バルカンの魔王、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
この現存する最古の神殺したる暴君には個人的な借りがある。己の最愛の義妹に手を出そうとしただけに飽きたらず、よりにもよってこの
そして、今その絶好のチャンスが目の前にある。ヴォバンは
故に、滅殺することに何の躊躇いも必要ないのだが……。
「草薙君、結果は残念だったが、君の行動を無駄にはしない」
草薙護堂、何の覚悟もない子供だと思っていたが、やはり、それだけではなかったらしい。万里谷祐理の危機に自身の将来を決定付けかねないにも関わらず、躊躇いなく動けるとは……。どうやら、この少年を少し見縊っていたようだ。
故に――!
「東海の神 名は阿明 西海の神 名は祝良 南海の神 名は巨乗 北海の神 名は禺強
四海の大神 百鬼を避け 凶災を蕩う 急々如律令!」
古くは賀茂忠行が使ったという百鬼夜行を避ける術。
本来、霊障等を避ける為のものだが、術式を多少アレンジしてカンピオーネの莫大な呪力を注いでやれば、対象に悪意を持つ者や災いを寄せつけない強力な結界となる。ヴォバン本人ならともかく、『狼』程度なら十分凌げるだろう。蘇生まで邪魔が入らないように、せめてもの配慮である。
同胞たる少年が蘇生あるいはそれに類する権能を持っているということは、アテナの時の復活劇を冬馬から聞いて知っていた。だからこそ、安心して見殺しにできたのだが……。
「ふん、随分お優しいことだな」
「彼には、柄にもなく説教してしまったのでね。先達として、大人として、せめてもの手向けさ」
「見殺しにしておいて、よく言うものだな」
いつからか知らないが、私が見ていたことに気づいていたらしい。つくづく勘のいい男である。
だが、その言い様は無意味である。私は必要だと思ったからそうしただけなのだから、何の後悔もない。それに、あれは私が要請した戦いではなく、あくまで草薙君個人の私闘だ。もちろん、友人を守らんとする彼の心意気は買うし、今回は目的も重なるところがあるから共闘という選択肢も排除はしない。
ただ、現段階では横槍して共闘するより、見に徹するメリットの方が大きかったというだけの話だ。
「生憎と彼の命より、あんたを殺すことの方が重要なのでね。悪いが、見に徹させてもらった」
「ものは言い様よな。……それで、望むものは見れたか?」
「いや、生憎と全く。知っていることの焼き増しで、殆ど参考にならなかったな」
「ふん、よく言うわ。貴様の見たかったものは私だけではあるまいに」
吐き捨てるように言うヴォバンに対し、私は肯定も否定もせず、不敵に笑って見せた。
ヴォバンの言っていることは間違っていない。そう、私が見たかったのはヴォバンだけではない。それだけでは片手落ちであり、むしろ、本命は八人目の王草薙護堂についての情報収集だ。冬馬からそれなりに話は聞いているものの、彼の権能をはじめとした戦闘方法の詳細はまだまだ分かっていない部分が多い。それに百聞は一見に如かずというように、他人からの又聞きより自身の目で確かめた方が得るものは遥かに多いのだから。
そういう意味では、かなりの収穫だった。草薙君の権能がウルスラグナの十の化身であることは確信できた上に、その性質や現れ方も大体把握できた。さらに使用制限があることも明らかになったことを考えれば、本当に大収穫である。草薙君には悪いが、私は未だに彼に対する警戒を微塵も緩めていないのだから。
「……あの剣馬鹿の横槍のせいで、四年前につけられなかった決着を、今こそつけよう!」
私は挑発すように言うと同時に、身内で精錬していた炎を躊躇いなく解き放ったのだった。
「ぬう、小癪な!」
ヴォバンの精神の昂りに呼び込まれた嵐、その風雨を吹き飛ばしてヴォバンの眼前を神殺の炎が吹き荒れる。自らの直感にかけて飛び退いていなければ、間違いなく巻き込まれていただろう。まつろわぬ神をも容易に殺し得る『神殺』の特性をもった業火。それは当然、カンピオーネたる自分をも殺しうるだろうことを、ヴォバンは本能的に悟っていた。権能の詳細を知っているわけでもないのに、その本質を容易に看破するその様は、流石最古の魔王と言えるだろう。
だが一方で、ヴォバンはこれが牽制でしかないことも理解していた。
「口上の最中に攻撃を仕掛けてくるとは、つくづく礼儀を知らぬ男よな」
『人の国に断りもなしに土足で入り込み、守るべき民に手を出した輩が何を言うか!』
ヴォバンの嘲りに応じたのは、荒れ狂う炎を突き破って現れた白銀の巨狼であった。その爪牙がヴォバンへと明確な殺意をもって振るわれる。
「芸の無い男だ!」
思えば狂宴の際の初撃も巨狼に変身しての攻撃であった。先の炎は牽制であり、目眩ましが目的であったのだから、そういう意味では間違っていないかもしれない。
しかし、芸が無いとは言っても、その脅威は本物である。神速を捉えることも可能な速度で動くフェンリルの攻撃である。常人ならば、見ることはおろか察知することもできずに死んでいるだろうそれを、ヴォバンは人の身のまま避けてみせる。吹き荒ぶ風にその痩身を中空に運ばせたのだ。魔女どころか、魔術師ですらない身で、彼は空を飛ぶということをやってのけたのだった。
『芸が無いか……では、これならどうだ?』
攻撃を避けられたことに何の痛痒も感じていないかのように白銀の巨狼は次の攻撃に移る。
権能の掌握が進んだことで、フェンリルに変身したまま術の行使が可能となった徹は、素早くヴォバンと自身を囲むように結界を張る。結界の効果は音を結界内に封じ込め周囲に漏らさないこと。
―――ウオオオオオォォォォーーーーーン!
そうして、大きく息を吸い込んだ白銀の巨狼から渾身の咆哮が放たれる。
三十メートルを超す魔狼の咆哮。結界を張らねばかなりの広範囲に響き、範囲内の人々の心を砕き恐慌状態に陥らせるという結構洒落にならない事態を引き起こしていたであろうそれを、僅か十メートルにも満たない結界に封じ込め、ヴォバンに集中させる。それもカンピオーネの莫大な呪力を込めてだ。
「ぐぬう、風よ!」
だが、敵も然る者。風伯・雨師・雷侯から簒奪せし、嵐を呼び風雨雷霆を操る権能をもってヴォバンは対抗してみせた。鼓膜を破るどころか、全身を物理的に叩き肉体内部まで振動による破壊をもたらしていたであろう魔狼の咆哮による音撃を、吹き荒ぶ風で防壁を作り相殺する。
無論、咆哮による音撃は予想外で、完全に不意をつかれたものであったので、完全な相殺はならなかったが、それでも八割方シャットダウンさせた。
とはいえ、被害は甚大だ。鼓膜こそ破れなかったが、全身はくまなく叩かれ少なからぬダメージがある。常人なら尋常ではない激痛で立っていることすらできないであろう負傷を負いながら、ヴォバンはそれでも尚不敵な笑みを崩さない。
いや、むしろその笑みを深めた。最早それは単なる笑みではない。獰猛なる狂笑だった。
「そうだ、そうでなくてはな!」
ヴォバンは返礼だと言わんばかりに、雷槍を連続して放つ。天から落とされる雷神の鉄槌は、ヴォバンの怒りを現したかのように荒々しい。
『火雷大神に伏して言上仕る!大雷神、火雷神、黒雷神、咲雷神、若雷神、土雷神、鳴雷神、伏雷神、願わくばこの身に御身らの加護を授け給え!』
死して黄泉へと堕ちた伊邪那美命より生じたと言われる八柱の雷神に祈り、徹は一時的に避雷の加護を得る。本来なら、精々自然現象の雷除けぐらいにしかならないが、それがカンピオーネの莫大な呪力をもって唱えられるとあれば話は別である。まして火雷大神は、徹が殺めた迦具土とも浅からぬ縁があるのだから。
結果、雷槍は白銀の巨狼から尽く逸れた。
「今度は避雷の術だと……そうか、貴様の本質は術士か!王となる前より魔術師であったのだな」
狂宴の時のように呑み込まれることを予想し、そこを衝くための風弾を用意していたヴォバンは、予想を覆されて目を瞠る――が、一方で早くも徹の本質を見抜いていた。
『流石の慧眼だが――死ね!』
無論、そんなことは徹の知ったことではない。白銀の巨狼の爪牙がヴォバンを引き裂かんと迫る。
「ッ!」
攻撃用の風弾はまだ練りきれていない。強襲する白銀の巨狼を弾き飛ばすには、些か以上に威力が足りないのをヴォバンは悟っていた。そも、雷槍の雨で徹を釘付けにして、その動きを止めたところを狙うつもりで用意していたものであるのだから当然だ。
故、ヴォバンが選んだ回避方法は、過激なものにならざるをえなかった。
風弾で自らを吹き飛ばすことで、ヴォバンは白銀の巨狼の顎から逃れたのだ。フェンリルの巨体を弾き飛ばすには威力不足だが、人体を吹き飛ばす程度なら、十分以上の威力を風弾は持っていたのだ。
そして、避けるだけで終わるほど、ヴォバンは甘い敵手ではない。
吹き飛ばされながらも、白銀の巨狼から外されなかった
『無駄だ!――グッ!?』
いかに権能とはいえ、カンピオーネは外部からの呪的干渉に滅法強い。フェンリルと変身している状態ならば、尚更だ。フェンリルの動きを封じたいのならば、
と、思っていた徹だったが、否応無く動きを止めざるをえなくなった。自身の呪的防御が破られたのを感じ取ったからだ。
「確かに我ら『王』には並大抵の魔術は効かん。特に邪視や魅了の類は神々の権能であっても、殆ど効果は及ぼさぬ。
だが、何事にも例外というものはあるのだ!」
ヴォバンのやったことは至極単純なことだ。他の権能の使用をやめ、『ソドムの瞳』のみに注力し、可能な限りの呪力を込めただけだ。その結果、『まつろわぬ神』にも比肩する莫大な呪力を込められた邪眼は、徹の呪的防御を上回ったというだけの話である。
『我は主神すら呑み込みし、神秘を喰らう大神。死と恐怖の象徴にして、神々の災いの具現。我こそが
それを敏感に感じ取った徹は、すぐにフェンリルの言霊を唱え、自身の呪力を高める。塩になりかけた手足が再び血の通う肉へと戻っていく。
しかし、ヴォバンも負けていない。完全に動きを止めたその機を逃さず、ヴォバンは手を振り下ろし、渾身の雷を繰り出す。魔王全力の豪雷。それは本家本元の雷神の全力に匹敵しよう。
ゴゴゴッ―――ゴオオオォォォーーーン!!!!
避雷の術の護りを破り、今こそ紫電を伴った雷神の鉄槌が白銀の巨狼を襲う。それは如何に強靭で頑丈極まりないカンピオーネであっても死を免れることはできない致命の一撃だ。
だが、ヴォバンが『王』ならば、徹もまた『王』であった。
白銀の巨狼は、これでもかと口を開くと豪雷を呑み込んだのだ。それはヴォバンに致命的な隙を晒すことに他ならなかったが、『ソドムの瞳』に対する抵抗に注力していた徹にヴォバン渾身の豪雷を凌ぐ方法はこれ以外存在しなかった。故にそうせざるをえなかったのだった。
案の定、動きを完全に止めた白銀の巨狼の巨躯に、『貪る群狼』によって呼び出された灰色の『狼』達が喰らいつく。本来、フェンリルの肉体であれば、容易く薙ぎ払える相手でしか無いが、豪雷の対処で呑み込む以外の行動をとれない徹に『狼』達を防ぐことはできなかった。程なくして豪雷を全て呑み込んだものの、その頃には無数の灰色狼が巨躯に群がって喰らいつき、白銀の巨狼の動きを一時的に完全に封じていた。
「貴様との因縁、ここでけりをつけてくれよう!」
ヴォバンの頭上、遥か天空にいつの間にか巨大な焔が現れる。ヴォバンの呼んだ嵐すら消し飛ばして燃え盛る焔。これこそは『劫火の断罪者』の異名を持つ、地獄の業火で周囲を焦土と化すヴォバンの権能である。その威力は絶大で、神すら灼き殺し、最低でも都市一つ覆い尽くすまで燃え広がる上に最高で7日7晩燃え続けるという凶悪無比な代物だ。
『貴様、正気か!?そんなものをここで放てばどうなるか!』
それを見た瞬間、徹はその本質を悟る。あの焔は自分はおろか東京を灰燼と帰すに足る地獄の炎だと。迦具土をはじめ、炎と関わりの深い権能を複数持つ故に理解できてしまったのだ。
「知った事か!貴様の嘯く護国、それが本物であるというならその身をもって、今ここで証明してみせよ!」
そうして、天上から焔が落とされる。全てを焼き尽くす地獄の炎が。
『させるものか!』
徹は迦具土の権能を行使して、全身に群がる灰色狼を焼き払うと大地を蹴り、落ちる焔へと跳びかかった。
(巨大すぎる!人の身では、規模が違いすぎて『神滅』でも相殺しきれん。となれば、フェンリルの肉体をもって『神滅』を行使するしか無い。ぶっつけ本番の初めての試みだが、この地を火の海にさせるものか!)
正直な話、徹が生き残るだけなら直撃を受けたとしても問題はない。彼は炎に滅法強いから、素で生存できる可能性すらあるからだ。また、仮にあの焔の持つ『裁き』の特性によって、迦具土の権能に付随する炎に対する絶対的耐性無効化されたとしても、焼死である以上、パールバティーの権能によって新生できるのだから。
故に、ここで実質的に無駄撃させるのが、戦術上では正しいだろう。が、徹にそれを選ぶことはできなかった。
なぜなら、徹は前世と今世、共通の故国である日本を心から愛していたからだ。
故国が火の海になるのを見たくなかったし、『護国』は養親から託され、自身も賛同した理念でもある。
そして何よりも、『護国』はカンピオーネである自身に課した枷であり、『王』としての信念である。それを自ら破ることなど、彼には断じて許容できなかったのだ。
『迦具土滅びて、
『神滅』の焔は、本来迦具土の権能のみに注力し、自身の肉体を薪にすることで『神殺』の特性を『神滅』へと昇華させるものである。それをフェンリルの権能を行使した状態で使おうというのだから、当然の如く凄まじい負担が徹を襲った。危惧した通り、それは凄まじいまでの頭痛と神経を焼き尽くすような内部からの熱となって現れた。それでも一言一句違えず、言霊を唱えきったその精神力は賞賛に値しよう。
そして、その甲斐はあった。
白銀の巨狼は肉体内部から生じた炎にあっという間に包まれ、それは爆発的に広がり、天から墜ちる焔を呑み込むようにぶつかった。『神滅』と『裁き』の焔は互いを喰い合うように消えていき、再び星空が姿を表すのにそう時間はかからなかった。
地上に何の被害もなかったが、一方で徹の姿もどこにも見受けられなかった。
「自爆してまで防ぐとはな……」
ヴォバンは拍子抜けしたようにどこかつまらなげに呟き、念を押す家のように周囲を見回すが、白銀の巨狼どころか、人っ子一人見受けられなかった。
ヴォバンから見ても、あれは完全な命と引き替えにした自爆であった。その証拠に、カンピオーネの超感覚をもってしても、呪力の欠片も感じとれないし、自身の従僕に加わらなかったのは、あれが間違いなく自爆であったからこそだろう。それでも死体が残っていれば、まだ蘇生や復活を疑ったろうが、あれでは死体すら残らないであろうことをヴォバンは悟っていた。
つまり、本当に六人目の神殺し神無徹は死んだのだと、ヴォバンは結論づけた。
「なるほど、認めてやろう。酔狂極まりないが、確かに貴様の『護国』の意思は本物であったとな。
――貴様に免じて、今宵は退いてやろう。もっとも、明日以降は知ったことではないがな」
ヴォバンは酔狂な『王』もいたものだと思いながらも賞賛し、その覚悟に免じて今日は退いてやることにする。最大の障害であるあの男が死んだ以上、最早巫女は己が手から逃げられないのだから。ならば今宵ぐらいは見逃してやってもよかろうと。
それは彼なりの敵手への最大限の賞賛であり、褒章でもあった。
「巫女よ、今宵は自由を謳歌するがいい」
ヴォバンはそう呟いて踵を返し、七雄神社を後にするのだった。