関東管領は室町幕府が立てたその名の通り関東を将軍の代わりに統治する鎌倉府の補佐を担当する役職であり、代々上杉家が継ぐものであった。
だが、その後分裂を起こして二つの家に分かれた上杉家は関東を舞台に何十年もの年月を費やして、ようやく山内上杉家が扇谷上杉家に勝利した。
ここで山内家の命運を決める事態が起きてしまう。
この時の山内上杉家当主上杉顕定が後の北条早雲となる伊勢宗瑞を迎え入れてしまったのだ。
元々、関東の覇者となることを夢見ていた宗端は顕定に近付き、友好的な関係を築いて虎視眈々と機会を窺いつつ更に彼との関係を蜜月なものにした。
そして、完全に心を許した顕定の居城、小田原城へと彼を騙して兵を送り込み、世に有名な火牛の計にて奪い取った。これによって早雲の関東への足掛かりが出来た。
その後は語るまでも無く、着々と北条は関東に覇を唱えて行き、先の戦で関東管領の山内憲政を完全に関東から追い出した。
一方、憲政は越後で保護された後にも景虎の意向にも理解を示してくれたおかげで、すぐに関東にとはならなかったが、北条との差を痛感したのか、突然驚くべきことを提案した。
「憲政様は景虎様に関東管領の地位を譲るようだ」
「はぁ、何で?」
兼続と龍兵衛は相変わらずの冬の寒さが続く廊下を歩きながら仕事の話をしている時、颯馬がやってきて、この知らせを伝えた。
いずれこうなる事は分かっていたがこの時に来るとは龍兵衛は思っていなかった。
まったくわからないという表情の彼は、二人の顔を見るが、彼らも分かる訳がない。兼続と颯馬もこの展開に疑問符しか頭に浮かんでこないという表情をしている。
長尾は元々、一豪族にしか過ぎないため、家格で見たら有り得ないことである。
「譲る。というよりやらせる。という方があっていると俺は思う」
「関東管領を景虎様にやらせることで自分は狙われないようにするってことか」
龍兵衛の発言に颯馬が言わんとすることを言葉にする。それに兼続は「汚いな」とここにはいない憲政に侮蔑の言葉を吐き捨てる。
「けど、北条も愚かではない。そんなことで誤魔化せる訳が無い」
「颯馬の言う通りだ。問題はそれを景虎様が受け入れるかというところだな」
「今の景虎様ならほぼ間違いなく譲り受けるだろうな。そうなると北条と我らは敵となる」
颯馬の言葉に二人は同時に頷く。
景虎は義藤から言われた時以来、自分の思う天下を創ろうと動いている。今回の事も譲り受ければ、関東の戦いの義は自ずとこちらになってくる。
いずれは関東も取ることになるだろう。その時に存分にその役職は使える。利として景虎もそう考えているはずだ。
北条攻略の口実にこれ以上の理由は無い。しかし、時期はかなり悪い。
長尾はまず、北上することを考えている。北上戦略はかなり家臣内から反発があったが、背後を固め、東北の開拓によって畿内に勝るとも劣らない土地を持つことが出来ると景虎が後押したため、決定することが出来た。
関東への目を光らせるほどの力が現状、越後にあるとは言いにくい。
「今後、関東への調略を行う必要があるな」
沈黙を颯馬が破る。
「いずれ、か……」
「どうした?」
兼続の問いに龍兵衛は何でもないと答える。
三人はそのまま並んで仕事へと向かった。
そして、その日のうちに景虎は関東管領の職の譲渡を将軍から認可を受けて、受け入れることになった。それによって姓を上杉に変え、上杉謙信と名乗ることになった。顕景も同様に上杉景勝と名前を変えた。
それを祝う宴は大いに賑わった。慶次が猿真似をして盛り上がったと思えば親憲が女装をして全員の爆笑を誘った。
おかげで結局は全部、親憲が持っていった形となったが、その中で嬉しいのか、嬉しくないのか分からない状態になっている龍兵衛がいた。
「約束とは破る為にあるものだ! と本当なら言いたい……」
「……?」
誤魔化すように溜め息を吐きながら龍兵衛は夜の冷え込みを感じながら縁側の外れで笛を吹き始める。
以前、部屋での一件で尺八を景勝の前で聴かせるという約束を景勝はしっかりと覚えていた。
親憲の女装で彼の標的になって大笑いしていたのでもう覚えて無いだろうと思っていたが、彼女はそのようなことでは忘れなかった。
「あまり期待しないで下さいね」
龍兵衛は尺八を元々は趣味で始めたので、忙しかった最近はまったくやってなかったので全然自信が無い。
しかも、吹いているのは基本的にかつての時代の中でこれはいけるのではないかと勝手に思った曲ばかりでこの時代の人に聴かせるのも憚られる気がしてしょうがない。
面倒だと思いながらも景勝は早くしろと言わんばかりにこちらを向いている。
早くやって終わらせようと考えながら龍兵衛は笛に口を付けた。
一度始まると自分で早く曲の終わりが来ないかと待ちながら吹いていた。
そして、曲が終わるとさっさと立ち上がって逃げるように部屋に戻ろうとしたが、すかさず止められ、またやって欲しいと言われた。
嫌と言えないような強い目で見られた為、龍兵衛は仕方なく他の人には絶対に秘密にすることを条件に渋々承諾した。
景勝は笑みを浮かべて、喜んでくれた。
「龍兵衛、少し変わった?」
「どういうことでしょう?」
龍兵衛は不思議そうに景勝を見る。
「前、断ってた。でも、いいって言った」
そうかもしれない。だが、これくらいなら別に断ることもなかったと思う。
龍兵衛からすれば景勝がこのことを知っているからやったまでだ。
「景勝様はこのことを知っているからいいと言ったまでです。他の人には聴かせる気はありません」
「もったいない。龍兵衛、上手」
お世辞だ。
そう思いながら龍兵衛は今度聴かせる機会が有ったら聴かせますと言って部屋に戻った。
だが、実際に彼の腕は本当に良かった。かつての彼は多趣味で笛にも挑戦したことがあり、囃で助っ人を頼まれたこともある。
野球に打ち込むようになってからしばらくは封印していたが、やることが限られるこの時代でもう一度やることにしたのだ。
それでも彼の腕は衰えてはいなかった。景勝は笛には詳しくないが、それでも上手いと思える程に彼は笛が上手だった。
猜疑心が強く自分に来るほめ言葉の全てを否定的に捉える彼には景勝の言葉も入ることはなかった。
長尾景虎が関東管領に就任し、上杉謙信と名乗るという知らせは直ぐに近隣諸侯に伝わった。
北条がどう動くかが一番気になったが、これといった敵愾心を露わにするような動きは無く。むしろ友好的に接している。
「貢ぎ物を持ってくるとは某も思いませんでした」
「北条もわかっているって事ですよ」
親憲と龍兵衛は話しながら馬に揺られている。今、上杉軍はとある戦場に向かっている。
北条は関東管領の件を聞くとすぐに貢ぎ物を献上して来た。
友好的に来たのはおそらく佐竹と手を組まれるのが怖いのだろう。
元々佐竹とは手を組むことは考えていなかったので上杉家としては別にどうでもよかったのだが、関東管領となった謙信様と戦うのは不利であり謙信を恐れているという事が表れている。
先の戦で太田道灌という知将を討ったとはいえ、生き残った憲政殿の将は優秀な将ばかりである。
それに上杉謙信の配下の将も有能で、謙信の統率力は憲政とは比べ物にならない彼女が率いるとなれば、こちらから出向くことがない限りは越後山脈を越えてくることは無いだろう。
因みにまだ東北に行くには寒さに対する対策が準備が足りない。だが、武田に対応するには十分だった。
「何故に武田が出てくるんでしょうか? 龍兵衛殿はわかりますか?」
武田は関東管領を謙信が譲り受けると兵をこちらに向けて来た。
「武田にとっては甲斐の名家が長尾のような……はっきり言えば、豪族上がりが関東管領になるのが気に入らないのではないでしょうか?」
「なるほど。されど、こうもいきなり攻めてくるとは……いくら気に入らないとはいえ、某が信玄の立場でもこんな暴挙には出たりは致しませんね」
上田原での大敗からさほど時間が掛かっていないが、ここまでやってくるのはかなり無理をしたに違いない。
だが、まだ攻めて来ないと考えていた北信州の豪族は対応出来ずに小笠原、仁科はあっという間に崩れ、頼みの村上義清は頑強に抵抗したが、先の戦での失敗を二度もする信玄ではない。
真田勢の分離工作で村上は疑心暗鬼に陥って敗れ、義清は謙信を頼って春日山城に逃げ込んで来た。
当初上杉は、武田がそこで退くと考えそのまま村上殿を説得して東北遠征の準備を続けていたが、武田はそのままこちらに向かっているらしく、さすがに無視出来ないので急遽東北遠征を中止して川中島へ向かっている途中である。
武田も随分と無理をすると上杉家の将兵は思った。今回の戦は武田家の家臣の中にもかなりの反対意見が出たらしい。だが、当主の信玄が強引に取り決めたそうだ。
まるで私情を戦に持ち込んでいるようで龍兵衛は思わず公にもかかわらず、首を捻ってしまう。
「そういえば、颯馬達はどこに行ったか知ってます?」
龍兵衛の突然の質問に親憲も辺りを見渡すと案外あっさり見つかった。
「何やってんの?」
龍兵衛が詰め寄るように問うが颯馬達は腹を抱えて笑っていた。
「いや……水原さんの顔見るとこの前のがまだ思い出して来て……」
「わ、私も……」
颯馬と兼続は角度からして親憲の顔が死角になって丁度見えないところに居たが、龍兵衛と一緒に親憲が辺りを見ている時に視界に入ってしまったのだ。
原因を知ると二人のせいで龍兵衛も化粧面の親憲がしっかりと頭を支配してしまった。
「止めろ……俺も……」
その後は景勝と景家を巻き込んで半刻(三十分)の間、五人の笑い声が収まらなかった。
それから一ヶ月が経ち、上杉軍は川中島で武田と睨み合いを続けていた。
「……以上が今回の戦果の報告です」
颯馬が報告を終えると謙信はふむと言った後は押し黙ってしまった。
対陣してからしばらく、武田から攻めて来てちょっと被害を出しては退く、ずっとこれの繰り返しだ。大した戦果は両軍にはない。
「向こうから攻めて来ておいて鼠のごとくちょろちょろと小競り合いをして撤退するとは舐められいる証拠だ。謙信様、いっそこちらから攻めては?」
「落ち着け兼続、今はその時では無いことぐらいわかっているだろう」
颯馬は兼続を宥めるがそれがどうも逆効果になったらしく兼続は彼に喰って掛かってきた。
「では貴様は歯がゆくはないのか!? あのようなこすっからく我らの領地を奪いに来た輩を!」
「わめけばどうにかなるのか!?」
釣られて颯馬も怒鳴り返した。
だが、はっきり大きく動いてくれない以上は上杉軍から攻撃を仕掛けることは出来ない。
犀川を挟んで開けた平野で相対している以上、伏兵の心配はないが、このようにくすぐられるような攻めには将兵からも兼続のようにこちらから打って出るべきだという者も出ている。
こちらが先に川を渡れば向こう岸に着くところを迎撃されて、退路が無くなる為に簡単には動けない。
そもそも上杉からすればこれは守る戦で攻める戦ではない。焦ったところでこちらがやられては意味がない。
「しかし、何故に信玄はここに来て慎重になったのだ?」
「そこに信玄の企みがありそうで怖いですね」
龍兵衛と親憲も推測を立てて何故信玄が動かないか色々とあまり意味の無いことを考えている。
「安心しろ、景勝」
謙信様は不安そうに見上げている景勝様の頭に手を置きながら家臣達を見渡す。
「颯馬も兼続ものんびりと行こうではないか」
「え、いや、しかし謙信様……」
何か言おうとした兼続を謙信様は手で制す。
「そろそろ食事にしよう。颯馬も兼続も腹が減って苛立っているのだろう」
別にまだそんな時間でもないし颯馬達もまだ腹が減っている訳ではない。
「まぁいいじゃん」
颯馬の肩を龍兵衛が叩いてきた。颯馬は定満を見ると笑顔で行こうと手で招いている。苦笑いを浮かべながら彼も兼続の肩を叩きながら謙信達について行った。
それから二カ月が経っても上杉軍は相変わらず武田と千曲川を挟んでいる。
冬の冷たい風を切りながら将兵は対岸を睨んでいた。
「これじゃ、今年の東北遠征は無しかな……」
おどけるように両手を上げて龍兵衛は嘆く。彼自身が東北への進出を主張した為、この戦を仕掛けた信玄は邪魔以外の何者でもない。彼は表情には出てないが苛立っている。
現に軍議での貧乏揺すりは日に日に盛大なものになり、いらいらを晴らそうと兵達と馬鹿話をしたり、一人で考え事をしたりしてる。
「あぁ~もう、飽きた! 向こうが出てきたらこの苛々をぶつけられるのに!」
「前田殿、落ち着いて下さい。それ以上暴れると、その……目のやり場に困ります」
「だってぇ。水原さんもこの気持ちわかるでしょぉ~」
「某は前田殿よりも兵達の気持ちがわかります」
「それってぇこういうことぉ~? ちらっ」
親憲は慶次の行動に全く鼻の下を伸ばすような事はせずに慶次の目から視線を離さない。
近くで颯馬が龍兵衛と兼続の鉄拳制裁を受けているが、それには誰も気にしない。
「……男というのはそういうはっきりとした誘惑より、楚々とした風情の方が喜ぶものです」
「そそとしたふぜぇ?」
「楚々とした風情とは……」
「ふんふん」
苛立っていた慶次は親憲の言葉に興味を持ったようだが、龍兵衛はそれを嘆かわしい目で見る。
「(慶次には死んでも無理です……水原さん)」
龍兵衛は一人でその光景を眺めながら親憲の無駄な努力に涙したい気持ちだ。
「なぁ、颯馬、謙信様はいつまで待っているつもりだろうか?」
「さぁな、龍兵衛はどう思う?」
颯馬も慶次と親憲の会話を聞いていてここが戦場であることを忘れかけたが、兼続のおかげで集中直しす。だが、龍兵衛から返事が無い。
「……ぐ~」
「……す~」
「「起きて下さい!」」
寝ていた定満と龍兵衛が目を覚ます。
二人は気を抜きすぎている気がするが、龍兵衛はただ定満に眠気を移されただけで何ら罪は無い。
「龍兵衛はさっきまで起きてたろ!」
颯馬は鋭い指摘を入れておきたかったが、呆れてそんな気も萎えてしまった。
「ん、敵襲か?」
「違うがちゃんと起きてろ! 定満殿もしっかりしてください!」
「いいお天気だから」
寝ぼけ眼の龍兵衛が問うと兼続の大声が響き渡る。だが、二人とも気にせずに「ふぁ~」と可愛らしい欠伸をする定満と猫のような伸びをして身体を起こす龍兵衛。
年と身体つきに似合わない仕草をしてそれぞれが身体を起こす。
「敵、動きました!」
その報告が来たのはその直後だった。
戦ではなく、和睦の使者であると分かったのは単騎で来るのを見てからである。
すぐに使者は通されると謙信はその者が携えていた書状に目を通して使者の話を聞くと一瞬だけ固まったが、すぐに頷いた。
「よかろうその条件、飲もう」
この言葉に兼続は驚きの声と抗議の声を上げる。
内容としては上杉、武田双方に有利ではあるが、それを引き受ける条件が物議を醸した。
昌景は上杉が先に退くように願ったのだ。兼続は「後ろから攻める気だ!」と言い、昌景がそれに応戦したが、謙信が即座にそれを抑えて昌景に信玄よろしく伝えるようにと言って陣所へと引き返すように勧めると彼もすぐに馬に乗って戻って行った。
上杉は講和を結ぶことになった。
そして、昌景が去って行った後、上杉軍には更に一悶着あった。
「私が残る! たまには譲れ!」
「なんだと!? 俺が残った方がいい!」
颯馬と兼続はどちらが殿を務めるかで揉め始めたのだ。
別にただ武田が退いていく様子を眺めるだけなのだが、先に颯馬が残ると言うと兼続がすかさず噛み付いたのだ。
「もう、また仲良く喧嘩して、嫉妬しちゃう」
「「誰と誰の仲が良いんだ!」」
「お二人の息が合っているのは余人も認めるところですよ」
全員の『またかよ……』という目も気にせずに兼続と颯馬は睨み合うが、親憲の言い分は確かにその通りだ。
とりあえず、謙信様が間を取って二人残ることになり、それ以外の将兵達は春日山に先に撤退することになった。
春日山城に帰る途中でも上杉軍は変わらない。
「女性の着物からふっと見えるうなじや脚、某はそういったのが好みですな!」
撤退する途上で親憲と龍兵衛はそういった会話をしていた。
事の発端は慶次と親憲の戦の間での会話でどのようなものが好みか親憲が龍兵衛に聞いてきたのだ。
親憲からそんなことを聞かれると思ってなかったので一瞬呆気にとられた龍兵衛だが、にべもなく普通に答えた。
「自分は正直そういったところに興味は無いですね。自分は服装には人それぞれの個性が出ているので、そういったのを無くすのはもったいない気がしますよ」
なんだかんだ言いつつも龍兵衛は親憲と女性の好みについて話している。周りからは「(龍兵衛もそういう話しするのか!?)」という好奇の目が集まっている。
普段は堅物を貫いている龍兵衛だが、周りは気にしないで親憲と話を続けていく内に、慶次の衣装について話は変わる。
「第一に、慶次が楚々とした風情になったら慶次が慶次じゃなくなります」
案外これは龍兵衛の本心だったりする。
「慶次がそうなるのは……まるで動物に弥太郎殿が好かれるようなものです」
謎かけのような龍兵衛の例えに謙信が悪戯っぽい笑顔で入ってくる。
「その心は……到底無理ということか」
「上手い例えじゃのう」
「(こくこく)」
義藤と景勝がそれに続いて悪戯っぽい笑みを浮かべて頷く。
「おい龍兵衛、人が気にしていることをはっきり言うな。傷つくだろう」
弥太郎は同僚とはいえ後輩である龍兵衛にからかわれたことに凹んでしまったようだ。
「まぁまぁ」と定満が慰めるが、口元が笑っている。
慶次は「やってみないとわかんないでしょ~」と抗議しているが、全員に無視された。
感想・指摘よろしくお願いします
最初千曲川と書いたんですが、本当は犀川の間違いでした。申し訳ありません