「報告。葛西晴信、伊達成実殿によって討ち取られた由」
「分かった。我らも日が昇り次第城に入ると伝えよ」
突然、城攻めを行うからと叩き起こされた兵が眠そうにしながら去るのを見て颯馬は強めの口調で謙信に問う。
「よろしいのですか? 伊達軍は勝手に城を攻めたのです。こちらに呼び寄せて詰問するのが先では?」
「良い。伊達に二心は無い。それにこれは私も承知済みだ」
謙信は振り向きもせずに平然と答え、驚いた表情で互いを見る官兵衛と颯馬をよそにただ煙が所々から上がっている寺池城を見ている。
「では、何故に我らには何も語らずにいたのですか?」
「官兵衛、敵を騙すのならまずは味方からと言うであろう」
謙信は決して振り返ろうとはしない。しかし、ますます官兵衛と颯馬は困惑の色を見せているだろうということは容易に想像出来ているのだろう。
私の謙信を知る颯馬だからこそ他の者には分からない彼女の心が彼には見えた。
それでも今回の戦には疑問が残る。普段は軍師や重臣達に何かと相談をしてから行動する謙信が今回は誰にも相談せずに伊達に密命を下していた。
官兵衛や颯馬ではないにしろこのことを知れば皆が驚愕するだろう。
何故に突然誰にも相談をしなかったのかと疑問を抱く者もいるかもしれない。しかし、敢えて謙信はそうした。
「(おそらく、誰も知らない何かが二人の間にはあるのだろうな)」
これは互いに主として人から竜と崇められる者同士の会話である。そこに上杉だろうと伊達であろうと人たる家臣が入る隙間はこれっぽっちもないのだ。
何故か颯馬は納得してしまった。家臣としては更に聞くべきことがあるというのに主君の私を知り、心を知ることが出来るからこそそこで口が止まってしまった。
「官兵衛、親憲と共に先に寺池城に向かってくれ」
「承知しました」
官兵衛が去り、いよいよ陣幕の中には謙信と颯馬しかいなくなった。
慶次と景家は夜明け前に蘆名の後から露払いをすると言って兵を率いて寺池城に向かって行った。他の者達も親憲と共に逃げてくる葛西の将兵を捕らえる為に出払っている。
「政宗にはいずれ百万石を与えることになるだろう」
「なっ・・・・・・」
おもむろに口を開いた謙信から衝撃的な言葉が出てきた時、颯馬は最初言っていることがよく分からなかった。
「颯馬、どういうことまでかは聞くな。しかし、このことは決して他言無用だ」
もう一度どういうことか聞こうとしたが、その前に謙信の冷たい声が颯馬の開きかけた口に刺さった。
「はっ」
先程から謙信はずっと寺池城を見ている。颯馬はその表情を見ることが出来ない。
疑問が浮かぶ中で強い風が二人の間をよぎった。謙信の後ろに細長く縛られた髪が揺れ、表情が少しだけ見て取れた。
「えっ」
思わず呟いてしまった声。謙信に聞かれなかっただけまだ運が良かった。
謙信はひどく疲れている。颯馬は唇を噛み締めるようにしているのか謙信の左側の頬が少し寄っていることに気付き、直感的にそう思った。
何に疲れているのか。身体的なことの可能性は低い。謙信の体力は無尽蔵と言える程にある。
だとすれば精神的ということだ。慣れないことをすれば人は精神的に疲れると言われている。
しかし、謙信はそちらでもなかなかそのようなことにはならない。どちらにしても実に稀なことである。
「おっと・・・・・・」
知りたいという好奇心から颯馬は扇子を意図的に前に落としてみた。詫びを入れながら謙信の横顔が見える所まで歩いてちらっと謙信を一瞥する。
疲れていると思ったことは確信に変わった。更に、謙信の目は少し腫れぼったくなっていて寝不足であることに気付いた。
最近は悩むことはあまり無く、よく眠れている筈の謙信だが、何故だろうか。
そう思案するとすぐに謙信が発した先程の言葉が颯馬の頭の中を過ぎった。
『政宗にはいずれ百万石を与えることになるだろう』
政宗は謙信に対して何か脅しを入れたのかそれとも頭を下げて懇願したのかは分からない。しかし、颯馬はすぐに前者の考えを捨てた。
冷静に考えて伊達政宗という人物はそのようなことをする人物ではないし、そのような者を人一倍信義に篤く、人の中にある信義を見ることが出来る謙信が楊北衆でもないのに放置しておく筈がない。
百万石を与えること。それは上杉が天下を取れば不可能なことではない。
とはいえ、室町幕府の混乱の原因を考えれば間違いなく好ましいと思えることではない。第一に国内で楊北衆の弱体化を徐々に図っているにもかかわらず、他の勢力にそれほどまでに大きな領地を与えるなど矛盾だらけこの上ない。
どのようにして謙信が政宗にそのような約束をしたのかは分からないが、おそらくかなり悩んだに違いない。
謙信も伊達がそれ相応の武功を立てれば嫌とは言えないだろう。今後、南や西に出陣する際に伊達・最上・蘆名は特に必要な戦力となる。
武功。その言葉が颯馬の頭の中を過ぎった。
「(そうか、伊達が夜襲を仕掛けた後、謙信も蘆名殿も動くのが早かったのはその為か)」
謙信は伊達が今夜、夜襲を行うことを知っていた。それを敢えて黙って許すことで誰にも文句の言えないような功を立てさせた。
しかし、謙信は伊達に任せずに蘆名や親憲にも出陣を命じた。
颯馬は悟った。これは上杉謙信が出した伊達政宗に対する密かな挑戦状であると。裏で約束をしておきながらも更に裏では政宗一人に武功を取らせ、早々とその約束を守る程に大きなものにさせないように暗躍していたのだ。
しかし、謙信は一人で行うことを良心の呵責からか嫌い、自分に伝えてきた。
敢えて事実を伝えることで釘を差し、颯馬を半ば脅迫しつつこのことについては一切誰も知らないようにさせて、協力するようにさせている。
「(何ということだ! 謙信はこれほどまでに手を汚していたのか!?)」
かつては定満と龍兵衛と共に汚れの無いままに謙信を天下を統べるまでに導く。そう決心したにもかかわらず、定満はこの世を去り、龍兵衛も自分も他国や敵から降った外様の将。官兵衛や兼続も謙信の為に動いてはくれているが、官兵衛も弟子同様に外様。兼続は生来あまりこういうことは好まない故に遠ざけている。
颯馬も外様であることに間違いないが、越後統一前から謙信に仕えていることもあってほぼ譜代の扱いを受けている。そして、恋人同士。
代わりになろうと謙信と共に定満が死んだと知った時に誓った筈。なのに、謙信は定満の代わりに自ら成そうとしている。
「(もはや、止まっていることは出来ないか)」
颯馬も上杉の人として信義を重んじている。しかし、それ以上に謙信がそのままでいてくれて欲しい。その為には軍師達がますます強かに振る舞うことが必要になってくるのだ。
秘めた決意は謙信に気付かれないように黙礼を以て伝えた。
寺池城は軍事的拠点には向いていない。しかし、以北の葛西残党は未だに上杉に恭順するという姿勢を示している者が皆無な以上はここを拠点として従わない者達を降伏させるしかない。
謙信はこの役目を親憲の指揮下に大内と蘆名を置いた。端の者はひとまず露払いぐらいは伊達に比べて功を立てることが出来なかった二家に任せ、勝手に動いた伊達を詰問する為だという受け取り方をするかもしれない。しかし、謙信の本音は違った。
これ以上伊達に功を立ててもらっては困る。とはいえ、大原守重ら何人かの家臣を討ち漏らしてしまい、これからかれらを捕らえるなりして葛西の反抗の根を潰しておかなければならない。
そこに伊達が加わってかれらを捕らえるようなことになれば明らかに伊達の武功が目に行ってしまう。
敢えて外させることで政宗に力を持たせ過ぎないようにする配慮である。
「どういうことか。説明してもらいたい」
夜になり、春とはいえ寺池城は寒くなる。にもかかわらず、謙信は縁側で水を飲んでいた。地上を照らしていた月は厚い雲に覆われてしまっている。それでも来るであろうと予測していた者の到来を待ち、案の定高々と足音を立てて来てくれた。
「政宗、私も上杉家当主だぞ。少しでも家の益を考えるのは当然のことだ」
いつも通りの笑み。だというのに何かが違う。笑みがいつもよりも深い。そして、口元が左右均等につり上がっているのではなく、微妙に片側の方が上がっている。ほくそ笑んでいるようで少し勝ち誇っているように感じる。
「やはりか・・・・・・」
謙信は予め寺池城陥落の功を伊達の独り占めにさせない為に盛隆に伊達がその夜に夜襲を仕掛けるだろうということを伝え、盛隆は家臣に三の丸を攻撃させ、その間に何も知らないふりをして伊達の陣に抗議しに行く。
盛隆も二階堂から蘆名の当主になるまで苦労してきた人間である。人を見る目はある。そして、感情の機微も敏感に判断出来る。
景綱が僅かに見せた視線の動きを盛隆は見逃さなかった。
「お前の幼なじみは随分と表情を隠すのは上手かったようだが・・・・・・すぐに城に目を向けて三の丸の方向を見ていたのは不覚だったな」
「小十郎の奴。何をやっているんだ」
吐き捨てるようにここにはいない最も信頼の置ける家臣であり、友である者に叱責する。
しかし、政宗も同じ立場であれば同じような行動を取っただろう。盛隆が自ら乗り込んできた時点で少し眉が動いていたかもしれない。
本来なら逆に褒めてやるべきところだが、どうしても謙信に嵌められたことへの悔しさが景綱への賞賛を否定する。
「残念だが、蘆名もこの佐沼城を落とした功労者だ。無論、伊達が葛西晴信を討ち取ったのだから武功第一に変わりはない。しかし、蘆名に我が配下の親憲も功を立てた。故にそれ相応の褒美を与えねばならぬ」
「いつから・・・・・・」
「最初からだ」
全てを語ることを遮り素っ気なく謙信は答えてきた。
政宗は怒って良い立場にある筈なのに怒りが自然と湧いて来ない。湧いて来るのは謙信に対する尊敬の心。否、それ以上に謙信という人物に対して何か畏怖を感じていた。
普段は誰にでも慕われる温厚かつ寛容な性格。その裏には上杉の天下の為、日の本の泰平の為に邪魔になる者を蹴散らす力の強さ。上洛後に起きた危機的状況をも回避する運の強さ。
背中から冷や汗などかいたことは記憶に無いのに何故だか自覚出来る程に背中にじとりと湿っているのが分かった。
問い詰めようとしていたにもかかわらず、逆に政宗は話の主導権を簡単に握られていることにも腹立たしくならない。
すると、謙信は握った筈の主導権をいとも簡単に手放すように政宗が呑まれていた気を雲散させて朗らかな笑みを浮かべて水を呷った。
「だが、佐沼城のことについては見事だったな」
「何のことです?」
政宗も惚けるようにして謙信同様に水を飲み干した。
確かに伊達軍は二ッ木城を落とす前に佐沼城を陥落させた。とはいえあれはただ敵の怠惰と愚かな采配によるものである。
だが、謙信はいやいやと首を横に振ってますます笑みを深める。手酌で水を注ぎ、一気に杯の水を呷ると政宗を見た。
「片倉を使い、佐沼城城主の大和田掃部を謀ったであろう?」
「っ!?」
その表情はいつもの悪戯っぽい笑みの謙信とは違った。似ているが、正真正銘の黒さを含んでいた。
だが、気のせいだと思うほどすぐにそれは無くなり、悪戯っぽい笑みになる。
「どうして・・・・・・」
「そうだな・・・・・・女の勘、というやつかな」
ますます笑みがこぼれている謙信。悪寒が政宗の背中を走った。
当たりであることは間違いない。景綱に命じて冬の間に佐沼城に入った葛西の武将、大和田掃部の調略を行っていた。
もちろん、長年仕えてきた葛西を裏切るのは窮地から逃れようと生き延びたと罵られると思われる。自分にも武人としての意地があると言って断り続けてきた。
しかし、景綱は最終的に葛西に最期まで付いていても意味がない。天下に名を残したいのならばこちらに降り、伊達の傘下に入って更に大きな土地を治めてみたくはないかと説得を続けてきた。
それでも掃部は首を縦に振ろうとはしなかった。故に景綱は政宗に許可を得た上で敢えて事実を伝えた。千葉広綱はこちらに寝返る準備をしていると。
無論、広綱は策の生贄になっただけで本当に寝返った訳ではない。しかし、気仙沼に葛西家臣の中で最大の勢力を誇る広綱の名前は利いたらしく、掃部は真っ青になったらしい。
喚くように「何か証はあるのか!?」と怒鳴り散らし、景綱に詰め寄った。景綱はそんな相手に平然と広綱から貰ったという書状をひらひらと掲げてみせた。
そして、見せ付けた。間違いなく広綱が送ったという紛れもない証であると。
「筆跡が違う!」と掃部は再び抗議したが、景綱は「これは千葉殿とは違う、家の者が書いた」と主張した。
景綱はその時表情を眉一つ変えることなく今にも怒りの感情のままに刀を引き抜きそうな掃部に対して冷静に応対した。
葛西の柱がいなくなると知った掃部が冷や汗をかきまくって膝を折るのはそれから三日後のことであった。
更に万が一にと配下の兵を買収しておいたことも助かった。
しかし、あの日の夜すぐに上杉の間者が佐沼城の状態についての報告をしてきた時には高揚していた気分が、肝が冷えたことによって一気に急降下した。
政宗は皆が慎重になるところで焦りを抑えることで必死だった。結論として出たのは佐沼城を夜襲する為に自らが先鋒を務めて危険かどうか見てくるというものであった。
「佐沼城に入った時、いくつか酒の入った壺があった。あれもお前が渡すように指示したのか?」
「ええ、身を保証する証として受け取って欲しいと」
「結局はそれが身を滅ぼす原因となるか・・・・・・皮肉にもならんな」
「まさか私も、敵が去ってからすぐに手を付けるとは思わなかった」
これが怠惰であった。買収した配下の者が手を出したことは佐沼城で降伏した兵から聞いた。当然ながらその者はあっさり酔い潰れていたところを何も抵抗出来ないまま首を取られた。
「佐沼城は迫川の流れを汲み、北上川にも通じている要害。なるべくなら無駄な血を流さずに落としたかったのだがな」
「何を持っても弁明にはならないことは覚悟している」
「一応言っておくが、お前を処分するつもりは全くない。今後はあまり面倒を買うような真似をするな。この言葉だけだ・・・・・・持って行け」
政宗の前に謙信が持っていた二つの徳利の内、謙信が使っていた方の物が置かれる。
「少々水とはいえ飲み過ぎた」
そう言いながらも謙信は更に水を呷る。
『過ぎたるはなお及ばざるが如し』という言葉を謙信は今体現して政宗を戒め、脅している。
処分をするようなことはしない筈だが、もしこれ以上何かすればその時は何も無いという保証は無い。
謙信も上杉の主として自分の器から零れ出そうな者は放置する程の愚かさは無いことはよく知っているし、景綱からも聞いている。
確かに今回政宗は勝手に動いていたところがあった。百万石という野望に浮かれていた訳ではないが、それは上辺だけだった可能性もある。
成実には口約束を信用するなと拳骨を食らわせたが、本心では口約束を真に受けていた部分があったのかもしれない。領主が死ぬことで主のいない領地が増えることを喜んでいた自分がいたのかもしれない。
そう考えると政宗は自分自身に対して不快になった。あの成実に食らわせた拳骨を自分に食らわせた方が良いとも思えた。
「ああそうだ、斯波との戦。先鋒は伊達で行くからな。英気を養っておけよ」
「えっ・・・・・・」
「欲しいものは自ら動かねば取れぬ。民の平和もだ」
「これで良い・・・・・・」
未だに月を覆う雲に語ったのか自身に語ったのかは分からない。両方かもしれないが、何となく違って思えた。
去って行った政宗は下を向いたままだった。表情は分からなかったが、不意に見えた頬は赤かった。
百万石を欲しいと思うならあそこで何か言うべきだった。別に謙信は何も言わないからと言って政宗を見損なった訳ではない。
少しは自分の欲しいと思うものに素直に歩んでみたらどうだと背中を押しただけである。それが政宗にはどのように映ったであろうか。それは謙信自身がよく分かっていた。
世間で言うような冷酷とはかけ離れていても普段の自身を考えると人から見れば何か威を感じさせたのだ。
強かなところを配下に任せるのが心苦しくなっていることは否めない。しかし、やはりこういうことは苦手である。
伊達の力を行き過ぎさせない為に取った措置とはいえ慣れないことをした自身に少しばかり月は眩しかった。
「(人肌が恋しいな・・・・・・)」
誰かに懺悔をしよう。
謙信は立ち上がると愛する者がいる部屋にそっと向かった。
また雲は開いて月を見せた。