上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百二十六話 守らせて

 関東一帯を領有している北条家という勢力を見て行く中で大きな特徴は内乱が無く、家臣達の間で派閥が無いというところだ。

 国祖の早雲は相模を統治していた時から半ば強制の指出検地を行い、耕地を田と畠に区別して国人衆の介入をさせない公正な民政を行い、小田原評定と呼ばれる合議制を敷くことで家臣との絆を深めるという独自の支配体制を確立した。

 また外交面でも武田や今川と同盟を組む裏で敵対勢力である上杉も関東一帯で力を蓄え、有事には約五万の軍勢を率いることを可能にしている。

 その中で最も特筆されるべき政策はやはり四公六民の年貢の比率だろう。

 実現するにはかなりの難題がある。しかし、北条はそれを断行して見事に成功し、民の心をほぼ手中に収めたのだからその政治力は侮れない。

 体制を維持しつつ勢力を拡大している北条は積極策を用いた上杉や織田と違い、徐々にだが関東を手中に収めつつある。

 上野を完全に制圧し、佐竹派が多い下野の国人衆を少しずつ切り崩し、里見に対しても早雲の娘、氏政が国府台城を落とし、久留里城を囲んでいた。

 それだけに佐竹軍の上杉を加えた侵攻は北条にとって大きな衝撃だった。内密の同盟をまるで無かったように上杉は堂々と関東管領の名の下に北条を討つと宣戦布告をすると上野と常陸から攻め込み、結城や宇都宮といった反北条勢力も次々と挙兵を始めた。

 いずれは破棄されると分かっていた同盟だったが、現状の上杉は一向一揆との対立が深まっている。また、弱体化から徐々に回復している武田とのこともある為、まだ破棄するには時が先だろうと早雲は考えていた。

 

「謙信殿はそこまで考えていたのでしょうかね」

 

 早雲は一人、部屋で報告書に目を通し、肺から息を出すように上半身を揺らして溜め息を吐く。

 北条からしても里見や佐竹を倒すまでは保って置いておきたかった。長沼城を落としてこれから佐竹からの決戦だという時に上杉は同盟を破棄したのは佐竹と大分前から裏で繋がっていたとしか考えられない。

 謙信が行うにしては手回しが良過ぎる気がしてならないが、主君である彼女が命じなければ家臣達は動ける筈が無い。

 表向き正義を掲げているにもかかわらず、実態が全くそれと伴っていない。 

 早雲とて裏切りと謀略を使って流浪の身からここまで北条を大きくしたのだから上杉が同盟を破棄したことや時期が悪いなどと自分勝手な思いで謙信を非難するようなことはしない。

 上杉から見ると佐竹や里見を攻めている北条を他国の者の要請に従って叩くという大義名分を得た絶好の機会である。

 早雲が謙信の立場であっても間違いなく動くだろう。逆に動かない方が彼女から言わせるとかなり愚かだ。

 だが、早雲とて京から流浪を続け、苦労を重ねてようやく得た関東の地をおいそれとくれてやる気などさらさら無い。

 早雲は私的な様々な感情が入り混じった表情から一変、仕事の表情に変えると地図を広げると一人、思考に耽る。

 越後から関東に出るには三国街道を下るのが定石。上野・武蔵と攻め来るであろうが、他にも今回は佐竹と里見が別方向から上杉に呼応して挙兵している以上、上野ばかりに気を取られる訳にはいかない。

 里見は久留里城まで一度追い込み、勢力は弱体している。怖いのは何度も襲撃と強奪を繰り返す海賊衆だが、既に多目元忠に拠点の目安を付けさせて攻撃を命じている為、上杉軍と合流しない限りは怖い存在とは言えない。

 佐竹達には下野にいる娘の氏照を大将に北条与党の豪族と知略に富んだ幻庵などの何人か将を連れて行けば向かわせればいくら剛の者達の集まりであろうと足止めを食らうだろう。

 後は上杉軍本隊のことだが、正直なところ西上野は捨て駒にしても構わないと早雲は思っている。

 統一して間もないかの地は武田や上杉の影響力がまだ残っている。そこで決戦を望んだところで足並みが揃うとは考え難い。

 上杉軍本隊との決戦は武蔵の地であると早雲は考えている。

 もちろん上野には沼田城や箕輪城など優れた防衛拠点も多いが、最後にものを言うのは城の堅さでは無く、軍の結束力である。

 勝てると思えない者が一人でもいれば負け、全員が勝利するという気概で挑めば勝つ。

 言えば簡単だが、それを実行に移すのは難しく、出来る者は統率力の高い将として認められる。

 

「母上、失礼致します」

 

 声と共に音を立てずに入って来たのは早雲の娘である氏康である。

 身内贔屓になってしまうが、おそらく彼女が戦の中での統率力は一番高いだろう。

 幻庵は率いるというよりは補佐役という立場に立ち続けている為、今回のような立場にいて献策をする方が性に合っている。

 素早く表情を家族同士に見せる穏やかな戻すが、仕事の表情を崩さない娘を見て早雲は再び顔を引き締める。

 

「風魔からの報告では上杉軍本隊は二手に別れて岩櫃城と沼田城を包囲している模様です」

 

 座るや否や口を開いた氏康から地図に再び目を移すと印となる碁石を置く。岩櫃城も沼田城も要害。本来なら大軍一つで攻める戦略が基本であるが、箕輪城から援軍に挟撃される恐れがあるならば報告通りの動きが正しい。

 しかし、正しいが故に読みやすいのも確かである。

 

「氏康は箕輪城に入りなさい。武蔵に上杉軍を決して入れないように。それから沼田城の猪俣邦憲にこの書状を」

「かしこまりました」

 

 下げた頭を上げる際に母に似て腰まで伸びた黒い髪を少しうるさそうに頭を振って整えると氏康は素早く書状を受け取って控えているであろう配下に指示を出す為に部屋から出て行く。 

 敢えて武蔵まで引き付けて迎え撃つと言わないのは上野にいる北条与党の勢力のことを考えてのこと。

 氏康には教えても良かったかもしれないが、敢えて言わずに隠しておいた方が岩櫃城が落ちた後のことを考えるとやりやすい。

 箕輪城は上野と武蔵を繋ぐ中山道に通じる場所に位置する。そこを通らなければ武蔵には入れないということだ。

 上杉軍は西上野と東上野の主要な二つの城を落とした後、合流して箕輪城を囲むつもりだろう。しかし、そうは問屋はおろさない。 

 正しい戦略は虚を突くことで初めて機能する。

 当然ながら謙信とて知らない筈が無い。故に、虚を突けないようにさせておけば後はこちら側から虚を突くでも正面から兵の精強さを見せ付ける為に正面からぶつかるなり何でもすれば良い。

 兵農分離を既にほぼ完全に済ませている北条家は将兵共に戦うことで出世が決まっている為、農民から駆り出された者が多いその辺の大名とは訳が違う。

 戦の指揮は氏康に任せているが、正と虚、どちらで戦うにしても慢心さえ無ければ武蔵に敵が来るか下手をすれば小田原城まで攻め込まれるかもしれないが、三の丸などを落とされても本丸が落ちるまでは行かないだろう。

 早雲は自信があった。普請を続け、とうとう城外の城下町さえも堀で囲んだ小田原城も長年に渡って確立した独特の方法で結束を強めた将兵達との気持ちも上杉軍を上回っている。

 

「自信があっても油断は大敵。さて、これからますます数が増える上杉軍は寄せ集めの軍団で上手く戦えるのでしょうか?」

 

 誰に語り聞かせるでも無く、早雲は一人で呟きながら思考を止めると碁石を一つ一つ色通りにしまい込む。続けて地図を付いていた折り目通りに丁寧に畳み、元あった場所に戻すと早雲は自ら茶を淹れてゆっくりと啜る。

 しばらく誰もいない部屋故に出来る茶を啜る音のみが響く静寂を味わうように長い時間を掛けて飲み干すして湯呑みを傍らに置くと余韻に浸るように目を閉じる。

 じっと動かないまま時間を自身に体感させるかのように座り続け、四半刻程経った時になってようやく早雲は目を開けると西側から斜光が差す。

 既に外は太陽が頂上を通り過ぎて西へと向かっている。

 音も無く立ち上がって私的な時しか使用しない奥の部屋に入ると自身用の小綺麗な小さく区切られている戸棚の中で娘達にさえ見せることをさせない最も小さな棚を開く。

 そこには更に小さな位牌に戒名が刻まれていて埃一つ無く、落ちたり傾いたりしないように丁寧に置かれている。

 

『春松院快翁活公』

 

 早雲は来るべき時が来たという思いと共に打倒上杉へと燃える心を冷やすように長い時間、目を瞑って両手を合わせていた。

 

 

 

 それより一週間後の上野、沼田城。

 かの地は上野における軍事拠点として長年争点の地として戦が絶えないことで有名である。

 早雲はこの城に来るべき上杉もしくは武田との戦い備えて普請を続けると共に優秀でなおかつ信頼のおける将を配置していた。

 

「猪俣様、敵方から矢文が届いております」

「読まなくても良いわ。どうせ開城要求でしょう」

 

 配下からの報告にかったるそうに肘掛けに体重を任せてひらひらと手を振る女性、猪俣邦憲は長らく北条家に仕えてきた重臣である。

 本来、彼女程の者なら中央にいてもおかしくないのだが、彼女が上野という北条の本拠地である小田原城から大きく離れた所に派遣されている理由は単純で、中央にいる為の政治力がさっぱり無いのだ。

 滅私奉公の気持ちが強い邦憲を含めた直臣達はともかく北条家にも自身への利益を欲しいと思う陪臣や国人衆が多くいる。

 如何に励もうと早雲達に力を持たせたらどうなるのかと恐れられ、直臣とは違ってなかなか出世が出来ない。

 故に、かれらは中にある私欲を抑えて早雲達に忠誠を誓いつつも直臣達の揚げ足を取ったりしていざという時に自身がその立場に就こうと狙っている。

 そういった者達に対して邦憲は全く遠慮が無く、悪いものは悪いと公衆の面前で人を平然と非難することが多々あり、その都度周りから仲裁が必要になっている。

 何度幻庵達が諫めても聞かずにいたのでならばと数年前に小田原城から上野に放り込まれた。所謂、邦憲は左遷させられたのである。

 皆無な政治力の代わりに戦場での仕事において北条家家臣の中でも指折りのものである彼女は専売特許としている。

 故に、肩が凝らない防衛線の前線は邦憲にとってはたいへん喜ばしいことであり、鼻歌混じりで沼田城に城主就任当初は向かった。

 しかし、その直後に早雲は邦憲にとってあろうことか上杉と密約を結んでしまったのである。

 越後との最前線にいる為、邦憲達にはこのことは誰にも話すなという条件付きで早雲から書状によって知らされ、彼女は激しく憤慨した。

 下野への警護がある為、小田原城へと向かえない自身の無念さも加わって抗議に近い意見書はさすがの早雲も苦笑いや眉をひそめる箇所が多々あり、早雲程の包容力が無ければ問題視される事態になっただろう。

 政治的な駆け引きが苦手な彼女を再び落ち着かせる為に幻庵自ら沼田城に親筆の書状を携えて使者として赴くという苦労の甲斐あってようやく丸く収まった。

 

「如何に返答致しますか?」

「返答? そんなことする訳無いじゃない。無視! これに限る!」

 

 肩付近で切り揃えられた髪を乱暴にかいていた右手の指をびしっと上に掲げて家臣に持ち場に戻るよう命じる。 

 上杉軍が攻めて来て一週間。毎日午前に一度、午後に一度、降伏や開城勧告の文が矢に括り付けられて城内にやってくる。

 動揺を誘うことも含めての戦術だが、邦憲はその程度では動じない。また配下の兵も同様に一週間前から全く動揺を見せず、時折攻めて来る上杉をことごとく撃退している。

 

「大将、敵が攻撃を開始した模様」

「いつも通り焦らず撃退。それだけ」

 

 ひらひらと手を振ると邦憲自身も立ち上がって戦況を見ることが出来る櫓に移動する。

 外を眺めると上杉の旗が順列良く立ち並んでいて前線の部隊が遠過ぎる為によく分からないが、前線の兵達よって作られた砂埃が見え、かれらの喧騒が聞こえる。

 

「殿、前線から前日よりも敵の数が多い為、援軍をと報告が上がっております」

「ん~敵も本気出して来たか・・・・・・兵三百を三の丸に向かわせておいて」

 

 上杉軍の攻勢は本気らしく指示を出したかと思えばすぐさま別の兵が邦憲の下に駆け込んで来た。

 

「申し上げます。敵の攻勢凄まじく。このままでは屋敷一帯が制圧されます!」

「しょうがない。屋敷に配置しておいた兵を全て城内に戻して」

 

 平然と言い切った邦憲を兵は目を見開いているが、乱暴な口調とは裏腹に真剣な目で兵をそうだと言わんばかりに睨み付ける。

 そうすると兵は慌てて外へと駆け出して行き、邦憲は息を大きく吐く。

 沼田城は三の丸の外に侍屋敷という有事の際以外にも兵が駐留出来る為の駐屯地がある。そこを手放すということは職業兵の住む所を放棄すると言っているものである為、兵からすれば自分達の家から出て行けと言われているようなものである。

 しかし、邦憲の指示判断自体は間違っていない。兵は分散をするよりも集中させる方が良いのは兵法にも書かれている基本中の基本である。

 

「さぁ、私達も前に出るよ。早雲様からの援軍が来るまで負けてたまるか!」

『応っ!』

 

 配下の者達も邦憲と気持ちは同じ。小田原城からの援軍は必ず来るという思いで今日もまた勢い良く声を上げるとそのまま三の丸へと行く邦憲に留守を任された者を除いて駆け出す。

 邦憲は三の丸へと向かうが本当に前線に出る訳では無く、あくまでも城主として櫓の上で細々と指示を出して味方を鼓舞する。

 西から攻めて来たならば全軍をそちらに動かさずに北からの襲撃に備えて一隊を待機させ、すかさず北側の曲輪への援軍としてその一隊を向かわせる。

 小田原城には既に沼田城の情勢は伝わっているだろう。時間的にもそろそろ援軍が来ても良い頃である。

 数では上杉軍と差があるとはいえ沼田城城内では邦憲の巧みな戦術によって決して被害が出ていないとは言わないが、なかなかの善戦を続けている。

 ここに援軍が来れば上野で上杉軍を撃退することも可能だ。

 敵大将は謙信ではないのが唯一の心残りだが、その義娘である景勝を討ち取れば精強と名高い上杉軍とて軍の再編を余儀なくされる。

 

「大体、何で私に謙信じゃないのかしら。失礼よ」

 

 決して邦憲は傲慢でも自信家でも無い。しかし、北条の重臣としての自尊心は少なからずある。

 岩櫃城はまだ落としてから時間が短く、守っている将も氏照の家臣になって間もない国人衆。城の防御能力の差もさほど無いのにどうして謙信が岩櫃城に行っているのか分からない。

 そうこう考えている内に上杉軍の方から合図の太鼓が聞こえて来た。それを聞いた上杉軍の兵が退いて行く。

 今日も防ぐことが出来た。兵糧もきちんと蓄えてある為、このままなら後三ヶ月は保つことが出来る。

 越後の冬が厳しいのは邦憲も知っている。そこまで長く上杉軍も包囲は出来ない。上手く行けば守るだけでなく、勝てる可能性もある。

 故に、上杉軍を撃退して意気揚々と本丸に戻ったその日の夕方にやって来た早雲からの書状に邦憲は目を見開いた。

 里見の攻勢が激しさを増した為、沼田城に援軍を送る余裕は無い。いざとなれば邦憲は沼田城から落ち延びて氏康がいる箕輪城まで退却するようにと認められていた。

 

「早雲様ったら、何でこの機会を逃すの!?」

 

 怒りに任せてびりびりと書状を破り捨てると邦憲は驚いている使者を戦場さながらの鋭い視線で睨む。

 使者からするととばっちりも良いところ。あくまでも任された役目を果たしただけなのだから怒られても道理に合わない。

 一方、邦憲は舌打ちをするとすぐに傍らにあった机の前に座ると早雲に対する意見書をせっせと書き始め、どうして上野で撃退出来る上杉軍をわざわざ武蔵に近い方までに誘い込む必要があるのかという内容を認めて早く早雲に届けてこいと使者に乱暴に渡す。

 

「絶対に道理に合わないことだったら許さないからね!」

「ひぃ! ぎょ、御意に御座います!」

 

 逃げ出すように駆け出して行く使者を後目に邦憲は櫓へと赴き、夕焼けに染まる空と地上を眺める。

 上杉軍が攻めてくる気配は無い。しかし、無警戒では無い。我慢比べは上杉軍とだけだと思っていたが、まさか家中でも我慢比べの予想が出て来るとは思わなかった。

 

「(まったく、いつになく早雲様も慎重だなぁ)」

 

 苛々する気持ちを抑えながら状況を整理していると徐々に邦憲も落ち着いて考えられるようになって来た。

 早雲の策は一見大胆だが、きちんと手立てを整えてから実行する。故に、成功する確率は高く、勝てる可能性も高い。

 そもそも、邦憲は北条家に仕えてから早雲が負けたところなど見たことが無い。

 慎重さも身を助けると邦憲も知っている。しかし、今回は彼女も譲ることが出来ない。

 勝てる戦ならばみすみすその好機を逃すのは御法度である。如何に早雲が慎重でも過ぎている気がしてならない。

 動きたいが、早雲の命令が来てしまった以上、その通りにしなければ後が怖い。

 仮に上杉軍を撃退したとしても命令違反を指摘されてあの身体を射抜いてしまうような鋭い視線を一身に浴びるなどいくつ命があっても足りない。

 取り敢えず、今はじっと籠城するしかないが、早雲とて沼田城を何ヶ月も落とされずに粘れば必ず援軍を出してくれる筈だ。

 邦憲は息を大きく吐くと櫓を後にする。動かずに耐えることが出来ない程彼女は猪ではない。早雲に状況がしっかりと届けば考えを改めてくれる筈だと信じている。

 周りに夕餉の準備をしている兵がいるにもかかわらず、邦憲は大きな欠伸を口元を隠さずに腕を上げながら漏らす。

 風が出て来て邦憲の短い髪と松の木を揺らしていた。

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