あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない 作:powder snow
――好きよ。
可愛らしい唇が紡いだのは呪いの言葉。そのたった三文字の言葉が、俺の脳内で繰り返されている。
それに伴って体温が急激に上昇したような浮遊感を感じた。
激しく脈打つ心臓の鼓動が、目の前にいる黒猫にまで聞こえてやしないか、なんて考えまでが脳裏を過ぎったほどだ。
暗闇の中で、じっと何かを待つように俺を見つめてくる黒猫。
いつもの特徴的なゴスロリファッションでもなく、見慣れた学校の制服姿でもない。今まで一度も見た事がないパジャマ姿に見惚れて、まるで時間が止まったかのような錯覚さえ覚えた。
黒猫は宵闇の眷属だなんて嘯いていたけど、月明かりを全身に浴びる彼女は――綺麗だった。
「黒……猫」
やっとの思いで一言だけ口にした。それに対し彼女は瞳で応えてくる。
真摯に、真っ直ぐに。けれど少しだけ潤んだ瞳を向けてくる彼女。
早く何か言わないと。
そう思っていても肝心なその後の言葉が続いてこない。それでも無理やり唾を喉の奥まで押し込んで、何とか話せる態勢だけは作った。
「えと、さ、今のって……」
別に黒猫は俺のことが好きだと“告白”してきた訳じゃない。今言った台詞は、いつかも口にした“言葉遊び”みたいなものだろう。
なのに顔が紅潮してくるし、胸が高鳴ってくる。
暗闇の中で女の子と二人きり。それも慣れないシチュエーションが加わってる所為なのか平常心が保てない。けど意識するなっていう方が無理な話だ。
――あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに負けないくらい。
普通に考えれば言葉通りの意味なんだと思う。即ち、桐乃が俺のことを好きって程度には好きって意味だ。
以前の俺はそれを黒猫なりの冗談なんだと受け取った。だって桐乃が俺のことを好いているとは思えない。桐乃と黒猫は出会ってからの時間は短くても、お互いを良く知る親友同士だ。
だから冗談交じりにからかわれたんだろうと。
けれど、でも、今回は――
あの時とは少しばかりニュアンスの違う黒猫の言葉と、あの時とは違う俺の心境がそれを否定してくる。
「っ……」
なあ、黒猫。
今のってどういう意味なんだ?
そんな短い言葉が発せない。相手の真意を問い質すには、舌の上に乗せるしかないというのに。
「せ、先輩――」
「く、黒猫――」
意を決し、言葉を発したのは奇しくも二人同時だった。
だから俺も黒猫も驚いてしまって後が続かず――ちょうどその時だった。
まるで見計らっていたかのように、バタンッ! という大きな音が室内に響き渡ったのは。
「……え?」
「今の……音って?」
二人して一斉に音のした方向へと振り返る。
視線の先にあったのは俺達が歩いてきた方向――廊下へと通じる扉だけ。それも閉じられた扉だ。他に変わった様子もなく、誰かの姿が見えることもない。
風で扉が押されて閉じてしまったのか?
最後にこの部屋へ入ってきたのは黒猫だが、彼女が扉を閉めていたかまでは覚えていない。もし開いていたなら風を受けて閉まった可能性もある。
だけど……。
そんな自分の推測を確かめるよりも早く黒猫が動いた。
彼女は自身の前にあるカップを手に取ると、静かに席を立つ。その流れの中で俺の前にあるカップまで手を伸ばすと、取って部分に指を絡めた。
少し歩き、俺の隣で立ち止まる彼女。その一連の動作に自然と目線が吸い寄せられる。
今、黒猫は立っていて、俺は座ったままで。だから俺達の関係には珍しく俺が黒猫を少し見上げる格好になった。
彼女の手の中にある二つのカップ。それを黒猫は少し掲げて
「夜中なのに思わず長居をしてしまったわね。けれど今回はこれでお開きにしましょうか。明日の朝も早いのだから、部屋に戻って休みましょう、先輩」
そう言った黒猫がゆっくりとした足取りでキッチンの方向へと歩いて行く。けれど途中で一旦歩みを止めた彼女は、その場でくるりと振り返ると
「カップは私が洗っておくから、先輩は先に戻っていて頂戴。――ココアありがとう。とても美味しかったわ」
薄暗い部屋の中で距離が開いてしまっては、相手の表情の細部まで窺うのは難しい。なのに柔らかい雰囲気というのか、黒猫が柔和に微笑んだのがハッキリと伝わってきた。
「おやすみなさい、先輩。また明日、ね」
興奮して眠れないんじゃないか。そんな考えも杞憂に終わったようで、思ったより早く俺は眠りに落ちることが出来た。
昨日は朝からの映画鑑賞から始まって沙織宅の訪問、それから深夜まで色々とみんなではっちゃけたのだ。疲れが溜まっていても不思議じゃない。
さっき黒猫に真意を問い質そうとした時になった音。それについても気になったが、色々と考えを巡らせている最中に意識が落ちていたのだ。
窓は閉まっていたと思う。
だから風を受けての開閉は考え難いんじゃないか……いや、廊下側まで確認していないから一概には言えないけど――なんて詮無いことを悩んでいたのだ。
今にして思えば誰かがあそこにいたのかもしれない。
俺と黒猫がそうだったように、ふと、夜中に目が覚めて。
「おはよう、先輩。昨夜はよく眠れたかしら?」
起き抜けの頭を覚醒させる為に洗面所へ。その後でリビングへ行った俺を迎えたのは黒猫だった。
既に黒猫は昨夜のパジャマ姿からいつものゴスロリ姿へと戻っている。けれどそれを見た俺は、何だか勿体無いような、それでいて安心したような不思議な感覚を覚えてしまった。
「まあな。やっぱ疲れてたのか、あの後すぐ眠っちまったよ」
「そう。良かったわね」
「おまえはどうだ? よく眠れたか?」
「ええ、おかげ様で。同人誌の締め切りなんかで徹夜には慣れているけれど、一睡も出来ないと流石にこの後困るもの」
ふわふわしたような感覚が全身を包んでいる。
どうしても黒猫を前にすると昨夜の出来事が思い出されてしまうからだ。けれどいつもと変わらない彼女の姿が、普段通りの日常へと俺を導いてくれる。
「困るって?」
「今日も色々と遊び倒すのでしょう? あなたの妹がやたら張り切っていたわよ」
そんの黒猫の言葉通り、少し遅れて来た桐乃は、部屋に入るなりハイテンションな様子で巻くし立ててきた。
「おっはよー! ねえねえ今日はドコに行く? 実はあたし行きたいトコがあるんだよねぇ。昨日はさ、なんだかんだで秋葉散策が途中になっちゃったじゃん?」
「おまえ、朝から元気だな……」
「当然っしょ! あ、買い物したら荷物持ちはあんたの役目だかんね」
両手を腰に当てたまま胸を張ってポーズを決めてくる我が妹。必要以上に元気な以外は、普段の桐乃と変わらなく見える。
化粧もバッチリ決めているし、グッスリ眠ってリフレッシュした感じ満載だ。
もし昨夜のあの場にこいつがいたのなら、何かしらリアクションがあっても良さそうなものなのに。
「おはようでござる、お三方。昨日は良く眠れましたかな~?」
続けて現れた沙織の様子も普通(お嬢様スタイルにぐるぐる眼鏡装備というチグハグな格好ではあるが)で、これまたおかしな点は見られない。
とすると、昨夜のアレはやはり風の仕業だったのだろうか。
「うん、バッチリ眠れたよ。寝心地も抜群だったし、もう最高っ!」
「ふふふ、喜んでいただけたようでなによりでござる。ではでは朝食を取りながらこれからの予定――作戦会議と洒落こみますかな?」
「それはいいのだけれど、もうあのお嬢様口調には戻らないの? 見た目と口調との違和感が凄いわよ」
俺が胸に抱いていた疑問を黒猫が代弁してくれる。
果たして沙織は
「バジーナでいた時間が長かったですからなぁ。こちらの方が喋り易いと申しますか……まあ、京介氏が望むのでしたら、すぐにでもスタイルを変えますが」
「なんで俺に聞くの!?」
「さて、どうしてでしょうね。気になるのでしたら、今度じっくりとご自身の胸にでも聞いてみてください」
なんて、眼鏡を外しながら微笑んだのだ。
そんなこんなで、今日も朝からいつものと同じように俺と桐乃、黒猫と沙織の四人で遊び倒すことになった。流れとしては昨日の続きみたいな感じで街へ繰り出し、各々が希望する場所を回っていくような感じだ。
フィギアショップなんかでは桐乃がはしゃぎ回っていたし、ゲーセンでは黒猫が格ゲーの対戦台に座って連勝を重ね(松戸ブラックキャットの異名は伊達じゃない)て、沙織が一般人は知らないような隠れた店に連れていってくれたりと、俺達の間では恒例になりつつあるシチュエーションを展開していく。
けど、そんな中でも気になること――なんつーか、やっぱり自然と黒猫の姿を目で追ってしまう瞬間があった。楽しそうに笑う黒猫の姿に、昨夜の彼女を重ねてしまう。
ふと目線が合った時には、二人して目を逸らしたり。それ以外は概ねいつも通りの楽しい一日(桐乃の宣言通り荷物持ちにされたりしたが)だった。
しかし“変化”は唐突に訪れた。
それも最後の最後、俺達の別れ際にだ。
心地良い疲れを感じながら駅前に集まる俺達四人。本来なら電車で帰る俺と桐乃、黒猫を沙織が見送る格好になるんだけど、何故か桐乃が黒猫を呼び止めたのだ。
「ねえ、ちょっち話があるんだけど」
ゆっくりと桐乃を振り仰ぐ黒猫。その表情には、驚く俺や沙織と違って、まるで“予想していたわ”とでも言うように穏やかな笑みが浮かべられている。
「ちょうど良かったわ。私もあなたと二人きりで話したいと思っていたところよ」
「へえ、奇遇じゃん」
腕を組んで鷹揚に頷く桐乃。
それから桐乃は黒猫に近づくと、目線で駅とは反対方向を指した。
「あたしが何を話したいか気付いてる感じじゃん?」
「気付いてるというか予想がつくというか。この場で話せるような内容じゃないのでしょう?」
「まあね。じゃあどっかその辺りの店に入ろっか」
「ええ、いいわ」
桐乃の提案を受け、黒猫がコクンと頷く。
それを合図にして、二人は肩を並べて歩き出す……って、おいおいチョット待て!
「桐乃! 黒猫! 二人して何処に行こうとしてんだよ? これから帰るんじゃなかったのか?」
辺りは既に茜色一色に染まっている。
ちょっと時間を潰すだけで、高坂家の鉄の掟(午後七時に食卓に付いていないと問答無用で飯抜き)に抵触するだろう。
まさか二日続けて外食って訳にもいかねえし、それはあいつも重々承知のはずなんだが。
「アンタは先に帰ってて。あ、ご飯はいらなってお母さんに伝えといてくれる?」
「いらないって、なんで――」
「たぶん、遅くなるからさ」
「遅くなるって……おい、桐乃ッ!?」
俺の返事を待たず、人ごみの中へと消えていく二人。
後には呆然とした表情を貼り付けた俺と、複雑な面持ちで佇む沙織だけが残されていた。
結論から言えば。桐乃の奴は食事の時間になっても結局帰ってはこなかった。
親父がやたらと不機嫌になっていくのを眺めながらの食事は酷く味気ないもので、俺はお代わりもせず早々に飯を切り上げることになった程だ。
それから三時間後の夜十時を過ぎた辺りになって、やっと桐乃が家に帰ってくる。
その時俺はちょうど風呂上りで、玄関から入ってきた桐乃と鉢合わせる格好になった。
「――うん。今家に着いたから一旦切るよ。……うん。スグに掛け直すから」
歩きながら電話していたのか、耳にスマホを当てている桐乃。だが、それをバッグに仕舞い込むや、親父やお袋に挨拶もせず二階へ上がろうとする。
「おい桐乃! 親父もお袋も心配してたんだぞ。挨拶ぐらいしてけよ」
「あれ? アンタいたんだ?」
一応は立ち止まりましたってな調子で、階段に足を掛けたまま振り返ってくる我が妹。位置関係の所為でいつもと違って俺が妹を見上げる格好になった。
「いたのかって……」
「ナニ? 用があんなら早くしてよ」
「だから親父に報告しろって。おまえがいないから目茶機嫌悪いんだぞ」
「ごめん。今ちょっち忙しいからさ、後で」
「待てってッ!」
俺の制止に対しムっとした表情を浮かべる桐乃。だけど何とか妹の動きを止めるのには成功した。動作の端々から苛立ちが伝わってくるが……ってか、こいつさっきまで黒猫と一緒にいたんだよな?
ということは、今電話してた相手も黒猫なのだろうか。
「ナニ? 用があんなら早くしてよね」
何故か猛烈に嫌な予感がしやがる。
明確な根拠がある訳じゃねえけど、心がざわめくのだ。
だからだろうか。俺は唐突に桐乃に対して馬鹿げた質問を投げかけていた。
「なあ、おまえさ、黒猫と喧嘩とか……してないよな?」
「はァ?」
いきなり何言い出してんのコイツ? みたいな感じで桐乃がキョトンとした表情を浮かべている。かと思いきや、今度はいきなり破顔すると、あははと豪快に笑い出した。
「してない、してない。別に黒いのと喧嘩する理由なんか……ないし。これは、その、ちょっと大事な話があっただけ」
「大事な話?」
「そ」
そう言って桐乃が一度閉まったスマホを取り出し、耳に当てる仕草をする。
先程すぐに掛け直すと言っていたから、まだ終わってないよという示しだろうか。
「ホント、喧嘩なんかしてないからさ、だから心配すんな、兄貴!」
「え?」
兄貴と口にしながら微笑む桐乃。
聞き違いか、見間違いかと確かめるよりも早く、あいつはダンダンと音を立てながら二階へと上がって行った。
今回で第二章が終了。お話として一区切りといったところでしょうか。
次回から少しづつ壁を乗り越えていくような感じになっていくと思います。