最近紫様が非常に楽しそうにしている。
それははこの間、博霊大結界の綻びから抜け出した妖怪の討伐に向かってからだ。
博霊大結界は外と内の常識を分ける結界。
その結界により外の世界では非常識であろうことがこの世界では常識となる。
そしてこの世界での常識が外の世界における非常識となる。
外の世界における非常識――――幻想、幻、妖、神、霊そう言ったものがこの世界では常識となりうる。
幻想が幻想として、しかして現実としてあり続ける為の結界が博麗大結界。
だがその結界が現在は些か不安定となっている。
理由は博霊結界の管理者たる博霊の巫女の不在。
先代博霊の巫女が亡くなったのがつい先日のこと。
現在は次代の博霊の巫女となりうるであろう霊夢も未だ巫女とは呼べず。
博霊の巫女は空白となっている。
博霊大結界は博霊の巫女が居て初めて完成しうる。
なぜならそれはそういう理の元に出来ているから。
博麗の巫女とはその鍵を担う存在であるからこそ。
ゆえに巫女の不在がとなれば、そこに綻びが生ずることとなる。
巫女という理を欠く結界ではそれは十全の効果を発揮しえない。
それはいかな紫様といえでも覆すことのできない理。
なので紫様とて出来ることは幻と実態の境界による幻想郷の維持と博霊大結界の綻びの修復を行うのみであった。
けれどその弊害はどうしても生まれてしまう。
その一つが僅かではあるが妖怪が結界を越えて出入りしてしまったこと。
普段は大妖怪であろうともそうそう通ることすら敵わぬ結界も今ならば綻んだ場所さえ見つけてしまえば僅かでも力があれば強引に突破することが出来てしまう。
その影響で今までは幻想郷に存在しえなかった妖怪がこちらに断りもなく侵入してきてしまった。
西洋の妖――吸血鬼。
この幻想郷においてもなお彼らの力は強い。
そして彼らは自らの種に非常に誇りを持っている。
言ってしまえば傲慢だ。
まあ、それも妖怪であることを考えれば当たり前の話ではあるのだが。
そんな彼が幻想郷に入り込んだ。
さてこのまま平穏無事に…………とはいかないだろうな。
というよりも既に事態は動き始めているのだから――。
これからいろいろと騒動が起きてくるだろう。
紫様と私はそれに対処していかなければならない。
この幻想郷の管理者と、そしてその式神として。
そして、もう一つ対処しなければならないことが出て行ったほうの妖怪についてだ。
本来ならば大妖怪と言えどもそう易々と出ることの敵わぬ結界も今ならば綻びの場所さえ見つけてしまえば後は力押しで外界に出ることが可能となる。
そしてその綻びから数匹の獣が――――理性なき妖怪、ただ本能から人を喰らおうという低能な奴らが出て行ってしまった。
今の幻想郷の妖怪はむやみに人を喰らおうとはしない。
それはここが人と妖怪が共存する為の世界だからこそ。
知能あるものほどその理に従っている。
だが中にはそれに反発する者もいる。
いや、正確に言うならばその理に従うほどの理性なき妖怪はその本能の赴くままに人を喰らおうとする。
だがそんなことをすればすぐさま巫女に退治されることとなのだが。
ゆえに奴らは外界に逃れようとしたのだろう。
なので私たちはその処理をしなければならない。
「というわけで紫様。お仕事です」
「えー……良いじゃないそれくらい。放っておいても問題ないわ」
「ダメです。そんなことを言って本当は面倒なだけではないですか。たまには真面目に仕事をしてください」
「ぶー…………この仕事妖怪……」
「…………何かおっしゃいましたか?」
「なにも言ってないわよ」
そう言ってやっと重い腰を上げになる紫様。
もちろん紫様とて遊んでいるわけではないだろう。というより最近はここ十数年の中で一番働いているかもしれない。
そして紫様も外に逃げた妖怪を始末が必要なことくらいとうに分かっているはずだ。
外の世界で幻想郷の妖怪が大暴れでもされたら下手をすれば幻想郷という世界が発覚される危険性すら存在するのだ。
そんなことを紫様が許容されるはずがない。なにせこの方は幻想郷の管理者であり、そしてなによりこの世界を誰よりも愛しておられるのだから。
ゆえに普段であればこのような事態になれば私が言わずとも自ら解決に向かっているだろうが。
先代の巫女が亡くなり数日。
このお方もこれで情の厚い方なれば。
色々と思うところもあるのだろう。
「真面目にお仕事をなされれば良いこともきっとありますよ」
私は着替えをすませスキマの中へと消えゆく紫様の背に向けそう声をかけた。
そしてそれに振り返ることなく右手だけを軽く振り応えながらそのままスキマごと消え去っていった。
とりあえず……これで外の問題はなんとかなるだろう。
私はそう思い中の問題へと意識を向けていった。
そしてそれから数日が経って紫様が幻想郷へと帰られたのだが、先代が亡くなってからは見せたことのない笑みを浮かべながら私へと報告してきたのだ。
「ありがとう藍。貴方の言う通り真面目に仕事をすれば良いことがあったわ」
「はぁ…………どのようなことがあったかお聞きしても?」
「ふふ……可愛い子を見つけたの。面白い子。綺麗な子。人でありがながら人とは思えぬほどに澄んでいて、それでもやっぱり人間なの」
嬉しそうに楽しそうに話してくる紫様。
よほど気に入った人間を外の世界で見つけられたのだろう。
これほどまで紫様が嬉しそうに話す人間など博霊の巫女ですらありえない。
いったいどういった人間であるのか。
「紫様に気に入られる人間ですか。ではその子も幻想郷に招き入れるのですか?」
神隠し。
ようはスキマを使った拉致のようなものだが。
紫様にまれにそうやって外の人間をこの世界へと招き入れる。
「いいえ。そんな無粋な真似はしないわ。あの子には自分の力で此処まで来て貰う。私の物になりたいというのならそれぐらいやり遂げて貰わなければ」
「それは…………」
紫様はそれが出来て当たり前のように言うが。
そんなことが出来るのだろうか。
此処は幻想郷。
結界に覆われた幻想の世界。
そこに人間が。外に住まう人間が自らの力のみで辿り着く。
はっきり言って百年かけても不可能だと思うのだが。
「その人間は何かしらの能力持ちですか?」
「どうかしら…………はっきりしたことは分からないわ。でもそうね…………あの紅色の瞳ならきっと私の住まうこの世界も見つけられるはずよ」
「はぁ…………」
私はそれに曖昧な返事しか出来なかった。
まあ興味もあるが紫様がそう言うのならそのうち会う機会もあるだろう。
そう思い私はその記憶を意識の奥底に沈み込ませ。
未だ解決していない現実の問題に意識を再び向けて行った。
そして――――。
気が付けば――――。
数年の歳月が流れていた。
この数年。まさに動乱の季節であった。
吸血鬼異変から始まった妖怪同士の紛争。
スペルカードの普及。
様々な妖怪や神による異変。
私も紫様の式として色々と働かされた。
ゆえに完全に忘れていたのだ。
あの日紫様が言った人間のことを。
そうした中で、今日は久方ぶりにのんびりと過ごせる日であったからこそ紫様と橙と三人でお茶を飲んでいた時であった。
それまで私達と共にゆったりとお茶を飲んでいた紫様が、けれど突然とその動きを止めた。
「……どうかなさいましたか?」
普段とは違うその様子に、あるいは新たな異変が起こったのではないだろうかと思ったのだけれど。
しかし紫様は私の問いに答えることなく、ただある一点を――博麗神社がある方向をただ見つめ続けいたかと思うと――。
「ふふ……。来たわ」
「……紫様?」
普段とは違うその雰囲気に。
笑みを――紫様が普段浮かべている演技染みたモノではなく心から、見るものを思わず魅了するような笑みを浮かべながらに。
私の声も聞こえないかのように、何かに浮かれたかのように動き出す。
「遂に来たわ――。あの子よ」
「……あの子?」
「藍は此処で待っていないなさい。私は、あの子を迎えに行ってくるわ」
そういうが早いか、紫様はスキマに潜り込み屋敷から姿を消した。
あのような紫様の姿を長年の付き合いがある私でもほとんど見たことがなかったからこそ――。
「紫様はどうしたのでしょうね……?」
「……ふむ。なんなのだろうな」
そんな橙の質問に、むしろ私の方が答え欲しいと思いながら。
だからこそ曖昧な答えを出すことしかできなかった私は……。
とりあえず紫様が出て行ってしまったが為に食べ掛けのままおいてあるお茶菓子を片付けようと思ったところで……。
「藍様。紫様のスキマがまだ開いたままになっているみたいですよ?」
そう橙から言われて、そちらを見てみると。確かにそこに未だスキマによる境界の裂け目が存在した。
本当に珍しい……。
本来であればすぐに閉ざされるであろうそれが、未だ開いたままということは紫様が閉じ忘れたということであるからこそ。
あの態度は演技などではなく……本当に浮かれていたのだろうか。
ならば何があの方をそうしたのだろうと思い。
ほとんど好奇心に近い想いから。
そのスキマを覗き見てみれば……。
そこに居たのは――真っ白な少女であった。
白。純白。清純。一切の穢れを感じさせないその少女の姿を見たその瞬間に。
私は思い出した。
何年も前に一度だけ紫様が口にしていた人間のことを。
外の世界で出会ったという、面白く綺麗でそして人でありながら人と思えぬほどに澄んている人間のことを。
嘗て見せた紫様の楽しそうな姿をほんの先ほど見せた浮かれたような姿も……なるほど。
あの少女の姿を見れば、理解する。
あのような人間であれば紫様が興味を持つのも納得する。
幻想的に美しい、紫様ならばあの人間をそう称するだろう。
あの少女を最初に見た瞬間に抱いた感想が白ならばその後に感じた印象はむしろその真逆。
穢れ穢され、汚れ行く先を自ら望む愚者のようでありながらも。
けれども、それでもなお彼女が美しい、むしろそのありさまこそが美しいと思えるようで。
そんな姿こそが、彼女が人間だと告げている。
人を超えてく美しく、されどどこまでも人である。
神でも無く、霊でも無く、ましてや月人でも無く彼女はこの地に生き、この世界の穢れを浴び、それでもなお思わず目を細めたくなるほどに、輝いて見えるからこそ。
そんな彼女を眺めていると。
実に簡単に。
余りにも気軽に。
事の重大さに比べて、信じられないほどに軽く――。
八雲の名をその人間に付けた。
「ら、藍様!? 紫様があの人間に八雲の名を与えちゃいましたよ!?」
「……あぁ。そのようだな」
橙の驚愕も、私もまた同じような思いを持っていたからこそ。
明確な答えを彼女に返してやるこもできずに、ただ紫様の真意を考える。
名を付ける。名付けという行為は実に多くの意味をもつ。
特にこと言霊に対する概念が存在する東洋神秘において、親が子に名を付けるという行為以外において、他者が他者にその名を付けるという意味はその者を支配するという絶対令呪の意味すら持ちうるほどに、その行為がもつ意味は重いけれど。
稀に、けれど確かに神が人の子に名を付けるという行為は行われてきたことだけれども。
しかし妖がしかも紫様のような大妖が自らと縁の無い人間に名を付けるというその行為は、紫様は一体何を考えているのか。
しかも聞いていると。琥珀という名も紫様から与えられと言うならば、それだけでも普段の紫様からすると信じられないような行為な上に、八雲である。
八雲。紫様とその式である私、この世界において僅か二人で出来ている一族であった。しかし、今この時において、そこに新たな人間加わったということになる。
ならば紫様は彼女もまた自身の式に加えるつもりだろうか?
いや……。それはいくら紫様とて無理だろう。
式とは結局のところ幻想に新たな形を具現化する為のものなのだから。
動く道具とも言えるその在り方は、そも初めから明確な形をもつ人間である彼女にそれを適応させることは不可能である。
ならば、紫様は式としてではなく、人として人のまま使役しようとしている?
だからこその名付けか?
式という術式による支配ではなく、名を与えることによる魂の呪縛を狙ったうえで彼女を操るつもりだろうか?
なんて。
そんな風に。
私が考えていると――。
「藍様。紫様……何だが凄く楽しそうですね」
そんな橙の声で聞こえてきて。
私はその時になって、その人間ではなく、その人間と話している紫様を見て……。
そこにある表情を……普段見せる陰謀を図るような笑みではなく純粋な、それこそもう何年も見せてこなかった澄んだ笑みを浮かべている……そんな紫様の表情を見ていれば。
そこにある答えなど、深い理由など実はありはしないのかもしれないと思えてきて。
それこそ……実に単純に。
「紫様は……どうやらあの人間が気に入ったみたいだな」
「……みたいですね!」
そんな風に橙と会話をしていると。
紫様の方も一段落ついたのか、再びスキマを通りこちら側へと帰ってこられた。
「おかえりなさいませ」
私がそう紫様へ頭を下げると、紫様は実に楽しそうに口元をその手にもつ扇で隠しながらに私へと声をかけてくる。
「ふふ。貴方達もあの子を見たかしら?」
あぁ……。やはりあのスキマもわざとであったか。
私達にもまたあの人間を見せる為の窓口として残していたということである。
「はい。見ました」
「そう……。なら……貴方達はあの子を見てどう思ったのかしら?」
そんな問いに、思わず私は色々と思考を重ねている横で、橙がまさに思ったままの答えを述べている。
「凄く……綺麗な子だと思いました!」
まさにそれは見たままの感想であるからこそ。それこそ姿形が、という話ではなく、それよりもなお深い部分において確かにそう思う。
橙がどこまでそれを感じたかは分からいけれど、しかしある意味その答えこそが的を射ているようにも感じるからこそ、紫様もまたそんな橙の答えを聞いて……そう。と一言で答えながらも楽しそうに橙の頭を撫でている。
「それで……藍はどう思ったかしら?」
そして、未だ答えを発していない私に紫様は目を向けて促してくるからこそ――。
私はとりあえず問いに問いで答えることになるが、まずは彼女の根本に関する疑問を聞くことにする。
「そうですね……。とりあえず……彼女は人間ですか?」
あるいは前提条件が違う可能性もあると思ったから問うたその私の疑問に――紫様は僅かに目を細めながらに答えてくる。
「えぇ。あの子は間違いなく人間よ。妖でも無く、神でも無く、霊でも無く、月人でも無く……あの子は間違いなくこの地で生まれ、この地で生きる人間よ。その身に穢れを受け。穢れを内包しながらも、なお幻想的に美しく感じるような……そんなあり方をし続ける人間よ」
「……そうですか」
やはり彼女は人間か……。
そして紫様のあの人間に対する想いもまた私の想像の通りであったと、紫様の言葉を聞きながらに確信したからこそ……。
「ならば紫様は……あの人間をどうするおつもりなのですか?」
自分の思い通りに育てるのか。あるいは次代の巫女として教育するのか。
それとも……と、私が色々と想像を巡らせていたけれども。
「別に……私は何もしないわよ? 私はあの子に何かを強制するつもりなんか何もないわ。ただ……あの子のあり様を見続ける為に……。あれだけの幻想を内包しているあの子がこれから先どこに向かうのかを見守るだけのつもりなのだもの」
紫様はある意味否定とも取れるような言葉を紡がれた。
私は自身の思うが儘に育てるが為に彼女に名前を付けたのだと思っていたからこそ。
「そうなのですか……? ならなぜ彼女に名前を与えたのですか?」
だからこそ……そんなある意味当たり前ともいえる私の疑問に。
けれど、紫様の答えは……。
「ふふ。あの子が私に愛の告白する姿が可愛かったから……かしらね」
……え?
思わずそんな答えに呆然とする。
愛って……?
は……?
そしてそんな風に呆然とする私の隣で……どうやら先に動揺から帰ってきたのであろう橙が驚いたような声で紫様に疑問を口にすると――。
「あ、愛って! 紫様!? あの人間は女の子ですよね!?」
え……? そこ……?
私は思わず橙にも突っ込みそうになる。
いえ……。確かにそれも大切な疑問であるのかもしれないけれど、それよりも聞くべきことが他に無いのか……なんて思いながらも。
そもそもあの人間はどう見たところで女の……。
「いいえ? 琥珀はあれでもれっきとした男の子よ」
「……え?」
そんな紫様の楽しそうな声に……。
今度こそ遂に疑問が口にしてしまった。
けれど……。え……?
あれで……?
いえ姿形がどうこうという話ではなく……どう見てもあの人間は女性にしか見えなかったから。
そもそもこの世界は女性こそがより幻想に近いようにできているからこそ。
神も妖もまた力あるものは皆が女性である。
けれど……あの人間は――。
博麗大結界を自力で見つけ、あまつさえ超えてしまえるほどの力を有していながらに。
その上でその性別が男であるとするならば……。
「――ね? 面白そうな子でしょ?」
そんな実に楽しそうな紫様の声を聞いていると――。
あぁ……きっとこれからまた式神として忙しい日々が来るのだろうなと。
長年の感が告げるのだった。