あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない 作:powder snow
「えっとぉ~、加奈子このチーズケーキのセットが食べたいなあ。ねえ頼んでもいいでしょ~、マネージャー?」
妙に甘ったるい声を出しながらメニューの端っこを指差す加奈子。そこには美味しそうなケーキの写真が記載されているのだが……俺が断らないと確信しているのか、既に満面の笑みである。
「もうすぐ晩飯の時間だろ? ドリンクだけにしとけって」
「へっへ。加奈子様舐めんなっつーの。こんなの別腹にきまってんじゃん」
俺の返事をYESと解釈したのか、加奈子は大きく手を振って近くにいたウェイトレスさんを呼び止めた。
「すいませーん。このケーキセットください。あ、ドリンクはミルクティーで。マネージャーはなんにすんの?」
「……じゃあホットコーヒー」
「かしこまりました。チーズケーキのセットがお一つとホットコーヒーがお一つですね? 少々お待ちください」
注文を復唱してからウェイトレスさんが去っていく。その後ろ姿を眺めながら、俺は大きく溜息を吐いた。
仕方ない。軽く現在の状況なんかを説明しておこう。
懸命な人なら今までのやり取りで気付いたろうが、ここは喫茶店の中である。加奈子に正体がバレた後、半ば強引に近場の店まで連れ込まれたのだ。
あのまま逃げ出すという選択肢もあったが、後々面倒なことにもなりかねない。そう思った俺は、雨宿りも兼ねて加奈子の避難に付きあったという訳だ。
「とりあえずさぁ、なんで加奈子のこと無視しようとしたわけ? スッゲー気分悪いんだけどぉ~」
対面で唇を尖らせながら、加奈子が偉そうに踏ん反り返っている。ほっといたらテーブルの上に足を投げ出しかねない勢いだ。
見た目はツインテールのロリっ娘がふくれっ面を晒してるだけなんで、全くと言っていいほど怖くないシチュエーションなんだが、うっかり対応を間違えるとあやせ様に粛清されてしまうので心中穏やかじゃない。
「別に無視しようとした訳じゃねーよ」
「嘘だぁ! 加奈子のこと知らないフリしようとしたじゃんか!」
「あれはだな……」
「あ~! 分かったぁ!」
何か閃いたのか、加奈子はにひひと意地悪そうな笑みを浮かべて
「アレだろ? 加奈子にセクハラして事務所クビになったから顔合わせづらかったんだべ?」
「はぁ?」
一瞬にして目が点になる。
こいつ今なんつった?
俺が? 加奈子に? セクハラしたって?
一体何の冗談だ?
「きゃははは。別にさぁそんなこと気にしなくても良かったのによぉ。マネージャーってセクハラ敢行するわりに小心者なのな」
「だ、誰だよ!? そんなデタラメ吹聴しやがったのは!?」
「えー? デタラメなの? あやせがそう言ってたんだけど」
あ、ああ、あやせええええええェェェ――ッッ!
どういうつもりなんだ、あの女? あいつはどうしても俺を性犯罪者に仕立て上げたいの!?
鬼なの? 鬼なのかッ!?
桐乃でもここまではしねーぞ!
俺の沽券に関わるからはっきりキッパリと否定するが、今加奈子が言ったような事実は一切存在しない。
流言飛語もいいところである。これは今度あやせに会った時に、強気に出てでもキッチリ話をつけなければッ!
「ま、ぶっちゃけどっちでもいいんだけどォ、辞めるなら一言くらい相談しろよな。いきなりすぎんだっつうの」
「……俺にも色々と事情があったんだよ。そこは察してくれ」
「ふーん。事情ねぇ。じゃあ一応聞くけどよぉ、おまえ加奈子達のマネに復帰する気とかあんの?」
「復帰?」
予想外の申し出に思わず問い返してしまう。
一瞬冗談でも言ってんのかと思ったが、加奈子の表情を見る限りそうじゃないらしい。普段ふざけた態度を取っちゃいるが、根っこの部分では凄く真摯な奴なのだ。
「そ。おまえにその気があんならヨ、加奈子が口利いてやってもいいんだべ?」
「口って……お前にそんな権力あんのかよ?」
「ひひ。こう見えてあたし売れっ子だしー、事務所も加奈子のこと無視できないと思うんだよねー。おまえって加奈子のファン第一号じゃん? やっぱアイドルとしてファンは大事にしとかねーとな!」
にっと白い歯を見せながら笑う加奈子。それは子供のように無邪気な笑顔だった。
……もしかして、こいつ。
「お前さ、俺のこと心配してくれてんの?」
「はァ? ち、ちげーよ! これは、アレだ! ブリジットの奴が寂しがってたからよ、そんで言っただけ! あたしはどっちでもいいんだけど、あいつおまえのこと気に入ってたし……」
「ブリジットってあの金髪の――」
ブリジット・エヴァンス。
以前開かれたメルルの公式コスプレ大会で、最後まで加奈子と優勝を争った外国から来てる女の子だ。今では加奈子と二人でちょくちょくコスプレアイドルとしてイベントに参加してたりするらしい。
「そっか。サンキュな。けど今年は受験があるし、悪いけど遠慮しとくわ」
「受験って、マネージャーって学生だったの?」
「おう。だから来年の今頃は晴れて大学生になってるはずだぜ」
「ってコトは今は高三かぁ。あたしの三つ年上だ」
三歳の年齢差。当たり前だけど、桐乃と同じ年なんだよなコイツ。
「じゃあよ“その気”になったらいつでも加奈子に連絡しろよな。待ってンから。――んじゃ、携帯出して」
そう言って加奈子は、自分の携帯を取り出して俺に突き出してきた。
これって番号交換しようってことだよなぁ。
「……ちょっと待ってくれ」
少しだけプロフィール欄を弄ってから番号を交換する。こいつにはマネージャーの“赤城浩平”と名乗り出ていたので“高坂京介”のままじゃ送信できなかったのだ。
しかしこの心配は杞憂に終わる。
何故ならこのバカは、俺の名前をすっかり忘れ去っていたからだ。
「ンだよ、この元マネージャーっての? 本名教えろよなー」
「始めて会った時にちゃんと名乗ったじゃねーか。忘れちまったのか?」
「……しょうがねえじゃん。あん時は冴えない兄ちゃんだなーって思って聞き流してたんだし。一生リーマンで、それも課長止まりなんだろーなって思った」
案外ヒデーなこいつ。
「けどおまえ言ってくれたじゃん? 加奈子にアイドルの才能あるかもってさ。実はアレ結構嬉しかったんだよね!」
照れたように頬を赤くしてはにかむ加奈子の姿からは、いつも見せる“ぶりっこ”のようなわざとらしさが感じられなかった。
本当に素直に思ったことを伝えてくれている。
そう感じた。
何だよ。コイツ、こういう表情もできんじゃねーか。
「ねえマネージャー。今度は忘れねーからさ、もう一度教えてよぉ~」
「……そうだな。俺の名前は、赤城――――京介だ」
だからって訳じゃねえけど、下だけは本当の名前を名乗った。
俺と桐乃が兄妹だって関係さえバレなきゃいいわけだし、苗字を名乗らなきゃこのバカは気付かないだろ。
「きょうすけ、キョウスケね。ね、それってどんな字書くの?」
「京都の“京”に介錯の“介”で京介。うやうやしい方じゃねえからな」
テーブルに人差し指で字を描きながら加奈子に説明する。それを見つめていた加奈子は可愛らしくウインクしながら
「――ん。覚えた。暇見つけて電話してやっからよ、ちゃんと出ろヨな」
にひひと嬉しそうに笑ったのだった。
注文していた品がテーブルに届いたタイミングで俺の携帯が鳴った。
一瞬目の前の加奈子がイタ電でも掛けてきたのかと疑ったが、チーズケーキと格闘するのに忙しそうでそんな素振りは見られない。
そういや、さっきお好み焼き屋でも似た状況で電話が掛かってきたよなぁ……。
念の為に店内を見回してみる。けれど何処にもフェイトさんらしき駄目な大人の姿は見られなかった。
これで安心と、携帯を開いてみたら――
「げッ!?」
表示されていた発信者の名前は――新垣あやせ。
本来なら喜び勇んで電話に出る場面だが、今対面には加奈子がいる。
「んあ? 電話か?」
興味があるのか加奈子が顔を上げてくる。しかしそれも一瞬のことで、すぐさまケーキとの格闘に戻っていった。
こいつがいるからって遠慮する必要なねえんだが(あやせと加奈子は友達だしな)なんか悪い予感がしやがるのだ。
もしかして加奈子に俺がマネージャーだってバレた事実をあやせが知ったとか?
いやいやいや、さすがにそれはねえだろ。如何にあやせ様だろうと、こんな短時間で真実まで辿り着くのは不可能だ。
俺の衣服に盗聴器でも仕込んでれば話は別だが……フェイトさんのように、たまたま同じ店の中にいたという可能性も捨て切れない。
俺は生唾を飲み込みながら、獲物を狙う肉食獣のように眼光だけは鋭く光らせ、慎重に辺りの様子を窺った。
「……よし、いない。大丈夫だ」
ほっと一息。俺は額の汗を拭ってからエンジェルコールを受け取った。
「もしもし」
『…………随分と出るまでに時間がかかるんですね、お兄さん。いつもならすぐに出てくれるのに』
「ちょっとばかり立て込んでてよ。……っていうかお前なんか拗ねてね?」
『は? す、拗ねるだなんて意味が分かんないです! どうして私がお兄さんが電話に出てくれないからって拗ねないといけないんですか!』
「そう怒んなよ。なんつーか、ちょっとそう思っただけで深い意味はねえよ」
電話に出た時のあやせの声音が、拗ねた時の桐乃に似てたからそう感じただけだ。
「で、何か用なの?」
『…………やっぱりおかしいです、お兄さん。どこかで拾い食いでもしたんですか?』
「するわけねーだろーが! っていうかさすがにそれはヒドクね?」
『だっていつものお兄さんなら、もの凄っっっいハイテンションで電話に飛び出てくれるじゃないですか。“結婚してくれー”みたいなセクハラ的な発言もありませんし。ハッキリ言ってありえませ――――ハッ!?』
電話の向こうからあやせが息を呑む気配が伝わってくる。
『もしかして……お兄さんのニセモノ!?』
「んなわけねーから! どう判断したらそういう結論が出てくんのッ!?」
『至極真っ当に判断した結果ですが? もし本物だというのであれば、今から言う私の質問に答えられるはずです』
「……質問?」
『はい。極々簡単な二択問題です。お兄さん。答えてくれますか?』
何かまた妙な流れになってきやがった。
あやせが何を考えてこういう行動に出たのかさっぱり見当がつかねえ。それでも“質問”とやらに答えないと、これ以上イベントが進まないのは理解できた。
「……取りあえず言ってみろよ。本物の俺なら答えられんだろ?」
『ええ。間違いなく答えられるはずです』
一呼吸置いてから、こほんと小さく喉を鳴らす音が携帯越しに聞こえてきた。
それを聞いただけであやせの可愛い仕草が脳裏に浮かぶ。本当、声といい容姿といい、俺の好みの真ん中ストライクなのに、あの暴力癖さえなきゃなあ。
『そのですね……例えば大好きな物が二つあったとして、どちらかを選ばなきゃいけない状況に陥ったとします』
「二者択一ってことか? 欲しいもんが二つあっても金がねえとか?」
『物じゃないんですけど……あのですねお兄さん。これはあくまでアナタが本物であるかどうかをテストする為の質問ですから、勘違いしないでくださいね』
「しねーって。っていうかまだ疑ってたのな、お前……」
『当たり前です。この前なんて“俺さ、大学卒業したら一生懸命働くよ。何処に就職出来るか分かんねーし、最初は苦労かけるかもしんねーけど……精一杯頑張るから”なんて口走ったのに、開口一番でセクハラ発言しないなんて、ニセモノに決まってます』
あやせの中での俺の評価って……。
どうやら株は未だもって大暴落中のようである。
ぐすん。
「アレはその……悪かったって。だからもう忘れてくれ」
『頼まれても忘れられそうにありませんねっ。もうおぞましくって毎晩夢に見るくらいですからっ!』
「お前は俺を苛める為に電話掛けてきたのか!? 頼むから早くその質問とやらに移ってくれ!」
『そ、そうでした。質問そのものは至ってシンプルです。えっと、わ、私と桐乃だったら……もしお兄さんがどちらかを選ばなきゃいけない場面がきたとしたら、どっちを選びますか?』
「――――――――はい?」
『ですから、私と桐乃のどっちが好きかって聞いているんです!』
想定外で予想外で理解範疇外の質問が飛び込んできやがった。
桐乃とあやせのどっちが好きかなんて質問に答えるのは簡単だ。
だが――落ち着け、京介。
これは“俺が本物である”と証明する為にあやせが出した質問だ。
こいつは俺のことを『近親相姦上等の変態鬼畜兄』だと誤解している。もちろんこれには海よりも深い訳があるのだが、とある理由からこの誤解を解くわけにはいかず、今もってあやせの認識は変わっていないはずなのだ。
即ち、あやせの中での俺は“桐乃が大好きの変態兄貴”であり、ここでは世間一般でいう真っ当な兄妹関係は想定されていない。ならばここで答えるべき内容は、当然“桐乃の方が好き”ということになるだろう。
しかしだ。本当にそう答えて良いものだろうか。
今、俺の目の前には加奈子がいる。
ケーキを貪り食うのに夢中で俺の話なんざ聞いちゃいねーだろうが、万一にでも桐乃という単語を聞きとがめられると面倒なことになるのは間違いない。
それにあやせは俺が桐乃へ近づくのを阻止しようとしている立場なので、桐乃が大好きだと答えた日にゃ問答無用でぶち殺されかねない。
いつだったか貰ったメールには、ハッキリと“桐乃に手を出したらブチ殺します”とまで書かれていたのだ。
ならば“あやせが好き”だと答えたとしよう。
……うん。これは想像するまでもなく答えが出ている。
きっとセクハラ野郎の烙印を押された上で半殺しにされてしまうのだ。
でさ、今気付いたんだけど、これって悪魔の問答じゃね?
どう答えたところで俺は酷い目に遭っちゃうじゃん!?
それともセクハラ野郎の烙印を押されるのが証明になんの!? それともあやせの奴、本当に俺を苛める為だけに電話掛けてきたんじゃなかろうな!?
うえええん。助けてバジえもん――もとい、バジーナさぁぁぁん!
「なあ、さっきから誰と電話してんの? 一緒にいんだからさぁー、目の前にいるあたしの相手しろよー」
マズイことにケーキを食い終わった加奈子が暇を持て余しはじめた。
このまま放置すると更に事態が悪化しかねない。そう思った俺は。ちょっと静かにしてろとジェスチャーで加奈子に伝えると、何とか話題を変えるべく口を開きかけた瞬間――冷たく凍った氷のような言葉に身を貫かれることになる。
『――――お兄さん。そこに誰かいるんですか?』
「……え?」
『いるんですね? もしかして一緒にいるのって、あの“電波女”じゃないんですか?』
「で、電波って……黒猫のこと……か?」
『そうです。あの忌々しい泥棒猫と一緒にいるんですね。そうか――だからすぐに電話に出なかったんだ』
何故だろう?
受話器の向こうから金属を握り込むような音が聞こえた気がした。
「ち、違う違う! 誰も一緒にいねえ……ってわけじゃねえけど……」
『やや、やっぱり! 不潔ですお兄さん! そこ何処ですか? 私もすぐに行きますから場所教えてください!』
「待て! 落ち着け! それに外、大雨降ってっから!」
『関係ありません。早く場所を教えてください。もう玄関まで降りました』
どうやらかなりヤバイスイッチが入ってしまったようだ。質問に答えなかった俺をニセモノと判断して始末しに来るとか。
いくらあやせでもそれはねえと信じたい……。
「誰と電話してんだよぉ~。あたしの知ってる奴ー? 今言った黒猫ってなんの話だよぉ~?」
目の前の加奈子は加奈子でうるさいし――って、こいつ腕を伸ばして俺の服を引っ張り始めやがった。
仕方ないので一旦携帯を耳から離し、加奈子に電話相手があやせだと伝える。
「あ、あやせ!? なんであやせと電話してんの!? つーかあたしはここにいないから! 聞かれてもぜってえ教えるなよな!」
あやせの名前を聞いた途端、加奈子が顔色を青くしながら首を振り出した。
勿論これは至って正常な人間の反応である。
俺も加奈子もあやせサマの恐怖は身を以って知っているからな!
『……どうやらお兄さんは、本気で私を怒らせたいようですね?』
「そんな気は毛頭ねえよ! というか落ち着けってあやせ。お前が勘ぐってるような要素は微塵もねえから」
『なら早くその場所を私に教えてください。一緒にいるの黒猫さんなんですよね?』
「加奈子だよ! 来栖加奈子ッ! お前の友達のっ!」
「ああああああぁぁぁぁっっー! 裏切りやがったなテメェ!」
許してくれ加奈子。俺も命は惜しいんだ。
結局その後、加奈子に携帯を渡して直接事実を説明してもらうことになった。どういう経緯で二人が一緒にいるのかを直接問い質すと言われたのだ。
そりゃもう従うしかないっすよね。
『……事情は窺いました。もう本当ドジなんですから』
「し、仕方ねえだろ。あんなタイミングで加奈子に会うとは思わねえし」
『対応の仕方がマズかったって言ってるんです! でも桐乃との関係はバレてないんですよね?』
「ああ。それは大丈夫だ。たぶんこいつバカだし」
「誰がバカだこらぁ~! おまえのせいで加奈子がお仕置きされたらセキニンとれよなぁ~っ!」
その心配はいらんぞ加奈子。
だってお前がお仕置きされた後なら、もうこの世の人間じゃなくなってるはずだからな。
そしてきっと俺も殺されるんだ。口封じの為に。
「……で、結局何の用事だったんだよ、あやせ。俺に用があるから電話掛けてきたんだろ?」
『そ、そうでした。でも加奈子もいるみたいですし仕切り直します。今夜電話してもいいですか?』
「構わねえよ。勉強してると思うから夜中まで起きてるだろうし」
『そんなに遅くならないと思いますけど……でもそれなら勉強の邪魔になっちゃうかな』
「いいって。というかお前の声が聞けたらリフレッシュすると思うし、むしろ歓迎だ」
『もう、またそんな調子の良いこと言って……通報しますよ?』
「警察も忙しいんですから、そんな簡単に通報しようとするんじゃありませんっ!」
とまあ、こんな感じで話がまとまり切りもいいのでお開きとなった。
集中豪雨の特徴らしく店を出る頃にはすっかり雨も上がっていたので濡れる心配もない。
あとこれは些事だが、加奈子のケーキセットは俺の奢りである。今日は麻奈実、フェイトさんに続いて三人目の奢りになった。
俺はかなり軽くなった財布を眺めながら、心の中で一人涙を流す。
くそ、次は奢らねえからな。
「ただいまぁ~」
家に辿り着いた時、時計の針は午後の九時を過ぎていた。色々あって遅くなったが、取りあえず部屋に戻って荷物を置こう。
そう思った時、二階からドアの開く音が聞こえてきた。
「桐乃か?」
続いてトントンと階段を降りる音が響き、程なく桐乃が姿を現した。段上ですれ違うわけにもいかないので、このままあいつがリビングに入るのを待つことにした。
「遅かったじゃん。もう夕飯終わっちゃったよ」
「だろうな」
我が高坂家では午後七時に食卓に付いていないと、問答無用で夕飯を抜かれてしまうという鬼の仕来たりがある。
当然遅刻した俺の分の飯は用意されてないはずだ。
「カップメンくらいならあるけど、食べる?」
「いや、外で食ってきた。腹が減ったら適当にコンビニでなんか買って食うわ」
「ふーん。食べてきたんだ」
ん? 何してんだこいつ。
桐乃は階段を降り終わった姿勢で佇み、全くその場を動く気配がない。
そこに突っ立てられると上れねえんだけど。
「どうした桐乃? 何か用か?」
「アンタ今外で食べてきたって言ったけど、一人じゃそういうことしないよね? 誰と一緒だったの?」
「あん? 何でそんなこと聞くんだ? お前に関係ねえじゃねーか」
「かんッ……」
一度口を開きかけたのにも関わらず、桐乃はそれを無理やり閉じた。
その代わり少しだけ表情が険しくなっている。
「……どうせ地味子んトコでしょ? 隠すなっつうの」
「麻奈実をその名で呼ぶなっつったろうが。なあ桐乃。絡むなら後にしてくれねーか。こっちは疲れてんだよ」
腕を組み仏頂面を晒す妹を前にして途方に暮れる。
桐乃の奴、明らかに不機嫌みてーだがその原因が分からない。
俺をゲームに付き合わせようとして肩透かしくらったとか、そんな感じか?
ったく。しゃあねえやつだな。
「……ほら、この前俺が寝込んだ時に黒猫がノート持ってきてくれたろ? あれ麻奈実のなんだよ。その礼がてら一緒に飯食ってきただけだ」
桐乃が何を怒ってるのか分からねえが、今聞きたい話は想像出来る。だから掻い摘んで今日の出来事を話すことにした。
いつまでも廊下で突っ立ってられねえし。
「……何処で?」
「学校の近くにあるお好み焼き屋。そんで帰り際に黒猫の妹に会ってさ、あいつのバイト先に連れてかれたんだ」
「え? くろいののバイト先って……ううん。それより会った妹ってひなちゃん、たまちゃんどっち?」
そこ重要なのな。
「大きい方だよ。で帰ろうと思ったらあの大雨だろ? 雨宿りしてたらこんな時間になっちまったってだけの話だ」
「そっか」
フェイトさんや加奈子に会ったことは話さなかった。若干心苦しいものがあったが、こればかりは仕方がない。
あやせから電話があったことも内緒にしなきゃなんねーし……って、最近桐乃に対して秘密が増えたような気がするぜ。
……って、あれ?
そう考えた途端、若干気持ちが落ち込んできた気がした。
疲れてるからか?
だが俺とは反対に桐乃は納得したように頷くと、壁のように塞いでいた場所からやっと身体を動かした。それから俺に背中を向けて歩き出す。
さっきまで近かった距離が離れていって――何故か俺は、用もないのに背中から声をかけて桐乃を呼び止めていた。
「き、桐乃ッ」
「なに?」
振り返った桐乃と目線が合った。けどかける言葉がみつからない。
当然だ。だって初めから言葉を用意していなかったんだから。
「……いや、なんでもねえ。呼び止めて悪かった」
「へんなやつ」
リビングの扉が開いて桐乃の姿が飲み込まれる。
俺はしばらく桐乃が消えた扉の先を、何故かぼーっと眺めながらその場に突っ立っていた。