上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

146 / 207
第百三十六話 冬前の迷路

 善光寺の僧侶が経を読み終えるとしんと静まり返った部屋の中で颯馬は彼に向かって礼の言葉を述べる。

 簡単ではあるが、主だった者達で終わらせた義清に対する読経の中、外からは微かにすすり泣く声が聞こえていた。 

 上杉軍の兵に扮していた望月千代女が義清の首へ小刀を振り下ろし、首の左横から右横へと貫いた途端、颯馬達の時間は止まった。

 千代女の発した静かで狂気を包み隠さ無い笑い声によって我に返った颯馬が駆け寄った時には既に遅かった。

 実に生々しい。戦場に行けばどこにでも転がっていそうな亡骸が颯馬には物珍しいものに見えた。

 

『これが、私が貴殿へ近付いた目的で御座います・・・・・・』

 

 あの後、千代女はその発言の後、逃げ切れないと判断すると義清の首から引き抜いていた刀を首に押し当て自ら命を絶った。その為、千代女が単独で行った事なのか、真実は闇の中に消えてしまった。しかし、颯馬は確信があった。 

 

「(明らかに望月の怨念を利用した策だな)」

 

 千代女は腐ってもののうの頭である。私情だけで動くような性格ではない。裏で誰かが糸を引いていることは目に見えている。

 果たしてそれが誰なのか。最終的に判断を下したのは信玄だろう。手段を選んでいられない状況であるというのであれば致し方ない。

 また、義清は信玄にとって何度か煮え湯を飲まされた相手である。千代女の隠された復讐心は上杉に川中島で敗れたという屈辱を果たす為の格好の的だったのだろう。

 北と南に脅威がある以上、なりふり構っていられない状況であった為、武田は上杉に何か強い楔を打ちたかった。それが義清の暗殺へと繋がった。

 痛い損害だということは言うまでもなく、海津城を得る代わりに払う代償として大き過ぎる。

 海津城の城内に戻ろうと颯馬は歩を進めていると背後から「天城殿」という声と共に早足で追い掛けてくる足音が聞こえてきた。

 颯馬は足を止めて振り返る。岩井信能の姿があった。悔しさが表情から実によく読み取れる。  

 

「天城殿。悔しい思いは我々も同じです。貴殿が思うところがあるのも重々承知しております」

 

 信能は神妙な顔付きで颯馬を慰めてきた。颯馬が僧侶の読経の間、至極残念そうな表情をしているのを見てやって来たのだろう。

 普段は仏頂面で傲慢とも思える言動をする信能だが、人としての気遣いはきちんと出来ていると颯馬は内心で思った。

 

「此度のこと、我らにも責はあります。我らがもっと気を付けていれば・・・・・・」

「いえ・・・・・・」

 

 颯馬は曖昧に誤魔化すしか出来ない。誰の責任なのかと言っていれば互いに少しずつ義清を失った心の傷は癒されるだろう。しかし、それで武田に勝てる訳がない。

 これから果たして武田がどのような手を打ってくるのか。今、考えるのはそちらが先である。義清の簡単な供養の裏で颯馬は間者を多く放ち、信州の中で何が起きているのか徹底的に調べさせている。

 今のところ情報は無いが、情報戦で少しでも優位に立っておかなければ武田に対する勝利は有り得ない。千代女の一件でよく分かった。

 

「(さて・・・・・・武田は次にどのような手を打つ?)」

 

 颯馬の頭には別の思念があった。義清を失ったということは上杉軍の柱を一本、根から持って行かれたと言っても過言ではない。

 一方の上杉軍が得た戦果は海津城という武田の対上杉に対する拠点を奪ったことだ。つまり、武田軍に対する戦はこれからである。

 援軍が見込める状況では無いとはいえ、やらなければならないのだ。武田の方も義清が死んだとなれば意気が上がることは間違いない。

 海津城が上杉の手中に収まった現状を考えればすぐに上杉を討つということは無いだろうが、信州の者達を使い、その動きを止めようとしてくるだろう。

 

「(だが、本当にそう考えて良いのだろうか?)」

 

 上杉は海津城を得たことにより、葛山城や旭山城は確実にものにすることが出来た。葛山城は上杉が建て、武田が奪回し、川中島の戦い以降、再び上杉のものになった城である。

 本当に武田が奪ったものをみすみす譲り渡すような真似をするだろうか。

 

「(ましてや、上杉と武田は因縁を超えた強い宿命のようなものがある。おいそれと争っていた地を渡すような真似はしない)」

 

 思考の海に深く入りかけた颯馬だが、それを遮る報告によって悩みは一気に解決された。

 

「葛尾城に武田の軍勢が集結している模様。おそらく、一万に上る数がいると思われます」

 

 颯馬は信能と共に目を見開き、互いに顔を合わせる。冷静に考えて武田にそれほどの力があるとは思えない。

 甲斐の精鋭達を合わせればそれぐらいはいけるだろうが、それを本当に実行したとは思えない。背後の守りは一体どうしたのだろうか。

 それに関してはすぐ颯馬も答えが出た。今川と徳川は織田の援軍に向かったのだと考えるのが常識的である。

 思考を武田に戻し、颯馬は再び深く悩む。義清が死んだことは時を戻さない限り抗えない事実。それよりもこれから海津城を拠点に葛尾城をどう落とすか、過程を戦略へと持っていかなければならない。 

 

「(やはり、義清殿の存在は大きいな・・・・・・)」

 

 義清の武勇故に頼れる戦略や戦術はいくつもあった。しかし、今となってはそれらも全て義清と共にあの世に消え、武田相手に劣勢に立たされるのは必定である。

 颯馬達の目的はあくまでも武田の意識をこちらに向けつつ、関東の謙信達を援護すること。更に、北信州の奪回である。

 このままでは武田の目をこちらに向けることも怪しくなってくる。海津城にどれほど籠城出来るかは分からないが、兵を少しでも多く回してもらう必要がある。

 いっそのこと最上の援軍をこちらに無理を言ってでも回してもらおうか。もしくは安東や南部も動かすか。時間がかなり掛かるとはいえ、武田に対抗する為の兵を集める為にはそれしかない。

 海津城でどれほど粘ることが可能かは分からないが、せっかく得たものをみすみす手放す訳にはいかない。

 しかし、更に颯馬達の意気を直訴してきた農民を嘲笑う貴族のように現実を突き付ける知らせが舞い込んで来た。

 

「武田軍が妙高山に進軍している由。数は不明ですが、大将は姿形からして虎綱春日が率いている模様」

「天城殿・・・・・・今、根知城には・・・・・・?」

「千坂殿が入られています。されど・・・・・・数は八百・・・・・・」

 

 颯馬は拳を思いっ切り机に叩き付けた。表情は悔しさと怒りがごちゃ混ぜになり、上下の歯を押し合う音が周りを不安にさせる程、強く鳴っている。

 実質的に上杉が信州から撤退することはその報告で決定的になった。武田の侵攻が本当であるのは間違いない。

 いくら武田が無理をして侵攻しているかもしれないと考えても本国の危機には変えられない。

 根知城は妙高山の西側から武田が侵攻することを考えて築かれたもの。そこが落ちてしまえば越後に武田の手が伸び、西からの武田の侵攻も考えなければならなくなる。また、葛尾城に一万の軍勢が本当にいるとすれば武田は更に上杉領へ攻めて来るだろう。

 信州でそれなりの時間を稼ぎ、南に警戒を置いていた武田の虚を付く。

 真の戦略が全て海津城という餌に釣られ、義清という信州攻略に欠かせない将が死んだことによって全て断ち切られた。

 

「謙信様に書状を認めます。しばらく、兵のことを須田殿と共にお願い致す」

 

 悔しさと怒りが底から注ぎ足され、上から押さえても全く止まらずに溢れる水瓶のような颯馬の表情から内心を悟った信能は静かに小さく頷くと音を立てずに部屋を去って行く。一人になった途端の颯馬は大きな溜め息を吐き、額にぱちんという音が立てて手を当てる。

 眉間の皺が更に深くなり、武田に対する脅威を改めて実感した。

 謙信でなければ武田には引導を渡すことは出来ない。実感が湧き、まるで信玄はそうであると嘲笑うように上杉の侵攻を片付けた。仮に無理をしていたとしても少し考えれば簡単かつ的確な策だった。

 

「終わった後だから言えることか・・・・・・」

 

 もう一度溜め息を吐き、颯馬は筆を手に取る。後悔をしているようで実に惨めな気分になった。そのようなつもりではないのに、忌まわしい記憶や出来事程、忘れられないのと同じように胸くそ悪い気分になった。

 だが、頭の中に指に付いた油の如く付きまとっているのは千代女の最後の言葉ではなく、颯馬が彼女を止めようとした途端に発した言葉であった。

 

『どうせ、誰もが何とやらと言うつもりでしょう? されど、もし仮に貴方が唯一無二の存在を消された時、同じことを言えますか?』

「否。としか言えないよなぁ・・・・・・」

 

 確かに謙信が殺されたと知った時、自身もまた千代女と同じように動いただろう。

 怨念は強い。他に人が抱いてはならない。嫉妬や強欲の感情よりも遥かに上回り、事を果たさない限りはがれにくい乾いた飯粒のように脳裏にこびり付くのだろう。

 

「(そうならないようにする為にも今、死んではならないな)」

 

 謙信だけではなく、兼続や龍兵衛といった仲間も消えてはならない存在である。かれらが死んだ際、颯馬ははたして義清が亡くなった時のように冷静にいられるだろうか。今回のように千代女が復讐心を隠さずにむき出しにしていた為、至って冷静を貫けた。では、今回とは違ってはどうか。また、謙信はどうなるのだろうか。

 想像するだけで胃が強い糸で締め付けられるような感覚に襲われる。行って良い想像と悪い想像があるようだ。

 颯馬は思考を戻し、小さく息を吐く。

 せめて、自身は後味の悪い復讐心を利用した策を使うようなことは今後なるべく避けたいものだ。軍師として手段を選ぶようなことは御法度だが、私心の中でそれぐらいは思っても良いだろう。

 颯馬は筆を進めようとしたが、なかなか進まず、終わったのはそれから一刻以上も経った時だった。

 

 

 

 上杉軍が箕輪城を包囲して数日が経った。すかさず攻め込もうとしたものの、北条氏康はこの日の為にと堀を深く下げ、兵糧を多く詰め込んでおいた。また、間者が上れないように塀に返しを付け、工作をされないようにと徹底的な対策を行っていた。

 謙信は城の外観を隈無く観察し、すぐに決戦を行えるのは不可能であると考え、包囲しつつ策を練っていた。だが、当然のように堅牢で名高い箕輪城を落とす決定的な策を立てることはすぐに出ず、いたずらに時間だけが過ぎていた。

 颯馬からの手紙がやってきたのは兼続と龍兵衛が策についてあれやこれやと謙信と景勝の前で議論を重ねていた時である。

 

「謙信様。颯馬は何と?」

「撤退すると」

「なっ・・・・・・」

 

 兼続が声を上げた。景勝と龍兵衛も声を出さずとはいえ、景勝は目と口を開き、龍兵衛は眉間に寄っていた皺を更に深くする。

 武田に対する抑えをさせる前に全く機能しないまま颯馬達が撤退してしまうこと。それは西上野が武田に攻められるかもしれないという危機が出てきたということである。

 

「(やはり、信玄は侮れないか。武田はあれがいる限り、易々とは滅びることはない。か・・・・・・)」

 

 胸の奥に宿敵への思いを多くの鍵を使って強引に抑え、三人に視点を戻す。

 

「今後の対策を立てる。もはや、東側の動きと共にとは行かぬ」

 

 龍兵衛と兼続はほぼ同時に頷く。武田が上野に進出してくる可能性は低い。しかし、無いと言い切れない。裏で織田と何かしら盟約を結んでいるかもしれない。

 利害関係が薄いとはいえ、信玄がなりふり構っていられない状況にあるのは謙信も分かっている。

 仮にそうだとしても謙信の中で撤退する気などさらさら無い。関東を制することは上杉が紛れもなく、日の本東の覇者として君臨することを明確にする。それだけではない。畿内の織田と対等に争える力を完全に手に入れ、畿内にくすぶっている足利幕府を支持する者達と打倒織田に向けて動くことが可能になる。

 

「箕輪城は早急に落とさなければならない状況になった以上、力攻めに切り換えるか?」

「せめて、最上の援軍を待った方が・・・・・・」

「そのように遅々としていては東から南下して来る別働隊に遅れを取るぞ」

「多少遅れたところでどうこうということはないだろう? 小田原城に向かう前から払う犠牲を大きくすることはあってはならない」

 

 龍兵衛の慎重論と兼続の積極論による言い争いが始まりそうになっているのを尻目に謙信は一人でじっくり考える。

 房総の里見が海賊衆を率いて相模湾を目標に暴れている。また、当主の義堯が陸から武蔵の東側を脅かしている今、要の上杉軍がここで援軍頼りにのうのうとしているのは得策とは言えない。

 

「確かに・・・・・・早急に事を終えなければならない以上、力攻めも考えなければなりませんね」

 

 龍兵衛はおとがいに手を当てながら地図を覗き込む。周りには箕輪城の支城が多く、城の位置故に、街道の要所が多い。だが、相手が相模の獅子だけにという思いの為、三人は渋い表情で地図を眺める。

 

「周りの城を落とし、孤立状態に陥るようなことになっても北条氏康が容易に箕輪城を渡すような真似を致すでしょうか?」

 

 兼続の言うことはもっともであり、謙信は間違いなく有り得ないと首を振る。氏康は北条家の正統な嫡子であり、その力は戦においての統率力は早雲さえも上回る程と言われている。

 箕輪城を落とせば三国街道と中山道の合流点まで達することが可能になり、下野への上杉直々の介入も可能になる。

 既に下野は上杉と手を組んだ宇都宮が東側から南下している弥太郎達の支援を借りて事を有利に進めている。

 彼等と合流する為にも早めに箕輪城を突破して上野と下野の支配を完全に上杉のものへしなければならない。

 また、上杉軍には急がなければならない理由がもう一つあった。時刻は既に夕暮れ時を越え、もう少しで日が暮れそうである。

 最後に見せようとしている眩しい朱色と山を支配した黄色と鮮やかな朱色が見事に調和している。しかし、人が眺めているのを許さないと言わんばかりに強い風が山から降りてくる。そして、風は身体を芯から冷やすのに十分な寒さだった。

 謙信は溜め息を静かにこぼす。あっという間に日が沈み、風が無くても野宿の上杉軍の将兵は徐々に突き刺さるような寒さに耐えなくてはならなくなるのだ。

 

「最上殿の援軍は後どれほどなのだ?」

「これより冬に入る備え故、もうしばらくは掛かる模様です」

「具体的日数には?」

 

 最初はすかさず答えた兼続だが、次の質問には少し気まずそうな表情で間を置く。

 

「二十日程度は掛かるかと・・・・・・」

「援軍を待っている前に冬に入りかねないか」

 

 おとがいに手を当て、謙信は地図を眺める。何か名案が死角から飛び出してきた猫のように突然浮かび上がってくるものではない。

 焦ることは敵に付け入る隙を与えることになる。しかし、目の前までやってきている人では抗うことの出来ない天からの危機を前にどうやって対処すれば良いのだろうか。

 

「ともかく、越冬の為に必要な準備を急がせ、箕輪城の支城、砦を落として行きましょう」

 

 沈黙が走り、誰もが決して口を開こうとせず、このまま皆が貝になりそうになったのを嫌った兼続が今やるべきことを慌てた口調で言う。龍兵衛も隣でそれしかないと小さく頷く。

 今はそれしかない。出来ることを行ってから箕輪城を落とさなければ更なる犠牲を招きかねない。冷静に対処するべき時が来た。はたして装うことが難しい状況で上手くいくだろうか。

 分からないが、謙信はやるしかないと自らを戒め、毅然とした表情になる。

 

「景家を呼んでくれ」

 

 龍兵衛が頭を下げて出て行く。その時、謙信はふと目に入った為、大事なことを忘れていたと気付いた。

 

「景勝、お前も異論は無いな?」

 

 霧のような存在になっていた景勝も更に小さく二度頷いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。