似つかわしく無い“決意”の火が確かにその目の奥で揺らめいていた。

 そして少女が伝えたその“願い”を己が“目”をも使って確かめ、その過程で彼女に起きていた変化に、少なくとも、その時点の拒否という選択は憚られたからだ。

 だが、彼を責める事は出来ないだろう。

 戸惑いも無く、まるで子が親におぼろげなイメージのまま将来の夢を告白するが如くその“願い”を答えたモルジアナが、まさにその時、その身を侵攻していた黒が少しずつ退去し掛けていたところだったからであり。

 なおも“運命”を恨み、変貌してしまうか否か。――その最終決定は、間違いなく当時の“大導師”の一挙一動に掛かっていたのだから。

 

「――“アサシン”に、なりたいっ」

 

 

 

 ――あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。

 今の自分の始まりとなった、あの日の自分の“願い”は。

 

「おぅ、“ヘイザム”。今日もご活躍だったみたいだな」

 

 “チーシャン支部”から500m程移動したところにある、貧民街(スラム)の北西部。

 変わらず罅割れたり穴の開いた壁で構成された民家が林立するそこに、腕の中に抱き抱えた奴隷の少年を伴い、フードを下したままの頭から赤いサイドテールを靡かせて降り立ったモルジアナを、一人の男が出迎えた。

 顔を覆面とターバンで覆った、モルジアナのものとは少し違うローブを纏ったその男は、この街の“収集隊”――大衆に紛れての情報収取等、彼女を含む“実働隊”のサポートを任務とする裏方の“アサシン”の一人だ。

 

「大勢の前で護衛を始末してから、豚野郎(ブーデル)を拉致ったんだって? またハデにやったもんだ。管区長(バートリーさん)も呆れてたろ?――で、要件は?」

 

 大方予想は付くが、と付け加えた“収集隊”のターバンと覆面に挟まれた双眸は、モルジアナの腕の中で目脂の付いた瞼を擦っている少年に向けられていた。

 

「この子をお願いします」

 

 一瞥し、抱き抱えたまま少年を差し出す。

 それを受け取った“収集隊”は片眉を潜ませ、ほらね、と確かに覆面の下からぼやきを洩らしていた。

 それを耳にしたモルジアナは、形の良い眉の端と作りの良い小顔を少し下げた。

 

「すみません。予定に無い事をしてしまって」

 

「ん? ああ、聞こえてたか。勘違いするな。別にお前を責めてるわけじゃないし、どの道仕事に違いはない。ただ――」

 

 そこまで“収集隊”が口にした時だ。

 

「もう帰らせてくれぇっ!!」

 

 物々しい音と共に、彼女らの左隣の民家からみすぼらしい格好の男が絶叫のままに飛び出して来た。

 それに続いて、同じ民家と近くの脇道から現れた、モルジアナと話していた男とは別の“収集隊”の“アサシン”達が、覚束ない足取りでどこかへ逃げていこうとする男を後ろから取り押さえる。

 

「離してくれぇっ!」

 

「バカ言うな! 一体どこ行く気だよ!」

 

「ご主人様のところだよぉっ! 脱走したと思われたら終わりなんだよぉ! 鞭で打たれるんだよおおぉぉ! 砂漠に放り出されて、のたれ死んじまうんだよおおぉぉっ!」

 

「もうアンタにそんな事する輩はいない! 当にあの世に逝っちまってるよ! もうそんな心配する必要は無いから、ホラッ!」

 

「後生だああぁっ! 帰してくれええぇぇぇ!!」

 

 一頻り叫び続けた後、業を煮やしたのか、彼を取り押さえていた“収集隊”の一人に延髄を手刀で打たれた男が気絶し、そのまま出て来た民家の中へ引き摺られて戻されていった。

 暫し、気まずげな沈黙がその場を包んだ。

 その沈黙を破ったのは、直前までモルジアナに何かを告げようとしていた“収集隊”の男だった。

 

「――ほら。ああいうのもいるから」

 

 先ほどよりも深刻気な口調で告げられたその言葉の意味は、考えるまでも無かった。

 前述したように“チーシャン”の“実働隊”の配置数は少なく、“収集隊”の数もそれと同程度の人員しか配置されていない。その“収集隊”の“アサシン”達がどうなっているかといえば、現在彼らはほぼ総出で、任務の過程でモルジアナが解放してきた奴隷(人々)の保護に当たっていた。

 大量の奴隷を保持する領主、及び標的となった彼の身辺の人間がほとんど奴隷商人だったことから、彼らの暗殺に際して解放された奴隷への対応は必須事項といえた。

 そこで、領主によって蛻の空と化した貧民街(スラム)にて彼らを一時的に匿い、モルジアナが任務を完遂させ次第、彼らの所在を明らかにし、元の場所へ帰る算段を付けるという任務が、“チーシャン”の“収集隊”にもまた与えられていたのだ。

 だが、保護した人々の扱いは一筋縄ではいかない。

 元より物資も無ければ、環境も良くない貧民街(スラム)の民家内に実質的に軟禁される生活は、いくら解放されるまでそれ以下の環境に置かれていた奴隷達とて辛いものがある。

 それに、解放した人々の一部でこそあれ、ただ奴隷商から解放し、足枷を外してやっただけでは十分ではない者もいた。

 奴隷商人の中には、売った後の奴隷が粗相を起こしたり逃げたりしないよう、売る前からある程度の“躾”を行う者もいる。最初から従順であれば、なお価値が上がるからだ。

 そして、そういう類の商人から解放された奴隷は、逃げ出したり逆らったりしたらどうなるかを徹底的に教え込まれる事になる。

 その“躾”がその奴隷商を消して、それでどうにかなる程度ならまだ良い。

 だがそれで済まない程に“躾”が進行していた場合、解放された後も先程の男のように、なお一時的な主人であった奴隷商の下へ帰ろうとしてしまうことになる。

 ある種の心的外傷(トラウマ)であるそれが、実質的に奴隷という立場から解放された筈の彼らをなおも縛り上げているのだ。

 

「“見えない鎖”、ですね」

 

 先程までの男の哀れな姿をそう表したモルジアナの眉間は、彼女の内で燻った怒りと正義感に細かな皺を刻んでいた。

 あんな風に、自由を取り戻したことを自覚することも許さず、前に進む事も許さない。それだけじゃなく、そうやってどこかに向かう術も無いままに、知らぬ間に多くのものを失っていく。

 そういう宿命を与えて、なお“鎖”は雑巾に残った水を徹底的に絞り出すように、彼らを縛り続けていくのだ。

 そして、あくまで“アサシン”である彼女には、そんな宿命を歩ませる程に人々の中で成長した“鎖”を断ち切る術は無い。主人を消して、それで終わらせることが関の山の彼女達には、後はもう彼らが自分達の力でその“鎖”を断ち切ってくれることを祈るしかできないのだ。

 だから、先程の男のように、どうしようもないほどに縛られてしまった奴隷(法の被害者)を目にした時、どうしようもなくモルジアナは歯痒く感じてしまう。

 あの日“大導師”に助けられなかった場合に歩んでいた、有り得たかもしれない自分の未来を想像させ、どうしようもなく背筋がゾッとしてしまうのだ。

 

「言い得て妙だよ、まったく……。だが、もしああいうのに逃げられでもして、ここが割れちまったら今までの苦労がパーになっちまうし、それに元居た場所に帰りたい人達の方が圧倒的に多いのも事実なんだ」

 

 苦々しそうな気持ちを吐き捨てた“収集隊”が、モルジアナから受け取った後抱き抱えていた少年の頭を優しく叩きながら言葉を続ける。

 

「早く任務を終わらせてくれよ、モルジアナ。お前が領主が何やろうとしてるか早く明かして、早く()れば()る程、俺達の肩の荷も早く降りるし、このボウズや匿っている人々も早く元の場所に帰れるんだ。そのためなら、俺達も助力は惜しまないからさ、“兄弟”」

 

 そう力強く語る“収集隊”の覆面に覆われた口元が期待の笑みを作っているだろうことは、想像に難くなかった。

 その期待は彼個人のものではない。

 彼ら“チーシャン支部”に残る“アサシン”全員の期待であり、このボロボロの民家の群れの中で帰りの時を待つ、奴隷とされていた人々の期待。そして、これからもその足に絡む鎖を断ち切り、救っていくであろう人々の、自分への期待だ。

 その期待には、絶対に応えなければいけない。――それこそ、正に自分が“アサシン”になった理由なのだから。

 だからこそ、滅多にしない意気と感情の籠った返答を、モルジアナは返した。

 

「――はい!」

 

 

 

 あの日、モルジアナは多くのものを失い、絶望した。

 だが、“大導師”の言葉を聞いている内にふと思ったのだ――こんなツラい目に遭ったのは、自分だけじゃないんじゃないか、と。

 いやそれどころか、自分以上にツラい目に遭っている人達が、もっと一杯いるのではないかとも。

 事実、“大導師”もそういう人が大勢いると言っていた。

 可哀想だと思った。助けられるものなら、助けてやりたいと、心の底から思った。どうしたら助けられるのかと、考えてみた。

 だが、考える必要など無かった。

 その答えは、すぐ目の前にあったのだから。

 だから、何でも“願い”を適えてくれるという“大導師”の言葉に、彼女はそう願ったのだ。

 自由と平和の守り手になる事を。

 闇に紛れて光に奉仕する者になる事を。

 救いを求めていた自分にただ一人手を差し伸べてくれた目の前の男や、彼の弟子達と同じ道を歩むことを。

 “鎖”に縛られ、自由だけでなく何もかも失ったあの日の自分と同じ境遇にある人々に手を差し伸べられる唯一の存在――“アサシン”になる事を。

 そうして、“マシャフ”に戻ってからあの日の決意のままに修練を積み、成長し、力を付けていった結果、今のモルジアナがいる。

 幼き日の決意をより強固に、愚直なまでに為そうと羽ばたく、一羽の若き鷲(ヘイザム)が。

 

「今はまだ、ここで待っていて下さい。でも約束します。――必ず、貴方達の自由と平和を取り戻すと」

 

 この世界の混沌とした美しさを理解し、それに伴う困難を乗り越えられる人としての特権を、必ず取り返して見せると。

 赤茶色の頭を撫でてやりながら“収集隊”の“アサシン”に任せたあの少年にそう誓った。

 だから、この任務は絶対にやり遂げて見せる。

 奴隷という存在を認める法などに貶められ、誰にも手を差し伸べられなかった彼らを、あの日の“大導師”のように救ってみせる。

 “真実は無く、許されぬ事など無い”事を知っている自分達が、どんな手を使ってでも救って見せる。

 

“アサシン”のモルジアナ()が、救って見せる」

 

 ――そのために、私は“アサシン”となる事(この道)を選んだのだから。

  “チーシャン支部”の屋根の上から、それなりに距離の離れた街の中心部をモルジアナは見据えていた。

 本来の大きさより遥かに小さく見えるのに、なお失わない威容を夕日に染め上げる領主の屋敷を見つめ、彼女は決意を新たにするのであった。

 




そんなこんなで、アサクリ本編でいうところのSequence1終了と相成りました。
次回よりSequence2開始。次の標的はさぁ誰だ?

そして勝手に作った実働隊やら収集隊やらのオリ用語は受け入れられるのか。
アサクリ1でアサシン一人一人ローブが違ったりして、その理由として個人的に解釈した結果生まれたオリ用語なんですが、さてさて。

何はともあれ、次回もよろしくお願い致します。
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