あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない 作:powder snow
「見てくるから、ちょっと待ってて」
そう言って桐乃が部屋を出たのがおよそ五分前。
――一体誰が尋ねて来たんだろう?
一瞬お袋が帰って来たのかとも思ったが、身内なら態々インターホンを鳴らすわけがない。つーことは、まったくの他人か、または高坂家の知人が尋ねて来たことになるが、配達や勧誘の類なら応対した桐乃が戻ってくるのが遅すぎる。
なら、ここで問題になってくるのは、果たして“誰”の知り合いが尋ねて来たかということだ。親父やお袋の知人だとしたら、やはり対応に時間がかかりすぎてるように思う。
だったら俺か桐乃の知り合いか?
桐乃の友達だとすればあやせか加奈子辺りが頭に浮かぶが、俺だったとしたら……やはり麻奈実だろう。
幼馴染の麻奈実なら、学校を休んだ俺の様子を見に来るとか十分過ぎるほどにありそうだしな。と、そこまで考えを纏めた瞬間、脳裏に真っ赤な危険信号がけたたましく鳴り響いた。
「……やべえ」
もし尋ねて来たのが麻奈実ならば、今頃玄関で桐乃と鉢合わせてるはずである。
それってさ、まずくね? っていうか、実際に超マズイだろっ!
何故か桐乃は麻奈実の奴をすっげー敵視してる(以前麻奈実が尋ねて来た時なんか、親の仇でも見るような目で睨んでた)し、その場に居合わせた俺は、マジで亜空間に迷い込んだのかと思ったくらい居心地が悪かった。
麻奈実はいつも通りふにゃっとしてたが、とにかく桐乃の態度が最悪だったのだ。
「こりゃおちおち寝てなんていらんねーぞ……!」
がばっと布団を剥ぎ取り、そのままの勢いでベッドから飛び降りる。
桐乃が麻奈実を追い返すくらいならまだいい。後で俺があいつに謝れば済む話だからな。だけど口論の末に喧嘩なんてことに発展しやがったら……。
――うわああああああああああああっっっ!!!
思わず両手で頭を抱えちまった。
年齢的には麻奈実の方が上だが、あいつが桐乃に喧嘩で勝つ姿なんてまったく想像できねぇ! リアルサスペンスドラマじゃねーんだし、撲殺された幼馴染の姿なんて見たくねーぞ俺は!
……まあ、冷静に考えりゃ、あやせの奴なら兎も角、桐乃に限ってそこまでの事態に発展するとは思わねーが……風邪を引いてる所為かどうにも嫌な想像ばかり頭を過ぎりやがる。
ともかく事態を確認する上でも一刻も早く現場に辿り着かなければッ!
そう思って部屋の扉へと腕を伸ばしかけた瞬間、まるで自動ドアのようにすうっと目の前で扉が開いていった。
「……何してんの、アンタ?」
「へ?」
「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃん。風邪引いてんだからさ」
開いた扉の先、目の前の空間に立っていたのは妹の桐乃だった。
だけどちょっとばかし様子がおかしい。
具体的にドコとは言えねーんだが、なんつーか声のトーンが少し下がってる気がする。嫌なことがあったってよりは、間が悪いというかバツが悪いって感じで……。
「ほら、さっさと戻るっ」
ぴっとベッドを指差しながら俺を促す桐乃。んで、そのまま俺を押し退けながら部屋に入ると、そのままドア際に立ち尽くす。それから背後を振り返るや「どうぞ」と小さな声で呟いた。
「よう! 高坂。お前が風邪引くなんて珍しいじゃねーか。ナントカは風邪引かないっつうけどよ、やっぱありゃ迷信だったんだな」
「……な、何で、お前……が?」
「あん? なんでって見舞いに来たに決まってんだろーが」
部屋に押し入りながら威勢の良くのたまったのは――なんと、俺の級友である赤城浩平だったのだ。
あー、今なんつったコイツ? 聞き違いじゃなけりゃ見舞いって言ったのか?
赤城の発した言葉の意味を理解するにつれ、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。だってよ、仮にコイツが風邪を引いて学校を休んだとしよう。でだ。俺が赤城の見舞いに行くかっつうと絶対に行かねえと断言できる。
それはコイツもまったく“同じ”はずなのだ。
なのに態々家まで見舞いに来ただと?
まったくもって意味が分からん……っていうより、正直気持ち悪い。
「――フッ。高坂。その顔は驚いてやがるな。だがな、サプライズはこれだけじゃねえんだぜ」
ニヒルを気取りながら赤城が振り返る。その行為を受けて、ヤツの背後から第二の闖入者がひょっこりと顔を現した。
「えへへ。こんにちは高坂先輩。どうやら思ったより元気そうですねえ」
「げっ!?」
笑顔で挨拶をしてくる赤毛の少女。
身長は女の子にしては高いほうか。スリムな体型ながら胸は大きめで、とても活発な印象を受ける。トレードマークは眼鏡と大きな胸。委員長然とした佇まいから真面目な娘を想像させるが……それは明らかなフェイクだ。
本性は超の付くド変態。……いや、変態という言葉すら生ぬるい。こいつは一般人が足を踏み入れると即死するという腐界の住人。
そう。
第二の闖入者とは――赤城浩平の妹である赤城瀬菜だったのだ。
「おまえ……」
まったく予期していなかった来訪者に言葉が出てこない。思考が追いついてこないのも風邪の所為だけじゃないだろう。
つーか、何だこの状況?
赤城兄妹が揃って俺の見舞いだと?
訳が分からん。
だがこれで桐乃のテンションが下がってた理由は理解できた。兄貴の方とは面識があったと思うが瀬菜とは初対面のはずである。だから、まだうまく距離感が掴めてねえんだろう。
人見知りはしねえ奴だけど、なんつっても相手は年上にあたるしな。だが俺は、更なる来訪者がいるだろうとは全く想定していなかった為、次の瀬菜の言葉に度肝を抜かれることになった。
「ふっふっふ。高坂先輩、実はお見舞いに来たの私達だけじゃないんですよ?」
「なん……だって?」
「喜んでください。真打の登場です!」
じゃじゃーん! そう言って瀬菜が後ろの人物へと呼びかけた。
お待たせしました、五更さんと。
「お邪魔……するわ」
「く、黒猫っ!?」
現れたのは制服姿の黒猫。
彼女は鞄を胸の前で大事そうに抱え、何処か遠慮がちに室内へと入ってきた。
こうして形成される異空間。
現在この部屋の中には合計五名もの人間が犇いている。あんま広い部屋じゃねーんでそれなりに窮屈だが、このまま黙っていても話は始まらない。
ざわついた心を落ち着かせる意味も込めて、一応各々の立ち位置を確認しておくとしよう。
まず俺はベッドに横になりながら、布団を膝掛けにしつつ半身を起こしている。本来なら病人である俺は寝てなきゃ駄目なんだろうが、体調はかなり良くなってるんで短時間なら問題ない範囲だろう。
そんな俺の目の前で床に胡坐をかいてるのが赤城(兄)だ。部屋に来るのは初めてじゃないからか、えらくリラックスしてやがる。なんつーか、室内を目線で物色する様が手に取るように分かるのだ。
幾ら探しても食い物なんかねーのによ。
その赤城の左隣、俺から見て右側に黒猫がちょこんと座っていた。知っての通り黒猫はこの部屋によく遊びに来る。なのに赤城と違って落ち着き無く見えるのは緊張してるからだろうか。
こいつ、案外人見知りだしな。
で、問題の瀬菜の奴だが、こいつは俺から見て左側(赤城の右隣)に陣取ってニヤニヤしながら部屋を見回していた。
もう一人、可愛い方の妹はといえば(ルックスだけなら一番可愛い)何故か部屋に帰る様子もなくここに居座っていやがった。場所的には瀬菜の後方、やや離れた位置で椅子に腰掛けている。
なんつーか、机に肘を付きながら所在なげに黄昏てんだが……何やってんだ、こいつ?
「へえ。高坂先輩の部屋って思ったより普通なんですね。拍子抜けしたというか、ちょっとガッカリです」
「ガッカリって……お前は俺の部屋に何を求めてんだよ」
最初に声を発したのは赤城瀬菜。
何かを期待していたが、自分勝手に落胆したらしい。
「え? だって思春期真っ盛りの男子高校生の部屋ですよ? 先輩が健全な男子高校生なら“そういう”アイテムの一つや二つ転がってると思うじゃないですか」
「仮に持ってたとしても、普通に転がってるわけねーだろーが」
「じゃあ隠してるんですか? 具体的に言うとBL関連の本とかグッズとか。いわゆる耽美小説とか」
「あるわけねーだろッ! つーかそんなもんが“健全な男子高校生”の部屋に存在するわけねぇ!!」
あってはいけない。決してあってはいけないブツだ。仮にあるとしたら文字通り真逆のブツだろう。しかし、俺の返答を受けた瀬菜は意外そうな顔を晒して
「あれぇ? 高坂先輩ってホモ肯定派でしたよね?」
「お前、脳みそまで腐ってんのなッ!?」
「えっへへ。そんなに褒めないでください」
「褒めてねーよッッ!!」
ったくよぉ。相変わらずコイツは頭わいてんな。
価値があるのは眼鏡とでけーおっぱいくらいのもんだと断言して差し支えない。
「とまあ、冗談はここまでにして。意外と綺麗に整頓されてるんですね。もっと散らかってるのかと思ってましたよ」
「そうか? 普通こんなもんだろ?」
「うーん。私も“普通”がどの程度をさすのか分かりませんけど、想像していたよりずっと綺麗にされてます」
意識したことはねえけど、瀬菜が整頓されてるっつうならそうなんだろう。
何しろ、こいつ自身が綺麗好きっつうかかなりの潔癖症だし。
「なるほど。いつでもお兄ちゃんを連れ込める態勢を整えてるわけですよね!」
「お前はもう窓から飛び降りて帰れっ!」
ちなみにコイツは見ての通りのド変態だが、時と場所、いわゆるTPOは弁えてる。
普段はそういう方面を他人にはひけらかさないし、見せようとはしない。その反動って訳じゃねえんだろうけど、こうして“事情”を知ってる面子の前ではあけっぴろげになるようだ。
その問題児、赤城瀬菜の目がキラリと光った。
どうやら何かを見つけたようである。急ぎ奴の視線の先を追ってみると、本棚の下に置かれている長方形のケース状のものを捉えているようだ。
「これ高坂先輩のですか?」
「あん?」
興味が出たのか、ぐっと伸びをするようにして手を伸ばす瀬菜。そしてそこにあったケースを取り出し俺に見せつける。
何を見つけたのかと思えば、瀬菜が取り出したのは『星くず☆うぃっちメルル』のDVD。
「あは。先輩ってこういうの好きなんですか?」
星くず☆うぃっちメルル。
簡単に説明すると児童向け魔法少女アニメのタイトルなんだが、無論このDVDは俺の持ち物ではない。誰のものかと言うと桐乃の物なんだが、借りたまま返すのを忘れていたらしい。
ちなみに第三期の一巻だ。
なに? 三期ってことは一期と二期は見たのかって?
ああ、見たよ。無理やり桐乃に見せられたからな。
もちろん桐乃はメルルの大ファンであり、公式のイベント毎にもきっちり参加してたりするヘビーユーザーである。
「あー、それ妹のだよ。ほら、そこにいる」
そう言って隅っこで黄昏てる桐乃を指差す。それを受けて瀬菜が驚いた顔をした。
「え? この綺麗な人って高坂先輩の妹さんだったんですか!? 全然似てないですね?」
「うっせえよ! どいつもこいつも妹紹介する度に似たような反応するのやめろよな!」
綺麗な妹に似てないってことは……うん、精神安定の為に考えるのを止めよう。
……ぐすん。
俺が思考の彼方へと現実逃避間してる間に瀬菜は興味が出たのか桐乃の方へと向き直っていた。
「えと、赤城瀬菜です。高坂先輩の後輩で……いつもセクハラされてます」
「おまえ、さらっと嘘吐くんじゃねーよ!」
なんつう自己紹介をしやがるんだコイツは。
俺の清廉で潔癖なイメージが壊れんだろーが。しかし、そのやり取りで緊張が解れたのか、桐乃も瀬菜に合わせて自己紹介を始めた。
「高坂桐乃です。その……ウチのが変態でごめんなさい」
「あははは。もう半分くらいは諦めてますよ。それより桐乃ちゃんって呼んでもいいですか?」
「あ、うん。好きに呼んで。じゃあ、あたしも瀬菜ちゃんって呼んでいい?」
「いいですよー。えへへ。これからよろしくね、桐乃ちゃん」
「こちらこそ。よろしくね、瀬菜ちゃん」
……何なんだろう、この光景は。
こいつ等一瞬で打ち解けてやがるじゃねーか。もしかして相性が良いんだろーか。
一般的な社交的挨拶を交わしただけなのに、どうにも一抹の不安が胸を締め付けて離れてくれない。
何故だか滅茶苦茶悪い予感がしやがるのだ。
――頼む。頼むぞ、瀬菜。
頼むからうちの妹にお前の“趣味”を伝染させるのだけは止めてくれよ? 腐女子化した妹なんて見たくねーぞ俺は。
そんなことを俺が願っているとも知らずに、二人は親交を深めていく。
「ねえ、桐乃ちゃん。桐乃ちゃんってメルルが好きなんですか?」
「もう超っっっ好きっっ!! あれ神アニメだよね!!!」
…………。
………………。
誰に対しても触れてはならない、決して押してはならないスイッチというものがある。
それは地雷だったり、テンションを爆上げするスイッチだったりするんだが――今、瀬菜は、後者である桐乃のテンション爆上げスイッチを押してしまったようだ。
人間誰でも好きなものを語るときは饒舌になるもんだ。それは桐乃だって例外じゃない。というより、スイッチを押された桐乃は簡単には止まらない、止まってくれない。暴走するダンプカーと同義と言っても過言ではないのだ。
予想的中と言うべきか、やはり瀬菜は、桐乃の爆走トークに撒き込まれていく。結果、あれよあれよという間に二人は手の届かない遠いところまで行ってしまった。
ああ、合掌。
と、俺が心の中で手を合わせていたら、まるでタイミングを見計らっていたかのように、俺の目の前に一冊のノートがすっと差し出されていた。
いつの間に鞄を開いていたのか。
黒猫がそこから取り出したノートを俺へ差し出していたのだ。
「先輩。これ、ベルフェ……田村先輩から」
「麻奈実から?」
「ええ。あなたに渡して欲しいと頼まれたのよ」
おずおずと差し出されたノートを黒猫から受け取った。
実はこのノートはデスノートで、ページを開いたら俺の名前が書いてある……なんてことは勿論なく、本当に何処にでもある普通のノートだった。
麻奈実の使ってるノートらしく丁寧に扱われてるのが分かる。パラパラと捲ってみれば本日の授業内容が特別分かりやすく書き写されていて、俺の為に余分に板書してくれたんだろうことに気付けた。
コピーしたら楽なのにって、そういうことを考えない辺り麻奈実らしいつーか。
「自分で渡したらどうなのと突っ撥ねたのだけれど、どうしても外せない用があると託されてしまったのよ」
「そっか」
黒猫の言う通りだとしたら、麻奈実の奴が気を回したのかもしれない。あいつ自身も桐乃に良く思われてないのは気付いてるだろうし、それで黒猫にノートを預けたのだろう。
無駄な衝突、無益な争いとか嫌う奴だし。
最近、特にあいつには世話になりっぱなしだな。今度礼がてら麻奈実に飯でも奢ってやるとするか。ああ見えて食欲旺盛な奴だし、こういう場合は奮発しても罰は当たるまい。
「ま、ありがとよ黒猫。助かったわ」
しかし、黒猫も黒猫で律儀な奴である。わざわざノートを届けるためだけにここまで来るなんてよ。
けどこれで一つ目の疑問が氷解した。
それは何故この場に赤城の野郎がいるのかということ。恐らく麻奈実が黒猫に頼み事をした現場に瀬菜の奴も居合わせたんだろう。
その後、黒猫が誘ったのか、それとも瀬菜が興味本位で付いて来たのかまでは分からねーけど、大事な妹が俺の家に行くことを知った馬鹿兄貴が部活をぶっちぎってまで付いてきたのだけは間違いない。
保護者きどりなんだろうが、この行動原理を見れば妹を溺愛するただのシスコン野郎だと断言できよう。
実際、こいつは妹の為ならなんだってする奴だ。赤城家と高坂家は全く同じ家族構成だが、こいつの心情だけはいつまで経っても理解出来ないね。
「あの……それで、先輩」
「ん?」
ノートを渡してほっとしたのか、黒猫の表情が軟化している。けれど落ち着かない雰囲気はそのままで、ありていに言ってしまうならモジモジしているのだ。
もしかしてトイレでも我慢してんのか?
そう思ったものの、どうやら違ったようだ。
黒猫は辺りに視線を走らせながら言うか言うまいか逡巡している様子だったが、やおら伸びをして中腰になると、俺に身体を寄せて耳元で小さく“ごめんなさい”と囁いたのだ。
「え?」
「その、今日学校を休んだのは……先輩が風邪を引いてしまったのは私の所為なのでしょう?」
「は? 何言ってんだお前?」
「だって……昨日、喫茶店で……その、お水を襟元から流し込んでしまったじゃない。だから先輩は……」
唇をきゅっと結んだまま、頬を真っ赤に染め謝罪する黒猫。目線は右往左往していて、本当に申し訳ないという風に見える。
……そうか。
こいつ俺が風邪引いたのは自分の所為だと思ってやがったのか。だからここに来た時から大人しかったんだな。きっと罪悪感で行動を縛っていたのだろう。
言葉遣いやら服装はアレだが、根は真面目な普通の女の子なのだ黒猫は。
そのことに気付いた途端、何ともいえない思いが込み上げてきて、それがそのまま表情に笑みとなって現れちまっていた。
「……せ、先輩?」
「馬鹿な奴だなあ、お前」
「なっ! た、確かに馬鹿な真似をしたと思っているわ。けれど、あの時は先輩があの女と親しげにしていて、私のことを蔑ろに……」
「違う違う。どうやら俺が風邪引いたの気に病んでるようだけどよ、これは俺が悪いんだ。だから昨日の喫茶店の件とかまったく関係ねえよ」
「……どういうこと?」
「いや、実はな。昨日風呂上りにパンツ一丁でエロゲーやってたんだけど、どうにも熱中しすぎたみたいでよ、長時間その格好のまんまだったんだ」
「ぱ、ぱぱ、パンツ一丁って――ッ!?」
何を想像したのか、黒猫の頬が急激に紅潮していく。
「は、恥を知りなさい。そんな格好でエロゲーなんて……」
「だな。いくらこの季節とはいえ上にシャツくらい着るべきだったと猛省してる。まあよ、だから……なんつーか、お前が気に病むことは何もねーんだよ。実際、全部俺が悪いんだ」
「……それが事実なのなら……確かにあなたの言う通り自業自得だわ」
「おう。こりゃ完全に自業自得だ。だから気にすんな」
黒猫に視線を合わせながらキッパリと断言する。
今日は学校帰りにそのままこちらに寄ったからだろうか。黒猫のやつはいつも付けているカラコンは嵌めていないようだ。だから瞳の色は名前と同じ黒色で、心なしか潤んでいるように見えた。
だから、そのことに気を取られ過ぎていて、次に黒猫が言った台詞を聞き逃すことになる。
声音が小さかったのも影響して。
「……本当に、優しいのね、先輩」
「あ、今なんか言ったか?」
「フフ。知ってた事実と想いを再確認しただけよ。――精々覚悟することね、先輩。これからは今までのように甘い対応ではなくなるのだから」
「あん? いまいち言ってることが理解できねーんだが……」
「私も覚悟を決めたということよ」
そう言って、柔らかい笑みを浮かべる黒猫。
さっきまでとは違いとても良い表情だが――相変わらずこいつの台詞には意味不明な箇所が多々あるな。言い含められたような気もするが……まあ、大したことじゃねえんだろう。
何にせよこれで一件落着だ。
そう思ったのも束の間、今まで黙したままほとんど喋らなかった赤城(兄)が唸るような声でこう呟いた。
「やはり付いてきて正解だったぜ。瀬菜ちゃんを一人にしなくて本当に良かった」
そう言った赤城が手にしていたものは――
「って、それ俺のエロ本じゃねーかあああああああああああああっっっ!!!」
「高坂。お前って相変わらず眼鏡の娘が好きなのな」
「か、返せぇ!!」
奪い取るようにして赤城からブツを回収する。
コイツ――やけに大人しいと思ったらエロ本読んでやがったのか!?
「しかも隠し場所がベッドの下なんてよ。こりゃ見つけてくださいって言ってるようなもんじゃねーか」
「だからって勝手に読んでんじゃねーよ!」
「これくらい普通だろ?」
「TPOだよ、TPO! 時と場所を考えろってんだ! 大体お前俺の見舞いに来たんだろーが。もうちっと謙虚に振舞えや」
二冊目を取り出し読もうとする赤城から、再度エロ本をふんだくる。
もちろん表紙は眼鏡っ娘だ。
「何言ってんだ高坂。俺はお前の魔手から瀬菜ちゃんを守る為に来たんだぜ? 云わばナイト様ってところだ」
「ほう、そりゃご苦労なこった。けど無駄足だったな。俺はお前の妹に興味なんかねーよ」
「こんな表紙のエロ本持ってんのにか? 全員眼鏡かけてんじゃねーか」
「たまたまそういう類の本を手に取っただけだろ?」
懲りずに三冊目に手を伸ばした赤城の腕を叩き落とし、奴の侵攻を阻害する。だが赤城は、手を引っ込めはしたものの、俺が奪い返したエロ本を指差しながら
「けどよぉ高坂。眼鏡っ娘超特集とかいう本を持ってる奴に言われても説得力がねーぞ。なんせ瀬菜ちゃんは“まじりっけなし”の眼鏡っ娘なんだから」
しかも超美人だ。そう付け加える赤城(兄)。
だが、その台詞には聞き捨てならない部分があった。
別に瀬菜が美人じゃないと言ってるわけじゃないぜ。ありゃきっちり可愛い娘に分類できる。
俺が聞き咎めたのはその前の台詞だった。
「赤城。ちょっとそこに正座しろ」
「正座だぁ?」
「そうだ。――なあ赤城。お前は一つ大きな勘違をいしている。眼鏡さえかけてりゃすべからく眼鏡っ娘かというとそうじゃないんだ」
「あん?」
「眼鏡は素晴らしいアイテムだ。ただの視力矯正道具に留まらず、それを見る者にある種の恍惚感さえ与えてくれる神のアイテムだ。確かにお前の言う通り、眼鏡を掛けている子を眼鏡っ娘と表現するのは間違いじゃないんだろう。だけどそれは眼鏡っ娘に対する冒涜だ。侮辱してるに等しい」
「お、おい高坂。お前……どうしたんだ? 言葉遣いがおかしくなってんぞ?」
「どうしただって? 俺は至って正常だ。いいから黙って聞け赤城。俺は今、神の心理を説いているんだぞ」
そう言うや、俺は手にしていたエロ本のページを見開き、どーんと突きつけるように赤城に見せ付けた。
そこには黒髪ロングの娘が恥らいながら眼鏡を掛けている図が光臨なされている。
「いいか? 眼鏡を掛けることによって、その人物は本来自身が持っているイメージを大きく変換することが可能なんだ。例えば知的に。或いはミステリアスに。大仰な眼鏡を掛けることによってドジッ娘を装うことすら可能だろう。それがどういうことを示しているか分かるか? 即ちバリエーションは無限大! 一粒で二度美味しい。その眼鏡っ娘に対して貴様はどう言った?」
「ついに友達を貴様呼ばわりしやがったなッ!?」
「――“まじりっけなしの眼鏡っ娘”――果たしてこれは赤城瀬菜に対する呼称として正しいのか? いや、答えは否だ!」
「分かった! 分かったから落ち着けって高坂! お前風邪引いてんだろ? 無理すんなって」
「この程度の説法、無理の範疇には入らない」
「いいから、一度深呼吸して落ち着けって! お前は今入ってはいけない領域に足を踏み入れてるぞ!」
「……む」
確かに赤城の言う通り今の俺の体調は万全じゃない。それどころかかなり悪い部類に入るだろう。少し興奮したせいか頭がくらくらしてきた気もする。
ううむ。ここは言われた通り一度深呼吸してみるとしよう。
すーはー。すーはー。
……落ち着いた。
仕方ねえな。本当ならこの程度の解説はまだ序盤に過ぎないのだが、今日はこのくらいで許してやることにしよう。本気で眼鏡っ娘について語りだしたら夜が明けちまうしな。
悔しいがこの辺りが潮時ってところか。
そう思ってエロ本を片付け始めると……何故か黒猫が少し俺から距離を取っていた。
???
「どうした、黒猫?」
「…………い、いえ。どうやら私は真剣に眼鏡を掛けることについて検討しなければいけないようね」
「なんで?」
「――気にしないで頂戴。こちらのことよ。それより良いの? あちらを放っておいても」
あちら?
そう思いながら黒猫が指差した方向に視線を移してみる。するとハイテンションな状態で会話を続ける桐乃と瀬菜の姿が飛び込んできた。
別におかしなところはねーと思うが、こりゃまた短時間で随分と仲良くなったものだ。
「……って、ちょっと待てえええええいッッ!!!」
「あれ、高坂先輩。どうしたんですか?」
瀬菜が会話を止めてこちらを振り返る。そうすると自然に桐乃もこっちを向く格好になったわけだが……あーまあいいや。
どうして俺が会話に割り込んだかと言うとだな、こいつらの会話がすっと耳に飛び込んできたんだよ。
簡単に説明すると、桐乃曰く“メルルのDVD貸してあげるよ”ってなもんだ。
何処がおかしいかって? まあこれだけなら何も問題ない。ノープロブレムだ。問題はその次にある。瀬菜がじゃあお返しに私の“とっておき”を貸して上げるね、と言ったんだぞ?
いいか、瀬菜のとっておきだ。断じて認められるわけねえじゃねーか!。
俺は桐乃の兄として、妹が腐界に足を踏み入れるのを阻止する必要がある。
「瀬菜。頼むから俺の妹を遠い世界へ連れて行こうとしないでくれ」
「え? 遠い世界?」
「あ、いや。こっちのことだ」
コホンと咳払いして場を仕切りなおす。
「実はちょっと体調が悪くなってきたみたいなんだ。折角見舞いに来てくれたのに悪いけどよ。そろそろお開きっつうことでいいか?」
俺の言葉に一瞬、桐乃が眉を潜める。もっと瀬菜とお喋りしたかったのだろうが、今日はちょっとばかりしおらしい。最終的には俺の体調を慮ってくれた。
桐乃は分かったと頷くや、みんなに撤収を促し始める。
「じゃあせなちー。また今度会おう。あ、メルルのDVD持ってっていいよ」
「ありがとう。じゃあ私は桐乃ちゃんに貸すブツを厳選しとくね。大丈夫。入門編から貸して上げるから」
「入門編? へ、へえ。そりゃ……楽しみ……かも」
入門編という言葉から何かを感じ取ったのか、桐乃の頬が若干引きつっている。
桐乃――その直感、お前の感性は正しい。
兄を罵倒するような妹でも怒らないから、そのままこっちの世界へ戻って来なさい。
「じゃあ、お邪魔したわね、先輩。精々ゆっくりと養生なさい。私も影ながら復調するように祈っておくから」
「ありがとよ。つっても悪魔に祈るのは勘弁な」
「さあ、どうかしらね。何せ私は千葉の堕天聖黒猫よ。あまり期待はしないでおいて」
フフフと邪悪そうな笑みを浮かべる黒猫。けど、こんなのはいつものやり取りだ。
ちょっと名残惜しいが、今日は解散だな。そう思った俺は、玄関まで皆を送ろうとベッドから這い出すことにした。
「あ、そうだ高坂」
だが歩き出してすぐ、ちょうど先頭を行っていた赤城が、部屋の出入り口にさしかかったあたりでおもむろにこっちを振り返ってきた。
そして耳を疑う言葉を俺に向かって放ちやがった。
「ほら、こないだアダルトデパートに行った時に買ったDVDあったろ。あれさ、いつになったら渡してくれんだ?」
その時、高坂京介に電流走る。
同時に脳内には雷鳴が轟き、悪寒というのか背筋に冷たい汗まで伝ってきた。
……この場でなにを言い出してんだ、こいつは?
「――アダルト?」
「――デパート?」
そして室内に木霊する女子達の重く暗い声音。
まるで練習したかのように息をぴったりと合わせ、桐乃と黒猫が同時に俺を仰ぎ見た。
二人は俺の前を歩いていたのだが、そのままの態勢で首だけを巡らせ(ギギギギギという擬音が聞こえたような気がする)俺を睨み付ける。
その感想を一言だけ述べようか。
もう、目が超怖えええっ!!
「なあ高坂よぉ」
「ディ、DVD? なんのことを言ってるんだ、赤城?」
誤魔化す声に張りがなく、若干引きつってるのが分かる。
けど後には引けない。
「何だ、忘れたのか? ほら、あの田村さん似の女優が出てるエロいやつだよ」
「赤城ぃぃぃぃぃぃ――ッッ!!!」
縮地を使って赤城に近寄り(一瞬で桐乃と黒猫を追い抜いた)奴の襟元を手繰り寄せ、がばっと顔を近づけた。
こうすれば多少声が小さくても相手に聞こえるからな!
「……お前、今の状況分かってんのか?」
「状況?」
「TPOだよTPO! 今ここでその話をしたらあいつ等にバレるだろーが!」
先日俺と赤城と二人でアダルトデパート(いわゆるエッチなお店)に行った際、二人で金を出しあってエロいDVDを購入したのだ。
その時色々と二人ではっちゃけたのだが、それはまた別のお話である。
「けどよぉ、バレるっつってもよ瀬菜ちゃん知ってるし」
――クッ! そうだった!
赤城はアダルトデパートでなんと妹にボンテージっつう常識を疑うような土産を買ってだけじゃなく、手にしていた定価七十万の等身大美少女人形(ラブドール)のカタログまで見られたんだった。
そりゃ瀬菜は周知だろうよ。つーか、そん時よく自殺しなかったなコイツ。
「三分の一とはいえ俺も金を出したんだ。少なからず所有権はあるはずだろ?」
「いいから黙れ。それにあれは俺のDVDだ」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。俺は断固自分の所有権を主張するぞ。パッケージ、かなりエロかったもんよ」
「……分かった。譲歩しよう。赤城、俺の持ってる他のDVDで手を打たねーか?」
「おいおい高坂。お前の持ってるの殆ど眼鏡っ娘ものじゃねえか。つーか、アレをそんなに独り占めしたいのか?」
「独り占めも何も俺のだって言ってんだろうが」
「――チッ。わあったよ。俺も譲歩するとしよう。何なら一晩貸してくれるだけでもいいんだぜ?」
「だから――――え?」
会話に夢中になっていたら、背後からぽんぽんと肩を叩かれた。
えっと、恐る恐る振り返ってみれば――何故だろう。異様に引きつった笑みを浮かべた桐乃と黒猫が突っ立っている。
ほのかに立ち上って見える青いオーラ。もしかして今の会話、全部聞こえていたのでしょうか?
「ねぇ先輩。その田村先輩に似ている女優が出ているDVDに付いて詳しく話を聞きたいのだけれど?」
「えっと、何のことでしょう?」
「惚けても無駄よ。私の耳は先輩のことに関してはとびきりの地獄耳なのだから。全部把握しているわ」
……駄目だ。全部聞かれていたようだ。つーか、黒猫の奴なんでそんなに怒ってんだ?
「ねえ、アンタさ。そのDVDついてあたしも聞きたいんだけどォ。つーか絶対聞く」
「……桐乃。もしかして怒ってる……のか?」
「全然。あたしが怒る理由なんてないしー。とりあえずさぁ、アンタそのDVDをあたしの目の前に持ってきてよ」
「つかぬ事を聞くが、聞きますが、仮に俺がそれを持ってきたとして……どうするつもりだ、桐乃?」
「――もち、叩き割る!!」
ひぃぃ!
「あら、叩き割るだなんて勿体無い。そんなことをしても無意味だわ」
「黒猫……!」
「ククク。それだけで済ますものですか。そうねぇ。この世界から一片も残らないように燃やしてしまうのが一番かしら。赤い炎でじっくり溶かすように燃やし尽くすの。……ああ、先輩。今の私は煉獄の炎すら召喚可能なようよ」
少しずつ距離を取っていたら、知らない間に桐乃と黒猫に壁際まで追い詰められていた。
そんな俺の窮地を横目で眺めながら、ばつが悪そうに頭をかく赤城。
「あー。悪いな高坂。もうすぐ飯の時間なんで……帰るわ」
「待てやこらああああああああああああああああっッッ!!!」
「何言ってんの? 待つのはアンタのほうじゃん。どさくさに紛れて逃げようとすんな!」
妹にアキレス腱に蹴り入れられました。
「ねえ、先輩。どういう目的を持ってアダルトデパートまで赴いたのか。その辺りの事情も窺いたいのだけれど?」
「うん。それ超大事だよね。言っとくけど説明を終えるまで逃がさないかんね」
「……待て桐乃。落ち着け黒猫。俺は病人だぞ? 風邪を引いて――」
「だから――なに?」
俺はきっと、その時見た桐乃と黒猫の瞳の色を生涯忘れることはないだろう。
「じゃあな高坂。また明日学校で会おうぜ」
「おじゃましました、高坂先輩! ゆっくり休んでくださいね」
ゆっくりって、心安らかに休めると思ってんのかコイツはよっ!
――ってか、あああああああ、帰らないでええええええ!!
しかし無常にも赤城兄妹はそそくさと揃って部屋を出て、トントンと階段を下りていったのだ。
明日か。俺に明日が……あるといいなぁ。
ちなみに、翌日の俺がどうなったのか。無事に学校へ行けたかどうかは察してくれ。