颯馬が陣に戻ることが出来たのは日が暮れ、夕陽さえも山に隠れそうになっている刻限だった。
戻るとすぐに颯馬は将達を集め、軍議を開き、先程、渡された書状を全員に回す。
信憑性が薄いとはいえ、海津城を奪う為のきっかけが出来たことは大きい。無論、颯馬も簡単にはい、そうですかと頷くような阿呆ではない。
「その話、真と見て良いのか?」
やはりというべきか、岩井信能が先ず疑ってきた。颯馬は他の者達を見やる。義清も須田満親も眉間に皺を寄せ、承服しがたいと首を捻る。
当然かと颯馬は内心、小さく溜め息を吐く。冷静に考えると武田軍の強みは結束力にある。確かに弱体化すれば国人衆が離反を考えることもあるだろう。
颯馬自身もののうを信頼していた訳でも無く、かなりこのことを皆に言うべきか悩んでいた。
ここにいる者達は信玄による様々な調略によって故郷を追われた者達ばかりで、あまつさえののうが絡んでいると聞けば疑い、裏に確実に何かがあると考えるのは当然だった。
義清においては何故、颯馬があの女の策に乗ったのかという目を向けている。寝返りを警戒しているという訳ではなく、話を承諾し、実行に移そうとしたのか訳を問いたいという目だ。
それに対して颯馬は首を横に振った。さすがにそこまでお人好しではない。
「俺とてこの話を完全に信じた訳ではありません。されど、進展の無い戦況のままも如何なものかと」
兵法において戦果の無い戦はただ経費を無駄遣いにしかすぎないとある。それでも、義清達は渋い表情のままで動くのは得策ではないと語っている。
「海津城を攻めるのはあくまでも武田の注意をこちらに向けさせ、北条に援軍を出させない為、天城殿、それをお忘れではありますまい?」
それぞれの心中を代表して言ってきた岩井は颯馬を睨み付けているが、颯馬とて女の色香に惑わされて戦の行方を変えるような愚か者では無い。
知っている範囲での武田軍の内情と女によってもたらされた海津城の情報を考え、計算すると十分に本当であると思えたからだ。
仮に武田軍が罠を張っているとしてもはたして対処出来ないかと言われれば出来ないことは無い。
川中島の地理は既に頭の中に叩き込んでいる為、どこに罠を張るのかおおよそ予測は付く。それは上杉だけではなく、武田にも同じことが言えるだろう。故に、罠があるとすれば海津城付近である。
千曲川の流れを引き込み、それを堀にしている海津城は西から北にかけて天然の防備を備えている。故に、上杉側からするとそれを突破しない限り落城は難しい。
以前のように妻女山を通るという手段もあるが、海津城の虎綱春日が警戒を疎かにする筈がない。颯馬以下、全員が思っている。故に、岩井に続いて須田満親が慎重論に主張するのも颯馬には理解出来た。
「やはり、ここに止まり続け、春日山城から援軍を・・・・・・」
「いえ、戦果も無く、撤退するのは下策。また、これ以上、越後から兵を出すと本国の警戒態勢に支障が出ます。既に、最上に援軍を要請しておりますが、当面は関東が狙いですし」
最上は北羽州でまたごたごたが起きた為、出陣が遅れている。ようやく動ける状態になったとはいえ、関東に援軍要請が来ていたらそちらを優先するようにとあらかじめ書状を送っている。
冷静に考えて佐竹が足手まといになる可能性が高いと踏んでいた為、最上が信州に来る可能性は極めて低い。
三千の兵という少なさが故に、動けないのは事実だが、動かずにそのまま待機しているのは何も戦果を得ずに帰ること。
ここにいる者達は慎重な意見を出している。だが、颯馬は本心では故郷を追い出された恨みや旧領を奪還したいという思いを心の奥底では持っていることを知っている。
それを利用すれば颯馬は海津城攻めを決行する方に持っていけるのではないかと思っている。
「少しだけです。あくまでも様子見で御座います。仮に海津城がこちらに無警戒、もしくは何も罠が無ければ攻めれば良いのです」
少しだけという言葉に義清達は僅かながらも反応を示した。
「取るべき餌が魅力的でしょう? 海津城を奪えば信州北側を得る足掛かりを作ることが出来ます」
事実を組み合わせ、颯馬は少し口調を柔らかくして決断を促す。一方の三人はそれぞれ考える素振りを見せ、沈黙を作る。
海津城を得ることは葛尾城などを落とす為にも必要となっている。その為か義清は特に真剣な表情で考え込んでいるように見える。
「無論、先程の岩井殿の言は私も分かっております。それ故、無理な攻撃は仕掛けません。向こうが粘るならこちらは諦める。崩れるなら攻める。それでよろしいですか?」
岩井が言ったことを踏まえると義清以外の二人も眉間の皺を解いてくれた。そして、全員が承諾したと頷いたのを見て颯馬は軍議を散会にする。
正直なところ颯馬は出陣するべきだと思っていなかった。決して女の言を信じていなかった訳ではない。全幅の信頼ではないが、五分五分といったところだった。
最もな原因は義清達の疑心が完全に雲散出来ていない今、出陣を命じてもはたして上手く行くのだろうか。上手く行けば良い。しかし、駄目ならば颯馬自身に対する疑心が更に深まる。
別段、颯馬は保身を重視している訳ではないが、信州討伐の大将として赴いている以上、一番上に立つ者が他の者とぎくしゃくしているのは好ましくない。
「(さて、どうしたものか・・・・・・)」
「天城様、ご報告で御座います」
はっきりしない思考のまま盛大な溜め息を吐いたのと同時に舞い込んで来た報告に颯馬は驚きを隠せず、思わず立ち上がった。
「海津城に敵の気配が無い?」
「はっ。幾度か近付き、確認致しましたが、間違い御座いませぬ」
間者が言うには旗だけがたなびき、中はほとんどの兵がどこかに消えているらしい。何か裏があるのは見え見えである。颯馬はそこに何かあると考えた。
そこまで露骨に誘い込むような真似を武田四天王の一角として有名な虎綱春日がするとは思えない。
ならば、武田の本国である甲斐で異変があったのだろうか。それも否だと颯馬は内心、頭を振る。そうなった際、普通に報告が上がってくる筈だ。
だとすれば、考えられるのは海津城の武田軍が上杉軍を前に撤退したということだけになる。そうだとすれば理由が分からない。
周りに伏兵の気配を感じたか颯馬が尋ねると間者は無かったと返してきた。
「(空城計にしては見え透いている。しかし、単純に撤退するのか?)」
こんがらがる頭をそのままに間者を下げると颯馬は一人、善光寺の境内に出る。ひんやりとした空気は頭を落ち着かせ、思考をより深くするのに丁度良い。
もし、邂逅した女の言っていたこと。海津城に兵はさほど置いていないということが本当だとすれば動くことを迷わなかっただろう。
間者を数人放ち、無事に帰って来た一人の者がもたらした報告故に、信じるべきだが、上手く行き過ぎている。大抵、裏があると見るのが普通だ。
無論、颯馬もまたそうである。しかし、先程まで話していた女の言を含めるとにわかにそれを信じても良いのではないかと思えるのだ。
武田軍に海津城から撤退する理由が思い付く範囲の中では全てが弱い。素直に考えれば罠。裏があると考えても罠である。
動くことが出来ないようにと見せかけでやっているのだろう。
そうなると本当にあの女が何とかしたのだという結論しか最後にはなくなる。
「行ってみるか・・・・・・」
一縷の望みと一抹の不安。はたしてどちらを優先すべきか。選択を迫られた時に人は前者を望みたくなる。
だが、颯馬は本来後者を選択するべき立場である。一方で、海津城という城を得る餌は絶好であることも確か。
「(やられる可能性よりも、魅力がある。か・・・・・・)」
肺から空気を出すように息を吐くと颯馬は再び義清達を集めるように控えていた者に命じた。
翌日、半ば強引ではあったが、颯馬は義清達を説得し、出陣した。そして、結果的にこの判断は間違っていなかったと言って良かった。
間者の言っていた通り、海津城の中は空で何も無い。不気味な程、静寂に包まれ、人どころか虫さえもいないようにも思えた。
「(面妖にも程がある。しかし・・・・・・事実、誰もいない・・・・・・)」
城内に入った時には末端の兵でさえも驚きのあまり辺りを見回し、颯馬達が命じるよりも前に城の周辺や部屋を確認しに向かった程だ。
かつての戦のように霧も出ていない。空は相変わらずの曇天だが、視界ははっきりしていて、全てを調べるのにさほど時間は掛からなかった。
「申し上げます。どこにも武田の兵はおりませぬ」
「兵糧庫に何か仕掛けなどは?」
「全く御座いませぬ」
女の意見があったとはいえ、ここまで何も無く、本当に事が成ると疑いたくなる。
颯馬は小さく唸ると周りを見て何も気配が無いと改めて確認する。少し周りも見るべきだろうかと外へ向かう。
「颯馬殿、どこへ?」
「少し外を見ようかと。本当にこのまま素直に安心するのもあれですし」
義清は納得したように頷くと自身も行こうと言ってきた。前とは違い、特に断る理由も無い為、颯馬は了承すると共に歩を進める。
本丸の内部には特に仕掛けが無かった。それから二人は本丸の広場から屋敷が連なる方へと移動する。だが、当然のようにそこももぬけの殻である。
「こちらにも気配は無いのう」
「一体、武田軍は何処に・・・・・・」
颯馬は一人、前へと歩を進める。秋の冷たい風が紅葉を連れて吹いてくる。敵の気配は一切無い。いるのは道を整備している上杉軍の兵だけだ。
納得いかないことをそのままに颯馬は息を吐く。周りの兵は戦後処理に勤しみ、特に何か疑問に思っている者はいないように見える。
颯馬はかれらを見回しているとふと今まで吹いていた風の中でとびきり強い風が正面から吹いてきた。何故か砂埃も舞い、颯馬は顔を目で隠す。
「なっ!?」
颯馬の驚愕の声はそこにいた上杉の将兵達のそれを全て代弁していた。颯馬が気付いた時には義清の姿は無い。
人が煙の如く消えるようなことは絶対に有り得ない。颯馬は慌てて辺りを見渡す。
「村上殿!」
偶然、やって来た須田満親が颯馬よりも先に義清を見つけてくれた。義清は丁度、颯馬の背面にいた。義清は上杉の鎧をまとった兵によって首に腕を回され、完全に動けなくなっていた。
「不覚・・・・・・」
義清が奥歯を強く噛み締めているのが颯馬達にも分かる。歯を隠すこと無く、義清は女を睨み付けている。抵抗出来ないらしく、組まれたままだ。
一方、颯馬は表情を一切変えないまま義清の首に刀を当てている女に見覚えがあった。
「お前は・・・・・・」
「望月千代女・・・・・・もはや、私が名を秘す意味も無し・・・・・・」
前日、邂逅したののう、望月千代女は颯馬を見て小さく答える。颯馬は更に言葉を繋げようと口を開きかける。しかし、それよりも先に千代女は義清に視線を向けた。
「お久しゅう御座います。村上殿?」
千代女は感情の欠片も無い口調で言うと義清の首に当てていた小刀を更に強く押し上げる。義清が当てられた所から血が細く流れ出てきた。
少しでも逃れようと義清は首を仰け反らせる。しかし、千代女は更に腕に力を込め、動かすことを許さない。
「義清殿!」
「来るな」
颯馬が一歩出ると静かで確かな殺気が籠もった千代女の声が返ってきた。そして、千代女は義清に強い憎悪の念を込めた目を向ける。遠くにいる颯馬さえも怯ませ、包囲している上杉軍の兵達を動かさない。
「村上義清・・・・・・我が夫、望月信頼を討ちし恨み。今、ここで晴らさせて頂きます」
「そうか。あの時の・・・・・・」
「ほう。覚えて頂いておりましたか?」
「強き者程、忘れることは無い」
義清は何かを思い出したように遠い目をしている。颯馬には分からないが、おそらく川中島の激戦の中で討ち取った千代女の夫との殺し合いが脳内の情景には浮かんでいるのだろう。
義清程の武勇の持ち主であれば数多の勇将を討ち取る技量は十分に持っている。もちろん、名を馳せれば馳せる程、討ち取った者の親族からの恨みを買いながら。
その中に千代女の夫、信頼も含まれ、千代女もまた義清を恨んでいた。
颯馬が隣に来た満親と共に納得しているのをよそに千代女は義清を凍るような目つきで睨み付けている。
「覚えて頂けているのならば、お分かりでしょう? かつて、川中島で・・・・・・」
「拙者は確かに望月と名乗る将を殺めたな。なるほど、理解した」
義清は首の傷が徐々に裂けていくのを感じながらその時のことを思い出しているのだろう。遠い目をして小さく息を吐く。
「敵討ちをこの場で行う為、わざわざ武田を撤退させたのか?」
「答えずともお分かりでしょう? 貴方とて生きる為に上杉を頼ったのですから」
義清の問いに千代女は静かに答える。しかし、その内面には狂気を隠しているのが颯馬達にも分かった。義清を強く睨み付けている目の奥底にあるのは明らかな復讐と憎悪の念。
なりふり構わずといったところだろう。紛いなりにも家族になった者、互いに幸せであるならばなおさらそれを奪われた痛みは計り知れない。
千代女程の忍ならば復讐を果たす為に様々な策略を巡らせることも可能だったからこそこのような劇を行うことが出来たとも言える。
故に、颯馬は一つの疑問が脳裏によぎった。千代女はどうして義清に固執しているような素振りを見せるのか。恨むのであれば颯馬達を含めた上杉の者達全員の筈である。
千代女はののうである。どう考えても個人の感情でこのような動きをする筈が無い。訳を聞くまで千代女を殺す訳にはいかない。しかし、この状況を打開するにはどうすれば良いか、颯馬も分からない。
「待て!」
「問答無用! どうせ、誰もが何とやらと言うつもりでしょう? されど、もし仮に貴方が唯一無二の存在を消された時、同じことを言えますか?」
そう言うと千代女は義清の首に当てていた小刀を振り下ろした。血飛沫が千代女の顔に盛大に飛び散り、浮かべていた酷薄な笑みが恐ろしさを増す。
「これが、私が貴殿へ近付いた目的で御座います・・・・・・」