もしもモルさんが暗殺者だったら   作:コナー

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第八夜

 保護していた奴隷が逃げ出した。

 それは、すなわち同様に匿っていた人々の居場所だけでなく、自分達“アサシン”の拠点である“チーシャン支部”の位置まで知られてしまうという事。

 そうなれば、すぐにでもその情報を頼りに大挙して押し寄せて来るだろう町警史達から逃れる準備を整えなければならない。

 つまりは、街を出なければいけない。まだ消していない最大の標的も、これまで救いだして来た多くの人々も、全て捨て置いて。

 もはや任務どころの騒ぎでは無い。そうなってしまう前に、何としてでも逃げ出した少年を連れ戻さなければならない。

 それが分かっているからこそ、慌てて制止を呼び掛けるバートリーへファティマーの件を報告する事も忘れて、すぐさまモルジアナは踵を返し、“チーシャン支部”を飛び出したのだ。

 そして、既に捜索を始めていた“収集隊”の“アサシン”達に加わって“チーシャン”中を必死に駆け回ったものの、終ぞ少年を見つけることは適わぬまま、その日は終わりを告げる事となった。

 無念と、そう評する他無い結果であった。

 だが、日を改めることとなってしまったその結果は、同時に違和感を覚えるものでもあった。

 少年が貧民街(スラム)から逃げ出したのは昼過ぎだ。その捜索を始めてから一日の終わりを迎えるまでに掛かった時間は、ざっと見繕っても6~8時間はあった。

 それだけの時間があれば、少年から“アサシン”達と奴隷達の隠れ家が割り出され、即時編成された町警史の一団が向かって来るには十分な筈だ。

 にも関わらず、既に深夜一時過ぎ、丑の刻が近づいて来た頃になっても、支部や奴隷達の保護区域はおろか、貧民街(スラム)にすら町警史の一人も近づく気配は無かった。

 それが何を意味しているのか全く持って不明であれば、依然予断を許さない状況である事に変わりは無い。

 だが少なくとも、遅れたファティマーの件と、それに伴って得た領主の目的についてのモルジアナの報告を受けたバートリーの鶴の一声で、少年の捜索による疲れを癒す間もなく領主ジャミルの暗殺計画の打ち合わせが彼女らと数名の“収集隊”によって行われる分と。

 それから、暗殺の下準備と少年の再捜索。そして時が来るまで待機する分の猶予がモルジアナ達に与えられた事だけは、確かであった。

 

 

 

 建付けの悪い二枚扉の入口を潜るや、途端に視界一面に広がる質素かつ古びた内装に喉の奥から込み上げて来る安堵の息を吐き出していたのは22時間と30分前の事。

 奴隷泥棒の疑いが掛かってからずっと続いていた町警史達の監視から、ようやく解放されて床を踏めるようになった自宅を後にしたアリババが現在行っていたのは、堂々と歩けるようになった大通りでの買い出しと迷宮(ダンジョン)攻略の準備。そして、

 

「おっ! 見ろよアラジン! この剣スゲーぞ!」

 

笛を失って落ち込んだままのアラジンへの慰めであった。

 そういうわけで、今もナイフの新調を目的に立ち寄った武器屋で偶然見つけた、細い刃が手入れの為っていない植木のように幾重にも枝分かれした、禍々しくも珍しい形状の剣を手に気を惹こうとするアリババであったが、

 

「……ウーゴくん……ウーゴくぅん……」

 

うわ言の様に俯きながら俯く当のアラジンの耳に、彼の呼び掛けは全くといっていい程伝わって無かった。

 はぁ~、と自宅に帰り着いてから優に500は繰り返しただろう溜め息が、またアリババの口から漏れた。

 彼の気持ちは分からないでも無い。

 形や状況こそ違うが、アリババもまた“親友と呼ぶべき友”を失った経験があれば、それがヘタをすればいつまでも立ち直れない程に心を抉る悲しみを呼ぶ事も知っている。昨日今日出会ったばかりの彼の言葉が、障壁として聳え立つその悲しみを超えてアラジンの耳に届く筈が無い事は、アリババも最初から分かっていた。

 それでも、俯いて見えない顔に沈鬱極まる表情を浮かべているだろう年下の少年を前に、少なくとも何かせねばと思考を巡らさずにはいられないのが、アリババ・サルージャという少年が持つ優しさであり、当人も自覚していない彼の本質の一端であった。

 ――といっても、今回ばかりはその言葉の裏にあるのがそんな優しさばかりという訳でも無かったが。

 

「大丈夫だって! きっと、その内笛もウーゴくんも取り返せるって!」

 

「……そうかな……?」

 

「あったり前だろ! 絶対“アサシン”の奴見つけて、お前の大切なモン纏めて取り戻してやろうぜ!」

 

 ――じゃねーと、迷宮(ダンジョン)なんて攻略できねーしな。

 そう最期にポツリと洩らした本音は、今のアラジンに届く事は無い。

 実際、ウーゴがいないというこの状況はアリババにとっても由々しき事態だ。何せ、あのジンの存在がアラジンを迷宮(ダンジョン)攻略に誘った最大の理由であり、迷宮(ダンジョン)攻略におけるアリババ達の唯一にして最強の手札だ。

 それが失われた現状においては、既に家から持ち出して来た背負い鞄が一杯になる程に買い溜めた物資も、ハッキリいえば全てが無駄同然だった。

 だがしかし、バイト先の運送会社の行く末や、自らの人生という重いものを幾つも背負っている以上、迷宮(ダンジョン)攻略によって借金を返すという目的を諦める訳にはいかない。

 何としても取り戻さなければいけない。アラジンの笛を、あの憎き“アサシン”から。

 思えば、本当に上手い具合にハメられたものだ。

 一見無償で協力するように見せかけて、こちらの緊張が完全に解けたそこを狙って、最も重要なお宝を強奪してくれたのだ。

 これは本当に彼のミスという他無い。何せ、彼は既に己が身を持って知っているからだ。――“家族のように慕っていた人間でさえ、裏切る時は裏切り、騙す時は騙すという事”を。

 であるにも拘らず、奪われた当のアラジンの言葉につい同意して、あれだけ危険だと自分で言っていた“アサシン”に、自分までもが隙を見せてしまった。

 如何にその教訓に纏わる記憶が思い出したくない辛いものだったとしても、そのあんまりな失敗にアリババは自分の額を小突かずにはいられなかった。

 さて、そんな彼らの目下の目的は再三記述するが、『“アサシン”の捜索。及びアラジンの金属器の奪取、ひいてはウーゴの救出』である。この目的を為す上で問題なのがその手段であるが、少なくとも刃を交えるという選択は御免被りたい、というのがアリババの正直な想いであった。

 何故か?

 平然と何人、何十人と人を殺められるような殺人鬼だから、というのもその理由の一つには違い無いだろう。だが、実際に対面した今となっては、それよりも大きな理由が彼の心中の割を占めていた。

 まず、地表30mの高空から落ちても平気な顔をしているような、精神的にも肉体的にもイカれた奴と再会する事への危険性が七割強程。

 続いて、“法”の下で生活を営む事を当たり前の常識として捉える一般人として、刃傷沙汰は流石にマズイだろという考えがほぼ三割。

 そして最後に、紛いなりにも年下の少女に自分から刃を向けに行くのはどうかという健全な一少年としての矜持が少々、というところであった。

 そういう訳で、実際に“アサシン”と再開した際に取り得る手段は自然と限られてくる。――交渉だ。

 幸い、十にも満たない頃から靴磨きや地元の観光案内程度ではあったが、客商売を経験して来たお蔭でアリババ自身も口の上手さには自信がある。

 しかし、これも残念ながら手段として安定しているとは言い難い。

 大方お宝に目が眩んだためだろうと睨んでいるとはいえ、笛を奪われた正確な意図が抜けているのも然り。取引を要求された場合、“ジンの金属器”に見合うだけの物が良くてアラジンの“魔法のターバン”くらいしか思い付かず、それが撥ね退けられた場合も然り。そもそも、相手が超高度からの紐無しバンジーを平気でやらかすような者である事に変わりは無く、交渉に応じる事無く、今度こそ殺されるという可能性を否定できない事もまた然り。

 というか、それ以前に――。

 

「どうやって見つけりゃいいんだよ……」

 

 そうぼやきつつ周囲を見渡せば、ところどころに警戒の目を光らせつつ徘徊する町警史達の群れが、露店や民家、周囲の人々越しにチラチラと見て取れた。

 既に奴隷泥棒の罪が“アサシン”によって消え去ったも同然の今、獲物を探してうろつく狼のような犯罪捜査のプロの眼にアリババ達が映る事はもはや無い。

 そんな彼らが大勢で血眼になって探すのは、当然その“アサシン”唯一人である。

 語るまでも無く素人では無い町警史達が一様に探しているそのたった一人の白いローブの少女は、しかしアリババ達の悪い噂を消した時も含めて、大っぴらに動かない分には今まで発見されて来なかった。加えて、昨日彼らが彼女を発見出来たのも、やはりあの少女が“一仕事”を終えて道路のど真ん中を逃走中だったからだ。

 つまり、“アサシン”が何かしらの行動(アクション)を起こすまでは見つからない可能性が高いという事であり、よしんば見つけても町警史に追われているか新たな被害者となる者を追っているかのどちらかといっても良い。

 果たして、そんな状況の“アサシン”を交渉の席に座らせる事が出来るかどうか。

 されとて、前述した背負っているモノもある以上、何としても金属器の笛を取り返して迷宮(ダンジョン)を攻略せねばならない。でなければ、やはり借金という見えない縄によって、踏み出す事も出来ないまま、じわじわと首を絞められていく他無いのだ。

 以上より、面倒事に関わっていない余裕のある状態の“アサシン”を見つけ、すぐさま交渉の席に引き摺りこんでこちらのペースに乗せ、戦う事や機嫌を損ねる事はおろか、取引の類を申し出される前に笛を取り返す、というのが理想的なシチュエーションであるのだが、そこまで持っていくのは至極困難なのであった。

 

「どうすっかなぁ……?」

 

 どうにかしてその理想のとまでいかないまでも、それに近い状況に持ち込む事は出来ないだろうか?

 首を捻って思考を巡らすアリババであったが、しかし、まだ土台も出来上がっていなかった彼の計画は程無くして崩れ去る事となるのであった。

 

「おいっ! 大変だ! 南方を警備していた連中が“アサシン”を見たそうだぞ!」

 

 どこからか駆け込んで来た町警史が、アリババ達の近くを回っていた一団に合流するやそう叫ぶのが聞こえて来た。

 それを受けて上がった、何ぃッ、という町警史達とアリババの驚きの声が重なった。

 

「それは本当か!? あのフィダーイー(イカれ野郎)はどこに行ったんだ!?」

 

「いや、それがすぐに見失ったらしくて。北側へ向かったのは確からしいんだが」

 

「北側――もしや、貴族街の方か? 今頃は領主様お抱えの衛兵共が警備中だろうが……分かった! 行ってみよう!」

 

 その一団のリーダー格なのだろう町警史がそう決断してニ、三他の者達に何かを告げるや、すぐに彼を含めた一団の半分が何処かへ駆け出して行った。

 その様子を見送ってすぐ、タイミングの良く無い“アサシン”の目撃に舌を打ったアリババの足下に、不意に違和感が走った。

 嫌な予感がした。

 慨視感もあった。

 昨日も感じたその浮遊感のままに恐る恐る足下へ視線を下ろしてみれば、案の定そこに広がる白い布があった。

 咄嗟に、

 

「ちょ、ちょっと待てアラジン! 今行くのはマズっ――」

 

と、制止を呼び掛けるアリババだったが、すぐさまターバンを飛び立たせるや振り返り、

 

「行こう! アリババ君!」

 

と、先程までと打って変わった張りのある声を上げるアラジンの眼中に、既に彼の姿は無く。

 次の瞬間には、

 

「待っててね、ウーゴくん……!」

 

その場にはいない親友を必ず救って見せるという青髪の少年の決意の言葉と、

 

「だから待てってええええぇぇぇぇぇッ!!」

 

もはや馬に唱える念仏程にも相方の耳に届かない金髪の少年の絶叫を尾に。

 白い月といくつも散らばる星々の煌めきが美しい夜空の奥、その先にいるであろう“アサシン”の下へ、真っ白な“魔法のターバン”が飛んで行くのであった。

 

 

 

 “チーシャン”の北側、大通りを中心に広がる一般街を抜けたその一帯に広がっているのは、貴族や豪商等の支配層・富裕層が生活を営む貴族街である。

 そこに住むいずれもが富と権力を欲しいままにした者達ばかりなだけあってか、そこに建ち並ぶ屋敷や建造物は下を歩く他人を見下ろすためといわんばかりに大きく高く、そして飾り立てられている。その前には、教会を除く一般街や貧民街(スラム)のみすぼらしいばかりの民家群など、象を前にした蟻程の価値も無くなってしまうだろう。

 そんな見るからに高級で威圧的な建物群の内の一つ、周囲のものより頭一つ高い屋敷の屋根の上に、一つの人影があった。

 モルジアナであった。

 本来相反する色合いの白いローブ姿を、星々と月の光、そして屋敷群の窓から漏れる薄灯の明滅だけが照らす夜の黒の中に己が気配諸共完全に溶け込ませて周囲を見下ろす彼女に気付く者は誰もいない。

 夜中の路地を(しもべ)を連れて歩く貴族も、屋敷の中で酒の入った杯を片手に下卑た笑い声を上げる豪商も。

 そして路地、あるいは彼女と同じように建物の上に立って警備を行っている、軽装の鎧に身を包んだ領主直属の衛兵達も。

 装備の質も練度も一般街を見回る町警史達よりもずっと上な彼らの、その内一人が丁度今、モルジアナのすぐ下、隣接する一回り程小さい建物の屋根の端で欠伸を欠いた。

 モルジアナが音も無く屋根を蹴ったのは、それと同時であった。

 与えられた力のままに、彼女の身体が屋根を超え、前へ飛び出す。

 狙い通り、未だ明後日の方向を向きながら頭を掻き出す衛兵の背中目掛けて。

 一瞬の間を置いて、前に翳していた右手が一足先に衛兵の右肩に触れると同時に、振り上げていた左手の小指を引いてアサシンブレードを展開。

 さほど重い訳でも無い自らの体重によって抵抗の間もなく漆喰の屋根へと押し伏せた衛兵の後首――人体急所の一つ、頸椎へ、月明かりを受けて煌めく刃を流れるようにモルジアナは突き入れた。

 神経中枢を断たれた事で、ビクリと一度だけ大きく身体を震わせて生命活動を停止した衛兵の首から、ゆっくりと血に濡れたブレードを引き抜く。

 人間は両の目が二つともに前を向いて付いている。そのため、意識して首や目を向ける等しなければ視界の端にしか映らない上下は注意を向け難い方向といえる。

 その死角と、そして全く気付かなかったが故に見せた背後という二重の隙を突いた、お手本のような飛翔暗殺(エアアサシン)であった。他の“アサシン”がその動きを見ていたならば、拍手の一つでも送っただろう。

 だがまだだ。

 馬乗りになる形で乗っていたうつ伏せの死体から立ち上がるや、一端ブレードを閉まって眼前に聳え立つ壁――と見間違うほどに高く切り立った屋根の段差を駆け上がり、その縁に両手を掛けたところで足を止める。

 縁に掛けた手と、壁に着けた両足で身体を支えているその体勢から、少しだけ頭を持ち上げて段上を覗き込んだ。

 ついさっき排除したばかりの者と同様の格好の衛兵が一人。仕切に周囲を見回しては警戒を怠らないその様には、先程の衛兵のような分かりやすい隙は期待できそうに無い。

 といっても、丁度良い具合にモルジアナの方へ歩いて来るその時点で、隙の有無に大した意味は無かったが。

 後一歩で段差の縁というところまで衛兵が歩み寄って来たその瞬間、すかさず上半身を縁の上へ持ち上げると共に衛兵の股座を左手で掴み、同時に小指を引く。

 刹那、内部機構が作動して飛び出るアサシンブレードの刃に股間――語るまでも無い、代表的な急所――を貫かれて目を剥く衛兵の身体を、腕力と、再び縁の下に上半身を引き戻す動作に任せて、段上からモルジアナは引き摺り落した。

 上方同様、下方もまた意識しなければ警戒の範囲外になりやすい。ましてや、段差、あるいは屋根の下で身を隠す敵の存在など、直に近づいて下を覗き込みでもしなければまず発見できまい。それを利用した縁からの暗殺である。

 そうして下方から聞こえて来た鈍い落下音を後に、監視の目の無くなった段上へ悠々と登るや振り返り、段の下をモルジアナは見下ろした。

 最初に飛翔暗殺(エアアサシン)で仕留めた衛兵と、今さっき仕留めたばかりの、仰向けの体勢で開かれた股の辺りを赤く滲ませる衛兵の、二人分の死体が一列に並んで転がる様が見えた。

 人死になど縁が無い一般人が目にすれば十中八九絶え間ない悲鳴と共に逃げ惑うだろうおぞましい光景に、しかしモルジアナの心には何の感情も湧く事は無い。

 “アサシン”――暗殺者の端くれとしては、極々正しい心境だ。一々殺す事に眉を顰めていては、こんな仕事は続けられない。

 されとて、全ての“アサシン”も最初から殺人に対する忌避感が無い訳ではない。それに慣れるために、彼らは修練を重ね、“教団”の教えを受け、先達の手腕を見て学ぶのだ。

 だが、そうやって殺す事を仮想(イメージ)したり、他の誰かが殺す様を見たりするのと、実際に自分の手で殺す事は違うのだ。

 その事を己が身を持ってモルジアナが知ったのは10歳になる少し前、始めて人を殺めた時であった。

 

 

 

 当時、先達の一人前(アサシーノ)に追従する“見習い”の一人として、“アクティア王国”の都市の一つ“アッカ”にモルジアナは赴いていた。

 見習いの“アサシン”が熟達した一人前(アサシーノ)導師長(マスターアサシン)の任務に補佐兼見学目的で同行する事は別段珍しい事では無い。

 ただし、過去それが許されたのは十分な修練を積んだと認められた十代後半の少年少女が大半であり、まだ9歳、“教団”の末席に加わって6年しか経過していなかった当時の彼女の様な子供までもがそれを許されるという事は前例が無かった。

 それを可能としたのは、“教団”に加わってからのモルジアナの努力と、日を重ねる度に彼女の身体を常人には達し得ない高みへと近づけていく“ファナリス”の血脈であったが、今はそれについて深く語る時ではない。

 問題は、そういう過程の下に先達の“兄弟”達と共に赴いた初の補佐任務にて訪れた、予期せぬ機会であった。

 

「そっち行ったぞ!」

 

 明かり一つ無い闇の中で“兄弟”の誰かが叫んだその数刻後、モルジアナを含む見習いが待機していた民家群の道路に、恐らくは標的であろう人影が現れた。

 その“標的”が何の罪で狙われる事となったのかは、今となってはモルジアナの記憶の片隅にも残っていない。

 見習いとしての補佐とはいえ、初の実戦に心が沸き立って仕方が無かったが故に事前説明をあまり聞いていなかったがためであり。

 “標的”の姿を確認するや、前に出ずに先達達の手際を見て学ぶ事を優先をするよう言われていたのも忘れるほどの興奮に思考が追い付かないまま、緊張でガチガチに固まった身体で考え無しに“標的”の足を止めようとしたためであり。

 しかし待機していた家屋の影から出るやつんのめり、当の“標的”の前で転んでしまったが故に起こった、その後の経過のためであった。

 強かに地面に打ち付けた顔面を痛がって押さえたのも束の間、

 

「くっ、来るなぁ!!」

 

首に何かが巻き付くような感じを覚えたその時には、既に顎下に回された“標的”の腕によって身体を強引に持ち上げられた後であった。

 

「ち、近づくな! 近づいたら、このガキが死ぬぞ!!」

 

 “標的”の空いている方の手に握られた何かが闇の中で僅かに光るのを、既に闇に慣れていたモルジアナの双眸が捉えた。

 ナイフだった。

 何か――“標的”自身の汗臭さに混じって、錆びた鉄のような臭いがしたのを覚えている――に濡れているらしいその切っ先が、“標的”に拘束されている状態の自分に向けられていると悟った時、無意識に彼女は息を詰まらせていた。

 訓練の過程で摸造剣の切っ先程度なら幾度か突き付けられた事がある。

 だが、突き刺さればそのまま命の危機に繋がる本物の刃を、それも明確な殺意を込められて目前に晒されるというのは、これが初めての経験であった。

 それが、彼女の内の緊張だけをそのままに、しかし思考を麻痺させる程の興奮は全身を震え上がらせる恐怖という形に変わらせるに至っていたのだ。

 蛇に睨まれた蛙だ。既に大の男3,4人程度なら担いで悠々と走れる程度になった伝説の狩猟民族の肉体も、こうなってしまってはもはや意味を為さない。

 加えて、彼女を肉の盾とされた“兄弟”達も手が出せない。

 絶望的な状況、という他無かった。

 当時のモルジアナは、“大導師”に救われた時からそう変わらない程度に感情の振れ幅が大きく、日々の厳しい修練の中でも喜怒哀楽をハッキリと表わす事を忘れていない少女であった。それが、“この後の出来事も含めて”、全ての仇となったのだ。

 そして、その“後の出来事”を引き起こす展開が訪れるには、もうほんの少しだけ時間が必要だった。

 あまりの状況の変化に歯を打ち鳴らすことすら出来ない程に固まっていたモルジアナの身体が、

 

(……殺されちゃう……何とか……何とかしないとっ……!)

 

必死に抗おうとしていた彼女の意思にどうにか反応して、護身用に支給された“標的”の物より小振りのナイフをサッシュから抜いた左腕を振り上げさせるには。

 包丁を固い肉に入れた時のような感触と共に、“標的”に捕まえられた時にそうなったのか、いつの間にかフードが脱げて露出していた赤い髪に、何かが降り掛かった。

 恐らくは、それが開始の合図だったのだろう。

 気付けば、ナイフを握ったままの左腕をがむしゃらに上下させていた。

 無我夢中だった。手が“何か”に当たる度に顔や髪に飛び掛かる“何か”になど、その時点では構う暇も無かった。

 そうしている内に、不意に宙に持ち上げられていた身体が地面へと落ちた。

 それが“標的”の拘束から解放されたということ“まで”は理解できたモルジアナは、肩で息をしながらも四つん這いから座り込んだ姿勢になりつつ、安心から来る笑顔を浮かべた顔を振り上げた。

 その笑顔が、移動した視界に入って来たものによって瞬時に凍り付いた。

 “標的”が寝そべっていた。

 正確には、“標的”だったものがそこにあった。

 だった、とそういわざるを得ない。

 いつの間にやら真っ赤に染まったその首から上は鋭利な刃物で滅多刺しにしたかのように――と、その時のモルジアナには思えた――いくつもの刺し傷で埋まっており、咲き誇る薔薇の花弁とも、地面に落したトマトともつかない状態に成り果ててしまったそれは、元が人間の頭部であった事さえ疑わしく感じずにはいられない。

 そして、“それ”には“足りない物”があった。

 

「あ……あ……っ」

 

 この世のものとは思えないおぞましい“それ”に、先程までとはまた別の理由からモルジアナの身体が震え出す。

 その振動によって、下りていたフードに引っ掛かっていたところを振い落された何かが、コロコロと見習い用の灰色のローブの上を転がって、折り曲げられていた彼女の膝の間で止まった。

 “足りない物”――面影が無い程にズタズタになった“標的”の眼窩の中に収まっていた筈の、眼球であった。

 少量の血液と涙液の混合液体の中に切断されて間もない視神経の尾を浸らせたその眼球の、瞳孔が開き切った瞳が、見る見る内に見開かれていくモルジアナの赤い双眸を見返していた。

 頭から上半身までが髪や目と別の赤に染まったモルジアナ自身が、そこに映っていた。

 全身に感じていた生温かさとヌルヌルとした感触の正体を、否応なく理解した。

 次の瞬間、襲い掛かって来た猛烈な吐き気のままに、モルジアナは嘔吐していた。

 胃の中に残っていた夕食が、ドロドロとした吐瀉物となってローブの裾とスカートの端、そして眼球に降り注がれる。

 そこから発せられる強烈なまでに酸っぱい臭いを嗅ぎ取った“ファナリス”の強力な嗅覚と、全身を覆う生温かい返り血の感触が、更に強力な吐き気を誘発する。そうして更に強まった悪臭を、無意識に嗅ぎ取ってしまう。

 そんな地獄の責め苦のような凄惨な連鎖に囚われるがままに、遂には胃液すら吐き出せなくなってもまだえずく。

 その傍らで彼女に駆け寄り、心配して背を擦ったりする“兄弟”達の声や姿が段々とおぼろげになっていく最中も、吐瀉物に半分ほど埋もれた眼球が映している物は変わらなかった。

 そこに映る、“返り血で真っ赤に塗れた恐ろしい自らの姿”がようやく視界から消えたのは、更に何度かえずくの繰り返した後に訪れた、失神という名の静寂の帳のお蔭であった。

 

 

 彼女のように、殺人を犯したというストレスから、嘔吐を始めとして身体に何らかの変調を来す者はたまにいた。

 それどころか、時には発狂してそれっきりという者もいれば、“アサシン”を続ける中で使命感や信念に綻びが生じ、結果として肉体や精神の異常という形で()()()()に陥る者すらまれに存在する始末だ。

 それを考慮すれば、高々齢9歳で、嘔吐程度で始めての人殺しの反動を抑える事が出来たモルジアナはむしろ才能がある方だといえた。

 だがそんな事は関係無く、当のモルジアナからすればあの時の事は現在でも忘れられない、屈辱の思い出であった。

 そして、心の底からそう感じる理由はもう一つあった。

 それから目覚めてすぐ、“マシャフ”の砦内の医務室で掛けられた言葉であった。

 

『“アサシン”など、止めてしまうべきだ』

 

 今にして思えば、ただ彼女を気遣ったがための言葉だったのかもしれない。だが、例えそうだったとしても、現在でも素直に受け入れられないその言葉が放たれた事は変わらない。

 自分を救い、“アサシン”の道に進む事を許してくれただけでなく、様々な知識や技を教えてくれた、他ならぬ“大導師”の口から放たれたという事は。

 悔しかった。

 “大導師”の言葉が。

 それ以上に、多くの恩を受けた師の口から、そんな言葉を紡がせた自分の不甲斐無さが。

 彼と共に帰った故郷(カタルゴ)の惨状を目にしてから流す事の無かった大粒の涙を溢れさせ、強く握り過ぎて掌から滲み出した血と共に白いシーツを汚してしまう程に。

 そうして、その日からモルジアナは少しずつ変わっていった。

 まず一人称を改めた。物心ついた時からずっと使い続けて来た“モル”の響きに含まれる甘ったるさに嫌気が差し、現在も使う“私”という無味無臭な一人称へと変えていった。

 日々の修練にも今まで以上に精を出して来た。周りが寝静まった深夜まで訓練に打ち込む事は勿論、見習いを指導する教官役の導師長や“大導師”、近しい間柄の“兄弟”に無理を言って個人的に指導を付けてもらう事も、日を追うに連れて多くなっていった。

 そして最も変わったのが、自分から志願して先達の“アサシン”の任務について行く機会が多くなった事であり、その中で率先して“標的”、あるいは邪魔となる者を殺す役に就いた事だった。

 最初の内は大変だった。あの日のように気を失うような事こそ無かったとはいえ、トラウマと化したその時の事が足を竦ませたり、どうにかそれを振り切って敵を排除する事が出来ても、その後には必ずと言って良いほど耐えがたい吐き気や悪寒に襲われた。自分が殺されたように顔を青くして、他の“兄弟”に抱えられながらその場を離脱した事など、一度や二度では無い。

 それでも彼女は前に出続けた。反吐を吐きまくった。身体を震えさせた。行水をするが如く、返り血を浴び続けた。――殺し続けた。

 そんな文字通りの血と汗と努力と反吐の日々が、やがて彼女を大きく変えたのだ。

 唯流れ出すだけの血すら怯えていた一羽の野兎(アルネブ)は。

 闇の中に息を顰め、音も無く背後から近付き、

 

「んむっ……!?」

 

瞬時に口を押さえた手で断末魔を上げさせる事もなく、無慈悲に突き刺した鋭い鉤爪と手がヌルリとした鮮血に塗れる事に眉一つ顰めずに獲物の命を刈り取れる、一羽の若き鷲(ヘイザム)へと生まれ変わったのであった。

 そうしてまた一人、始末した衛兵の力の抜けた遺体をその場にそっと横たわらせ、前方の誰もいない新たな屋敷の屋根へ駆け込んだモルジアナは、その端まで移動したところで一端足を止めた。

 その眼前に入り込んだ、一際大きく壮言な作りの、貴族街のほぼ中心に位置するその屋敷。

 二本の太いポールに挟まれた門と、周囲を覆う緩やかな弧の連続で出来た高い塀に囲まれた目的地。一人前(アサシーノ)昇格後の初任務の最期にして最大の標的、領主ジャミルの邸宅の威容がそこにあった。

 そしてその邸宅を囲む塀の内側、入口の前に立つ4人の衛兵達の後に、堆く積もった干し藁を乗せた荷車が一台置いてあった。

 その日の昼の内に百姓を装った“収集隊”の“アサシン”によって設置されたものであり、恐らくは飼っている馬や奴隷用に仕入れられたであろうそれが為す本当の役割は二つ。

 一つは荷車との距離を見極め、その場から飛鷹の舞(イーグルダイブ)を行ったモルジアナの身体を受け止めるための緩衝材であり。

 もう一つは、それによって門の前に立ち、あるいは塀と屋敷の間を徘徊し、あるいは屋敷の屋根から周囲に注意を向ける衛兵達の目を掻い潜って屋敷に入るための、侵入経路であった。

 両腕()を広げ、跳躍(飛翔)

 強靭な脚力によって技名の如く飛鷹の速さで闇夜へ飛び込んだ白いローブが門と塀を越え、宙で反転した身体のままに藁山の中へ侵入した。

 時間にして5秒と掛かっていない。その間、堂々と賊に忍び込まれた事はおろか、その姿を目撃した者さえ一人としていない。

 故に、そこに潜む彼女の存在に気付く事無く、屋敷と塀の間の巡回から荷車の角に腰掛けて休憩しようとしたその衛兵は格好の獲物であった

 刹那、藁の中から上半身を伸ばしたモルジアナは背後から衛兵の口を押さえ込み、同時にアサシンブレードをその横首に突き込みつつ藁山の中へ引き摺り込んだ。

 他の衛兵の目が向いていないのを瞬時に確認してからの藁山(隠れ場所)から暗殺によって、騒ぎ立てる間も無く藁の中に収まったその死体の存在に気付く者は誰もいない。

 そして、すぐ隣に自らが殺めた者の遺体が存在するという常人ならば震え上るような状況に、もはや吐き気一つ催す事無く。

 その衛兵が消えて監視の目が無くなった屋敷側から荷車の外へ出たモルジアナは、事前の打ち合わせ通りにジャミルの書斎が位置する屋敷の裏側へ、音一つ立てる事無く回るのであった。

 

 

 

 時間は少し前に遡る。

 “外側”の壁に埋め込まれた蝋燭のおぼろげな光だけが唯一の光源であるその場所の一角に、その二人はいた。

 片方は赤毛混じった茶髪に、特徴的な目元に子犬のような眼差しを持った6,7歳の少年――“チーシャン”の“アサシン”達が必死になって探していた、あの奴隷の少年だ。

 見れば、再び足枷を付けられたその身体には出来てそうは経っていない切り傷や打撲痕が幾つも付いていた。

 どれもこれも痛々しく――実際痛むのだろう、時折身体を震わせている――、また幼子が負うにしては聊か度が過ぎているそれらを、労るように撫でる手があった。

 指一本一本が太く、そこから伸びてはくっきりと広い手の甲に浮かび上がる筋が、行っている行為と結び付け難い力強い印象を与える。そんな手の持ち主に相応しい隆々とした筋骨で覆われた大柄の身体を少年にしがみ付かれているもう片方の見た目は、“不気味”と、そう評する他無かった。

 年齢そのものはまだ“青年”というカテゴリーに収まる範疇だ。

 しかし、それを見た目から――特に、歳を推測する上で真っ先に目が行くであろう顔から判断する事は不可能に近い。

 如何に観察眼に優れた人間であろうと、唯一刳り貫かれて覗ける左目の部分だけからそれを見抜ける者はまずいないだろうからだ。

 そう。彼の顔のパーツは左目しか外に晒されていない。

 それ以外の一切の部分が、長方形の簡素且つ無機質な鉄仮面に覆われてしまっているのだ。

 当然表情等読み取れる筈は無く、それどころか空気穴一つ開けられていない仮面と顔面との僅かな隙間越しに行っているせいで鳴ってしまうコシューという呼吸音は、ともすれば見る者に“不気味”を通り越して嫌悪感や怖ろしさすら抱きかねさせない有り様だ。

 されど、そんな自らの身体に身を寄せる少年に“彼”はそういう類の感情を垣間見た事すらない。むしろ、円らなその瞳の中に見えたのは“彼”を慕い、頼ろうとする好意の眼差しであった。

 それを受ける“彼”自身にもいつしか庇護の感情を抱かせるに至ったその眼差しは、“ずっと昔に失った大切な存在”がかつての“彼”に向けてくれたそれと、瓜二つだった。

 だから、少年がどこの馬の骨とも知れぬ奴隷泥棒に攫われたと、憎々しげに“主人”から聞かされた時には、その安否から何年振りかという程に強く心を揺さ振られた。

 それこそ、一歩間違えれば“主人”やその従者達を蹴散らしていたかもしれない程に。

 幸いにして、“主人”がどれ程に恐ろしい人間であるか、逆らったりすればどのような目に遭わされるかを“精神的にも物理的にも”刻まれているが故にそうはならかったが、それで自らの目の前から消えた少年への内憂が消える訳でも無かった。

 そんな心境にあった“彼”が一日以上置いて屋敷にひょっこりと少年が戻って来た時に心の底から安堵したのは当然の事でであったが、一方で、何故戻って来た、と少年に問い質さずにもいられなかったのもまた事実であった。

 その理由が、彼の全身に付けられた夥しい傷の数々だ。

 小さな身体のほぼ一面に覆うように付けられたそれらの傷は全て彼らの“主人”によって刻まれたものであり、何故に幼子にそのような酷い事この上無い真似をしたのかと訊けば、間違い無くこう返ってくるだろう。――狂犬(アサシン)なんぞに盗まれて御主人様(この僕)を心配させるような駄目な奴隷に、灸を据えてやったんだ、と。

 実際心配していたのだろう。“混じりモノの欠陥品”とはいえ、大枚叩いて手に入れたレアモノが、どこの馬の骨ともしれない奴隷泥棒、もとい暗殺者に奪われてしまう事を危惧する程度には。

 そして、例えレアモノだろうが、高が奴隷なんぞの事を気に掛けてしまったという下らない自尊心から来る苛立ちを紛らわすために、当の少年(レアモノ)が痛め付けられるという、分かり切っていた筈の理不尽が発生したのだ。

 そう、分かり切っていた事なのだ。ほぼ毎日のように、躾だ何だといって、出来る訳が無い事を敢えてやらされてはそんな理不尽な暴力に晒されているのだから。

 ここに戻ればそういう奴僕(ぬぼく)としての扱いを受け続ける事になると、彼も当に悟っている筈なのだ。

 だからこそ如何な幼い頭でもそうなるだろう事は容易く予想が付いた筈の少年に、しかしそれでも戻って来た理由を問い質す術は“彼”には無かった。

 彼らは互いに喋る事が出来ないのだ。

 “彼”はかつて受けた喉元の傷の後遺症から。そして少年は、“彼”のような目立った怪我が無い事から、恐らくはこの世に生を受けた時から。

 共に声を出し、言葉を紡ぐ能力を殆ど失っているのだ。

 そういう偶然の共通点も、また“彼”が少年に寄せる情の沸き所だった。

 と、そこで鉄仮面を固定する緒が掛かった“彼”の耳が、地表へ続く階段から響いて来る足音を捉えた。

 ほぼ同じくして、少年の傷を撫でていた手を少年の手に回し、自らと共に“彼”は少年を立ち上がらせる。

 その足音の主が、“主人”の下へ彼らを連れて行くために下りて来た“主人”の使いであると察知したからだ。

 程無くして、錆び付いた鉄格子越しに自分達が身に着けるボロとはまるで設えの違う服を身に着けた使いの者が姿を見せる。

 その手に握られた鍵が固く閉ざされた地下牢の出入り口を開けるその時を、何も感じる事無く唯惰性のままに、少年と“彼”――ゴルタスはその場で待っていた。

 

 

 

 机に広げた巻物――“チーシャン”の今週分の収入、近況報告等を纏めた報告書に最後の一文を書き終えて羽ペンを置くや、ドッと疲れがジャミルの双肩に圧し掛かって来た。

 ともすれば、周りにいる従者達の存在も忘れて椅子の背もたれにだらしなく投げ出した身を任せていたかもしれない重たい疲労を、どうにか耐えてフゥ、という溜息一つで済ませたのは高貴なる者(シャリーフ)としてそんな見っとも無い姿を下々の者に見せられないという彼のプライドがあったからだ。

 といっても、それで誰も目も気にせず一服したいという欲求まで消えるわけでも無く、すぐに彼は書斎から人払いをし、誰もいなくなったのを見計らって、今度こそ深い溜息と共に背もたれにドッカリと身を落とした。

 勢いのあまり、一枚一枚を職人に天然石から削り出させた高級タイルが敷き詰められた床と、遠き東の“煌帝国”から各種コネを使って仕入れた高級木(チャンチン)材で作らせたイスが擦れて悲鳴染みた軋みを上げるが、しかしジャミルの耳には届かない。

 一仕事を終えた後の彼には、いつもそんな事に耳を傾ける余裕は無い。決まってその心境は下民が感じるような達成感ではなく、渦巻く鬱屈とした感情に満たされているからだ。

 人がいうところの屈辱が、その感情の正体であった。

 彼は不満なのだ。

 今の一オアシス都市の領主という地位も。それに付随する各種業務も。

 その地位を自分に任せ、その仕事を自分に与えた、国王という“自分より上の、自分を見下せる立場にある人間”にヘコヘコ従い、満足せねばならぬという、その一点において。

 何故ならば、彼は“王”になるべき男なのだ。

 人には()()がある。“使う者”と“使われる者”が。

 そして“王”とは“使う者”の最大級。その“王”となるべき自分を“使う”存在がいるという現状は、ジャミルにとっては忌々しい事この上無いのだ。

 だが、そんな屈辱塗れの“領主”の日々ももう少しで終わりを告げる事となる。

 この現状を打破し、いよいよ“王”となる日が間近に迫って来ている。

 そう知った――教えてくれたのだ。

 彼に“使う者”――“王”としての素質がある事を伝え、そのために必要な事を教えてくれた“先生”の、その使いを名乗る者達が。

 椅子からジャミルは立ち上がる。

 視点の上がった視界に映る、自らの書斎の内装――中央に敷かれた綿密な模様の絨毯を中心に、左側に夜景を一望できる開けっ広げの窓、右と背後に書き溜めた巻物を含む書物類を収めた書棚、前方奥と後方左に出入り口が設けられている。

 その内、右側の書棚の隣に立て掛けられている“それ”の方へ、ジャミルの足が進む。

 小包であった。

 一切を覆い尽くす汚れ一つ無い純白の布と、それを留める一本の細い黒帯によって鎧われた細長い小包は、中身の正体を見極めるために一度封を解いた時と、たまに被った埃を払う時以外は、ずっとその状態でそこに置かれている。

 その横に鞘に仕舞われて立て掛けられた愛用のサーベルとそう変わらない大きさのそれを見下ろすジャミルの顔は、先程までのウンザリしたような表情から一転、期待に裏打ちされた喜色に満ちていた。

 いよいよ“王”となる日が近づいている事を告げた“先生”の使いの者達から、そのために必要な“ある試練”に役立つようにその小包が手渡された二か月前の記憶が、その脳裏に再生されていた。

 あの時は驚いたものだ。

 丁度今のように与えられた政務を終えて淀んだ気分に浸っていたところに、突然書斎のど真ん中に杖を片手に携えた二人の黒緑色のローブ姿が現れたのだ。彼らの片方の制止と、その後に告げられた“先生”からの言伝が無ければ、賊かと慌てて掴んだサーベルでそのまま切り捨てていたところだ。

 だが、お陰で“その時”に備えてタップリと準備する事が出来た。

 

『お久しゅうございます。そしておめでとうございます、坊ちゃん。10年前に申した通り、いよいよ貴方が“王”となる日が近づいて参りました。つきましては、そのために必要な最後の下準備を貴方は行わなければいけません』

 

 使者の口越しに聞く十年来の“先生”の言葉。

 もはやそれだけで湧き出してくる感激に珠のような笑みを浮かべたジャミルに続けて告げられた“下準備”の内容は、要約すれば今以上に、可能な限り、山のように奴隷を集める事だった。

 それを別段不思議には感じなかった。

 ジャミルにとっての、そして彼の中での“王”にとっての“力”とは“使われる者”――その最たる奴隷なのだ。

 だからこそ――使者越しの“先生”の助言もあっての事だが――この二ヶ月間、手段を選ばずあらゆる方法で奴隷を集めてきた。

 薄汚さではどっこいどっこいの貧民街(スラム)の連中を、部下やその時点での手持ちの奴隷達を使って、何日か掛けて一人残らず攫ったのも然り。

 街中をうろつく姿が散見される程に奴隷商人を呼び寄せ、今までの買って来た数の倍以上の奴隷を買い漁ってきたのもの然り。

 その過程で足りなくなってきた奴隷の(保管場所)や奴隷そのものの購入資金を賄うために、街の収入の一部をチョロまかしてきたのも然り。

 そして、どこからか湧き出て来た邪魔者(アサシン)を捕獲し、自分の奴隷()に加えようとしたのも、また然り。

 最も、最後の“アサシン”の捕獲は依頼したファティマーが手下共々殺された事で失敗。

 加えて、名声が業界内に響き渡っていた彼が死んだせいで他の奴隷商も街のどこかに巣食う暗殺者の存在を恐れ、今日一日だけでも、元々屋敷に来るように呼び掛けていた者の3,4割から商談のキャンセルを言い渡された始末だ。明日には、恐らく5,6割、いや7割には増えるか。

 そういう訳で、今後“チーシャン”に奴隷商を呼び寄せる事はほぼ不可能であり、そうなるとこちらから奴隷商の下なり奴隷競売なりに出向かなければ奴隷に手に入らないといっていい。

 だが、そうすると使いの者を送るか、彼自身が出向かわなければならない。そして、戻って来た時には当然何匹もの奴隷を引き攣れて来る。

 それが何度も続けば、今まで騙くらかしてきた国王の目も流石に欺けなくなってくる。疑われて査察でも入ろうものなら、不満でこそあれど何かと都合が良い領主の地位を、ここまで集めてきた奴隷を含めた財産諸共剥奪されかねない。せっかくここまでやってきた下準備の意味が無くなる。

 “先生”の使者から告げられた、“王”となるための試練――“迷宮(ダンジョン)攻略”の、その下準備の意味が。

 そんな迷惑極まりない置き土産を残してくれたファティマーは、本当にクズという他無かった。大人の“ファナリス”を捕獲して伝説だかなんだかを築いたその手腕を期待して、誰にも話してこなかったこの偉大なる目的を教え、高い報酬も用意してやっていたというのに。

 

『所詮一介の奴隷商かよ! おべっかと奴隷の躾方だけが一丁前の下民め! いや、与えた責務を熟せないどころか、まんまと手下共と一緒に狂犬(アサシン)に噛み殺されて、他の商人の足まで遠退かせてこの僕に不利益を生じさせたあのオカマは、いっその事自分が奴隷()になっていれば良かったんだ! 駄犬め! ゴミクズめ!!』

 

 唾を吐くどころか、滅多刺しにして汚物を塗りたくるかのようなその侮辱の数々は、今朝方奴隷商達の商談キャンセルを部下から告げられるなり、憤慨のままにその部下を蹴り飛ばしたジャミルが放った言葉だ。

 今にして思えば、アレは無かった。

 “王”となる運命にある高貴なる者(シャリーフ)に、赤い布を見た暴れ牛のようなあの怒り狂い様はあまりにも相応しくない。

 目の前の小包を前に、今朝の自分の醜態をそうジャミルは自省する。死者への敬意などとは無縁な男だが、しかし“王”として選ばれるための努力は決して怠らない男でもあったが故に。

 そう、“王”とは選ばれる者なのだ。――“先生”がそう言っていた。

 十年前の、彼の下を去る時も。

 そして二か月前の、例の使者達の口を通した時も。

 

『この下準備をしっかりと積み、いよいよ貴方の前に訪れるであろう“彼”の導きのままに迷宮(ダンジョン)を攻略して貴方の“力”を示すことが出来れば、“彼”も貴方の素質が“王”に相応しいものであると認め、貴方を“王”にする事でしょう。“王”を導きし者――』

 

「偉大なる創世の魔法使い――“マギ”が」

 

 記憶の中に残る使者越しの“先生”からの言葉を、自らの口に出して半濁するジャミル。

 その目で見下ろす小包――迷宮攻略(“王”になるための試練)のために“先生”が用意してくれた彼の新たな“力”と、それを渡す際に使者達が掛けてくれた鼓舞の言葉が、彼の笑みをより強くさせる。

 

「『八芒星(アル・サーメン)計画書(アジェンタ)のままに』、か」

 

 ――差し詰め、僕が“王様”となる事は、その計画書(アジェンタ)とやらに記された決定事項も同然、ということか。

 実に縁起が良い、とジャミルはほくそ笑む。

 確かにファティマーが死んだのを機に奴隷が手に入らないも同然の状態となってしまった。しかし保管場所としていくつもの別荘が必要になる程には奴隷を仕入れる事が出来たのも確かではあるし、それでも足りないのであれば、最悪一般街の市民や、他所から訪れた旅人や冒険者を奴隷にしてしまえば良い。

 どうせ貧民ばかりとはいえ市民の奴隷化は既に一度経験した事だし、一般街の連中も、それどころか貴族外の連中も、自分から見れば同じ下民に過ぎない。自分が“王”となるそのためならば、いくらでも奴隷に出来る。

 ――そうさ。任されているだけとはいえ、僕は“チーシャン”の領主。実質この街の全てが僕の物。全てを奴隷に変えてしまえばいい。僕の“力”に。

 

「“王様”となるこの僕の、“力”に」

 

 故に、実質ジャミルがすべき事は唯待つだけだ。

 彼の“力”を認め、“王”へと導いてくれる創世の魔法使い(マギ)を。

 恐らくは既に“チーシャン”のどこかにいるであろう“王”を導きし者が、自らの前に現れるのを。

 日が近づく誕生日の祝いの品を貰う事を、只管に夢見て待ちわびる子供のように無邪気な期待を胸に。

 黒帯に八芒星の紋章が描かれた“先生”からの贈り物を前に、満面の笑みを浮かべてじっくりと待つだけであった。

 

 

 

 だが、その笑みは程無くして凍結する事と相成る。

 

「騒がないで下さい」

 

 高いながらも静かな声色と共に、首下へ伸ばされた鋭い刃の切っ先によって。

 

「貴方に一つだけ訊きたいことがある」

 

 そう遠くない内に訪れる筈の栄光への期待感に酔い痴れるあまり、すっかり忘却してしまっていた、“王”への道を阻む邪魔者によって。

 

「その小包は何ですか?」

 

 知らぬ間に背後まで忍び寄っていた事に対する、驚きによって。

 

「何故、貴方の下にこんな物があるんですか? 貴方は“奴ら”と関係があるというのですか?」

 

 後ろ手に回されて関節が決められた右腕と首筋に突き付けられた隠し短剣によって、目の前の愛剣を掴むことすらままならなくなった事によって。

 

「答えて下さい。貴方と“奴ら”の――“テンプル騎士団”との関係を」

 

 完全に無力化され、大人しく従う事しか出来なくなってしまったところに背後の“アサシン”から投げ掛けられた、およそ意味の分からない質問によって。

 “王”となるべき自分が、奴隷以下の狂犬に自由を奪われているという事に屈辱を感じる間も無く、ジャミルの思考はその表情同様に凍り付いてしまっていた。

 




いやはや、やっと出来た第八夜。またも四週間もお待たせしてしまいまして、申し訳ございません。

今回出てきたアクティア王国の都市“アッカ”はアサクリプレイしたことのある皆様はご存じの通り、実在のシリアの都市アッカをそのまま持ってきております。
以前、自分の考えたオリ都市名とかヘタに書くよりは実名の都市とか出した方が良いんじゃね、という理屈でシリアを出した(結局消しましたが)事もありましたが、要はアレと同じ理由ですね。
大体、マシャフからして実在するしね。

あ、あとモルさんの初めての人殺しについてなんですが、実際原作の方でもアリババ殺せと領主様に命令されて(結局逆らえなかったけど)戸惑うような描写があったり、採掘砦の盗賊共明確に殺ってるような描写も特に無かったりしますんで。相手が化物だとか“例の連中”の関係者とかでも無い限り、マジの人殺しは流石に来るものがあるんじゃないかと勝手に想像し、今回の描写に至りました。

さてさて、絶体絶命の領主様。次回は果たしてどうなることやら? 乞うご期待。

それでは。感想・ご指摘お待ちしております。
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