繁長の反乱が鎮まってから早二ヶ月が過ぎようとしている。
風が暖かくなり、何をするにも気分が上向きになるのを身体で覚えながら兼続は謙信の下へと向かっていた。
これまでの間にとうとう加地春綱を総大将とした最上・安東などの連合軍が南部と協力して九戸と津軽を滅ぼし、南部信直が家臣の北信愛を伴って春日山城にて謙信に服従すると誓った。
これで上杉は完全に東北地方一帯を支配下に置き、背後の憂いを絶ったのである。
これを期に謙信は内政の状況を整理させて逼迫し始めた財政の回復に努めることにした。
今まで疎かにしていたことは無いが、戦に目が行っていた以上、政策に使用しようと考えていた金が少々戦費に流れていたのは致し方ないこと。
これから関東や信州に目を向ける以上、更なる激戦となるのは必至。その前にきちんと整えるべきものは整えておかなければならない。
謙信の部屋には彼女一人しかいなかった。
別段珍しいことではないが、兼続は少し意外だと思ってきょろきょろと思わず周りを見てしまう。
気配が無い為に誰もいないようだが、気になって更に念を入れようとしたが、謙信の前で無礼であると思いすぐに止めて本題に入った。
「南部信直には九戸と津軽地方の一部を与えて残るは安東と戸沢に任せようと思うのだが、どうか?」
「それでよろしいかと。ところで、本庄と鮎川の領地は直轄地にするのですか?」
「うむ、親憲と協力し、楊北衆の監視に努めなければな」
それに関しては、兼続を含める軍師達はずっと気になっていることがあった。正しくこれから言おうとしていたことだ。
確かに楊北衆の歴史は長く、土着した者達は住み慣れた先祖代々の土地を離れたくないと思う者もいるだろう。
だが、楊北衆の引き締めや東北の安寧を保つ為に更に上杉の者を派遣することは急務である。
ここで難題が浮上した。
如何せん上杉には武芸に長けた者は多くいても政治的な駆け引きをあまり得手とする者がいない。
誰を東北の上杉の領地にした所を治めさせるか、なかなかに難しいことである。
現在、東北に派遣しているのは北羽州に長重。南陸奥岩城など旧領に新津勝資。北陸奥稗貫の旧領には加地晴綱が入っている。
他にも葛西地方に平賀重資や桃井義孝が入り、謙信が直轄地と指定した大崎や高水寺地方などを除いて着々と家臣への領地配布も進んでいる。
だが、多くの者がどちらかというと武人の血が強く、民を思う心はあってもきちんとその思いを実行に移せる者がいるかと聞くと難しい。
「故に、今少し政治に長けた者を派遣すべきという訳か」
「はい、悪政を敷くような方々ではないことは承知しておりますが、やはり必要かと」
すると謙信はすっと真剣な表情の眉を釣り上げ、更に厳しい表情になった。
「東北という越後よりも寒く、辺境の地に行きたいと思う者がいると思うか?」
「しかし、十三湊までを甘粕殿や安東殿に任せるのは如何なものかと」
長重が東北に持つのは今まで東北の北羽州の安東や戸沢が持つ領地以外の土地。
兼続はそれと並行して新たに十三湊という堺や蝦夷地からの商いを行うことが可能な港を安東と共に任せるのはどうかと思っている。
一人でやる量が多過ぎる。このままでは回るものも回らなくなる可能性もある。
「今少し人を派遣すべき。私だけでなく、本庄殿や我々軍師達の総意です」
「ふむ・・・・・・では、誰が適任だと思う?」
「安田能元殿が適任かと思われます」
兼続は謙信の表情に少し拍子抜けというものを見た。
能元は以前の新発田や本庄の反乱という厳しい戦を経験したは足に生涯治らない負傷を抱えてしまい、今は文官寄りの仕事が多くなっている。
相変わらず扱いずらい性格で融通が利かないところがあるが、政務に関しては政務を取り仕切る実及も目を見張るばかりの上達ぶりを見せている。
兼続は最初は難色を示したが、龍兵衛も実及と同じ意見だということで結局政治に長けている二人の判断を信用することになった。
「長秀は駄目なのか?」
安田長秀は斎藤朝信には及ばないとはいえ文武両道の武将で普段の凛とした雰囲気と冷静さから同僚や配下から慕われている。
もちろん兼続もそのことは知っているが、それは違うと首を横に振った。
「今後、謙信様が関東や信州に向かう際に長秀殿は留守居役となるであろう本庄殿の補佐役として必要になる方です。斎藤殿が魚津城に釘付けの中では長秀殿を東北に向かわせるのは妥当ではありません」
そもそも長秀程の人物を外に出すというのは明らかな下策であり、長秀が納得しようと他の者が疑念を抱きかねない。
その点でいうと性格的に人付き合いがあまり得手ではない能元の方が内部分裂を恐れて遠くに放ったという見方も取れて国内は納得するだろう。
「織田の一向一揆の警備を緩める訳にはいきません。それに織田も今は長島のことで一杯のようですから一向一揆からすれば魚津城を攻めるのには好機です」
「人材が足りないか・・・・・・」
上杉の直臣にしろ楊北衆にしろ武人が多く、政治を得手とする者が少ない。
民を思う心は皆持っているとはいえ、実行に移せなければ民には伝わらない。
どこかに転がっているものでもない為、やはり今後は近い家臣も越後の外へと出していかなければならない。
「いざとなれば代官を派遣させて春日山城に残すことも考える。それなら構わないだろう?」
「まぁ、そうですが・・・・・・」
指示を出す際に数字と現状では異なることが多々あるというのに大丈夫だろうか。
兼続の不安をよそに謙信は当然ながら定期的に視察する時を設けさせると言って少しだけ兼続を安心させた。
しかし、逆に言えば謙信の下に徐々に直臣が減り、なるべく謙信も信頼出来る者を留めておきたいという意思の現れが見え隠れしている。
兼続は徐々に楊北衆も辺境とはいえ領地を与え始めている謙信に恭順するようになっていると思っている。
一気に行えば無理が生じることは明白な以上、一つ一つ潰して行くように工作を行わなければならない。
上杉の表面は当面の目標だった東北の統一を終えて一時的な平和を見た。しかし、内情はこれからも火種を抱えていかなければならないということが兼続には快く思えなかった。
謙信の前でなければ不機嫌な感情を愚痴によって誰かに零していただろう。
兼続は謙信の前でそのようなことをしない為にさっさと部屋を辞そうとする。
「では、私はこれにて・・・・・・」
「そうだ。一つ忘れていたことがある」
立ち上がりかけた兼続の足は謙信の真剣な声にぴたっと止まり、再びその場に兼続を止まらせる。
「近々重要なことを我が上杉の皆には伝え渡す。完全な正式発表はまだだが、発狂させない為に前もってお前には伝えておこう」
「私が、発狂・・・・・・?」
兼続は謙信の突然の意味不明な言葉に首を捻るしかない。
一方の謙信は呆然とする兼続を構うことなく真顔のままである。
それが兼続の嫌な予感を更に助長させ、思わずぐっと拳を握り締めた。
「私と颯馬は婚姻関係となる」
不気味な沈黙が謙信の部屋中に満遍なく流れた。
翌日。
春というにはまだまだ草木の寂しい光景が広がっているが、雪が降ることも少なくなり、龍兵衛の猫も冬眠開けの鼠を狩り始めている為、春はもうじきなのだろう。
「(嫌な季節の風物詩だなぁ・・・・・・)」
ぶつぶつこぼしながら龍兵衛は鼠の墓を作って形ばかりの合掌をする。
ちなみにその墓の上には桜の木が立っていてそこに龍兵衛は鼠の墓を作っていることから最近では『龍兵衛の猫の甲斐性桜』という意味の分からない名称まで付いている。
「(もういいや、忘れよ)」
萎える気持ちを胸にしまい込んで、立ち上がりながら尻をはたくと龍兵衛はそのまま定満亡き後上杉の筆頭家老になった本庄実及の下に向かい、昨日の兼続が謙信と話し合ったことを直江津の視察に行った彼女の代わりに報告した。
「そ・・・・・・やっと謙信様も折れてくれたのね」
報告を聞きつつ粗茶の準備をしながら実及は安堵したような声で龍兵衛を労う。
既に三十路どころか四十路も超えている筈の実及だが、定満に負けず劣らずの老いを感じさせない皺一本も無い容貌と腰近くまで伸ばした整えられた艶のある白い髪が一層彼女の外見を実年齢よりも若くさせている。
「はい、後は能元が頷いてくれるかどうかですが」
能元は気難しい性格が災いするかもしれない。
説得は必ず必要になる。また、その労力は他の人への説得よりも遥かに使うだろう。
謙信の命令だと言えばそれまでだが、きちんとした理由を道理を以て彼を説得すればどうにか頷いてくれるだろう。
「先の大熊殿の出奔といい、貴方には色々と迷惑を掛けるわね」
茶を啜りながら実及は申し訳なさそうに言う。
大熊朝秀が先の本庄繁長の謀反を裏で操り、密かに謙信も景勝もいない春日山城を乗っ取ろうとしていたことは既に謙信以下、重臣の中でも上層部や軍師達には伝わっている。
本庄繁長が許されたとはいえ、朝秀は自身にも繁長の口から累が及び、これ以上の出世が出来ないと悟るとさっさと越後から信州に出て行った。
朝秀の情報が入って来た時、すぐに飯山方面を封鎖すべきだという中条や色部の対して龍兵衛はそのような単純な経路を取る筈が無い。おそらくは越中方面を経由して妙高山西沿いに道を取るだろうと主張した。
しかし、中条達の意見が通り、飯山城はすぐに村上や高梨によって封鎖されたが、朝秀らしい人物は一向に表れずに気付いた時には武田の重臣である山県昌景の下に大熊という名前があった。
「いえ、謙信様や重臣の方々からするとやはり自身は何ら肩書きを持たないのですから仕方ありません」
龍兵衛からすると歴史を考えたまでだったのでそれを盾に主張する訳にもいかずにすぐに意見を引っ込めてしまった。
だが、さほど重臣ではないとはいえ勘定奉行という立場から上杉の台所事情を良く知る朝秀の出奔はかなり痛い。
実際、かなり上杉の財政は東北の征伐とその直後に起きた繁長の謀反によって大分逼迫している状況である。
すぐに新たな財政を司る奉行が必要になったが、抜擢されたのは山崎秀仙だった。
彼は儒学者で謙信の教師的役割として謙信が子供であった頃は四書五経を講じ、老荘諸子等の思想家や賢人についても教授していた。
確かに政治手腕には優れている為に妥当な判断だと言える。しかし、上杉の内情を良く知る実及はてっきり今まで裏で政治を操っていた龍兵衛が表に出て奉行職に就くものだと思っていた。
「自分には相応の格がありませんし、領地も持っていないんですから仕方ありませんよ」
「うーん、確かにそうだけどねぇ・・・・・・」
実及はつまらなそうに頬杖を付く。それと同時に大きな胸が形を崩して潰れる為に必死に龍兵衛が目を下に向けないようにしようとしているのを彼女は知らない。
実及からすると山本寺景長か長秀を置くべきではないかと思っていたし、今もそれが妥当だと思っている。
以前、秀仙に関連した騒動が起きていた。
先の高水寺討伐や繁長の反乱において安田長秀が謙信公認の下で恩賞と引き換えに黒川や大熊の派閥に属していた諸将を謙信側に引き入れようとしたが、論功行賞で秀仙は黒川・大熊側への恩賞授与を反対し、謙信を押し切った形となった。
これに激怒したのが毛利秀広という家臣だった。
元々、彼は短気なところがあったとはいえ、兼続と秀仙が対談中に突然斬り込んで来ると誰が予想しただろう。
偶然居合わせた慶次と岩井信能が慌てて秀広を斬り捨てた為に秀仙は軽い怪我を負っただけで済んだ。
「先程の『色々』とはそのことですか」
「そ。まぁ、お前にはお咎め無しになったのは山崎殿のおかげだから」
「分かっています。昨日、ちゃんと会って話をしてきました」
秀広は元々北条高広の家臣だったが、最近になって頭角を表し、越中方面に龍兵衛の名代として向かう予定だった。
それを期に龍兵衛の配下になる予定だったが、今回のことで全てが流れた。
本来なら龍兵衛も仮初めでも主として何か罰が下される筈なのだが、秀仙が謙信を説得して龍兵衛は事なきを得た。
龍兵衛からすれば秀広の襲撃事件は予想済みであった為に敢えて襲わせるという選択を取っただけである。
慶次を使ってそれとなく秀仙の警護を強めていたことが功を奏した。ただそれだけであった。
龍兵衛は慶次にこのことは誰にも言うなと厳しく言っておいたが、後で知ったらしい秀仙が龍兵衛に恩義を感じてお咎め無しにさせたことを龍兵衛は昨日知った。
取り敢えず良い結果に行って良かったと慶次は笑って逃げ出したのも昨日のことである。
「山崎殿は貴方のことも信用しているのよ。ちゃんと期待に応えなさいよ」
「分かっています。精々励みます」
年の割にははつらつとしていて声も若々しいが、世話焼きなところがある実及は龍兵衛達若い軍師達のことを信用しているからこそついつい年長者として気にかけてしまう。
龍兵衛も分かっているが、話が長くなると面倒だと思いさっさと退散することにした。
「あ、そうだ。龍兵衛、一つ忘れてたけど、神保殿と寺島殿のこと知ってるかしら?」
「ああ、確か義父子となったとか」
立ち上がりかけた龍兵衛を上から抑えるように実及の声が少し強く耳に入る。
神保長職は自身の病が治ったのは良いものの、娘の長住を富樫晴貞に奪われ、寺島盛徳は父と兄の心を彼によって奪われ、利用されて殺されたも同然だった。
故に、互いに欠けたものがある。家族という他人からは決して理解されないであろう絆。
しかし、上杉の家風は絆を重んじることにも繋がっている。
二人が足りていないものは何か謙信達も知っていることだし、そのことで反対するような者などいる筈が無かった。
唐突にその話が出されたが、龍兵衛も賛成していたのであまり関係の無さそうだなと気長に聞こうと思っているといつの間にか実及の手に書状が握られていた。
「何ですか、これ?」
「良いから読んでみなさい」
渡された書状を受け取るままに開いて中を改める。
宛先は龍兵衛になっていて送って来たのは神保長職。
実及は龍兵衛が不在の間に書状を受け取り、渡しておくように頼んだと言っているが、わざわざその程度のことで実及を使うというのは首を捻らざるを得ない。
そんな疑問が最初は頭の中で湧いていたが、次第にそれは薄れて行った。
そして、読み終えた時、龍兵衛の頭の中は手紙の内容で他のことはすっからかんになってしまった。
「えーと、これは・・・・・・」
「あら、もしかして分からないの?」
龍兵衛は実及の若手を弄び、からかっているような声にも反応出来ずにただ書状を何度も読み返す。
内容を簡単に言えば空いた時で良いのでこの度義理の娘となった職定もそろそろ身を固めた方が良いので是非お願いしたいということである。
直接的な言い方はされてないが、敏い龍兵衛はすぐに気付いて押し黙ることしか出来ない。
「要はお前と盛徳殿を見合わせようということね」
「・・・・・・・・・・・・げ」
呻き声と共に龍兵衛は身体の力が抜けた。
色々と史実と異なるところがあります。
オリジナルということで目を瞑っておいて下さい。