あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない 作:powder snow
並んで座った状態で、車窓から見える景色を眺めていた。
茜色に染まる街並みはとても綺麗で、けれど高速で走る列車の影響か、感動を覚えるよりも先に景色は流れていってしまい、印象としては夕焼けが強く出ていたなぁくらいしか覚えていない。
というより、もっと強く俺の関心を惹く事柄が間近にあったからだろう。
この日の俺は黒猫と一緒に新宿まで出ていて、そこである種の大立ち回りを演じた後であり、今はその帰り道なのだが――色々ありすぎた影響か、疲れた黒猫がこくりこくりと船を漕ぎ出してしまったのだ。
電車の走行に合わせるようにして身体を揺らす黒猫。そしていつしかこいつは、俺の肩先に頭を預けるようにして眠ってしまっていた。
「……」
漆を溶かし込んだような艶のある黒髪。その長い毛先が俺の袖口をチクリとくすぐる。すうすうと耳まで届く微かな寝息が、とても艶のあるものに聞こえたりもした。
今日という日を迎えるまで俺達の間に大きな接点はなかったと言っていい。あくまでも俺と黒猫は妹を通しての共通の知り合いってだけの関係だったからだ。
それがこの日を境にして文字通り一変した。
桐乃の書いた『妹空』という作品とあいつの名誉を守る為に、俺と黒猫が出版社に直談判までしにいって。
フェイトさんに出会ったり、色々なことがあったけれど、やはり“切欠”としては喜怒哀楽という感情の発露が胸の奥に響いたんだと思う。
泣いて、笑って、怒って、悲しんで。
今まで物事に対し斜に構えていると思っていた態度は表面的なもので、実際は年相応の少女そのままの、感情豊かな女の子なんだって認識させてくれた。
それまで見た事もないような多彩な表情を見せてくれた黒猫。
けどさ、何のことはない。
それと同じ種類だけの感情を俺もあいつに曝け出していたのだ。
――どうして、あなたまで泣いているのよ?
本当に情けない泣き顔は見られるし、土下座するみっともない姿は見られるし、客観的に見ても褒められたもんじゃなかったとは思う。けど実際に生の姿、感情、本音をぶつけ合ったおかげで心が触れ合った気はしたんだ。
「……ん……」
列車がカーブに差しかかった影響か、身体が微かに横方向に揺さぶられる。その影響もあって、隣にいた黒猫の身体がより強く俺の身体に押し付けられてしまった。
腕と腕が触れ合い、肩には彼女の頭が乗せられていて。
直接相手の体温が感じられる距離感に内心ドギマギしたりもしたが、反面そんな暖かさが心地よくて、俺もこのまま目を閉じて眠ってしまおうか、なんて思ったりもしたもんだ。けどそれを実行に移す前に隣から微かに身動ぎする所作を感じ取ってしまう。
黒猫が目を覚ましたのだ。
当然の如く、直前まで感じていた柔らかな感触は離れていって――俺は場違いにも、少しだけそれを名残惜しいと感じていたっけ。
「…………ごめんなさい。知らずあなたにもたれかかっていたようね」
「別にいいって。疲れてたんだろ? それに今日はおまえのおかげで何とかなったんだ。こんな肩でよけりゃ幾らでも貸してやるさ」
「莫迦ね。今更格好つけても様にならないわ。それに……その、この状態だと私のほうが恥ずかしいのよ」
そう言った黒猫は、車窓からの景色に目線を向けるようにして、ぷいっと視線を逸らしてしまった。
窓から射し込む夕日のせいなのか、ほのかに頬が赤くなっている気がしたのは、俺の勘違いだっただろうか。
今となっては確かめる術はないのだが――
「……輩、先輩」
「ん……黒猫?」
「そうよ。黒猫よ。って、どうしたの先輩、さっきからぼーっとして。もしかしてこの暑さにやられてしまったのかしら?」
隣に座っている黒猫が、少し不審げな眼差しで俺をねめつけてくる。といってもここは電車の中でもなければ、学校の部室でもない。当然俺の部屋でもないわけだが。
なら何処かといえば、近場にある海浜公園に揃って出てきていたのだ。
面子は俺と桐乃と黒猫。そして麻奈実を含めた四人である。
とは言うものの、桐乃と麻奈実は現在揃ってソフトクリームの買い出しに行っていてこの場にはいない。
半ば強引に桐乃が麻奈実を連れ去って行った(俺と麻奈実が買いに行こうとしたら何故か桐乃がしゃしゃり出てきた)ので、その二人の帰りをベンチに座って待っているという寸法だ。
「あー、ちょっと考えごとつーか、昔を思い出しててよ」
「え?」
「ほら、新宿にある出版社までおまえと乗り込んだことあったじゃん。兄妹って設定付けてさ」
「……ああ、あったわね、そんなことも」
「んで、こうしてベンチに並んで座ってると、あの時の帰りの電車の中でもこうしてたよなって思い出してたんだ」
「電車って、またつまらないことまで覚えているものね、あなた。あまり役にはたたない記憶なのだから、早々に忘れてしまいなさい」
「なに言ってんだ。全然つまんねえことじゃねえよ。大切な思い出ってやつだ」
「……」
複雑な表情を晒しながら、黒猫があの時と同じようにふいっと視線を逸らしてしまう。
目線の向かった先は正面で――そこには大勢の人々が笑顔で行き交う姿が見て取れた。各種アミューズメント施設も兼ね備えた海浜公園は、夏休みという水を得た魚のように活気付いている。
「厭ね、この時期は。何処へ行っても人、人、人の波ばかりで」
「仕方ねえって。夏ってのはその存在自体がイベントみてえなものだろ」
特にこういう施設だと尚更だ。
プールやテニスコート、各種運動施設にフラワーミュージアム。自転車を借りてサイクリングに勤しんでもいいし、園内を散策するだけでも目の保養になるだろう。
とはいっても遊びに来たわけじゃなくて……あ、いや、遊びに来たのには来たんだが、別の目的があるっていうか……。
ぶっちゃけるとこの機会を利用して桐乃と麻奈実の不仲を少しで解消できればいいのにという目論見があったのだ。
正直、難題だとは思うぜ。
それくらい桐乃の側に麻奈実に対しての拒否感があるからな。
だからこそ、この開放的な空間の力を利用しつつ、園内を散歩しながら会話でもすれば、少しは深まった溝も埋まるんじゃねえか、なんて希望的観測を持ってここまで来たってわけだ。
「でも良かったの先輩? あの二人を一緒に行かせても」
「二人って桐乃と麻奈実のことか?」
「そう。こう言ってはなんだけれど、あなたの妹は田村先輩に対してあまり良い感情は持っていないわ」
「知ってるよ。露骨に悪態吐くくらいに嫌ってるのもな。昔はあいつもああじゃなかったんだが」
「……」
「けどこの前、麻奈実が家に来たあたりから少し態度が変わったつうか……」
「態度って、なにかあったの?」
「いやな、桐乃の奴が麻奈実を自室に連れ込んで何やら話し込んでて、その後からどうもあいつの様子がおかしいんだよ。麻奈実と距離を置いてるのは変わらねえんだが、相手を警戒してるっつうか、いつもなら視界に入れるのも嫌だってくらいなのに、逆に目線で追ってたりしてよ」
「いまいち要領を得ない答えね」
「俺がそう思ってるってだけだからな。けどなにかしらの変化があったなら今が好機だとも思うんだよ。おまえとあやせがそうだったように、一緒の時間を過ごすことで距離が縮まるんじゃねえかって」
「……別に私は特別あの女と仲良くなった覚えはないわよ」
「そうだっけ?」
一緒に遊んだり、一緒にゲームしたり、一緒に旅行したりしたじゃねえか。そんな俺の思いを表情から読み取ったのか、黒猫が罰が悪そうに唇を尖らせる。
「私とあやせさんとの関係は置いておいて、先輩の思惑は理解したわ。そして何故今日私がここに呼ばれたのかもね。要は緩衝材でしょう? あなたの妹と田村先輩との」
「……おまえが一緒なら色々助かるかなって思ったのは事実だけど、実質的におまえを呼んだのは桐乃だぞ」
「そうなの?」
「ああ。麻奈実と一緒に出掛けるなら黒いのと一緒じゃなきゃ行かないっつってよ。あいつからしたら敵と対面するみたいなもんだし、味方が欲しかったんだろうけど」
「味方、ね」
なにか含むものがあるのか、黒猫がつと唇を閉ざしてしまう。
桐乃からしたら麻奈実とかなり仲良くなっていたあやせよりも、黒猫を間に入れた方が都合が良いって程度なんだろうが、そこが引っかかるのだろうか。
けれど次に黒猫が口を開いた時に零れたのは、少し方向性の違った内容だったので、頭を切り替えるのに少しだけ時間を要してしまった。
「ねえ先輩。実はね、私も田村先輩にはあまり良い感情を持っていなかったのよ」
「え?」
「あなたの妹に色々と聞かされていたから。実際に会うまでははっきり敵だと認識していたくらいだもの」
両手をベンチに突いてぐっと背筋を伸ばす要領で空を見上げる黒猫。そこには澄み切った真夏の青空が広がっていて、とてもネガティブな台詞が続くような雰囲気は感じられなかった。
「そういやおまえ麻奈実に対して初対面でベル……なんとかって言ってたっけ。確かおまえが書いた漫画の中にも登場してたよな」
「ベルフェゴールよ、先輩。七つの大罪に準えられる悪魔の一柱で“怠惰”や“好色”を司っているわ。あなたの妹から聞かされた内容を鑑みて、私なりに当て嵌めてみたのよ」
「……悪い、黒猫。さっぱり意味が分からん」
「誰かさんを怠惰に貶めようとしている元凶。そう認識していたの。今は少しばかり改善してはいるけれど……」
「少しかよっ!?」
まあ入学当初の黒猫は誰に対しても壁を作ってたし、麻奈実に対して桐乃から先入観を植えつけられていたのなら、輪をかけて嫌っていたとしても頷ける。
それも実際触れ合ううちにわだかまりも解けていったんだろうが、あやせほど麻奈実とは接していなかったからか、未だ桐乃の影響が強く残ってるってことか。
怠惰とか、麻奈実とは正反対の属性だろ。
「でも意外ね。私も田村先輩とあの女の溝を埋めるのには賛成だけど、まさかあなたがこうまで甲斐甲斐しく動くなんて思わなかったわ」
「そうかぁ?」
「だってあなた“妹”のことが嫌いなのでしょう?」
さっきの仕返しとばかりに黒猫が楽しそうに目を細めている。
からかってやろうという魂胆が透けてみえる素晴らしい表情だった。
「それは――」
「ああ、御免なさい。嫌いではなく大好きの間違いだったわね」
「……ちげえって。これは、なんつーか良い機会だなって思っただけで、別に深い意味はねえ」
「本当かしら」
「本当だって。それに兄貴ってのは元々そういうもんじゃねえか?」
「……」
思っていた内容とは別の答えを貰ったとばかりに、黒猫が目を丸くしている。
けれどすぐに得心したとばかりに表情を改めた。
「ごめんなさい。冗談よ。そうよね。私達にとって妹とはそういう存在よね」
「黒猫?」
「妹のことが心配でたまらなかったり、つい過保護になってしまったり。それは特別珍しい感情ではなくて、好きとか嫌いとかを超越した一種の性のようなもの」
「……」
「見返りなんていらない。ただ笑ってくれてさえいればいい。腹の立つこともあるけれど、ね」
「……だな」
そういやこいつも“お姉ちゃん”だったな。
俺から見たら年下の女の子でも、家に帰れば立派な姉貴なのだ。
「だからごめんなさい。少しからかう方向性を間違えてしまったわ」
「気にすんな。ってか俺も気にしてねえし。つーか、からかうって前提は覆らないのな!?」
「だって愉しいもの。こればかりはやめられないわ」
「ちょ、おま――」
普段黒猫をからかってる(反応が可愛いのだ)俺が言うのもなんだが、ここは反論しておくべきだろう。そう思った矢先、聞きなれた幼馴染の声が耳に飛び込んできた。
「きょうちゃ~ん」
目を移して見れば、両手にソフトクリームを持った麻奈実と桐乃の姿が飛び込んでくる。仲良く並んでってわけじゃねえが、どうやら喧嘩してるような様子は見られない。
まあ買い出しに行ったくれーで喧嘩になってたらこの先が思いやられるわけだが。
「お待たせ。はい、そふとくりーむ。ばにら味だよ~。桐乃ちゃんの持ってるのがね、すとろべりー」
何故かドヤ顔で目線を移す麻奈実。
一人でソフトクリームを四つは持てない。だから二人で買い出しに行ったわけだが、目線を向けられた桐乃はふんっと鼻を鳴らして答えただけで、黒猫にソフトクリームを手渡ている。
それから改めて俺を見据え、軽くメンチを切りやがった。
「あたし達がこれ食べ終わるまでに行動指針を決めといよね。あんたが連れて来たんだから、エスコートくらいきっちりしなさいよ」
「へいへい。分かってますよ」
「返事が投げやり。やり直し。女の子に囲まれてるハーレム状態なんだからさぁ、もちっとやる気とか出せないわけ?」
「……分かってたけど、何処へ行っても傍若無人だよなお前は」
とまあ前途は多難だが、これで一先ず出航する準備は整った。
後は俺が舵の切り方さえ間違えなければ目的は達成される……はずだ。
そう願いながら、麻奈実が買ってきてくれたソフトクリームにかぶりつく。
それは甘くて、冷たくて。
夏の風物詩は伊達じゃないって、場違いなことを感じてしまうくらいには美味かった。