深夜。その部屋では中年男が目を瞑って、一心不乱に呪文を唱え続けていた。床には赤い液体で描かれた円があった。円の内側にはこれまた赤い液体で、文字のような模様が幾つも書き連ねてあった。部屋の隅には干からびた犬の死体が、幾つも積み重なって置かれていた。
男は、実業家だった。数日前に事業で失敗し、破産は時間の問題だった。男が最後にすがったのは、何年も前に道楽で買った魔術書だった。そこには悪魔召喚の儀式のやり方が記されていた。彼は、その記述に従って犬の血で魔方陣を描き、深夜、自宅の一室で暗記した呪文を唱え続けている。
やがて、魔方陣が、光り始めた。突然、魔方陣の中央に位置する場所から周囲に突風が吹き、男は後ろ向きに倒された。立ち上がった男の開いた目に映ったのは、
「召喚に応じ、参上しました。あなたの魂と引き換えに、あなたのどんな願いでも叶えて差し上げます」
恭しく一礼する、若く美しい女だった。
「あんたが、悪魔なのか?」
「はい」
「イメージと違うなあ。もっとおどろおどろしいのを想像していたよ」
「悪とは美しいものなのです」
「それで、願いを叶えてくれるんだな」
「はい。しかし、その代償として、貴方様の魂は死後天国にも地獄にも行けず、未来永劫私の手の内となります。それでもよろしいのですか……?」
「構わん。どうせ、死後のことだ。私は今この時を、幸福に生きたいのだ」
「承知いたしました。何をお望みになりますか?」
「金だ」
「いかほど・・・?」
男は一瞬、自分の苦境を救うには、どれぐらいの金が必要か、計算しようとしたが、すぐに頭を横に振った。
「私はもう、あくせく働くのが嫌になった。一生遊んで暮らしても無くならないぐらい、沢山の金をくれ」
「承知いたしました。ではこれにて、契約完了とさせて頂きます」
悪魔は一礼し、消えた。男は悪魔を探して、部屋を見渡し、魔方陣が再び光を得ていることに気が付いた。男は魔方陣の中心を見て、「おお」と歓声を上げた。
魔方陣の中心には、小さな穴が出来ていた。その穴の中から、泉から湧き出る水のように、金が出始めたのだ。男は金を拾い始めた。拾っても拾っても、金は次から次に出て来た。拾いきれなかった金は床一面に広がった。
男は、唯一の入り口であるドアに目をやった。金の流れが、外に出て行くことを心配したのだ。が、すぐに、儀式を始める前に、邪魔が入らないように鍵を閉めたことを思い出した。おまけに、ドアが内開き構造であることも。つまり、外に金が出る心配は全くないわけだ。
(なら、拾い集めることも無いな)
男は床に胡坐をかき、金が全部出るまで最後まで見届けようと決めた。この金で出来ること、手に入る楽しみが頭の中に満ちるのを、男は抑えられなかった。
(債権者への返済が終わったら、旅行に出かけよう。豪華客船に乗ろう。飛行機ではファーストクラスに座ろう。色んな町で豪遊するんだ。傍らには、美女をはべらしてな……)
厭らしい笑みを浮かべる彼の顔が、ふと、しかめられた。
金が、出過ぎではないだろうか。床にたまった金の層は、既に胡坐をかく彼の膝の高さにまで達している。
(一旦、外に出よう)
男は立ち上がって、ドアに向かおうとした。が、床の金に足を取られ、前のめりに転倒してしまう。
「おおい。悪魔あああ」
彼は、叫んだ。
「もういい。もう十分だから、金を出すのをやめてくれえ!」
男は立って、何度も転びながら、ドアの前まで前進した。鍵を開け、ノブを捻ったが、ドアは開かなかった。男はドアの下を見て、唖然とした。床にたまった金の層が、ドアが内開きに開くのを抑えてしまったいるのだ。男は必死に、金をかきだそうとする。が、ますます勢いを増す金の奔流は、男のつくる隙間をすぐに埋めてしまう。金は遂に男の腰の高さにまで積み上がり、彼は身動きが取れなくなった。
「助けてくれええ!」
彼の叫びには全く反応せず、金はやがて部屋に満ち、彼の口を塞ぎ、鼻を塞ぎ、彼の全身を、金の中に埋もれさせていった。