上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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かなり変えました。ここから先は変えるものが多いのと風邪をひいたので時間がかかります。


第十一話改 謙信出奔 

 その日、天城颯馬は朝の廊下で上杉景勝と出会い、そのまま謙信の部屋へと向かった。

 朝議の議題の確認である。その時まではいつも通りであった。いつも通りに朝は進んでいた。

 龍兵衛は日課の散歩に風が吹き荒れる寒い中でも城下へ向かい、弥太郎や景家達は朝の鍛練、定満や颯馬は龍兵衛と違って夜遅くまで詰めて仕事をするタイプなのでまだ寝ていた。

 兼続はそっと廊下を進み、部屋の前で謙信の所在を確認して部屋に入ろうとするが、返答がない。

 いつもならこの時間にはとっくに起きている筈なのに珍しく寝坊か。

 そう思ってもう一度、さっきより大きい声で呼び掛けるが、まったく反応が無い。

「失礼します」と言いながら部屋に入ると謙信はいない。

 もう起きてどこかに居るのか。そう思った時に机の上にあった手紙に目が行った。

 あまり覗き見はよろしく無いが、景勝が興味を抱いて手紙を読む。

 

「(まぁ、景勝様なら謙信様でも何も言うまい)」

 

 そう思っていると景勝の手が震えている。その手紙を兼続に渡しに来た。

 どうしたのかと思いながら文面を読んでいく内に顔色が無くなっていき、読み終わる前に完全に頭が真っ白になってしまった。

 

 急遽、上杉家の主要な将達は評定の間に集まった。

 

「謙信様が出奔……まさか……そんな……」

 

 景家は絶句するばかりで、先程から同じ言葉ようなことを呟いている。

 唯一の望みは散歩からまだ帰って来てない龍兵衛であった。

 朝早くにおきた事件のため、もしかしたら謙信の行方を知っているかもしれない。

 

「直江殿、落ち着いて下さい。これは出奔では無く。その……家出と言ったようなものですから」

 

 親憲が意味深長なことを言いながら一人、冷静に座っている。

 だが、颯馬はその言葉に気にかかることがあった。取り乱している多く者に変わって、尋ねる。

 親憲は「あくまでも某の意見ですが」と前置きを置いて説明を始めた。

 

「この文面を読む限りでは、ちゃんと行き先を書いてありますし……いや、家出なら『探さないで下さい』とでも書いているはずですから。隠居のようなものですか」

 

 大事に変わりないが、親憲は冷静に分析する。

「某だって取り乱していますよ」と言っているが、全くそんな様子がない。その有り様に景勝や慶次もすっかり感心している。否、呆れている。

 

「謙信様が取り乱したり、女装したら戻って来るのなら話は別ですがね」

『(女装は関係無いと思う……)』

 

 内心で、それが出てくることに疑問に思いつつ、颯馬はもう一度、手紙に目をやる。

 謙信が身を寄せている寺には、親憲と実及がすでに信頼出来るものを派遣している。

 文面を読み込もうとした途端、軍議の間に一人の人物が入って来た。

 

「戻りましたけど何かあったんですか?」

 

 ようやく龍兵衛が散歩から帰って来た。

 が咎めると、新しく出来た農具の調子を見に行って帰ってくるのが遅れてしまったらしい。

 彼が入ってくるのを見るなり、兼続が彼の胸元を力強く掴み、揺らしながら「謙信様を見なかったか!?」といきなり言われたため、さすがに何がなんだか分からないと、颯馬の方に視線を向ける。

 事情を説明すると龍兵衛は兼続の手を払い除けて、姿勢を正す。

 

「おやおや、それはそれは……」

 

 目を軽く見開いただけで、そこから激しく動揺する素振りも無い。

 

「で、どうするのですか?」

 

 親憲並みの落ち着きを見せる。

 年は近かったはずで、颯馬は慌てている自身が恥ずかしくなった。本題の謙信を見たかと聞くと、残念そうに首を横に振った。

 

「龍兵衛殿も戻って来ましたし、手紙をもう一度、読み直して見ては?」

 

 颯馬は親憲に言われるがままに謙信が残した手紙を見る。

 そこには過日の武田との戦で武田家臣団の強さを感じたこと。今後は景勝に政を任せて自分は隠居しようと言うことが書かれていた。

 

「かっつん、期待されちゃっているね」

「(はわわわ)」

 

 そのような無責任なことをするような人ではないのだがと颯馬は首を捻る。

 すると、慶次が手紙を覗き込み、一通り読む。

 そして「なるほどねぇ〜」と呟くと急に真剣な表情になり、雰囲気が斜めなものから真っ直ぐ真剣なものになった。

 

「この手紙を見るに、私はこう考えます。謙信様は景勝様に謙信様が居なくなって混乱した上杉家をどう治めるのか……いかが、思われます?皆様は?」

 

 慶次が今までに無い真面目な表情をして颯馬達を見回す。全員がその真剣な目に今度は全員がその真意を悟った。

 

「いや、前田殿の仰る通りです」

「いやん、そんな風に返されると、照れちゃう」

 

 いつものしなを作るが目はいたって真面目だ。

 

「確かに焦る必要も無いでしょう。謙信様もおそらく自分のやっている事に対した危機も感じていない筈です。ま、危なくなったら飛んで帰ってきますよ」

 

 龍兵衛は大丈夫ですよと余裕の表情を崩さない。兼続にもこのようになってもらいたい物だなぁ。と、そういう颯馬も結構取り乱していたので人の事を言える立場ではない。しかし、つくづく龍兵衛は年をごまかしているとしか思えない。今度聞いてみようと思いつつも颯馬は自らが動くべきがどちらにあるか、考えを進める。そして、

 

「ならば、某が謙信様の説得に向かいます」

 

 そう言うと颯馬は定満達に後は頼みます、頭を下げていく。

 間違い無く、謙信がいなくなった上杉家は乱れる。ならば、今のうちに説得して帰って来てもらった方がいいだろう。

 

「この事は皆に伝えるべきだろうか……」

「伝えない方が良いのでは?下手に伝えれば家中の混乱を招くかと」

 

 それは難しすぎる。いずれ穴が開いて、そのままそこに流れ込む水のように、ばれた時にあらぬ事態に陥りかねない。

 

「下手に隠すとバレた時にまずくないか?今のうちに言っておいた方がいいと自分は思います」

「ふむ、確かにそうだな、謙信様が居ないというのは隠せるものでは無い。遅かれ早かれ・・・バレるな」

 

 弥太郎の発言で決まった。今のうちに言っておいて混乱を最小限にする。全員の意見が一致したところで颯馬は謙信が居る寺へと向かった。

 颯馬が説得に行った後、家臣団は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。しばらくは景勝が上杉家を取り仕切ることを全員に言って、とりあえず散会となった。

 

「しかし、何故この時期に謙信様はこのようなことを……」

「この時期だからこそ、景勝を世継ぎへとする為の試練を与えたのじゃろう」

 

 義藤は余裕の構えを崩さない。数々の修羅場をくぐり抜けただけあって、これぐらいどうとでもないのだろう。

 ここには上杉家の重臣中の重臣が集まっている。

 今後のことを話しているが、ほとんど謙信が帰って来るまで今まで通りに行くことになり、完全散会となった。

 だが、景勝の身を案じる一部はまだ残っていた。

 

「大丈夫、かっつん、あたしが入れば何ともないって」

「そうです!景勝様、私のような優秀な軍師もいます」

「いや、軍師は他に自分もいるから……」

「某は肩書きは無いですが混ぜて下さい」

 

 変わることは無い上杉家家臣を頼もしく思いながら景勝は大丈夫だと思った。

 その時、他の家臣と同様に楽しそうにしていた龍兵衛が顔をしかめ不覚にも「あ!」と声を出した。

 

「龍兵衛君、どうしたの?」

 

 いえ何でもありません、と首を振ったが、その後も彼はずっとおとがいに手を当てていた。

 

 

「謙信様はお強いが、景勝様はどうもな」

 

 暗い春日山一つの屋敷で四人の将が灯籠一本の灯りに集まっていた。

 

「そうだな、ここは一つ、我らで一旗揚げようではないか」

「しかし、我らだけでは同志が集まると思うか?」

 

 中央にいる上杉家の重臣、北条高広が不安げな他の将を落ち着かせるように自らの考えを言う。

 

「そこで、上杉景信様に我らの盟主になってもらうのよ、すでに了承を得ておる。山本寺定長様も協力して頂けるように頼んでおいた」

 

 二人は上杉家の一門だが、謙信とは長らく対立関係にあった。とりわけ景信の古志長尾家は政景、景勝親子の上田長尾家との対立は著しく、謙信に降伏した後もずっと景勝には敵意を隠し持っていた。

 その二人がこの好機をのがす筈がない。二つ返事で高広の誘いに乗った。

 

「手回しが早い、さすがは高広殿……ですが、こういうのは確実にいかねばなりますまい。慎重に事を運ばなければ」

 

 北条高広ら、四人の将は互いに頷き合い計画を実行する準備を始める為に部屋を出ようとした時、高広が三人を止めた。そして、もう一人の人物に目を掛けている、と笑みを浮かべた。

 

「……と、言う訳でして、ぜひとも協力してもらいたい」

 

 ふむ、とおとがいに手を当て、龍兵衛はとある将と対談をしていた。

 

「で、見返りは?」

「新発田をお与えします」

 

 東北遠征の為の拠点の一つとして力を入れてきた新発田城は春日山の次に大きな規模を持っていた。

 

「わかりました。協力しましょう」

「では、よろしくお願いしますぞ」

 

 龍兵衛は三日月に口の形を変えるのを見てやってきた将は立ち上がる。そして、その将が出て行くのを見て、龍兵衛は立ち上がってとある部屋に向かった。

 

 

 北条高広は龍兵衛がかつて斎藤で謀反を起こした経験があるから誘った。

 こういった輩は反骨心が強い。さらに彼は景勝とは距離を取っているという噂もあった。

 高広も愚かではない。

 高広の思惑通りに行った。さらに何人かが呼応して兵力は十分に揃った。

 そして、決行の日の前日、彼らは再び春日山の暗い灯籠一本の部屋で作戦会議をしていた。

 

「では明日、各々の兵を率いて春日山近くを抑えて一気に春日山を攻めるということで……よいな、決して抜かるな」

 

 全員が頷く。ここで最後まで何も言わなかった龍兵衛が手を挙げた。

 

「実は皆様にはまだ言っていませんでしたが、助っ人が自分に協力してくれるそうです」

「ほう、それは誰じゃ?」

 

 控えさせているので連れて来る、と言って、龍兵衛は部屋を出る。美濃では三人目の兵衛と言われていた彼が認めるのなら役に立つだろう。誰もがそう思った。

 高広が本当に彼を引き込んで正解だったと思った。彼が立てた計画への過程は見事なもので、全てが理にかなっていた。

 後は明日の決行日に全てを成功させて景信の下で自分が上杉家を意のままにする。ふつふつと燃える野心の炎がまさに一気に燃え盛ろうとしている。

 

「よろしいですか?」

 

 襖越しに龍兵衛が声を掛けたので高広が許可を出す。

 龍兵衛が襖を開けた瞬間だった。彼らの顔が固まった。原因は龍兵衛の連れて来た人達だった。

 一人目は甘粕長重、二人目は前田慶次、三人目は小島弥太郎、四人目は水原親憲、そして、五人目はここに最もいてはいけない人物。

 

「か……景勝……様」

 

 上杉景勝その人だった。この時、高広の心は野心の炎よりも怒りの炎が先に燃え広がった。

 

「どういうことだ!? 我らに協力するのではなかったのか!?」

 

 高広が喚く。

 その声は春日山のどこまでにも聞こえただろうか。他の連中も殺気や怒気を彼に向けている。

 しかし、龍兵衛自身はそのようなものなど気にしない。むしろ、それを浴びて嬉々としている。

 

「自分はわかりましたと言いましたが、決して、協力するとは一言も言ってません」

「嘘を吐くな! 貴様は言ったぞ! 協力すると、はっきりとな!」

 

 確かにあの時龍兵衛は協力すると言った。だが、彼は両手を広げて全くの知らぬ存ぜぬとしらを切る。それは高広の聞き間違いで自身は協力するなんて一言も言っていないの繰り返しだ。

 今となっては龍兵衛に正義がある以上は全て彼の言ったことが正しくなる。それを分かっているからこそ彼は平然としていられる。

 

「助っ人を用意しているというのも全て嘘だったということか!」

「あくまでも、自分に協力して頂けると言いました。あなた方に協力するとは一言も言ってません」

 

 高広達を見るその目は人を見る目ではない。醜い鼠を見るような目だ。高広はぎりっと奥歯を噛み締める。全てこの男の手のひらだったということを今初めて悟ったのだ。

 

「あなた方は三流以下の道化師です。笑われていただの道化だったんだ。所詮は一流の道化師に踊らされているのに気がつかなかったんだよ!」

 

 龍兵衛は黒い笑みを浮かべ、独特の動きで四人を指差す。もはや、言葉使いも先輩である高広達に対する礼儀も無くなった。彼らの悔しそうな顔を面白そうに見ながら、彼は真面目な顔に変わって景勝様を向く。

 

「景勝様、彼らは上杉家を乗っ取ろうとした不義の輩です。ご指示を」

「捕まえる」

 

 景勝の号令に反応した四人はすぐさま彼らを捕らえた。

 景信と定長の方も定満達が行っている。今頃は部屋に押し入っている頃だろう。あちらには兵も付けている為、逃げられる心配もない。

 

「終わりました。景勝様」

「龍兵衛、言わなかったら、もっと、騒ぎになった。ありがとう」 

「勿体なきお言葉です」

 

 そして、景勝は捕らえられた三人に向かった。その目には当主たる覚悟が宿っている。

 

「皆、いらない!」

「この四人を処刑せよ!」

 

 親憲がそばに控えていた兵に彼らを引き渡した。これでもう抵抗は無駄となる。

 

「じゃ、刑場に行ってらっしゃ~い」

 

 慶次の言葉にはふざけが入っているが、その目は怒りの炎がこもっている。腕を捕まれながら高広は龍兵衛を睨み、最期の言葉と言わんばかりに声を上げた。

 

「河田ー! 貴様も元は謀反人だったんだ! 共に協力していれば良かったんだよ!」

 

 ただの恨み言は全くの効き目もない。その言葉は簡単に龍兵衛の心に弾かれた。

 

「まったく……あれは起こるべくして起こったと言ったのを忘れたのか?」

 

 いつぞやの龍兵衛が謙信に言った言葉を四人の将は完全に忘れていたのだ。

 その後、景信と定長の二人も定満達によって捕らえられ、死罪となった。こうして、御館の乱は起きること無く、未遂で終わることとなった。

 万事片付いたところで上杉家には平穏が戻った。

 そして今、龍兵衛は定満の部屋で酒を飲んでいる。定満が杯に酒を注ぐと彼に渡してくる。

 

「龍兵衛君、お疲れ様」

 

 恐れ多くも上司である定満に酒を注いでもらった龍兵衛は頭を下げながら杯を受け取り「いえ」とにべもなく返す。

 

「元気ないの」

「今思えば、自分は随分と失礼な振る舞いをしました。万死に値するでしょう」

「でも、そのおかげで景勝様は目が覚めたの」

 

 何年も昔のことを思い出すようにしてぼやいているが、定満の言う通り、景勝はその後、すぐに龍兵衛に内偵を命じ、彼の報告を受けながら、当主としての仕事も立派にこなした。

 そしてあの日も、龍兵衛からの報告で全員が春日山に集まったところを一網打尽にすることに成功した。この作戦を考えたのは定満でも龍兵衛でもない。景勝自らが立てた。

 もちろん二人も同じような策を考えていたが、景勝自らがこれでいくと言った時には内心これでもう大丈夫だと確信した。景勝様は我らの次期当主に相応しい方になられたと。

 

「目出度し目出度し、という訳にもいきませんよね……?」

 

 二人は顔を暗くしたのには景信や定長といった上杉家一門と北条高広という重臣を粛清した穴埋めの問題が出て来たのだ。

 定長の不動山城、景信の栖吉城、そして、高広の北条城が空になった。三つの城の規模と今まで城主だった人の家格を考えるとすぐに誰かをポンと入れてしまう訳にもいかない。

 これからは大変なことになると思いながらも龍兵衛は定満と一緒に酒を飲んでいると、定満が近付いて頭を撫でてきた。

 

「今回、龍兵衛君には無理させたの」

「とんでもない。自分はやりたくてやっただけです」

 

 平然とした態度を貫いて最後まで一時期の景勝が取った上杉家の舵を龍兵衛は裏で支えた功労者だ。そして、普段よりもさらに景勝と距離を取り、周りに噂が本当であったと思わせた。

 彼とて景勝の側で皆と一緒に景勝を支えたかったに違いない。彼はあんなことを言ったが、定満は彼には辛い思いをさせたと分かっていた。

 そんな彼には一つや二つぐらい報いねばならない。

 

「龍兵衛君、ご褒美欲しくない?」

 

 定満は龍兵衛の背中に回ってふにゅーっと胸を押し付け、顔を近付けて耳に甘い息を吹きかけた。

 彼はいつぞや颯馬と話していた事を思い出した。そして、定満とは以前も同じような事があったが、その時はちゃんと耐えた。

 だから今回も耐えておけば大丈夫だと思っていたが、思わず杯を落としてしまった。

 

「ま、またか……」

 

 身体が熱くなってきた。眠る欲望を醒まさせようと薬は身体中を回って行く。

 

「定満殿……これは……どういうことです?」

 

 欲望に押される身体を必死に抑えながら、龍兵衛は定満を睨み付ける。だが、定満は完全に楽しんでいて、龍兵衛の身体を舐めるように見回している。

 

「弥太郎の言っていた通りなの」

「余計な真似をやってくれて……」

 

 免疫が出来たのか龍兵衛は以前よりも言葉を繋げることが出来ている。

 だが、定満はその上を行く、首筋から耳の穴までを舐めまわし、時折卑猥な囁きで龍兵衛を誘ってくるが、彼は理性を保ち、定満の責めに耐えている。

 着物を自らはだけてさせて豊満な胸を隠そうとしないで迫ってくる。

 しかし、目の前で熱い吐息をかけて上目で定満が見ようと彼は定満を押し倒そうとしない。

 

「龍兵衛君は潔癖だね。分かっていたけど……でも、私は、それを壊したくなるの」

 

 定満はにっこりと笑う。

 しかし、龍兵衛にはそれが悪魔の微笑にしか見えない。必死に前を向いて耐えるしかない。

 定満はならばとばかりに龍兵衛に抱き付いたままとある小さな包装紙を取り出して、酒に入っている自分の杯に中に入っている薬を入れて口に含み、強引に口付けをして龍兵衛の口にそれを入れた。

 抵抗した龍兵衛も定満の濃密な口付けに誤ってそれを飲んでしまった。

 

「一つ……聞かせてもらえませんか?」

 

 もはや覚悟を決めた。龍兵衛は最後の理性を最大限に発揮して定満にこれは弥太郎と定満、どっちが元々の所有者なのか聞いた。

 

「これはね……私の……なの。だから、今夜だけ……」

 

 自分でも少し飲んだのだろう。定満も顔が赤く染まっている。

 

「(ということは弥……)」

 

 そこまでで龍兵衛の理性は途絶えた。

 さらに彼は身の清きを失っていく。堕ちるのだ。

 

 その翌日、謙信が帰って来た。実に数週間の出来事だった。

 景勝に頼まれて龍兵衛はまた笛を吹いている。

 やっと謙信が帰って来たので安堵したのだろうか、楽しそうに景勝は聴いているが、どこか眠そうだ。

 曲が終わり、最近はよくやるようになった雑談をする。正直こっちの方が日々の不満を一人で溜め込む龍兵衛にとっては楽しい。

 最近はお互いの愚痴を言い合うようになったので相手が景勝でも遠慮なく愚痴をこぼしている。だが、今日の景勝の愚痴はとてつもない多さで龍兵衛は圧倒された。

 やはり、謙信が居ないあの間にかなりの鬱憤を溜めていたようだ。

 

「龍兵衛、あの時すごかった。別人に見えた」

 

 景勝にはいつもは怒ったりしない龍兵衛が急に激しい口調で他人が割って入ることも許さないような剣幕で景勝を叱り飛ばしたのが鮮明に記憶に残っている。

 あの時は龍兵衛も焦っていた。高広からあの二人の名前が出て来た時は『ああ、やっぱり』と思った。

 史実を知る彼はあの二人には元から警戒感を抱いていた。だが、実際とは違うこの世界では謙信が景勝を明確に世継ぎと定めている以上、御館の乱のような事自体が起きることさえも分からなかった。

 だが今回、その警戒心は功を奏した。予め二人を監視させておいたおかげで上杉家の内乱は兵を損なうこと無く終結したのだから。

 後から考えてみても、上杉一門であんなことをするのはあの二人だけだと龍兵衛は思っていた。

 政景のことは真っ先に龍兵衛は頭から外した。あの忠誠心は誰もが認めるところだからだ。

 上条政重も同様で、彼の場合は城主を交代させられた事によって景勝と対立したが、そうしない限り大丈夫だろうと彼は考えていた。

 そして二人は思った通り、景勝の下に真っ先に向かって忠誠を誓った。

 

「自分も言いたいことがある時ははっきり言いたいだけです。ですが、今回は景勝様のことを自分は批判しました。ご無礼をお許し下さい」

「あれは気にしなくていい、景勝、変われた気がした」

 

 景勝は自分であの時に龍兵衛に言われた時はまだ役目に不安が残っていた。しかし、彼に内偵を命じた瞬間に心の不安がすーっとどこかに吸い込まれて行くような気がした。

 そして思った。

 

『自分でもやれる』

「それは良かったです」

 

 龍兵衛は無意識にその時笑顔を浮かべていた。それは景勝の成長を喜ぶ至福の笑みとでも言おうか。とにかく穏やかな彼の心からの笑顔であった。

 

「龍兵衛、いい顔している」

 

 景勝に言われて、龍兵衛は慌てていつもの顔に戻すことは無かった。

 

「もう夜も遅くなりましたし、景勝様もお疲れでしょう。お休みになられて下さい」

 

 笑顔のまま龍兵衛はそう言って部屋に戻ろうとすると欠伸が出そうな顔をしている景勝が裾を掴み、もう一曲吹いて欲しいと言われた。

 まぁ、今日ぐらいいいか

 彼はそう思い、もう一度冷たい床に座り直して曲を演奏し始めた。

 龍兵衛の曲は心を慰めるような儚い曲が定番だが、その曲は心を和ませる明るい曲に変わっていた。




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