上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百〇七話 杏が咲いた

 謙信が自ら葛西討伐に向かったという知らせはすぐに晴信と家臣団に伝えられた。

 佐沼城を取り、上杉の出鼻を挫いたとはいえ、葛西と上杉は数では圧倒的な差がある。 

 冬の間に上杉は大崎の領地を立て直せるだけ立て直して民心の掌握に努めてきたという報告を間者からも聞いている。

 潜伏していた大崎の重臣、一栗高春も残党狩りに遭い、殺されたという報告も上がってきており、上杉はこの戦で葛西と高水寺斯波を下す構えを示している。

 しかし、上杉にも弱点があると葛西の重臣、大原守重と千葉広綱は考えていた。 

 数の上では上杉は約八千。その内訳は伊達が主力で上杉はその次の数。実際に最たる軍事力を持っているのは伊達軍である。

 目の付けどころは正しい。間違いなく敵は一つの疑念を持ち込んでしまえばそれで崩れる可能性が高い。

 

「さて、後は鹿ヶ城で上杉を足止めしている間に斯波殿は動いて下さるかどうか・・・・・・」

 

 上杉の到来が迫り、戦の準備に人々が右往左往している慌ただしい寺池城の中を廊下を守重と広綱は平然と慌てることなく並んで歩いている。

 その築城時、城の守護として城内に鹿を生き埋めにしたという。この城の別名を鹿ヶ城というのはそのことにちなんでいる。

 広綱はかつては葛西が築城したにもかかわらず、大崎に奪われた悔しさと伝統を重んじる性格も相まって常に佐沼城を鹿ヶ城と呼んでいる。

 そこで時間を稼ぎ、戦況を長引かせた上で上杉に間者を送り込んで疑念を抱かせつつ、改めて同盟を組んだ高水寺斯波の援軍を待って一挙に押し返す。

 しかし、葛西にも拭い切れない不安材料があった。

 斯波は先の戦で勝手に撤退した稗貫を討伐することで頭が一杯。しかも、その背後にて南部が影をちらりちらりと見せている。

 和賀も先の戦で大崎に最後まで付き合い、叩きのめされ、這々の体でどうにか退却出来たものの完全に弱体化してしまい、もはや戦力にもならない。

 かく言う葛西も稗貫同様にあまり戦わずに撤退した為、既に解決はしているが、斯波からも一時期不信感を持たれた。

 要はどちらも不安材料は持っているのである。その中で上杉の方が数は上。有利なのは上杉である。

 それでも、佐沼城がこちらの手中にある限りはまだ抵抗は出来ると葛西家全体では考えていた。

 

「大丈夫だろう。斯波殿のお力ならばすぐに稗貫も滅ぶ。さすれば、我らに援軍が来て地の利のある我らに勝利は間違いない」

 

 守重は広綱の不安を除去するように努めて明るい声を出しながら並んで歩く。

 斯波と稗貫の力の差はそれほど大きい訳ではないが、先年に南部晴政とその嫡男で第二十五代当主、晴継が相次いで死去し、南部一族で家督相続を巡り内輪争いが起こると、斯波家当主、詮直は奪われていた岩手郡にすかさず侵攻し奪還した。

 頼みの南部が上杉に対して静観の構えを見せている為、状況的に見ると稗貫はもはや風前の灯。援軍の保障はない。

 

「南部には動く気配が無く、斯波殿も背後に影があるとはいえ躊躇わずに稗貫に攻め込むでしょう」

 

 すると、背後から走っている足音が聞こえてきた。

 振り返ると息も絶え絶えになっている兵がぼろぼろの格好で二人の姿を認めると膝を折り、二人がその姿についての疑問を述べるよりも先に声を出した。

 

「申し上げます! 佐沼城、陥落致しました!」

「何!?」 

 

 佐沼城は城の北側と東側は迫川が流れ、西側は湿地によって画され、北西側は西から伸びる丘陵と深い沢によって切り離されており、わずかに南側のみが地続きとなっている天然の要害である。

 しかも、佐沼城は元々葛西家に属する城であった。攻め手が逆から来ようとも簡単に落ちるような城ではない。

 

「大和田殿は如何なされた?」

「討たれた由にございます・・・・・・」

 

 呆気ない幕切れとなった。大和田掃部は元は浜田城城主だが、この上杉侵攻に備えて前線へと派遣された。葛西の中でも決して凡庸な将ではない。

 どのようにして討たれたのか。

 力攻めという可能性も否定出来ないが、戦はまだ序盤といったところ。最初から犠牲を払うことを覚悟で攻めることは考えられない。

 

「私が聞いた話では、伊達の奇襲にあったと」

 

 やはりと言うべきかそれを否定するように兵は力攻めの可能性を気付かない内に消してくれた。

 だが、掃部は何度も大崎と戦ってきた百戦錬磨の将。警戒を怠るような人物ではない。にもかかわらず、奇襲を受けた。

 

「して、どこから敵は現れたのだ?」

「分かりませぬ」

 

 少し考えてから思い出したようにはっとして聞く守重の問いに答えられないことに申し訳なさそうにする報告に来た兵を下げさせると二人はこのことを晴信に伝える前に部屋で話すことにした。

 

「何も分からないまま佐沼城が落ちるとは・・・・・・実に妙なことだと思いませぬか?」

 

 重苦しい雰囲気のまま部屋に入って座るなり、口火を切ったのは守重だった。

 佐沼城は簡単に落ちるような城ではないことは何度言おうとも変わることはない。

 故にこのような呆気ない佐沼城の幕切れには不思議としか言えないのだ。兵の報告を蔑ろにする程、二人共腐っていない。しかし、今回ばかりはおかしい点が多すぎる。

 何故、上杉は佐沼城を簡単に三日で落としてしまったのか。

 何故、上杉は何処から奇襲を行ったのかどうやって情報が掴めない不明な程に隠密かつ迅速に落としたのか。

 何故、大和田掃部はその動向を知らない内に襲われたのか。

 大きな疑問の内から導き出せる答えは簡単である。しかし、決して信じたくないものでもある。

 

「誰か内通者がおりますな」

「やはり、結論はそこに行きますか・・・・・・」

 

 二人は佐沼城の中にいると考えるのが妥当だと思ったが、ここでまた疑問が出来る。 

 誰が裏切ったのかが分からない。だが、いなければこれほど早く佐沼城が落ちるということはない。

 つまり、佐沼城の中にいたとして密かに上杉の下に潜り込んだのか、それとも外に首謀者がいて佐沼城陥落の際にどこかへ消えたのか。

 前者はまだ対応の仕様があるが、後者となると情報がどこから上杉に漏れるのか分からなくなる為、面倒なことになる。

 それがはっきりしない状況では誰かを疑わなければならない。

 

「冗談としてお聞き下され。まさか、貴殿ではないでしょうな?」

「まさか、我らは決して晴信様を裏切るようなことは致すまい」

「左様。だが、他の者はどうやら・・・・・・」

 

 上杉に対する気苦労からか白髪が若干増えてきた髪の毛をさすりながら守重は広綱の言葉を聞いて真剣に考える。

 考えたくないが、葛西の中に裏切り者がいるとしか考えられない。

 上杉は大崎の家臣の一部を召し抱えたとはいえ、佐沼城はその上を行く堅牢さを誇っている。

 

「晴信様にはお伝えした方が良いな」

「うむ・・・・・・」

 

 二人は苦い顔を崩さずにすぐに立ち上がると晴信の下に大急ぎで向かい、事の仔細を説明した。

 

「この顛末はおそらく内通者の手引きによるものとしか考えられませぬ」

「じゃあ、早く皆に言わないと!」

「お待ち下され。今、皆方に仰ってしまえば、これからに影響を及ぼしかねませぬ」

 

 守重の説明を聞き終えた晴信は顔色を変えてがばっと立ち上がったが、広綱はそれを冷静に諫める。

 これから戦が始まる以上、不穏物資は取り除いておくべきである。だが、公にしてそれを行えば、間違いなく情報が錯綜し、誰が善で誰が悪なのかも分からなくなる。

 

「このことは隠密に行う必要があります。晴信様、決して口外なさいますな」

「で、でも・・・・・・」

「晴信様、我らも心苦しいのです。しかし、今は堪えて下され」

 

 広綱・守重の順に説得され、深々と頭を下げられては晴信も無碍には出来ない。

 広綱は家臣中でも最も大きな所領を持ち、守重は国を二つに割りかねない事件を上手く処理してみせた長い間、葛西を支えてきた重臣。

 二人が決して私欲の為にこのことを上申してきた訳ではないということは分かっている。

 

「・・・・・・分かった。二人で頑張って裏切った人を見つけて」

「「はっ!」」

 

 晴信の心は複雑だったが、いることは仕方ないとすぐに切り替えた。

 元々のさっぱりした性格もそうだが、晴信を始めとする歴代の当主が一族内の内紛や大崎氏との抗争に明け暮れてきたこともあって外からの脅威には大崎よりも疎かになっていたことは重々承知していた。

 だからといって簡単には負けることはしないつもりだ。

 宿敵であろうと大崎義隆の無念を思えば、自身は未だに生きている。不仲になって勝手に撤退したことは今となっては過去のこと。うじうじしていたところで変わることはない。

 裏切り者がいるということは上杉は既に寺池城にも手を伸ばしていると考えられる。間者が潜り込んでいることを考えるともしかしたら口を閉ざしてもその者が噂を広めるかもしれない。

 こちらが上杉の内部を崩そうとしているのに既に先手を取られていたということだ。

 あの二人に任せておくこと以外にも手を打っておく必要がある。間者を探すこともそうだが、斯波の援軍も早めることで体勢を保つことも必要だ。

 晴信はすぐに家人を呼び、斯波へと使者を派遣することにした。

 

 

 

 

 

 謙信は佐沼城に入るとすぐに状況の確認を急ぐように指示を出した。

 佐沼城陥落は大和田掃部の配下の怠惰のせいだった。

 当初、謙信は速攻での決着を望み、佐沼城はあまり落とすことは考えていなかった。ここに入られては下手をすれば数ヶ月は籠城されてしまい、田植えに間に合わなくなってしまう。

 しかし、それでも攻めないという姿勢を見せてはいつ背後を突かれるか分からない。

  佐沼城は南側に位置する大門が中門を経由して本丸大手に至っている。他の堀には水路が張ってある為、そこしか道はない。上杉はその道を通らずに一気に寺池城を目指そうという動きをしただけで掃部は何故か油断したらしく、警戒を解いてしまった。

 それが前もって城の普請の際に下働きに扮して潜入していた間者の目に止まり、あっさりと外の上杉軍へとそのことが漏れてしまった。

 罠の可能性も考えたが、政宗が伊達が「人柱にならん」と突撃を試みた。

 伊達の中からも反対の意見が多く出たにもかかわらず、政宗は突入を強行した。するとどうであろうか。佐沼城に入っていた大和田掃部は油断しきっていていきなり襲来した伊達軍に成す術も無く敗れた。

 疑問が残る勝利だったが、勝利は勝利である。謙信は佐沼城に入ると周辺に伏兵がいないか徹底的に確認させた。

 それでも何も出てこなかった為に伊達軍の大半に二ッ木城を落として寺池城への補給路を断つことにした。

 それが六日前のことである。

 

「報告。鬼庭綱元様、長江勝景を討ち取った由にございます」

「ほう、さすがは鬼の片割れといったところか」

 

「これぐらいやって当然だ」とふんぞり返る一方で、娘が褒められて満更でも無さそうな左月を横目に謙信は次にやってきた報告に耳を傾ける。

 

「申し上げます。二ッ木城、陥落致しました」

 

 こちらもまた早い。かの城は政宗に任せておいた。規模が大きいとはいえ、要害性は極めて低い城だが、葛西に上杉の脅威を知らしめる為に見せしめとして行った威圧である。それにしても、かなりの早さである。

 伊達の機動力が高いことは有名であったが、これほどまでに迅速に動く軍はなかなかいないだろう。

 

「(それから百万石の為かな?)」

 

 政宗のことだ。確約してしまった以上、伊達の重臣達に思いっ切り宣伝して士気を上げようとしたのだろう。それに乗っかって戦功を立てた者達もまた百万石の為に動いているとすると実におかしい。

 内心でそっと笑いながら謙信は未だに二ッ木城の陥落を報告してきた兵が去らないのを見て、訝しげに尋ねる。

 

「伊達様は降伏した二ッ木城の主である二木三五郎を殺したと」

「政宗のことだ、何か訳があるではないか?」

「それが・・・・・・」

 

 清水信晴という人物が葛西晴信の指示を伝えに二ッ木城に来ていたらしい。

 三五郎は投降する際、このことが葛西に漏れることを恐れて信晴の寝込みを襲ったらしい。そして、翌朝に城門を開けた。

 そのことに政宗は不忠だと憤り、三五郎を殺めたということだ。

 佐沼城の一切は、政宗に一任したとはいえ、このことは謙信へのお伺いを立ててから行うべきではなかったのか。

 

「ふむ・・・・・・つまりは政宗の行いが勝手過ぎるのではないかと」

「僭越ながら・・・・・・申し訳ありません」

「よい、意見は様々な所から出る方が参考になる」

 

 この兵だけではなく、様々な将兵がそう思っているということだ。

 信晴という人物の方が葛西の中での地位は上なのだろう。だからこそ、三五郎という者は政宗に降る前に信晴を殺した。

 しかし、政宗が許さなかった理由も分からなくもない。

 政宗は三五郎に寝返りを煽った訳でもなく、二ッ木城にて一戦交えた訳でもないらしい。つまり、三五郎が降ったのは己自身の身を守り、主家が危うくなったら斬り捨ててでも生きようとする者を生かしておいてはいつ寝首をかかれるか分からないということだ。

 三五郎という者がどのような人物なのか、謙信には分からない。

 一応、兵に聞いてみると案の定、あまり好印象を持つような人物ではなかったという月並みな言葉が返ってきた。

 謙信は兵を下げさせて周りを見る。

 ここにいるのは謙信を含めた颯馬・慶次・春綱・左月の五人である。後は兵を纏める為に佐沼城のほうほうに散っている。

 すかさず左月が頭を下げた。

 

「申し訳ござらん」 

  

 自分が付いて行っていればこのことは防げただろう。その思いも入っていることは謙信以下全員にも伝わる。

 

「よい、別に咎めるつもりはない。責があるとすれば、この私にある。何せ、佐沼城のことを任せたのは私なのだからな」

 

 再び左月は深く頭を下げた。ありがたいとは口には出すことはない。本音を出さないところは政宗と似ている。その辺は伊達の家風なのだろう。

 謙信は笑ってしまいそうなのを堪えながら表情を引き締め直し、皆を見る。

 

「このことは不問に付す。左月は伊達の本隊と合流し、未だに抵抗する城を落とすように伝えよ」

「承知!」

 

 駆け出す左月の背中を見て謙信は内心最近芽生えてきた悪い笑みを浮かべた。

 ここまでの過程は全て謙信の予想通りだった。政宗は先のことで血気に逸っている。それでも、身の丈を越えるような暴挙を行うようなことはしない。これは決して勝手な行いでもない。

 政宗には政宗なりの仁義もある。調略に応じた訳でもなく、一戦交えた訳でもなく、ただ怖いから降伏したことが政宗の仁義が許さなかったのだろう。

 一方で何となくだが、もう一つ訳があるのではないかという考えもあった。百万石の為に少しでもその土地の領有者を除こうとしているのではないか。

 それが確かでも、謙信はやはり三五郎を斬ったことに何か勝手な行動をしたという理由で政宗を咎めるつもりはない。

 かつての自分と今の自分。正義の為に突っ走ってきた自分と欲というものを覚えて双方を使うようになった自分。

 どちらの自分もおそらく政宗の立場に立ってみれば三五郎を殺しただろうから。

 故に、何となくだが、政宗は多少のことも咎めていくだろうという予測が付いた。

 

「(まだ若いな・・・・・・)」

 

 年寄りくさいことを言っている自分に思わず笑ってしまいそうになる。

 謙信は政宗よりは年上だが、輝宗達よりは年下である。しかし、景勝という娘がいることで少しばかりの母性が身に付いたのだろう。

 そう思いながらも謙信は表情を緩めずに寺池城を落とす為の策を練り始めた。

 

 

 

 

 

「・・・・・・という訳だが、どう思う?」

 

 早速、その日の夜に颯馬を呼び出して謙信は昼間に思っていたことを聞いてみた。

 

「うーん、やっぱり紛いなりにも子供を持つとそうなるんじゃないか?」

「ふむ・・・・・・やはりそうか」

 

 真剣に考える謙信を見ると自然と颯馬にも笑みがこぼれる。普段なら決して年齢のことについて気にすることはなかった筈なのに急に気になり出すのだがら、気紛れも良いところである。

 おそらく春日山に戻った頃、それよりも前にひょっとすると忘れているかもしれない。

 普段は凛として皆に隙を見せないようにしつつ敬愛をされながらも決して近寄り難い雰囲気を出さずに皆と楽しそうにしている謙信だが、案外君主という仮面を取って人間としての謙信は抜けているところもあるのが面白い。

 そして、それを独占しているということが颯馬に若干の優越感をもたらせていた。

 

「それにしても、この城はあっけなかったな」

「ああ、それが最後まであっけなかったから逆に変だ」

 

 話題が一気にがらっと変わっていくこともまた謙信らしいと思いながらも本当に思ったことを言う。

 皆が変だと思っているに違いない。しかし、それが現実なのだからおかしい。

 

「向こうには疑惑を生んだかもな」

 

 それは敵にも言えることだ。これが本当だとすると間違いなく葛西は佐沼城陥落の原因が何なのか探るだろう。

 謙信は仕事の顔に変わって颯馬に命じた。いつものように汚れた仕事を配下に押し付けるということに罪悪感を抱きながら。

 

「仔細は任せる」

「御意のままに・・・・・・それから、寺池城を落とした後はどうする?」

 

 葛西を落としたら必ず高水寺斯波との戦は必定。佐沼城を落としたことで時を稼いで斯波の援軍を待つという策を根本から覆した以上、上杉も対斯波への戦の戦略を根本から変えなければならない。

 

「その場その場ではいかん。何か策はあるか?」

「もちろん。斯波については既に情報が入っております」

 

 颯馬は謙信に近付くと耳元で囁くように策の全容を説明する。

 一度も言葉を挟むことなく謙信は相槌を打ちながら聞き終えると満足そうに頷いて仕事の顔から私の顔に逆戻りした。

 

「さすが颯馬だな・・・・・・んっ・・・・・・」

 

 不意に謙信は颯馬に口を付けた。軽いものだったが、颯馬を驚かせるには十分過ぎるものだった。

 

「こら、いきなり・・・・・・」

「良いではないか。このところ互いに忙しかったのだしこれぐらい構わ・・・・・・誰だ!?」

 

 謙信が甘えるように肩を寄せようとした途端、草村から風もないのに音がした。武に通じる謙信の気に触れ、すかさず刀に手を当てる。しかし、それは未遂に終わった。

 

「にゃー」

「・・・・・・なんだ、猫か」

「良かった・・・・・・」 

 

 謙信は毒気が抜かれたように込めていた気を抜き、颯馬は心の声が漏れた。

 そして、二人して心底から出てきた安堵の溜め息を大きく出すともう一度、今度は先程よりも熱い口付けを互いに求め合うように重ねた。

 

「さ・・・・・・明日も早い。今日はもう寝るとしよう」

「そうだな。何だか謙信と離れるのは名残惜しいけど」

「それは私もだ・・・・・・春日山に帰ったら、な・・・・・・」

「ああ・・・・・・」

 

 そう言うと互いにまた唇を重ね合った。戦というものの恐ろしさを忘れるかのように。長く、名残惜しいという雰囲気を二人は月明かりの下で眩い光を与えていた。

 

 

 

 二人が去った後。先程、謙信が警戒した草村からがさっと音を立てて青い服を着て、豊満な肉体をぎりぎりのところまでさらけ出している一人の女性が出てきた。

 

「はぁ、あっぶなっ~」

 

 二人の睦み合いを覗こうとして誤って音を立ててしまい、慌てて最近覚えた猫の鳴き真似でどうにか乗り切った。

 先程の溜め息は安堵の溜め息と緊張して出すことの出来なかった溜め込んだ息を吐き出す為の溜め息である。

 

「ふひひひ、あたしの鳴き真似も大分様になったってことねぇ」

 

 練習した甲斐があったというものだ。これからはもっと観察しよう。

 影から女性は悪戯の標的を見付けた猿のような笑みを浮かべて嬉しそうに立ち去って行った。




杏の花言葉には疑惑という意味があるそうです
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