親憲達が中新田城を落とした頃、かれらとは対照的に斎藤朝信と吉江宗信・景資親子、竹俣慶綱を魚津城に残して龍兵衛と資正は弥太郎・兼続と共に春日山城に帰還することが出来た。
元は出陣して越中を取るつもりだったが、決して勝利したという訳でもなく、逆に攻められて防戦に成功しただけだが、三千程度の兵で突然の一向一揆勢三万の奇襲を乗り越え、結果的には戦力を減らした訳だ。結果的には勝利と言っても良いだろう。
「かと言って、あまり効果は無いような気がするんだよなぁ」
「富樫はまた民を兵に変えて攻めてくるかもしれない、か。はぁ・・・・・・これだから暴君は面倒だ」
馬に揺られる帰還途中、兼続のはっきりとした物言いに龍兵衛は苦笑いを浮かべるしかない。しかし、間違ってはいないので否定も出来ない。
賢君は民を思い、民を巻き込むようなことを極力避けて戦や政治を行う。賢君と呼ばれる者はほぼ古今東西統一して民を慈しみ、戦がある時は必ず勝つことが出来る者を後世の者はそう呼ぶ。
一方で暗君と呼ばれる者は色々といる。戦が強くても政治がそれに伴わず、民を重税などで苦しめる者。佞臣の言葉を真に受け、忠臣を遠ざける者。忠臣の諫言に聞く耳を持たず、無礼だと手打ちにする者。
そして、民を苦しめるどころか、国自体も疲弊させ、あまつさえ兵を容赦なく捨て駒にして最後は負ける者。
上杉の中で富樫晴貞という者はそういう人物だということになっている。外からは未だに一向一揆の傀儡国主となっているが、本性を外に出さないところを見ると正に暴君の道化師という言葉が当てはまる。
道化師の仮面を捨てた晴貞は今後、上杉が少しでも隙を見せればすぐにでも魚津城に攻め入るだろう。
民のことも国のことも省みずに、ただ己の欲望の為に敵と見た上杉を倒すだろう。面倒なのは国の者に誰も反旗を翻そうとする者がいないことだ。
きっかけが無ければ戦にならない。魚津城に攻めて来た際、晴貞は越中の一向一揆勢に上杉が攻撃をしたという根も葉もないことで攻めて来た。
反乱でも起きれば、すぐにそれを収める理由を付けて晴貞を斬ることが出来るのだが、残念ながらそれは叶わない。
だが、晴貞も今は面倒な時期を迎えていることは確かだ。背後の織田の存在が徐々に増してきている。
「これで一向一揆との対立は明白になった。だが、織田のこともある。本願寺がどう判断するかは知らないが、織田との戦を優先にしてくれることを祈りたいな」
「そのような希望論が通用すると思っているのか?」
国境が隣接している訳でもないのに晴貞が織田と戦うようなことはしないだろう。本願寺からの命令が下れば分からないかもしれないが、今はそのような気配は無い。
浅井・朝倉も姉川で負けた後に段々と状況が悪くなり、将軍家は武田や本願寺が指揮する長島の一向一揆にも挙兵を働きかけている。しかし、加賀の一向一揆には未だに例の件があってかは分からないが、判断を下すことが出来ていない。命令が無い限りあの晴貞は西へは動かないだろう。
兼続の言う通り、龍兵衛の言ったことは余程のことが起きない限り起き得ない希望論でしかない。
だが、希望論に誰もがすがる訳でもなく、春日山城と不動山城から連れて来た兵の半数以上を魚津城に残すことで晴貞の再びの侵攻に備えておいた。
「冗談、冗談。だが、当分は朝倉とのこともあるし、さすがに動けないだろうよ・・・・・・さむっ」
手をひらひらさせる龍兵衛に苦手なものが襲ってきた。
もう秋風が身に染みるようになり、強い風が吹くと龍兵衛は寒そうに身を震わせ、大柄な身体を縮こませる。先程までの真面目な雰囲気が一掃されたのを見て、兼続は呆れたように溜め息をつく。
しかし、これがこの男の性格なので仕方ないと割り切っている。張り詰めた雰囲気の時はきちんとしていて何事にも無頓着な人形のようになるのが、終わった途端に溜め込んだ鬱憤を吐き出すように表情には出ない性質だが、口調で感情が分かるようになる。
今のような性質の悪い冗談を言うこともあるが、その中で計算を立てていることも兼続は知っていた。
金に少し色気を出すことがあり、私の時は良くも悪くも分かりやすいところがあるが、秘匿すべきことはきちんと内密にする。それが河田長親という軍師だと兼続は思っている。
そう評している男は隣で再び真面目な表情に戻っていた。自分の髪をいじりながら今回の戦を思い出しているようだ。
「しかし、朝倉も簡単に乗ってくれたよ。いくら冨樫自身がいないからって加賀への威圧をしてくれって頼み」
「元々、朝倉と一向一揆は対立していた間柄だからな。私達の言うことを一から全て信じてくれなくても勢力が大きくなるのは面白くなかったんだろう」
かれらが春日山に帰って来れたのは万が一に備えて認めておいた朝倉への書状と金が利いた為である。
朝倉は浅井と共に姉川以降も何度か織田に対して出兵を行っている為、財政は困窮しているに違いない。
そう考えた龍兵衛は上杉の保有する金の一部を海路で朝倉に送り込み、一向一揆勢の勢力拡大は今後において武家の災いとなるだろうという書状を送り、一部の兵を加賀との国境に置くよう要請した。
朝倉家当主、朝倉義景は睨んだ通り、金策に困っていたようで、国境に兵を送り込んで威圧してくれたらしく、晴貞は加賀へと退いて行ってくれた。
本来なら負けても地の果てまで追い込もうと考えていたに違いないが、大敗を喫し、本国に危機が迫っているという良い理由が出来て退却する時だということも分かっていたのだろう。能登の畠山を殿に悠々と退いて行った。捨て石になるのは最後まで能登勢と越中の一向一揆勢だった。
「いらいらすることこの上なかったな」
思い出すだけで腹立たしさが兼続には湧き上がってくる。その感情は隣の者にも伝わっているようだ。
龍兵衛も表情が怒りを含むように少し強張っている。
「ああ、だが、自分の兵に傷を付けずに魚津城を追い込んだのだ。これからも奴の兵力に気を付けておくべきだな」
「兵って言っても民ばっかり何だけどな。しかし、無心でこっちに攻めてくるあれらを民と見て良いものか・・・・・・」
「分からなくはないが、私は民だと思いたい」
心から願うような兼続の口調は龍兵衛の心に少し響いた。しかし、秩序を重んじればそれは甘い考えなのかもしれない。
「そうだな・・・・・・」
その為、龍兵衛は曖昧な答えしか返すことが出来なかった。
帰って来た上杉軍を迎えたのは謙信自らを含めた主要な上杉の将、ほぼ全員だった。もちろん仕事に差し支えがないようにしてであるが、下手をすれば二度と会えないのではないかという怖さもあったのが、春日山城に残った面々の思いである。
武田がちょっかいを出して来なければ、謙信も自ら救援に赴いて晴貞と相対するつもりでいた為、これで魚津城が落ちてしまっては、後悔の念が募るところだった。
全員に労いの言葉をかけていく謙信を見て、兼続は少し泣きそうになっている。それを隣で見ている弥太郎と龍兵衛は謙信の言葉よりも「(あ! 兼続が泣きそう!?)」と思いっ切りそっちに目が行ってしまっていた。
冗談を交えて謙信は皆に語りかけ、最後にもう一度主だった三人の所に戻ってきた。
「資正に兵の指揮を任せ、後で私の部屋に来るように」
おそらくというか絶対に魚津城の詳細と今後取るべき方針の再確認だろう。
「さて、まずはお前達から聞かせて欲しい」
部屋に通されると案の定、魚津城のことから始まった。当初からいた龍兵衛がほとんどのことを話して途中から弥太郎と兼続が補足説明をすることで謙信もあまり嬉しくなさそうな表情に変わっていった。
「今後も警戒が必要か・・・・・・やはり、先に富樫と雌雄を決するべきか?」
「いえ、それでは戦線が伸びきって武田や北条が何かしてくるかもしれません。やはり、東北を完全に統一するのを待って・・・・・・」
「龍兵衛、そう言うが、東北の勢力も頑強でな。冬以降に持ち越される可能性が出てきたと親憲から書状が届いている」
「なんと・・・・・・」
弥太郎が二人の代わりに一言出す。余裕が無い戦の中では情報を得ることなど出来なかったが、魚津城に負けないぐらいに激しい戦を繰り広げているらしい。
兼続と龍兵衛からすると兵糧物質の支援もそうだが、他にも懸念するべきところがあった。
「兵を田に帰すことも不可能ですか。何か処置を施さねばなりませんね」
兼続が口を開いたが、龍兵衛も全く同じ考えである。収穫は稲刈り以外にも脱穀など、作業がある。上杉では以前に作った千歯扱きや唐箕のおかげで作業効率は上がっているとはいえ、面倒なことに変わりはない。
しかし、謙信は既にこのことについては考えを持っていると間を置かずに皆を唖然とさせることを言った。
「兵達の家の者を含め、上杉が治める全ての地の年貢を減らすことにした」
「「・・・・・・はい?」」
兼続と龍兵衛が一緒に反応してくれた。
「二人がそう言うならもう迷うことはないな」
「いやいやいや! ちょっと待って下さい。そういうことで言ったのではなくて・・・・・・」
「いくら一年程国を休めたとはいえ、まだ完全とは言えません。年貢を減らすことは反対致しませんが、全ての土地というのは・・・・・・」
嬉しそうにささっとこの場を締めようとする謙信に兼続も龍兵衛も必死で止める。
戦で物資が減っていることは否めない。金はあるが、農家出身者としてあまりそちらで買うのではなく、作るべきものは作るという考えを持っていることも含め、金は今後の戦費や政策資金の為に取っておきたいので手を出したくないのが龍兵衛の政治家としての見方である。
兼続からすると兵糧の減少よりも怖いのは年貢を減らすことによって揚北衆の不満が高まることだった。徴収するのはその土地の領主である。年貢が減れば、自分達の懐に入る分も減るということ。
領地が拡大して政治が徐々に安定していくと別のことに欲を見せる者が出てくる可能性は否めない。
お互いに意見を謙信に申し上げるが、謙信は頭を振ってどちらの意見も退けた。
「もう決めたことだ。これ以上のことをすると現状維持でも民の不満が出るかもしれん」
「春日山を始め、越後の民は謙信様を慕う者ばかり、しかし、他国になるとそうはいかないか・・・・・・やむを得ないだろうな」
弥太郎も謙信の考えに同調する姿勢を示している。
収穫時に人手が足りないのは兵農分離が未だに人口の問題上、出来る状況ではない上杉の治める国々で抱える現在の問題である。とはいえ、かなり難しいことである。
不満を口にする者もいるだろう。北条や武田と通じる者も出てくるかもしれない。かつての新発田重家のように。
しかし、謙信は二人の心配をよそに意に介するようなことはない。
「輝宗殿も既にこちらに来ているのだ。答えはもう決められているだろう?」
その国の領主直々に願い出ているにもかかわらず、一昨日きやがれと無碍には出来ない。どうやら自分達はもう頷くしかなさそうだ。
そう察した兼続と龍兵衛は嫌々ながらに肯定するしかなかった。
悪いとは思っていない。民を第一に考える謙信の決断は間違っていない。しかし、ものにはすべからく時期がある。
「いずれにしろ。本当によく戦ってくれた。この戦いは後世に残るだろう」
そんなことはどうでも良いことである。
越後全域を減税することはかなり賭けになりそうだし、何かの為に対応出来るようにしておいた方が良さそうだと二人は思った。
伊達家前当主である輝宗はまた春日山に戻ってきていた。中新田城を落としてこれから大崎と決戦という状況にもかかわらず、春日山城に来ているのにはちゃんとした理由もあるのだが、本当の理由としては先の一件で娘の政宗によく無視するようになって寂しくなったそうだ。所謂、傷心を慰めようとしたのである。
端から見ればただの親馬鹿にしか見えないが、対面した謙信が「分かるぞ」と輝宗の肩を叩いて頷いていたので敢えて、皆も気遣っておいた。ちなみに何故知ることが出来たかというと、颯馬が謙信と逢い引きしていた時に聞いて、それをうっかり慶次に言ってしまったのでたちまち広まってしまったという訳である。
しっかりと入れない親馬鹿の壁というものが出来てしまっている為、誰も入れる者はいなかった。
それ繋がりで上杉の家臣一同から謙信と景勝の間でそんなことがあったのかと皆が気になったが、代表して慶次が聞くと、どうやら謙信と景勝の仲が喧嘩をしておかしくなったということは無かったそうだった。
ただ独り立ちの嬉しさと親元を離れる悲しさが一緒に来たらしい。
「これは、輝宗殿。大崎のことはよろしいので?」
「政宗がやってくれている。俺はもしかすると水原殿達が政宗達と共に大崎と葛西攻めによって冬を越すやもしれぬ故、謙信殿に兵の家の年貢を減らして欲しいと頼みに来たのだ」
収穫とは田植えよりも厳しい作業だと言える。体験してきた龍兵衛にとってそれは重々承知していることだ。
一応、これが輝宗が春日山城に来たちゃんとした理由である。
後で本当の理由を颯馬から聞いて兼続と一緒に呆れ返って天を仰ぐことになるのは三日後のことである。
「それにしても、激戦だったみたいだな。目立った怪我をしていないところを見ると随分と河田殿も悪運が強い」
がらっと変わって話題は魚津城のことになった。米沢に戻った後に魚津城のことは輝宗の耳にも入っていた。
上杉でも有力な将達が誰一人も欠けることなく生き残ってくれたと謙信から聞かされた時は輝宗も胸を撫で下ろした。
「河田殿も民が相手では随分と苦労されたのではないか?」
「いえ、はっきり言ってしまえば全くです。あそこまで抵抗されてはもうただの兵士としか見えませんでした」
同情するように語りかけた輝宗だが、それをあっさりと跳ね返すように言い切った龍兵衛の言葉を聞くと輝宗は驚いたように本当にそうなのかともう一度訪ねてしまった。龍兵衛は肯定すると何故に二度も訪ねてきたのか不思議そうにしている彼を見て、輝宗は思わず溜め息を吐いた。
「これは、かなり酷いかもしれんな・・・・・・」
「何か仰いましたか?」
聞こえなかった筈の独り言を龍兵衛が拾ってきた為に輝宗は少し慌てながらもすぐに否定すると輝宗はその以上、そのことについて話そうとはしなかった。
「それで、どうであった。かなりの苦労をしたと聞くが」
「ええ、もうそれは・・・・・・」
語り出すときりがない。それしか言うことがないのでそう言うと輝宗も苦笑いを浮かべるしかない。しかし、何かを知ろうと龍兵衛の顔をじっと観察すると「別に構わないか」と意味深な言葉を呟いた。
それは聞き逃さずに不思議そうに龍兵衛が訪ねるも輝宗は「気にするな」と言うだけで何も言おうとはせずにただ一言と言って去って行った。
「お主は本当に軍師らしいな」
輝宗は背後にいるであろう龍兵衛に面と向かっているように言うと返事も待たずにさっさとどこかへ向かってしまった。
首を傾げる龍兵衛をまたしても秋風が襲った。
寒さと同時に背後に何故か暖かいものを感じながら。
「・・・・・・いい加減にして下さい」
「うー・・・・・・」
思った通り、輝宗が消えた途端に景勝が後ろからそっと抱き付いてきた。回している腕をさっさと外すと龍兵衛はすっと距離を取る。
「まだ?」
「余裕が無かったことは分かっているでしょう? もうしばらく待って下さい」
景勝は不満げである。そう言い続けて彼が一年以上経っても答えを出せていない。しかも、言い訳がずっとそれであることも景勝を苛立たせる原因の一つであった。
早くしろと圧をかけながらじーっと見てくる景勝に自分の原因がなかなか解決出来ないことも龍兵衛を焦らせる。
このような執拗な催促が答えを見付けることの出来ない原因だとも最近では彼も考えるようになっている。しかし、面と向かってそれは言えない。
心の底に景勝のことを傷付けることは出来ないという思いがある。
「すみません・・・・・・」
「また、それ・・・・・・」
決まり文句もまた跳ね返された。いづらくなった龍兵衛はもはや黙って立ち去る以外に方法は無かった。
「切り換えてしまえ。もはや、知らずとも別に構わないってな・・・・・・という訳にもいかないか・・・・・・」
急いては事を仕損じることもある。時が解決してくれることもあるだろう。それも一種の方法だと龍兵衛は思い、景勝から逃れるように歩みを速めた。
報告書の書き方を頭の隅で考えながら屋敷に戻ると部屋の管理をしてくれた女中達に感謝の言葉と謝礼を払い、そのまま部屋に戻ると龍兵衛はごろんと寝そべった。
彼の頭には景勝のことよりも輝宗の言葉が引っかかっていた。
「民との戦が辛くないか? そうだな、あれはそもそも人の動きではなかったからな」
例えば春日山の民のような普通の民を相手にするとなればたしかに躊躇しただろう。しかし、かれらは大した技量もないのに晴貞の命令で彼の命を救い、一向一揆勢を勝利へと導く代わりに自らの命を進んで捨てていった。
真っ当な兵であってもいざとなればなかなか出来ないようなことを平然とやってのけていたのだ。しかも、顔色一つ全く変えずに死んでいく姿を見れば変な感情を抱かずにはいられない。どう見ても普通の民ではなかったのだから。
思い出すだけで夢にも出てきそうだ。早めに記憶から無くしたいが、忘れる度に脳裏に蘇ってくるかもしれない。
龍兵衛は溜め息をつくと目を瞑った。しかし、寝るようなことはせず、今回の戦で自分がやってきたことを反省するつもりで思い返してみる。出てくるのはやはり晴貞が率いていた者達の相手を殺すことしか頭に無いような目。
龍兵衛自身はもちろん殺戮を肯定する気はさらさらないが、救いようが無いと判断した者を救おうとする程お人好しではない。
殺したのは間違いなく民である。今後のことを考えるとかれらがいなければ誰が田畑を耕すことになるのだろうか。兵を民に帰すことが一番早く効率的だが、春と秋に出陣出来なくなることが多くなり、晴貞の上杉打倒の夢が遠くなる。
だが、あの性格的に晴貞は兵を民に帰しても田植えや収穫時も関係なく出陣してきそうだ。
晴貞が民さえも捨て駒にしようとしているのは明らかだが、龍兵衛はそれを非難することが出来る立場にはいなかった。
「まぁ、今となってはどうでも良いことか・・・・・・」
要らない過去は捨てる。そう心に誓った。おかげで随分と痛みを伴うことになったが、それもいずれまた時が解決してくれるだろう。
今は必要ない思考に走ったことに気付いた龍兵衛は頭を振って元の思考を呼び戻す。
幕府に訴える内容を書いた弾劾状の返事は謙信の下には届いていないことは既に確認済みだ。今、幕府は織田との戦で主力の一角たる本願寺以下一向一揆勢を頼みとしている為に決断に踏み切れないと考えるのが妥当である。
結果的に西へのことはしばらく後手後手にならなければ上手く行かないと判断するしかない。守りも必要で今回の戦で籠城も出来ると分かったとはいえやはり攻めて領地を拡大することに目を向けたくなるのが龍兵衛の思いである。
溜め息をつくとその音に反応した猫がかりかりと襖を引っ掻いて「開けろ」と言ってきている。
良い耳だと呆れるように思いながらも襖を開けて中に入れてやる。
拾って来た三毛猫はおおむね行儀が良く本棚の本で爪を研いだりせず、一度外に出たら決して足を吹く前には中に入らない為に女中達からのウケも良いが、何だかんだ言って龍兵衛に一番懐いてくる。
胡座をかいて座り直すと喜んでその膝に乗ってきた。
喉がごろごろ鳴っている。可愛らしい。心中穏やかではなかった龍兵衛の心を癒やしてくれる。
気持ちよさそうに寝返りをうって今度は腹を見せて「こっちを撫でろ」と一つ鳴いてくる。猫だから我が儘なところもあるのは百も承知。おねだりを受け入れて普段害虫・害鳥・害獣狩りで鍛えている固い腹を撫でる。
自分もこれぐらいになればなと思ってしまうが、猫と人は身体の作りが違う為に絶対に無理である。それ故に羨んでしまうのは欲の深い人の性質だが、それはそれで置いておくとしよう。
「(良いよなーあの瞬発力。南米の人みたいで・・・・・・)」
他愛もないことを考えられる時間が徐々に限られていく。この時間を大切にしなければ。いずれまた、戦が時の針を進ませる前に。
しばらくもふもふと耳を撫でているのも飽きたので猫を膝に乗せたまま尺八に手を伸ばす。
以前は横笛が専らだったが、景綱と被るのが何となく嫌になったので思い切って変更した。
理論は知っていたのでコツを掴むのに時間はかからず、普通に人前で吹ける腕前にまで上がっている。
取り出して口を付け、さぁ吹こうとした途端、外で足音がした。そして、龍兵衛のいる部屋の前で止まった。
「河田様、謙信様が今一度城に参られよと」
「(たぶん、北条か東北の状勢のことだろうな)一難去ってまた一難か・・・・・・分かった。すぐに向かうと伝えてくれ」
特に気分を害された思いは持たず、龍兵衛は猫を下ろして伸びを一つして散っていた集中力を集める。そして、自分のお気に入りの羽織りを羽織って寒くなった春日山の外に出る準備を始めた。