上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百〇五話 収穫

 晩秋の木々が葉を緑から黄や赤に色を変え、遠くから見る者の目を見晴らせ、美しいと思わせる季節。

 春日山城では謙信と龍兵衛が楽しそうにしていた。しかし、本当は楽しんではいけない状況である。 

 簡単に言うと親憲達が率いている北奥州討伐隊が豪雪で帰れなくなってしまった為に二人は外に出ることになった。

 領有している土地柄故に兵農分離が進んでいない上杉では帰って来れない兵達の代わりに正規兵達が元は農家であることを活かして帰って来れない兵達の農地の収穫を手伝うことになった。

 それを聞いたら黙っていられない者が二人程いた訳である。先述の謙信と龍兵衛は目を輝かせ、率先して収穫の手伝いをやることにした。

 龍兵衛はともかく、謙信は当主故にそう易々と外に出ることに兼続達は渋い表情になったが、取り敢えず慶次が同行するということで間を取ることにした。

 颯馬については満場一致の即刻却下だったことは余談である。

 

 

 

 

 

 行く場所はあまり遠くなく、戦に駆り出された兵が一番多い所である。きちんと前もって言っておいたし、謙信も龍兵衛も顔見知りなので心配はない。

 実際、初めてに近い謙信は色んな人から聞きながら、農業経験の豊富な龍兵衛は根っからの農家らしい素早い手付きで稲穂を刈り取っていく。

 その腕前は後で謙信をして「手が何本にも見えた」と言わしめた程であった。

 休憩時間になると謙信は改めて人々に頭を下げた。謙信は当主の為にここだけを手伝うが、龍兵衛は少しの間、仕事を他の軍師達に託すというより半ば押し付けて他の場所も回る予定だが、得意とはいえたかが一人が増えたところで状況はあまり変わらない。

 あるとすればせいぜい、上杉は民を本当に思っていると示すことぐらいだけだ。

 

「本当に、すまなかった」

「い、いえいえ! 謙信様が頭を下げることはありません! 皆が平和になる為に謙信様も戦っているのはよく知っています。生活は十分にさせて頂いていますのにわざわざそのようなことをされなくても大丈夫です。なぁ、皆の衆!」

「はい! 私達は謙信様が平和な世を作る日を待っています。謙信様に何かあったら・・・・・・そっちの方が心配で」

「馬鹿、良い大人がなに泣いているんだよ! 謙信様、私達は謙信様がいなくなることの方が心配です。収穫よりも謙信様がいなくなることが・・・・・・」

「ばーか、お前こそ何縁起でもないこと言ってんだ!」

「あ、いや、そこまで言ってもらえると・・・・・・嬉しいやら、恥ずかしいやら・・・・・・」

 

 己の弱さ故に巻き込んだことへの申し訳なさを通じ、素直に頭を下げる謙信に返ってきたのは逆に謙信がたじろぐ程に熱烈な反論とも言えるような謙信への弁護の声だった。

 本質を見抜き、人の感情を見る目を持つ謙信の目にはかれらの言葉は意外と本当に心から言っていると見えた為になお驚きを隠せない。

 純粋に嬉しいことであるが、一方で新たな疑念も頭に浮かび上がってきた。

 

「(他の土地の者達もそうであろうか?)」

 

 

 

 龍兵衛は戦場に行かない若い者達と話していた。それでも手はしっかりと動かしているあたり、さすがに元農家の一人息子なだけはある。

 手際良く稲を束にして脇に置くと近くにいた青年の一人話し掛けてきた。

 

「そういえば河田様、早くして下さいね?」

「・・・・・・? 何か約束したっけ?」

「いつになったら皆を飲みに行かせて頂けるのです?」

「あー・・・・・・」

 

 以前に城下町で飲んで、酔った勢いで変なことを言ったような記憶が断片的に残っている。 

 金を大事にする彼は守銭奴でもある為、金の貸し借りは一切しない主義である。しかも、他人に奢るなど以ての外だ。

 

「まぁ・・・・・・もう少し時間が出来たらな」

 

 取り敢えず、期待している目を向けてくる相手をばっさり「無理だ」と斬り捨てるようなことは出来ない。

 人は忘れる生き物だ。いずれ忘れてくれるだろう。しかし、現実は甘くはない。

 

「俺達は楽しみにしているんです。いつまでも待ってますよ」

 

 明らかに「早く早く」と急かしているようにしか聞こえない発言に龍兵衛は内心溜め息を付いた。

 ここまで木天蓼を待つ猫のような目をされると忘れてくれる日が来るような時が来るのかすら怪しい。

 

「そういえば、慶次はどこに行った?」

「あそこに・・・・・・」

 

 龍兵衛が慶次を指で差した時、二人共一瞬時間が止まってしまった。

 

「はいはーい、次は誰かしらぁ?」

「く、俺が、とりゃあぁぁ!」

「脇が隙だらけ!」

「ぐぇ・・・・・・」

 

 視線の先では慶次が子供達を圧倒していた。しかも、全員をぼろぼろにさせている。

 

「お姉さん、もう少し手加減してよ~」

「え~あたしは一割も力入れてないわよぉ。皆が弱過ぎるだけよ」

 

 元気そうにしているから良いのか、ぼろぼろになっていることに気付いていないだけなのか。子供達は慶次の挑発的な物言いに一斉に飛びかかる。しかし、慶次は全員をひょいひょいよけてあっさりと全員を張り倒してしまった。

 

「手加減している割には随分と目が本気だな」

「このままだと子供達が壊れますよ」

「助けて来い」

「御意」

 

 台本通りのようなひょいひょいしたやり取りでそう言うなり龍兵衛は慶次の背後に回り込み、気付いていないことを良いことに慶次の背中に容赦ない飛び蹴りを食らわせた。

 

「痛ったぁ!?」

 

 もんどり打たないだけ立派である。しかし、腰にがっちり決まったようで呻き声が口ではないどこからか聞こえてくる気がした。 

  

「少しは加減しろ。馬鹿」

 

 龍兵衛がからかうような口調で言うと慶次は身体を震わせてしまった。分かりやすいことこの上ない。

 

「ったく、子供達相手に手加減無しは大人気なさ過ぎだぞ。しばらくそこで大人しくしてろ」

「誰のせいだと思ってんのよぉ・・・・・・」

 

 泣きそうな声で訴える慶次をガン無視して龍兵衛は収穫作業に戻って行く。

 結構マジでやっていたことがばれ、腰を負傷した慶次は子供達のその後散々に蹴散らされているのを皆が無視していた。

 

「しかし、だな・・・・・・」

「どうか致しましたか?」

 

 不意に慶次を見た謙信には多少の疑問が浮かび上がってきた。本当に簡単な疑問の為、律儀に振り向いた龍兵衛に聞くまでもないのだが、気になる。故に謙信は聞いてみた。

 

「慶次はあんなに素直に反応するような奴だったか?」

「さぁ・・・・・・分かりませんね」

 

 やはりというべきか龍兵衛も知らない。慶次に聞いてみるだけ無駄だというのは分かっているので聞かないが、別に大した疑問でも無いので謙信は放っておくことにした。

 一方、龍兵衛は内心心当たりがあった。

 

「(やっぱり、調えることに関与するのはまずかったかなぁ。颯馬に押し付ければ良かった・・・・・・)」

 

 あの時と同じような視線を龍兵衛は慶次にぶつけていた。つまり、未だに慶次は何かを考えているのである。

 

 

 

 

 

 

 夕方まで作業は続き、最後まで三人は残った。

 謙信と龍兵衛は締めの作業を終えて色々と傷を負った慶次と共に屋敷に戻ることにした。普段は反省という文字が無い慶次だが、純粋無垢な子供達にからかわれたのはかなりショックだったようで謙信が笑って励ましてもぶつぶつと何か言って自分で勝手に凹むを繰り返している。

 そんな中で慶次は当分立ち直りそうにないと見た龍兵衛は気になることを聞くことにした。

 

「少々寒くなって参りましたな」

「・・・・・・何が言いたい?」

 

 敢えて、らしくない物言いをしながら誰も周りにいないことを確認して低い声で話を切り出すと謙信の目も真剣になった。

 

「此度の戦。謙信様は三方向へと出陣されました。安東の残党はともかく、一向一揆と葛西・大崎らの連合には必要最低限とでも言うべき少ない兵力を用いました。準備不足とはいえ、何故にそこまで焦るような真似をなさるのか。自分には理解致しかねます」

 

 これは他の軍師達も思っていたことである。

 夏が過ぎれば当然秋が来る。秋が来れば米の収穫がやってくる。収穫には人がいる。

 つまり、農民がいる。しかし、越後は未だに人口が少なく兵農分離は出来ない。その為、秋の収穫時に兵を徴収することは住民感情を損ねることになりかねない。そのことを民思いの謙信が分からない筈がない。

 知っているからこそ今までは雪の降る冬を除いて田植えを終えた晩春、夏と収穫前の早秋に戦を行ってきた。

 ところが、今回は何を思ったか晩秋の近い時期に出兵を行うと言い出した。そして、軍師達が案じた通り、親憲達は冬前に帰ることはほぼ不可能になった。

 責めるような視線を謙信は受け流すと龍兵衛をまたしても驚かせることを言い出した。

 

「雪が解けたら伊達の後続が長江を抑える筈、その後に援軍を蘆名と共に派遣させる」

「田植え前に決着を付けるつもりですか?」

 

 かなり危険な賭けになる。もしも長引けば収穫と田植えを連続で人手不足になり、いくら謙信の下だとしても民は黙っていないだろう。

 本当に表立ってしか言わずに裏で陰口を叩かれる可能性もある。

 

「大丈夫さ。今日の民達を見て、行けると思った」

「・・・・・・なるほど、秋前にあのような出兵をさせたのはその為ですか」

 

 さすがに察しが良い。つくづく謙信は上杉の軍師は有能だと思った。少しだけの言葉で今回の戦の目的の一つを当てることが出来るのだから。

 

「まさか、武田が出て来ることも計算に?」

「入っていなかった。と言えば嘘になる。五分五分の可能性だったがな」

「流石は謙信様。しかし、わざわざ民を巻き込む。あまり関心致しません」

「厳しいことを言う」

「主君の歩むべき道を正すのも、家臣の役目で御座います」

 

 思わず謙信は笑ってしまった。別に龍兵衛をからかっている訳ではない。普段は外様故に控え目な発言が多いが、きっぱりと言い切るただらしくない物言いに彼の民への思いがありありと映されていると思い、安堵した為である。

 

「いい加減、武田も北条も黙っていないだろう。佐竹の動きも気になる」

「上野の豪族達は、何と?」

「武田はともかく、北条が気になるらしい。佐竹は下野に掛かりっきりのようだ。しばらくは北条も上野に専念出来る」

 

 房総半島の里見のことはまだ情報が入っていないらしい。背後のことがある為に北条も上野を早く取りたいと焦っている頃だろう。

 その焦りが足元をすくえば御の字だが『相模の獅子』と言われる北条氏康が簡単にやられるとは思えない。

 

「しばらくは武田も出て来ないだろう。私自ら向かう故、龍兵衛は兼続と共に景勝のことを頼む」 

「謙信様自らのご出馬に反対は致しません。しかし、弥太郎殿か慶次は連れて行くべきです」

 

 あの二人を連れて戦場に出すだけで兵の士気は上がり、百の兵が五百に増えるようなものだ。謙信を含めるならばそれが八百に増えると言っても良い。

 

「大丈夫か? 一向一揆は背後に朝倉のことがあるからまだしも武田は少ない兵でも奇襲をしてくる可能性があるぞ」

「飯山城には本庄実及殿がおりますし、国境には警備兵を置いてあるのでしょう? それに今川と徳川も織田の為にいつまでも背後を放っておくことはないと思います」

 

 糧道が伸びることを懸念し、箱根山を越えなければならないことを考えると関東よりも山がちだが、進軍するにはまだ動ける甲斐武田の領地を狙うことは分かる。 

 未だに同盟関係を結んでいることも幸いして、北条も今のところは里見を警戒して箱根山の背後には無関心といった感じらしい。 

 

「それから、一向一揆のことはまだ楽観視出来ません。また民を兵に変えて攻めて来る可能性もあります」

「だから、お前は弥太郎と共に数百の兵で春日山に戻り、義・・・・・・景資を魚津城に残したのだろう。兵を鍛える為に」

 

 龍兵衛はこくりと頷く。景資の鍛練は元が元だけにかなり厳しい。しかし、景資の息をも付かせない刀捌きは上杉の中で憧れの的のようなものになっている。

 景資を残し、朝信が鍛えた魚津城の兵をさらに強化することは一向一揆に対しての脅威となることに違いはない。

 

「政治を任されている身としては、それよりも国内の火種をそろそろ消しておく方がよろしいかと」

「揚北衆のことは颯馬や兼続からも聞いている。飯山城の守りは義清に任せる。南や西へ向かう前に実及と共に手を打っておいて欲しい」

 

 揚北衆の歴史は長い。初めは鎌倉時代と言われ、阿賀野川北岸地域に土着していた。長らく越後北側を治めてきた自負がある為に南北朝時代になって越後に入った上杉・長尾と対立を起こしては政情不安を招いてきた。

 先代の晴景の代までそれは続いたが、謙信が家督を継ぎ、越後を統一したことによって丸く表面は収まった。しかし、表面を削れば未だに揚北衆は互いを主張し合い対立している者がいる。

 

「案は既に考えております」

「聞こう」

「水原殿を、新発田城の城主に任じるのです」

 

 意外な答えだったのか謙信を足を止め、龍兵衛を見る。慶次もいきなりの発言に驚きを禁じ得ない様子だ。

 しかし、彼の目は真剣な目。そもそも、彼は公で冗談を言うような性格ではないことは二人も知っている。

 

「中条殿と黒川殿、お二方は揚北衆の中でも一、二を争う力を持っています。しかし、黒川殿には北条のことを当分は任せている以上、他国に向かわせることは出来ません」

「かといって東北という辺境の地に揚北衆筆頭の中条も向かわせるは出来ない。だが、二人は未だに確執が絶えない。その歯止めを親憲にさせるのか」

「はい、新発田は越後北側で最大の規模を持つ城。水原殿ならば両者共仲はよろしい為に適任かと」

 

 ただ、一つだけ懸念がある。親憲は元々大関氏の出だが、断絶した水原の名を継いでいる。水原氏は佐々木氏を元にした揚北衆の一人。有力な将であることに変わりはないが、中条や黒川には軍役や家臣の地位は劣る。

 

「それだけでは足りない。そこでまた何か考えているのだろう?」

「・・・・・・分かりますか?」

「それぐらい見抜けなければ当主は務まらないよ」

 

 悪戯っぽい笑みを見せる謙信に呆れつつ明後日の方向を無為ですわざとらしく大きな溜め息をつく。

 

「蒲原の山吉殿が病にかかったとか」

「耳が早いな。また私を出し抜いたか?」

「い、いえ、今回はちゃんと颯馬から聞いた情報です」

 

 謙信は納得したように頷いているが、龍兵衛と一応護衛として一緒にいるが、話が難しくなりそうなのを見て、蚊帳の外だった慶次は少しびくびくしていた。

 謙信と颯馬、二人が睦み合っている時にこのことを盗み聞きした下手人は慶次である。うっかりそれを龍兵衛に言ってしまったのはちょうど昨日のこと。

 ばれたところで寛大な謙信は「慶次ならまぁ良いか」と言って終わらせてくれるだろうが、いきなり龍兵衛が言うとは思わなかったので意表を突かれた。

 後ろで冷や冷やしている慶次をよそに龍兵衛は続ける。

 

「山吉殿の御嫡子、盛信殿は病弱。彼の弟、景長殿が跡を継ぐことは間もないこと。しかし、景長殿は若年であられる。減封には良い理由ですな」

「まだ決まったことではないことだ。勝手な推測は無用」

 

 見えない刀が首に置かれているような感覚に襲われ、龍兵衛は背中に冷や汗をかきながら努めて平然と頭を下げる。

 その覇気には勇猛な慶次も驚き、自分が怒られている訳でもないのに少し肝を冷やした。

 謙信はすぐに冷たい覇気を静めて「だが・・・・・・」と手を軽く挙げた。

 

「悪い策ではない。仮に没収した領地を直轄地にしておけば、揚北衆への脅威となるか」 

「はい、かの地は阿賀野川を挟み、揚北衆の集う岩船の玄関口。抑えておくことが賢明だと思います」 

 

 まだ揚北衆の力を削ごうとはしない。いずれ越後を完全な上杉の領地とすることは必要だが、徐々にやっていかなければ大きな反発を招きかねない。

 謙信はさらに上を目指すことを目標としている。いずれ乗り越えなければならない道だが、揚北衆の中で力のある中条・黒川・色部・水原の四つの家はなるべく抱え込んでおきたいという思いもある。

 

「これからのことはこれからにしておくべきです。まだ上杉は発展途上。東北を完全に制した後、全てはそれからですが、その準備の為にも」

 

 そう言って龍兵衛は頭を下げる。領地の大きさだけを見れば確かに織田や北条とも引けを取らないが、東北という土地は豊かではない。

 謙信も分かっている。後は先程頭に浮かんだ四つの家も他国に領地を与えなければならない。

 では、今はどうするか。目の前で案を言ってくれた龍兵衛だが、しかし、謙信は首を横に振った。

 

「足りぬな」

「えっ・・・・・・」

 

 龍兵衛だけでなく慶次も口を開けて驚いた。彼女もまた先程龍兵衛が出した案を良いと思ったからだ。

 

「もう一つ、付け加えなければ・・・・・・」

「それは、どのような?」

「まだ言えぬ」

 

 きっぱりと二人の好奇心をへし折る。今思い付いたこともあるが、何よりもまだ言えた考えではない。

 いずれは言うことになるが、かなりの根回しが必要になる。時間もかかるだろう。どれほどかは分からないが、やらなければならない。

 自然と謙信の目つきが戦場に出ているかのように鋭くなった。

 そこに龍兵衛と慶次が踏み入れる場所はなく、三人は何も言葉を交わすことはなかった。 

 

 

 

 長重が最上・安東と共に反上杉の安東の残党を全て倒し、あと三日ぐらいで帰城するという知らせを聞いたのは三人が春日山城に戻ってすぐのことである。

 

 

 

 屋敷に戻ると龍兵衛は汚れた身体を拭いていつものように部屋でごろごろしていた。

 自身の考えた案を受け入れてくれたことは大変にありがたいことである。それが軍事力達も賛同してくれれば、実行へと移すことが出来る。

 しかし、謙信は最初に自身の指摘を笑った。おそらくは「お前に言われたくない」というような皮肉があったからだろう。

 謙信が己に厳しいことは分かる。今回のことも敢えて、自らを厳しい立場に置いて試したかったことも承知した。

 龍兵衛は平成の心からまだ抜けていない面もある。それが民と武士との間に自然に出来てしまう壁を疑問に思い、平気でそれを通り越すところだ。

 謙信という素晴らしい国主ともあろう御方が民を巻き添えにするようなことをしてはならない筈。それを咎める為にあのような諫言をした。

 しかし、返ってきたのは笑い。意味が分からない。何か考えがあるのは分かるし、謙信が今回だけでもう終わりにすることは分かっている。

 あの時、何故笑ったのか聞かなかったのは衝撃が強く、後から聞こうにも謙信はすぐに城内に消えて行ってしまった為にタイミングというのが無くなってしまったからだ。

 今更、聞きに行くのは憚られる気がするし、また笑われるのは彼の中にある自尊心が許さない。

 気晴らしにと思い、戸棚から尺八を取り出してゆっくりと小さな音色を吹き始めた。

 今、龍兵衛は向けられる笑みをかつてのようにからかわれているという幻覚と自意識過剰から脱却してはいたが、謙信の笑みはそれを思い出させるようなものであった。

 不快になった訳ではない。ただ、何故そのマイナスなものが蘇ってきたのかが分からなかった。未だに完全な心の回復が出来ていないからということは分かっている。そして、その根本的な原因も知っている。

 虐げられることから逃れる為に生きてきた故に己を見返すことが出来ず、未だに知らぬからだ。

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