朝の鳥のさえずりが一人の男を起こした。
体躯は優れ、肩幅や胸板も相応に鍛えられているのが分かるほどに発達している。一見、武勇に優れた将に見えるが、やや薄めの唇にやや高い鼻の上にある吊り上がった目にある色彩の薄い眼には狐のように狡猾で、厳格そうな顔つきで絶え間なく周囲を伺う神経質さが醸し出されている。腕の筋肉も槍を振るえるほど発達しておらず、手も多少のまめやたこはあるが、前線で暴れ回る者ほどあかぎれていない。
人を見る目が多少なりともあれば彼が武将ではなく、策士であると悟る。
外を見る表情は笑みがこぼれている。
「いよいよか」
今日、彼はこの家から出なけばならない。
三年前に前触れも無く突然やってきた男を迎えてくれて乱世を生き抜く為に必要なことを教えてくれた家を恩義も返さずに。
当然ながら未練はある。だが、それ以上にこの家にいることのできない事情を作ったのは彼自身。
割り切るしかない。
罪人になったが、部屋からは出ることは普通に許されている。
男は朝の気持ちいい日差しを浴びながらしばらく廊下を歩く。朝が早いせいか廊下には誰もいない。
暇だと思った矢先に一人のふわふわとした雰囲気を持つ白い服をまとった女性と目が合った。むしろ少女という言葉がよく似合う。
実際の年はあちらが少し上だが、端から見ると衝撃を受ける程の小ささである。
そのことを言うと怒り心頭になり、色々とまずいことになるので男は一度だけ言ったきり言ったことはない。
「おはようございます」と挨拶をするとにこやかに明るく挨拶を返してくる。寂しさからか直ぐにその表情は少し暗くなってしまう。
「今日でお別れですか~淋しくなりますね~」
「しょうがないですよ。もう、こうなった以上は……」
「ですね~」としみじみと女性は返してきた。
男がこの世界に来て一番最初に出会った二人の内の一人。
そして、男の正体を知っていてそれでも嫌悪も警戒もせずに彼に政略、軍略という軍師としてのいろはを教えてくれたのは他でもない二人の女性。
その内の一人である彼女は『師匠』という言葉が男にとってよく当てはまる。
「まぁ、またいつか会えるかも知れませんよ。ねぇ……」
「重さん」そう言うと重さんこと竹中半兵衛重治は「そうですねー」と表情を少し明るくして頷く。
「おはよう! 半兵衛ちゃん、龍兵衛」
しばらく二人で談笑していると朝っぱらだというのにと思う程、元気な声が背中から聞こえてくる。
振り返ると半兵衛と同じくらいの背丈でその声の主である女性は白い衣装の半兵衛とは対照的な黒い服を身にまとう茶髪の女性がやってきた。
「おはようございます。官兵衛ちゃん」
黒田官兵衛孝高。
竹中半兵衛と共に後世で二兵衛と称される稀代の軍師。その間に挟まれるように立つのを男は嫌い、すっと身を引く。
「おはようございます、孝さん」
今日、官兵衛も男と一緒にこの家から出奔することになっている。
彼女自身、元々はこの家にはある程度いる予定だったので今回がいい機会だったに違いない。
だが、別れの前というのに官兵衛はいつも通りの元気いっぱいという感じである。それがこの方の取り柄であるのだが、それでも少し呆れてしまう。
「それにしても今日でお別れなのに孝さん元気ですねぇ」
「何言ってんの! 死に別れじゃあるまいし。また会えるよ」
苦笑いが出てくるがもっともなことだ。
いつか会えると思っていた男にもその言葉はすんなりと入ってきた。「また」と聞くと昔が蘇ってくる。頭に浮かんだのは全ての始まりの時だった。
「三年ですか……お二人に出会って」
そう昔でもないことを大昔の事のように遠い目をして男が呟くと、二人もどこか懐かしそうに外を見る。
「そうだよね~もうそんなに経ったんだね~昨日のように思えちゃうよ」
「あの時は本当に驚きました。お山に龍兵衛ちゃんが倒れていたんですから」
「いや……あの時は自分も驚きました。突然この世界にいたんですから……」
河田龍兵衛長親
それがこの世界の男の名前だ。この名前はこの世界に飛ばされた時。名前を変えた方がいいと思って二人に頼んでつけてもらった。
今思えば龍兵衛には聞き覚えがある名前だった。
「(河田長親は長尾、上杉家に仕えていた武将だろ。しかも、龍兵衛って通称じゃないだろ)」
その時は色々な指摘を入れたくなった。
それはさておき。龍兵衛はいきなりこの世界に飛ばされた。もともと平成という平和ぼけした世から血で血を洗う戦乱の室町後期に飛ばされたのだから理不尽さを感じた。
だが、龍兵衛にはそれ以上に驚くことがあった。それはこの世界では多くの著名な武将のほとんどが女性になっているということ。
最初に半兵衛と官兵衛に出会った時には名前を聞いて正直驚きを隠すのに精一杯だった。疑ったが、信じることしか何故か出来なかった。
とにかくそういう世界なんだ。そう自分に言い聞かせてた。今思えば、納得した理由が分からない。しかし、納得した以上、その住人にならなければ意味がない。
「それにしても……お二人はよくこんな自分を弟子にしましたねぇ。普通、捕られて斬られても自分は文句を言えなかったのに」
「まぁ、興味本位だよ」
官兵衛が笑うと半兵衛もほっこりするような笑いを浮かべる。
今思えばあの時は運が良かったのだが、あの時は最悪だと思った。
何故そうなったかは知らないが、いきなり二人の目の前に龍兵衛は飛ばされたのだから。
二人は言うまでもなかったが、相当驚いたらしい。
当然である。うららかに散歩をしていた二人の目の前にいきなり人がやってきたのだから。
あの時二人でなかったら斬られても龍兵衛はしょうがなかった。というか絶対に普通なら死んでいる。
だが、お二人は警戒するどころか興味を抱き、ずずいっと龍兵衛に近付いて「どこから来た」だの何だのと質問攻めをしてきたのでさすがに参った。
龍兵衛は取り敢えず、この世界の人間ではないこと。平和な時代から来たことだけを言った。
そして、龍兵衛の事情を半信半疑ながらも知った二人は城下町の店で彼に合うような服を買い彼を着替えさせた後、城に連れて行くと言い出した。
そこまでやってくれなくてもと思ったが、二人の名を聞いた時に確信していたが、ここは戦国時代。
龍兵衛は一人でこの厳しい乱世を生き抜くのは不可能だと思い。二人の意見に従うことにした。
そして意を決して二人に頼んだのだ。
弟子にしてほしいと。
二人は当然のごとく大層驚いていた。
どこからどう見ても剣や槍を振るったほうが似合っているような体格をした男が軍師の弟子になりたいと言い出したのだからそれはしょうがないことだろう。
これはあまり人には教えていないが龍兵衛には元の世界で肩を怪我した経験がある。そういう人が槍働きには限界があると考えた。故に軍師となること選んだのだ。
「まぁ、龍兵衛は軍師としての才能は元々結構あったし。修行の他にも剣術も習っていたけど、やっぱりそっちの方が良かったんじゃない?」
「いやいや、自分はやはり体より頭を動かす方が好きなので」
これは紛れもない龍兵衛の本音だ。龍兵衛はもともと運動は決して得意ではない。
一応は野球をやっていたのでそれなりに運動神経と体力はあったが、部員の中では最下位から数えた方が早かった。
案の定、剣術の鍛練はやってはみたが、最初の三ヶ月は筋肉痛と肩の他にも抱えている持病の腰痛が悪化してその痛みがずっと続く毎日だった。ちなみに言っておくが、決して龍兵衛は爺ではない。
だが、おかげでそれなりの人とも切り結ぶことが出来るようにはなったので良かったのだから良しとしている。
「それにしても、剣術の鍛錬にあの人はきつ過ぎましたよ」
「一鉄さんは容赦を知りませんからね~」
「まぁいいじゃん。それで龍兵衛それなりに強くなったんだし」
「……孝さん、完全に他人事だと思っているでしょ?」
「あったり前じゃん!」
「はっきり言いやがったよ、まったくこれだから孝さんは……」
両脇に手を起きながら堂々と言ってくれた官兵衛に呆れたような溜め息を吐く。
師弟関係ではあるが、普段はこういう軽い感じで接している。
そもそも、師匠の二人がそういう方がいいと言ったので遠慮なくそうしてもらっている。
「さて……そろそろ支度をしておかないと。孝さんは確か小寺の実家に帰るとか。親孝行ですか? 珍しいですね……これは天変地異の前触れですか」
「ちょっ! それどういう意味!?」
こういったからかいにはすぐに乗ってくる官兵衛。
これだから官兵衛は非常にからかい甲斐がある。その為に色々と龍兵衛はいじっている。
「要は有り得ないということだな。龍兵衛よ」
「おはようございます一鉄殿。流石ですね、察しが早い」
「ちょっとちょっと! 二人して何なの!?」
珍しく冗談を言う稲葉一鉄。これの方が天変地異の前触れに相応しいと半兵衛と龍兵衛は思ったが、わたわたと手を振って抗議する官兵衛の方が今は面白い。
だが、それも今日で終わりとなる。
『先の罪により河田龍兵衛長親と黒田官兵衛孝高を国外追放とする』
美濃の国々や周辺国には大々的にそうふれ回っているが、何故か主君とその跡を継ぐ女性は今はその罪人二人に頭を下げている。
「感謝するぞ、官兵衛に龍兵衛よ。そなたらのおかげで我々はあるべき姿になれたのだ。そして、すまぬ……このようなことになってしまい……」
「道三様、決してそのような……我々は道三様たちを思ってとった行動です。お気になさらずに」
「そうそう! やりたくてやったんだから別にいいって」
官兵衛たちの言葉に二人はまた「すまぬ」「ごめん」と頭を下げた。
白髪混じりの髪に威風堂々とした歴戦の老将を思わせる風貌の男性。
斎藤家当主斎藤道三。
斎藤家に仕え、二兵衛の教えを受けることが出来たのは道三の許可が無くてはありえないことだった。
だからこそ龍兵衛が本当に感謝するのは道三なのかもしれない。否、絶対にそうである。
道三もかつてご自身が商家から後ろ盾なく自分の人生を始め腕一本でここまで成り上がったのだから龍兵衛のように身分も定かでない人も入れることが出来たに違いない。
「これがお主が求めた感状じゃ。しかし、本当に良いのか? それだけのもので。他にも旅費なども必要最低限しか求めずに……道中何があるかわからんのだぞ」
「いやいや、普通こんなこと追放される人にするのがおかしいのですよ」
龍兵衛が笑いながら言うと同調するように皆が笑い合う。
このような楽しい時間は残念ながらもう無い。
龍兵衛は最初、蝮と言われる道三がどんな方なのかビクビクしていたが、実際会い、段々気心が知れるようになればどこにでもいる気前の良い人物だということが分かった。
忠義を尽くす配下の面倒を下々まできちんとよく見ている。話してみれば抑揚のある話術を巧みに使う面白い御仁だった。
今回も龍兵衛達が他国に渡ることを承知の上で送り出してくれる度量。普通の人にはならば到底無理だ。
「二人ともありがとう。感謝する」
そして、そのとなりにいる薄い水色の髪をした美しい道三の愛娘である女性。
斎藤義龍。
昔が嘘のように晴れやかな表情をしている。
あれだけ自分を出すのが苦手だったのが今では自己主張も少しずつしてくるようになり、その優秀さが前に出て彼女を知る人には次期当主としてふさわしい存在であると思わるまでに成長している。
本来なら龍兵衛が品定めするのは無礼極まりないことだが、一鉄に叩きのめされて倒れている龍兵衛に水を差し出したりと色々と影で感謝しきれないことをしてもらっていた。
「では、そろそろ……」
一鉄がもう時間が無いと申し訳なさそうに言ってくる。道三も名残惜しそうに頷く。
来るべき時がとうとう来たのだ。
「達者でな。官兵衛に龍兵衛よ。いずれまた会おうぞ」
「道三様は長生きするよ、大丈夫だって!」
「そうです。父上、もっと生きてもらわないと困ります」
「はっはっは! そうじゃのう、今度会うときは儂ららが捕らわれるか捕らえるか楽しみじゃのう」
「頑張って捕らえる方にしたいですよ自分は」
「よう言うわ……じゃが、楽しみにしているぞ。時代に飲み込まれるな。龍兵衛よ」
薄く笑いながら承知したように頭を下げる。
道三はよく「時代に飲み込まれるな」という言葉を言っていた。
時代は変わるからこそその波に乗り、飲まれることがないように必死に生きて来た道三。その道三が言うからこそ説得力がある。
「では檻車に乗ってくれ……はぁ、まさかこの年になって恩人に仇なすようなことをするとは思わなかったがな。二人ともくれぐれも気をつけるのだぞ」
「道三様~その台詞もう聞き飽きました~」
「ははっ、半兵衛にまで言われると凹むな」
天にまで響くような高らかな皆の笑い声が連なって出たのはこの時が初めてだった。そして、最後である。
檻車に乗った。道三様と義龍様、重さんは城から出ることはできないためここでお別れとなる。別れを惜しむ声が聞こえると様々な感情がごちゃ混ぜになって意味の分からない音が心の中で響く。
だが、それ以上に至近距離で聞いた寺の鐘の音の如く胸に響いたのは半兵衛の声だった。
「さようなら。百山龍広さん」
未来永劫もうその名前で呼ばれる事はないだろう。半兵衛も金輪際その呼び名では呼ばないに違いない。
本当の名前を捨てることは思ったよりもきつかった。しかし、生きる為に龍兵衛はそれを捨てることが出来た。架空の通称に付けて欲しいと言った。故に捨て切れてはいないだろうが、ほとんど捨て去ったと見て良い。
そう言い切れる自信が龍兵衛にはある。
列は粛々と見慣れた稲葉山城の城下町を通る。
二人に嘲笑や罵倒の嵐。刺さるような差別の目が注がれる。
それでも、列は進んでいく。隣の官兵衛をちらっと見るとそれがどうしたとでも言いたげな、なんとも清々しい顔をしている。
やはり、今も昔も変わらない。真実を知るは己自身のみだ。人は波に流されて実情を知ろうとはしない。
だが、見てくれる人は必ずどこかにいてくれる。
かつての世界でもあったような理不尽な仕打ちを今、龍兵衛自身が受けている。本当は不満や怨念を声に込めて声高に叫びたい。
だが、そうしたら負けだ。
もどかしい。このようなことは龍兵衛の過去にあった。
訳も無くいじめを受けた。ある時は理不尽に殴られ
、またある時は失敗を半年も引きずられ、先生に助けを求めてもなにもしてくれず。さらにちくったことでいじめは悪化した。
あの時、父が住んでいた地域に影響力を持つ人でないとどうなっていたことやら。今でも想像するだけで鳥肌が立つ。
親の七光りなのは知っていた。自立したかった。
だからこそ、周りからの差別的な声を無視して野球を続けた。それを聞いた近所の人々は龍兵衛を侮蔑した。あること無いことをでっち上げていることも知っていた。
だが、父は親族の蔑みに対して怯むこと無く生きているお前は立派だとずっと背中を押し続けてくれた。
嬉しかった。ただそう思った。ある事件で心の疑念が生まれるまでは。
龍兵衛は幾日か経った間に官兵衛とも別れた。
官兵衛は畿内方面に行くことになっていた。俺は北の飛騨の方面に向かうことが決まっていた。
これが龍兵衛達の希望でこうなったということは余談である。しかし、重要なことでもあった。
「守就殿、今までありがとうございました」
護送してくれた安藤守就に頭を下げてお礼を言う。
一鉄と今、官兵衛を護送している氏家直元と共に美濃三人衆と呼ばれている勇猛な将である。
守就は口は固い故に信頼を集めている。彼は口元だけ少し笑わせて気にするなと言った。
「龍興様が来ないのは残念だがな」
斎藤龍興はこの世界では道三の息子で義龍の弟にあたる。
今は美濃にあるとある寺で修行に励んでいる為に美濃にはいないのだ。
「まぁ、いたらいたらで毒吐いてどっか行ってそれで終わるだけですけどね」
龍兵衛の洒落に今度は守就も声を出して笑った。
「そろそろ兵士たちも不審がるだろうし、残念だが、もうお前ともお別れだ……」
守就は腰を上げてゆっくりと歩き出す。今、二人きりで話していたことも今日で終いだ。
兵たちは二人がこの茂みの影から出てくるのを待っているのだ。最後、龍兵衛に一言言ってやりたいと言う守就の言葉を兵たちはあっさり信じた。彼の人望には本当に感心してしまうばかりである。
ここにいる間どれだけのことを教わり。そして自らを高めていっただろう。
生きる為に人を殺し、騙すことも厭わないこの時代でだ。
最初は躊躇った。一度やればもうどうでもよくなった。初陣の最後は吐いた。今までに無いくらいに、血が出るくらいだった。
だが、それも受け入れ、乗り越えた龍兵衛は今、ここにいる。乗り越えるべきものは乗り越えて来た。おそらく今後は全てを受け入れて生きていく事になる。
この世界で生き抜く為にやるべきことの多くをこの斎藤家で教わった。今度はそれを活かす番だ。
やってやろう。出来ることを出来る限り。そして、師匠二人に追い付くよう頑張ろう。
決意を胸に笠の紐をきつく締め直した。
兵達の聞くに耐えない罵声を背中に聞こえる。だが、そのようなものは今となってはただの煩い雑音にしか過ぎない。
龍兵衛は特別に与えくれた馬に跨がり自らが決意をここに自分に誓い彼は一路、越後へと一人で向かって行った。
ずっと迷っていましたが、今回変更に踏み切りました。