東方紫幻郷   作:ジャオーン

1 / 29
第一章. 幻想との出会い
一. 奈落の底から見上げた天満月


その日私は初めて心が震え。

自身が人形ではなく人間であると認識した。

その日見た憧憬に憧れ魅了され、そして私は――――恋をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!!!!」

 

 

始まりの記憶は化け物の咆哮と母親が化け物に咀嚼されているもの。

場所は神社のようなところであっただろうか。

しかし、そこで生活していたときの記憶などはほとんど残ってなどいないのだけれど。

 

当然のことながら母親と過ごした時の記憶など幼子であった為に何一つ残されてなどいない。

ただ、そうただ母親が母親という人間から血と臓物によって構成されたモノに変えられた日の記憶だけが残っている。

 

それが何であったのか

その場所が何処にあるのか。

そこで何があったのか。

母親が何をしたのか。

母親を喰らった化け物は何であったのか。

 

結局のところそれは何一つ分からないままに。

ただ化け物、あるいは妖怪とでも呼べるソレに母親と思しき女性が肉塊にされるシーンだけが頭に残ったのだった。

しかしそれ以外のことは何も、それこそ母親の顔すらも覚えてはいなかった。

 

だけどそれもまた仕方のないことで、その時において未だ私の精神は自己の確立を終えたばかりのころであったのだから。

そして月日が経つにつれて僅かに残されていた母親の面影も記憶の断片が摩耗していくかのように消えていってしまったのだった。

 

だから結局のところ最後に残されたのは私の命……ただそれだけ。

何故私があの場面から生き残れたのか。

化け物の気紛れか。あるいは別の要因があったのか。

それもまた詳しいことなど何一つ分からなかったけれど。

しかし何故か私の命は未だ終わりを迎えていなかった。

 

いえ……正確に言うならば今の私を生きているなどと表現することだ決してできはないのだろうけれど。

あえて言うのなら人間のように活動する――人形(ドール)とでも良いのだろうか。

人のように話し、人のように食事を取り、人のように睡眠をとる。

なるほど。外面だけを見れば確かに私は人間なのだろう。

けれど、その内面を見てみれば心臓の鼓動(うごき)はとうの昔に止まり果てた――ただ人の皮を被った人形(ドール)と変わらりのないもの。

 

なぜそんなことになったのか……。

確かに私はあの化け物による食事から生き残ったのだけど。

けれど母親を喰われ父親は何処に居るのかも分からない私が人知れぬ神社に一人残され生きていけるわけもないのだから。

だから一人神社に取り残された私。

普通に考えればそのまま私も死に果てる……はずだったのけど。

気が付けば、私は見知らぬ屋敷に連れ込まれ……そして一人の男に飼われるのだった。

 

 

そう飼われる。

飼育。飼養。蓄養。

言葉にすればただそれだけのこと。

 

ここは人知れぬ山奥に取り残された屋敷。

持ち主が何者であるのか、どんな経緯で私はここに連れてこられたのか。

そんなことは何一つ分からなかったけれども。

私に何を求められたのかだけは、その人物を一目見て理解してしまった。理解せずにはいられなかった。

そんなこの屋敷の持ち主は、ドブ川のように目を濁らせ、そしてその目に隠し切れぬ欲望を湛えた中年の男性であった。

ならばそこで行われる行為などきっと…………。

 

 

「いやああ! いやああああああああああああああああああ!!!」

 

 

私の性別を生物的に分類するならば、男子というものであったのだけど。

そして幼子ながらにもはや本能として、こうした行為を男と女で行われるものではないのだろうかと思っていた。

実際に私以外にも似たようにこの男に飼われていた者たちはみな少女であったのだから。

 

だが、そんなこと…………声も涙も枯れ果てるまでに男の欲望を吐き出される身にとってはもはやどうでも良いものだ。

そしてなぜか私はその男のお気に入りになったのか。

何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度何度も何度も何度も――――犯され続けられた。

 

 

「――――っ!! …………っ! ………!!」

 

 

それはまさに泥沼を浴びせられる行為。汚物の中でもがく私を男はただ嗤いながらに行為を続ける。

自分の根底から穢されていく儀式。

そこから逃れようとしようとも。

男はそれすらも快楽に感じるように悦ぶ。

 

そして……そんな夜を何度越えたころだろうか。

涙が零れ落ちていくごとに、私の心もまた零れ落ちていき。

声が枯れ果てるごとに、私の心もまた枯れ果てていった。

私はただ男の欲望を満たすためだけの存在。快楽を与える為だけに此処にいる。

そんな風に考える頃になると――。

 

気が付けば、私の心はその鼓動(うごき)を完全に止めていった。

いえ……実際にその生物としての心臓は確かにその働きを忠実にこなしているのだろう。

けれど、人として――人間としての心は完全に死に果てていき――気が付けば私の飼い主である男性が趣味で部屋に飾っている人形(ドール)と同質の存在になっていったのだった。

 

そして世界が全て黒く染まる。世界はこんなにも黒く汚いもなの……? 

そんな疑問を抱いた日もあったけれど。けれど今はそれの答えも知っている。

穢れているのは世界では無く――穢れているのは私。

汚いのも私。

黒く染まっているのも私。

だから世界はこんなに汚く見えるの。

だって穢れの底から見える景色もまた穢れているのなんて当たり前のことだから。

世界が暗闇に染まっているのは私の瞳が暗闇に染まっているから。

だから世界は、こんなにも醜いんだ。

醜い人形(ドール)。主の欲望を満たすためだけの傀儡。

それが――私なのだから。

いつの間にかそんな風に――考えるようになっていった。

 

そして、それから後は何一つ変わらぬ日常を過ごしていくととなる。

目が覚め、食事を取り、そして夜になれば男性の相手をする。

ただただそれだけの日々を過ごしていく。

 

 

「ふん…………今日からお前は髪を伸ばし続けろ」

 

 

それは何時の夜だった。

いつもの行為が終わった後になり、突然そう男性から告げられた。

もとから、散髪などここに連れてこられてから数えるほどしかしたことがなかったので、だいぶ長くはあったのだが私の髪が黒から白に変色していった辺りからその白い髪を男は特に気に入りだした。

 

なぜ、私の髪が真っ白に変色していったのか。

生まれた時は確かに黒であったし、私の周りにいる人間もまた黒髪であった。

しかし現実として今の私の髪は死にゆく老人のように白かった。

 

それはまるで私が生きるという生命の理から零れ落ちていることを表しているようで。

私としてはなぜこんな髪が気に入られるのか理解することなど決してできないけれど。

ただただ飼われているだけの私にその言葉を拒否する権利もまた意思もない。

 

 

そして日が昇り月が昇り、そんな風に世界が周り続けてそれなりの月日が経った。

嘗ては首にかかる程度しかなかった私の髪は気が付けば腰に届くほどにまで伸びていた。

けれど私のやることは何一つ変わっていなかった。

日が昇れば起き朝食を食べ、昼間は屋敷に居ない主人の変わりに屋敷の管理を私と似たような瞳をしている少女達とお互いに特に口を開くこともなくこなしてしく。

また主人は毎日この屋敷に来るわけではない。

 

というよりもここは恐らく主人の別荘か何かなのだろう。

たった一人の男の欲望を満たす為だけに草木が生い茂る山の奥深くに建てられた館。

周りにはほかに何も建物もなく、食糧や水なども週に一度、黒服を纏った男たちが主人と一緒に持ってくるのみで、それ以外の人など私は見たこともない。

 

だから私達は――あの男に飼われている人間達は互いに協力しながら生活をしている……などということはなく。

そもそも全員が人形のような存在なのだから。

あの男を満足させるためだけの人形が互いに支えあうようなことなどするはずもなく。

ただただ自分がしろと命じられた事柄だけを行っていく。

そして私が与えられた役目は料理を造ることであった。

 

別に料理といっても何か凝ったものを造るわけではない。

そもそも主である男は基本的に私達が造った料理を食べはしない。

だからこれは私達人形が食べるぶんを造っているに過ぎない。

しかし人形が何かを食べるというのも可笑しな話なのだけれど。

 

だけど私達人形は欠陥品の人形だから。

何かを食べながら動くことができないので私達は何か食べなければならない。

それを造るのが私の役目であるからこそ。

私はいつも通りに淡々と料理を作っていくのだけれど。

 

今日は偶々新しく来た少女と……あるいは新しくできた人形と、緒に料理をすることとなった。

私達に互いに名前はない。だって人形に名前が無いのは当たり前のことだから。

そして私達を呼ぶ相手は誰も居ないから。

あの男も別に私達を名指しで呼ぶ必要もないみたいだから。

 

だから私達は互いに呼ぶ名前も無ければ、互いに会話もせず与えられた役割を果たしていくだけだったのだけれど。

その人形は私よりも少しだけ年上だろうか。あの男が何処から拾ってきたか、あるいは奪ってきたのか。

私達は互いの境遇など知りはしないので、どうしてこの屋敷にやってきたのかという経緯は全く知らないけれど。

しかし結局は男の為にある人形であるという点さえ共通していれば。

そこに至る過程なんてどうでも良いことであったのだけれど。

 

けれど新しく入ったこの人形は――まだ人形になって日が浅いが為かもしれないが。

あるいはまだ人間の心が残っていたからこそもしれないけれど。

私が料理を作る横で何かを呟く。

 

 

「ねぇ……。貴方は世界の美しさを知ってる?」

 

 

何かを言っている。それは人の言葉だから。人形である私が何かを答えるような呟きではないからこそ。

そもそも……私はその問いに対する答えなんて持ち合わせていない。

だから私は何も答えずただ淡々と料理を続けるけれど。

しかし彼女はそんな私を気にする様子も無くただ呟き続けたのだった。

 

 

「私は知ってるよ。世界の美しさを。この世界に広がる幻想を」

 

 

本当にこの少女は一体何を言っているのだろうか……。

世界はこんなにも醜いというのに。この現実世界は何処までも穢れているというのに。

穢れた人形が見る世界なんて全て穢れているのが当たり前なのに。

 

そしてそんな穢れた世界に対して何も感じずになるからこそ私達は人形だというのに。

穢れた場所で穢れた行為を受け続ける人形が穢れていないはずがないからこそ。

私達が見る世界もまたどうしようもなく醜くみえると言うのに。

この少女はまだそのような行為を受けていないのだろうか?

それともこの少女はそのような行為を受けてなお、世界が美しく見えているのだろうか?

 

そう思った時に……初めて私はその少女の方へ顔を向けると。

初めて見る彼女の瞳は、私が見たこともない色に輝いていた。

私が見る瞳は皆死んだように輝きを無くすか、泥水のように染まっているというのに。

 

その少女は見たこともない色に瞳を染まらせているのを見て。

だからこの少女が見て居る世界は……。

私とは完全に違うのだと理解した。

 

 

「この世界はどこまでも美しいの。どうしようもないほどに美しいこの世界を……私は知っているから。だから――」

 

 

だから――。だから……何だと言うのだろう。

その時の少女の呟きを確かに私は聞いたけれど。

だけど今の私ではその少女の言葉を決して理解はできはしなかった。

 

人形である私には世界はどうしようもないほどに醜かったから。

人形に人の言葉は理解はできないから――。

少女の呟きはそこで止まり。

後は互いに料理を続ける音だけが響き続けたのだった。

 

 

 

 

そしてそれからしばらくの月日が流れたある日から……少女の姿は消え去った。

いえ、正確に言うならば私がこの手で――。

 

 

 

 

男は、私達人形の主人たるその男はある日を境に、私達を壊すことに快感を見出した。

壊す。殺す。滅ぼす。弑する。害する。

ただ私達を犯すだけでは満足できなくなった男は、ある日ついに過激を増した行為の末に人形を殺した……らしい。

 

始まりが偶然か、あるいは故意かは知らないけれど。

けれど、たった一度でもソレを経験してしまうと男はついに箍が外れたかのように私達を過激な行為の末に惨殺し始めた。

いえ……その男にとって犯すことも殺すことも同意味だったのかもしれないけれど。

ただ自身が快感を得る為の行為という意味においてはそれは等しく同じものであったからこそ。

 

そして初めは自身の手で犯していたその行為を、ついに男は私達自身の手で犯させるようになった。

人形と人形の殺し合い。

そもそも人形にまで既に堕ちてしまっている私達にとって殺すも何もないのだけれど。

 

余りに無価値で。

余りに意味が無く。

余りに空虚なその行為に、けれど男はそれを眺めることに過剰な興奮を覚えているようだった。

 

そしてその行為の順番が……ついに私にも廻ってきた。

相手は……あの少女。

私に世界の美しさなどを語りかけてきた、人形になりきれなかったあの少女であった。

 

手には小さなナイフが一本。

暗い館の地下において互いの手に持つソレを持って、息がかかるまでの距離にまで歩み寄る。

もはや戦闘と呼べるような行いなど起きはしない。

ただ先に動いた方の人形が相手の心臓にナイフを突き立てて。

相手が動かなくなるまでナイフで刺し続ければ……それだけで終わる行為。

 

別に生きたい訳ではなかった。

別に殺されるのが怖いわけでもなかった。

そもそも私はもう既に人形なのだから。

泥を浴び、穢れを纏い、暗闇の世界でただ蠢くだけの存在に過ぎない私にとって、ただ血を送り出すだけの心臓などもはや止まってしまっても良かったのだ。

 

だからこそ、私は彼女に刺されるつもりであった。

もはやこんな人形が動き続けるよりも、未だ人形に成りきれない彼女が生きる方があるいは意味があるかもしれないと、ただそんなことを思っていたのだけれど。

 

しかし彼女は決してナイフを振りあげることは無く。

ついにはその手に持つナイフを、地面に捨てたか思うと。

その両手を私に向けて……。私に抱擁を求めるかのような恰好をとると――。

ただ一言呟いたのだった。

 

 

「私を刺して――。貴方が私を……殺して?」

 

 

そう私に囁く彼女の表情は、死を怯えるようでもなければ。

或いは人形のように何も映さぬ無表情でも無くて……。

あの日私に話しかけてきたかのように。

あるいはそれ以上に――。

どうしようもないほどに……輝いていた。

 

それはまるで宝物を見つけたかのような表情であったから。

 

私は、それに惹かれるかのよう。

気が付けば、彼女の心臓にナイフを突き刺していたのだった。

 

 

「っっ!!」

 

 

一瞬だけ浮かべたのは確かに苦悶の表情であったけれど。

しかし彼女がその後に浮かんでいたモノは――。

 

 

「あはは――。あは……は……ははは。あは。……っ。あはっ……。あはははっ……」

 

 

……それはまさに歓喜の表情であった。

嬉しくて。楽しくて。

心の底から湧き出るかのような彼女の喜びが、確かに伝わってくる。

彼女の表情から。彼女の声から。

そして……彼女に突き刺したナイフを通して感じる彼女の鼓動から。

ナイフを伝って流れ出てくる彼女の温もりが感じる血から。

 

そして、彼女は自ら私に向けて抱きついてくる。

そんなことをすればナイフはさらに深くに刺さるというのに。

けれど……彼女はそんなことを気にもせず。

あるいは自らそれを望むかのように、深く深く私を抱きしめたのだった。

だからこそ……彼女から溢れ出ている紅い血は、ついに私の胸元にまで注がれる――。

 

その時に、私が覚えた感覚を何と呼べば良いのだろうか。

分からない。

分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。

不快なわけでは無い。嫌なわけでも無い。

ただ……そうただ、それがわけも分からず、ただ私の知らない場所にまで流れゆくようで。

 

思わず彼女に……。私の腕の中でまさに死にかけている彼女に向けて。

私は、声をかける。

 

 

「どうして……? どうして……貴方は……そんなにも……嬉しそう……なの?」

 

 

そんな――私の言葉に。

彼女は最後の力を振り絞るかのように――私に向けて笑みを浮かべながらに言葉を紡ぐ。

 

 

「あは――。だって……。だって……私は世界で一番……綺麗な場所で死ねるから。清く……美しく……綺麗な場所で死ねるから……だよ」

 

 

知らない。知らない知らない知らない。

 

私はそんな場所なんて知らない。彼女の言っていることなんて知らない。

だって世界は、どうしようも無く醜くて。

私は、どうしようもないほどに穢れているのだから。

だから……彼女が見ている世界なんて私は知らない――。

 

 

「ふふ。ねぇ――知ってる? この殺し合いの儀式……あの男に提案したのは……私……なの。あの男にこの……儀式を始めさせる為に……最初の一人を殺したのも……私。あは――。貴方に……殺されたくて……貴方の中で……死にたくて……。世界で何よりも美して……幻想的に綺麗な……貴方を私の血で染めたくて」

 

 

恍惚に。 夢心地に。

私の耳元で囁くその言葉は――余りにも彼女の欲望に満ちたモノであった。

それこそ、それは人形が浮かべるような表情では無くて――まさに人間のみが浮かべる姿であるからこそ――。

 

 

「あは――。あはは……。どうしようもないほどに……美しいこの世界で……私は死ねるの。だから……そんな世界を私にくれた貴方に…………お礼に教えて……あげる……。綺麗な世界を手に入れるなんて簡単な……ことよ。自分の欲望に……従いなさい。どこまでも……強欲に。誰よりも……貪欲に。ただそれだけで……貴方も……きっと……私が見たような幻想世界に……辿り着ける…………」

 

 

そんな言葉を残して……彼女はついに動かなくなった。

力を完全に失い、ただ私の胸に寄りかかりながら血を流し続ける彼女を、私はただ見つめ続けることしかできなくて。

ただただ彼女の言葉だけが私の中を木霊し続けるのだった。

 

結局のところ、彼女の言っている言葉の意味は……やっぱり分からなくて。

 

彼女から流れ出て、私の胸に流れ続ける血を浴びた私は……。

彼女の血で濡れた私の躰を見下ろせば……。

紅く紅く染まるこの躰の何処が綺麗なのかなどまるで理解できなくて。

むしろ、もはや自分は本当の意味で穢れてしまったのだと思うからこそ。

 

それは人形を壊したなどということでは無く、私は間違いなく人を殺したのだと言うことを……この紅い血は私に向けて悠然と語りかけてくるようであるからこそ。

この躰はまさに余すことなく汚れたのだと理解するのだけれど。

 

しかし……だからこそ。

そんなことを思うからこそ、私は自分が人形としても壊れてしまったのだということだけは分かる。

もはや今まで通り人形でいることなんてできないことを理解する。

だって……。

だって。だって。だって。

だって――。

 

 

「……っ」

 

 

私は、動かぬ少女を抱きしめがらに。

そんな少女の血で濡れながらに。

生まれて初めて、訳の分からない感情に翻弄されて。

 

きっと……。彼女が見せた表情は――。彼女が聞かせた言葉は――。彼女が流した血は――。

私の奥に。私の奥底にまがれ注ぎ込まれ。

生まれてから一度たりとも動かなかった私の中にある歯車に触れたのだ。

 

そして、それはもはや止めようもなく溜まりゆく。

あるいは溢れゆくかのように私の中で流れ続ける。

少しづく少しづく流れゆくように。

ほんの僅かなそれも、けれど確かに私のなかに溜まっていくからこそ。

 

その日を境に人形としての私は確実に壊れていき。

 

 

 

そして……そんな少女の血を浴びてから数年経ったある日の夜。

私の中でついに、何かが完全に壊れていったのだった。

 

 

 

主人とのいつもの行為が終わった後に私はふと窓の外を見上げると。

いつもと同じ夜。ただ主人の行為を甘受する日々の終わりに。

 

 

「…………ングッ………んぁ……」

 

 

隣には行為に満足したのか主人が寝息をたてている。

やはりその行為に対する忌避感など何処にもありはしないけれど。

 

だって私は人形(ドール)。その行為を甘受するただめのお人形なのだから――なんて。

そんな言い訳はきっともはや出来ない。

 

だって私は……。

もう……。

きっと……。

だけど……。だから……。

 

だから、これはそんなこれまでと何一つ変わらない日々の一つにしなければはずなのに。

私もまた、主人の隣でいつものように眠りにつき、朝になれば何一つ問題が無いと言うのに。

 

だけど私は、ついに何かに誘われているように屋敷の窓へと近寄る。

あるいは、それこそあの少女が誘っているかのように。

だけど、きっとそれをしたら絶対にいけないという思い。

だって、その先にあるモノは……。

その窓を開けてしまえば……。

その窓の向こうにあるモノを見てしまえば、きっと私は後戻りができなくなるという確信があるからこそ。

 

だけど。あるいはだからこそ……。

 

私は、もはや自分では抑えようが無くなるほどに。

フラフラとしながらに窓際で歩み続ける。

人形(ドール)が――人形(ドール)であるならば勝手に動いて良いわけがない。

主に言われるがままに穢れていくだけの傀儡が何かをして良いわけでは無い。

 

だというのに、私の手は窓際についに届いてしまい。

ついに。

ついに――。

私はソレを開く。

 

だけど……。

だけど――そこに待っていたのはタダの暗闇。

そう、ただの暗闇なのだ。

何も映さず。何も見えぬ闇。

だって……今は夜なのだから。

私と同じ闇が世界を支配しているのは当然のこと。

穢れた人形(ドール)に相応しい世界がそこに待ち受けた居たという――ただそれだけのこと。

 

そう、だから私はそのまま後戻りすれば良い。

今ならばまだ間に合う。

世界には闇が広がっていて、私もまた闇に蠢く人形(ドール)として暗闇の世界が過ごせば良い。

だから――。そう……。

私は決してソレを見てはダメなのだ。

世界には闇なのだ――。闇しかないのだ――。

 

 

ダメだ。ダメだ。ダメだ――。ダメ――ダメダメダメダメダメ。

ダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメ。

ダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメ。

ダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。

ダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。

ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ――。

 

 

ダメ――。

それを見てはダメ――。

 

人形(ドール)としての私からの警告。

もしもそれを見てしまえば、人形(ドール)としての私では居られなくという確信。

それだけはダメだという全身からの警告を――。

 

けれど……私はそれら全てを無視して。

それまで決して見よとうしなかった――目をついに開くのだった。

ついに、私はソレを視界に入れる。

暗闇の世界で爛々と輝くソレ――。

 

 

「あぁ……………なんて……………」

 

 

あぁ……。

あぁぁあぁぁあああああ。

あああぁぁあぁあぁああああああ――。

 

思わず言葉が漏れ出るほどに。

そこにあったのは、光り輝く満月であった。

それは生まれて初めて見たと言って良いほどに美しく輝く月。

 

本当に美しいと言って良い満月。

満月などこれまでも何度も見てきたと言うのに。

それでも今宵の満月は嘗てと比べるほどもないほどに美しかったのだ。

暗闇に染まっているはずの私すらも光らせる満月が其処にあった。

意味が分からない。泥沼の底に居る私が何かを綺麗に思うはずがないのに。

人形が何かを綺麗に思うことなんてないのに。

 

駄目なのに。駄目なのに――。

何かを綺麗だと思ったらいけないのに――。

私は人形。穢れた人形。心を持たぬ傀儡であるはずなのに。

なのに……。

どうして……。

 

ああ…………どうして。 

こんなにも美しいの。

あるいはこれこそが、あの少女が私に言った世界か。

それともあの少女が流した血が、私の中にまで溢れ出たそれが見せる世界か。

人形(ドール)では決して見る事のことのできない世界。

人形(ドール)のままでは絶対に感じることのできない思い。

 

世界はこんな醜くて。私はこんなにも穢れていて。

そんな私が何かを美しく思うはずがないのに。思ったらいけないはずなのに。

美しいモノなんて世界の何処にもありはしないはずであったのに。

 

そうであった。

そうであったはずなのだ。

それがほんの数刻前、あの満月を見るまでは。

 

ああ……だというのに。

今の私は……もはや人形(ドール)として完全に壊れたしまったからこそ。

 

気が付けば、私は屋敷の外を走っていた。

寝ている主人が起きないようにベッドから抜け出し屋敷から抜け出したのだ。

部屋から出ることすら許可されていないと言うのに屋敷の外に出るなど殺されても文句は言えないだろう。

 

だけど私の歩みは止まること知らなかった。

ただ一歩でもあの月に。

あの満月に向けて走り続けた――。

 

自分が何をしているのなどもはや分かりなどしなかった。

理解など出来るはずもなかった――。

未だ人の心を保っていたころに主人からあらゆる屈辱や恐怖を与えられようとも私はあの屋敷からは逃げ出さなかった。

逃げ出そうと思える心などなかったのに。

 

 

だって、言うのに。

既に何をされようとも何一つ感じない人形(ドール)になっている今になってあの屋敷を飛び出すなど。

しかも逃げるのではなく、ただ意味もない衝動に駆られた短慮な行いでしかないというのに。

いえ、そもそも私は感情の無い人形であるはずなのに。

人形が勝手な行動などとるはずがないというのに。

なのに今の私は一体何をしているのだろうか。

 

人形(ドール)として壊れてしまった私は、ならば一体何であろうのだろうか。

 

そんな意味の分からない感情に振り回されながらに山の中を走り回るなど。

本当に理解のできない行動を――。

けれどその時になって思い浮かべたのは、何年も前に聞いた少女の声。

 

 

「私は知ってるよ。世界の美しさを。この世界に広がる幻想を」

 

 

あの時は決して理解することのできなかったその言葉も。

世界が醜さで覆われていたあの時は決してみることの叶わなかった幻想を。

死の間際にまで呟かれたその言葉を。

あるいは、今なら分かるかもしれない。

いえ、きっと今見て居るものこそがまさにその幻想。

美しさで染まる世界の光景。

私は確かにそれを見ている。幻想に染まる世界を見ることができているのだ。

 

でも……それなら……。

私は――誰?

 

人形は幻想を見ない。穢れた人形が見るべき世界は全て穢れた世界でなければならない――はずなのに。

なら今見ている光景は何?

美しさを感じている私は何?

私は何に美しさを感じているというの?

そんな疑問が頭の中を駆け巡るけれど。

それに対する答えなんか分かるはずも無く、しかし一つだけ分かったことがある。

 

 

「この世界はどこまでも美しいの。どうしようもないほどに美しいこの世界を……私は知っているから。だから――」

 

 

あの時呟いた少女の答えの先にあったもの。

だから。

だから……。美しい世界が確かにそこにはあるから。

もしもそれを知ってしまったとしたのなら。

だから、それを追い求めずにはいられない。

 

 

そう、まるであの少女が言ったように。

強欲に。貪欲に。あらゆるものを利用することすら厭わないそのあり方。

ただただ自身が見つけた幻想を追い求めるために他者すらも、あるいは世界すらも侵した……あの姿に。

 

 

だから私は歩みは止まることつもりなんてなかった。

もはやこの月が再び沈んだ後がどうなろうとも良かった。

 

だから今だけは……。どうか今だけはあの月に手が届けと。

月に導かれるように私はただ山頂をめざし歩き続けた。

暗闇に染まる世界を――ただ一点の光をもって輝かせるあの月に。

それはあるいは幻なのかもしれない。人形の私が見るべきでない幻想なのかもしれない。

だけどそれでも良い。例え幻であっても構わない。

夜が明ければ跡形も無く消え去るものであったとしても。

それでもなお今は――この瞬間においては確かに其処にあるのだ。

 

美しく――。華麗に――。荘厳に――。壮大に――。端麗に――。艶美に――。

 

私にとって暗闇しか無かった世界を。

穢れしかなかったこの世界を。

醜いもので覆われた私をただ一つ輝かせているのだから。

だから今だけは何も考えずに、ただ私はあの月を目指し手を伸ばし続けた。

 

 

そして気が付けば私は木々が生い茂る山の中を走っていた。

少しでも高いところに。

あの月に手が届くかもしれないほど高い場所へ。

そこまでいけば。

もしかすれば何かを感じるかもしれないと。

人形(ドール)である私にも何かが感じられるのではないかと。

穢れた世界が何かが変わるのかもしれないと。

全てが私の妄想に過ぎないかもしれないけれど。

それでももうこの歩みは止められない。

 

 

 

けれど、私はついにその月に辿り着くことはできなかった――。

 

それは……頂上付近まで登った時に襲ってきた。

 

ただ上だけを見て。

前へと歩み続けていた私は突如としに襲いかかる圧倒的暴力――。

 

 

「ぐぁっ……!! つぅ!!」

 

 

唐突に脇腹に与えられた衝撃――!

吹っ飛んだ時に地面から叩き落された痛みで一瞬で呼吸が止まり朦朧とする。

一体何が――!

何が起きたのか。

なんとか震える足に力を入れ先ほど吹っ飛ばされてほうを見ると。

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!!!!」

 

 

そこに居たのは、まさに一匹の化け物――!

遥か古代に滅び去ったっと言われるあやかし。

現代では決しているはずの無い存在。

決して熊や猪と言った生き物ではない。

あえてそれを呼ぶとするのならば――――牛鬼。

 

嘗て私の母を喰らったのかもしれない化け物。

それが今再び私の目の前に現れた。

 

二本足で立つソレは人間の体をゆうに二倍の大きさはあり。

そして頭には牛とも鬼ともつかぬものが乗っかっている。

目は血走り口から涎がダラダラと流れている。

そして聞くだけで身の毛もよだつような鳴き声とも叫び声ともつかぬ声をあげながらソレはこちらへとやってくる。

その歩みは決して早くはない。

一歩一歩踏みしめるようにこちらへとやってくる。

けれど、私は既にそれから逃げる余力など残ってはなかった。

 

先ほどの一撃で恐らくはアバラが折れたのであろう。

立ち上がることは出来るがそれだけだ。

走ることはおろか逃げることすら出来はしない。

もはやただ待つことしかやることはないのだ。

 

そして化け物は歩みは遅いが決してこちらを逃がしはしないだろう。

あれは間違いなく捕食者が獲物をみつけたそれだ。

こちらが喰われるかもしくはただ八つ裂きにされるかは分からぬが、分かることが一つだけある。

それは私が此処で死ぬと言うことだ。

それはもはや確定事項だ。

もう数分も――いや後数十秒もすれば私の命はおぼろげながらながらに覚えている母が喰われた日のように食い散らかされのだろう。

 

 

「……あは。あははは」

 

 

そんな現実を前にして――。

思わず笑いがこみあげてくる。

醜い人形(ドール)が醜い場所から逃げ出した先に待っていたのは醜く聳え立つ化け物との邂逅なのだから。

 

いえ……これこそがやっぱり私にあっているのか。

醜みものは醜いものを呼び寄せる。

泥沼に居るべき存在が不遜にも空を見上げようとも。

例えそこに手を伸ばそうとしようとしたところで――結局待っているのは別の泥沼に過ぎないということなのだから。

だからこそ――この場所こそが。

この醜い化け物の居る場所こそが私の居るべき世界ということなのだから。

 

だから化け物が涎を垂らしながら迫ってくることに恐怖は湧いてこなかった。

だって此処こそが私が居るべき世界なのだから。きっと私はこの化け物に殺されるのだろう。

そして死という恐怖は生があってこそ感じるものなれば。

今日まで決して生きてきたと言えない私に死に恐怖する権利など存在しない。

そういう意味ならばやっぱり私は人形(ドール)なのだろう。

 

ああ……けれど。

うん。やっぱりあの月は綺麗だ。

あるいはこの化け物もあの月に誘われてここまで来たのかもしれない――。

 

 

「…………あー……お月様……やっぱり綺麗……」

 

 

だから……うん。

これだけ綺麗だと思える月の下で食い殺されるのなら。

それはあの屋敷で朽ち果てるよりきっと、何倍も意味があるのかもしれない。

 

ただ一つだけ心残りがあるとするならば。

もう少しで手が届きそうなところまで来たのに結局は届かなかったことか。

それだけが残念ではあるけれど。

 

そして私は横たわりながらただ夜空を、あの月を眺めながら。

最後の瞬間を迎えるのを待つ。

 

待つ。

待つ。

待つ。

待つ。

待つ――――――けれどその瞬間はどれほど待っても訪れはしなかった。

 

 

 

だから、体を起こし夜空に向けていた目をそちらに向け――。

そして――。

私は――。

 

 

 

 

 

 

 

その光景を目にしたのだった――。

 

 

 

 

 

 

 

それは――それこそがまさに月。

他者の追随を一切許さないほどに輝く月のように。

 

暗闇の中でなお輝く――まさに天満月。

 

私が先ほどまで手を伸ばそうとしたそれが。

ほんの目の前に現れた――。

 

 

あぁ――。

 

 

出会った。私は遂に出会ったのだ。

幻想に――本物の幻想に!

 

まさに世界を黄金に輝かせる満月に!

 

醜い世界が一瞬の後に黄金色に輝きだす。

まさに幻想的なまでの美しさを持ちうる存在。

 

今こそ完全に理解する。

どうして今宵これほどまでに私の心が躍ったのか。

何かに導かれるように此処までやってきのは、彼女が――彼女こそが此処に居たから。

どれほど離れて居ようとも。

それでもなお世界を輝かせる存在。

穢れた人形であった私が見るべき暗闇の世界すらも輝かせるのだった。

 

そして――生まれてから一度も動かされなかった私の心臓が。

その瞬間から初めて。

―――――――その鼓動を始めたのだった。

 

 

「あらあら。こんなところに逃げていたのね。やっと見つけましたわ」

 

 

金の長い髪を夜の闇に靡かせて。

妖艶に笑う唇を白い扇子で覆い隠し。

傲慢に。

高飛車に。

優雅に。

美しく。

上品に。

 

牛鬼の前に一人の女性が現れた。

それは運命との出会い。

私が恋い焦がれることとなった。私にとっては私の全てとなると言って良い存在。

そんな彼女とのは初めての邂逅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




とりあえず第二章までは書き溜めもあるので最後の推敲をしながらサクサク更新してきます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。