北条氏康は内心の憤りを抑えるのに必死だった。常日頃より、如何なる状況にも動揺しないよう己を律し、母より続く北条の礎を更に強固なものにさせる。
実際にその思いは実現し、北条の関東支配は確固たるものになった。故に、強引なまでに出兵を続け、東北を支配地にした上杉に負ける訳が無いと行き過ぎない程度の自信があった。
邦憲の過ちがあったとはいえ、簡単にやられる訳には行かない。邦憲のせっかちな性格は元々承知の上でその気迫を買って前線に配置していた。
「上杉の先鋒が城門や砦付近で再三挑発しております」
「見え透いた策に掛かることはありません。母上の援軍が来るまでこの箕輪城に籠もり続けます」
兵が出て行くのを見届けると氏康は息を一つ吐く。外の声は聞こえないが、何となく上杉軍が近付いているのは悟った。
氏康は立ち上がり、そのまま城外に置かれた櫓の上に上る。上杉の旗印以外には何も見えない。しかし、最上の援軍が動いているという状況もある。
氏康の憤りの原因は最上ではない。下野が簡単に上杉の手に落ちそうになっているということだ。否、落ちたのではなく、勝手に落ちていきそうのだ。
上杉が下野の宇都宮と盟約を結び、誼のあった下総の結城と共に敵対する那須や国人衆を挟撃させた。その過程で那須の家中で独立意識が高い者達ばかりだということを利用し、火種を放り込み、見事に放火させた。内憂外患に陥った那須は反乱を企てた那須の家臣達と共に散っていった。
実に不快な出来事だった。元々、北条の影響力が低かった下野であったとはいえ那須や宇都宮と対立する家臣達はもう少し働いてくれると思っていた為である。
計算外なことが起きたからといって怒りを覚えるような短気な氏康では無いが、下野の混乱状態が思ったよりも呆気なく片付いてしまったことに腹立たしく思えた。
少しぐらいは上杉に対して損害を与えてくれるのかと思ったが、全く成す術も無く下野は上杉の手に落ちようとしている。意地が全く見えない。窮地や死地に追い込まれる程、人は団結すると言うが、逆に乱れて今にも崩れようとしている。
すると、背後から足音が聞こえ、音が止まるとその苛々を抑えるように氷のように冷たい声で氏康は呼ばれた。振り返ると猪俣邦憲が片膝を付いて頭を垂れている。
「上杉が御門城を落とした模様」
氏康は分かったと頷くと邦憲は静かに去って行った。少し氏康は邦憲の後ろ姿を見て背筋が凍った。
あれだけ城を出ずに臨機応変に戦えと言っておいたにもかかわらず、上杉の手の平で泳ぎ、そのまま溺れ死にかけた邦憲だが、辛うじて箕輪城に落ち延び、そのまま早雲によって小田原城へ一旦強制帰還させられた。
そして、一ヶ月弱して帰ってきた邦憲を見て、彼女の話を聞いて、氏康は動揺のあまり、声を漏らしそうになった。いや、堪えた氏康は凄いと言えた。
あの上杉が来た途端に目の前に上杉軍が来ているように訳も無く暴れ回っていた邦憲が氏康を前に物静かに先の戦での失態と皆に迷惑を掛けたことを深々と頭を下げて謝罪してきたのである。
更にその後もじっと上杉軍の動向を眺めて冷静に適格な動きでかれらを防ぎ、以前のように大声で「打倒、上杉!」などと騒ぎ立てることも無くなった。
脳天に岩が直撃したような衝撃を受けた氏康は邦憲が早雲から託された書状を改めて読み返してみた。
『少し撫でておきました』
しかし、書状には邦憲のことに関して書状の中ではそれだけしか認められていなかったので詳細は分からない。しかし、大分諫められたことは確かなようで以前の目の前に獲物がいる飢えた野獣のように感情に任せて行動すること自体が大分減った。
普段、冷静なら本来の力を発揮することが出来るのだからその邪魔立てとなる烈火のような怒りを抑えられるならそれに越したことは無い。
人の人格を変え、更なる力を与える母の凄さに尊敬と畏怖の感情を抱きながらもどうしても収まらない怒りによる腹の虫が氏康に襲い掛かってくる。
下野が未だに那須の残党によって混乱しているが、収まればどうなるのか。下野から上野を結ぶ中山道を通り、北と東から挟撃される恐れが出てくる。
既に下野へ北条一族の幻庵が率いる兵を回しているとはいえ、相模の方も里見や結城の動きが活発になってきている為、大きな兵力を出すことは出来ない。
結城と上杉が合流すれば下野にも手が延びてくるのは明白である。
「下野の幻庵様より書状が届いております」
報告が届き、氏康は普段通りの平静を装って書状を受け取る。内容は氏康へ驚愕を与え、の不機嫌を空の彼方へと雲散させるには十分だった。
宇都宮の当主、宇都宮広綱が病に倒れ、家臣の間でごたごたが起きているというものだった。上杉に付くのか北条に付くのかで派閥が形成され、不協和音が起きているらしい。広綱自身が上杉に与している為、すぐにとはいかないだろう。
「(ならば、すぐにそうなるように仕向けるまで・・・・・・)」
氏康は城内に戻るとすぐに筆を取った。
秋の風が吹き荒び、嫌でも人の体温を奪って行く。しかし、火を炊く為の炭や木もただではない。そもそも、冬で無い以上、当分は我慢しなければならない。
その中でも気紛れな天候は人間の思いも特に聞き入れもせずに風を止め、春のような暖かい天気を招いてくれたりもしてくれる。
とはいえ、戦場では気候など関係無い。その時によって対応していかなければならない。
兼続は乾燥し、燃えやすくなったものを全てそれだけにまとめ、人がなるべく入らないように指示を出す。兵自体の様子を見ると何人かの吐く息が若干白くなったりならなかったりしている。
「(越冬になるのは覚悟していたが、思ったよりも早く来るかもしれんな・・・・・・)」
兼続は兵達に気付かれないよう小さく溜め息をこぼす。越冬、つまり寒い冬を野宿で乗り切れということだ。
別段、そのことは既に覚悟の上であったし、その為の装備も十分に行い、持ち込んで来た。また、春日山から派遣される兵糧を届ける部隊が雪によって三国峠を突破することが出来ないということが起きないように道の拡張、整備を行ってきた。
「直江様。ほとんどの荷はあちらへと運び終えました」
「ふむ・・・・・・後の荷は良いだろう」
一通り終えたところで額の汗を拭い、置いてあった資材の上に腰を落とす。寒そうにしている兵達は資材の遠い所で火を起こし、暖を取っている。
先日、資材の近くで火を起こした際、兼続は最上よりも先にやってきた景家と共に厳重に注意しておいた。その甲斐もあってか兵達も気を配るようになっている。だからといって兼続の気が晴れる訳でもなく、溜め息を吐き、両方の頬が餅が潰れたようになる。
周りの兵は兼続の放つ殺伐とした雰囲気に怖じ気付いて全く近付こうとしない。
かれらの合間をぬって龍兵衛が足音を立ててやってきた。気付いている筈なのに今ここに兼続がいることを知ったと言わんばかりの口調で隣に歩み寄って来る。
「何だ、兼続か。つまらない演芸を見ているような表情して」
「何だとは何だ。そして、回りくどい言い方をせずともはっきり湿気た表情をしていると言え」
人を食ったような笑みを浮かべてきた龍兵衛に兼続は噛み付く。龍兵衛は悪びれる様子も無く「はいはい」と形だけ頷く。その態度に呆れつつも兼続は龍兵衛だから仕方ないなと肩をすくめる。
普段、貝のように口を開かない龍兵衛だが、主である謙信や景勝には言うべきことはきちんと言う。また、同じ軍師として颯馬や兼続や年が近い慶次や長重とはよく公私関係無く喋っている。
更に官兵衛がやって来てからは上杉の中で通じていた龍兵衛は真面目で時々おちゃらけたり、羽目を外したりするという認識が大きく崩れた。
官兵衛を師だと公言して、表向きは尊敬しているように振り撒いているが、実のところ師匠を師だと思っていないような振る舞いをしている。
以前、兼続が見た時には、龍兵衛と官兵衛が一緒に歩いていたが、二人の足がふと止まった。何をしているのだろうと思い、遠くで見ていると、唐突に龍兵衛が官兵衛をからかっていた。それぐらいならまだ幾度も見てきた為、構わない。
だが、弟子である筈の龍兵衛が師である筈の官兵衛の鼻を摘まんで「あはは」と楽しそうに笑っているのはいくら見慣れている兼続とはいえ目を見開くには十分な光景だった。
そこから龍兵衛はよく聞こえなかったが、子供がどうこう、背丈がどうこう言っていてますます官兵衛を怒らせる。その時、兼続は正直なところ官兵衛の味方をしたくなった。
持っていた資料を振りかざして官兵衛は龍兵衛を攻撃するが、それなりに武芸も嗜んでいる彼は簡単に攻撃をかわして笑いながら逃げ回っていた。その逃げ方も「あははのはっ」と完全に舐めきっている笑いをしながらもう少しで捕まる捕まらないというところをわざと作っているやり方だった。
兼続はその光景を唖然として眺めていた。あそこまでやってのけると怒りや呆れを通り越して清々しく思える。
「(よくあの性格がばれないものだ・・・・・・)」
何故か、龍兵衛は他の人なら絶対にばれるだろうという行いが他人には全くばれず、本当に確実に見たという情報しか彼個人のことは入って来ない。龍兵衛の私生活の謎を完全に解いた者には兵の間で賭金が出る程、秘匿にされている。ちなみに本人にそのつもりは無いらしい。
しかし、と兼続は首を捻る。龍兵衛はそこまでひねくれ者では無かった筈だと。
「どうした?」
「へ? あ、いや。何でも」
兼続が戦とはかけ離れたことを考えている間に龍兵衛は兼続の隣に資材に汚れが無いか確認して座ってきた。
「面倒だ・・・・・・」
「いきなり何だそれは」
「事実だろ?」
「・・・・・・否定はしない」
兼続は龍兵衛の突然のやる気の無い口調から出た言葉に噛み付いた。だが、あっさりと言い返されると否定出来なくなる。
こめかみ辺りをぼりぼりかきながら龍兵衛は箕輪城に目をやる。面倒くさいという雰囲気がありありと兼続に伝わってきた。
「箕輪城だけでも難攻不落の城だというのに、そこに北条家の、相模の獅子って呼ばれている氏康殿が相手とはね・・・・・・」
「それは前から分かっていたことだろう。本当に面倒なのは武田が颯馬達を撤退させたことではないか?」
愚痴が止まらない龍兵衛は兼続に的確に指摘され、溜め息が自ずと出てしまった。そして、目を瞑り、少し肩をすくめるとその通りだと頷く。
武田が上杉に勝ったことで何か上杉の土台がぐらつくかと聞かれれば、それは否と言える。変な言い方をすれば上杉の損害は義清一人を失っただけにすぎない。
それが上杉全体にそれなりの衝撃を与えることは間違いないが、本当にそれだけなのだ。兵の損害が大きく出た訳でも無い。
問題は武田の南にある。今川と徳川がこの情報を得てどう動くかが専らの問題である。
もし、武田の領地に攻め入るのであれば上杉は西の一向一揆と南の今川、徳川を警戒しなければならない為、関東管領としての役目を果たすことが難しくなる。
「時間が無い以上、攻めるしかないな」
「そうだな・・・・・・」
「謙信様には?」
「今から行く。共に行こう」
兼続は素早く立ち上がるとすぐに龍兵衛の隣に並び、歩き出す。その間も会話は止まることを知らずに続いた。
「下野の状態は?」
「私が聞いた限りではつつがなく事が進んでいる。だが、宇都宮の容態が重くなっているようだ。それ故、家臣の間で問題が起きているらしい」
「正直、どちらが傾くと思う?」
「北条に分があると見て良いな。あれだけ背後から支援をしていたというのに、那須を完全に滅ぼせていない」
兼続はあからさまに不機嫌だというのを示すように声を出して溜め息を強く吐く。それを龍兵衛が苦笑いしながら見ているのも気に止めず、兼続は更に続ける。
「これでは東の小島殿達との合流が武蔵に入るまで不可能になる。それどころか下野に別働隊を派遣する羽目になる」
「それを避ける為に何か策を講じたのではないのか?」
「あまりに卑怯故に止めた」
兼続は本気で宇都宮の反上杉派を暗殺を行おうとしたが、自身の中にある正義心との葛藤の末にその考えを捨て、仕方なく火種を振りまいて後は傍観することにした。
視線を空に移して苦笑いを浮かべる龍兵衛を見て、兼続は彼が少し呆れているのだと悟る。いざという時は敵対する者を容赦なく殺しても甘味をなめるような表情をして眺める龍兵衛からすると行動して欲しかったのだろう。
だが、兼続はどうしても違えることの出来ない信義がある。龍兵衛のように冷酷で合理的な判断を実行することはしない。
「不満げな表情だな」
「その辺りは、しょうがないからな・・・・・・」
「どういう意味なのかは聞かないでおこう」
「はいはい。俺は戦に関して兼続に劣るのは周知の事実だし」
龍兵衛は表情を変えずに自らを卑下する。しかし、兼続はあえて答えず、その言葉を受け流す。龍兵衛が自身を卑下することはよくあるからだ。
「ところで、御門城の様子は?」
「落とせるものなら落としてみろ。その気概が面と向かって獅子と対峙しているように感じられたよ」
兼続は少し残念そうに息を吐く。龍兵衛が景勝と共に箕輪城の支城である御門城を落とし、帰って来たのは三日前のことである。
もし、御門城の士気が落ちていたのであれば箕輪城の中でも切り崩す何かがあるかもしれない。だが、龍兵衛の話を聞いている限りではその期待は露のようにあっさりと消えた。
陣中の中にある最も大きな陣屋にいる謙信の下に訪れ、簡単に通されると二人はまず目を見開いて謙信の前にいた先客を見た。
「長野殿?」
「ああ、直江殿に河田殿。頼まれていた仕事は終えたぞ」
「ありがとう御座います。吉江殿は?」
「残って行うべきことがあると言ってな。三日以内には来ると行っていた」
景資が何をしようとしているのかは分からないが、謙信もさして気にしていないところを見ると大丈夫だろうと兼続は何となく思って片付ける。
業正と景資に兼続と龍兵衛は越後に残る者、特に常に警戒しておかなければならない一向一揆に対する警戒の強化に当たった後、下野に潜入して宇都宮が優位に立てるよう支援するように頼んでいた。
だが、下野の状況が急に北条側に傾き出したことで自身達の身の上も考えて宇都宮から離れて戻ってきたのだと業正は説明した。
「さ・・・・・・二人共、こうなった以上は箕輪城を攻める他あるまい」
話を変え、兼続と龍兵衛がやって来た目的を悟った謙信は問い掛ける。
未だに進展が無い箕輪城攻めにいつもは焦らずにいる謙信も多少の焦燥感を抱いているように兼続は感じた。
箕輪城を攻める為の戦術を話し合い、謙信の前から下がると龍兵衛はさっさと陣屋を辞して兼続ともすぐに分かれて陣中を歩こうと外に出る。
すると、いきなり龍兵衛はくいくいと袖を引っ張られた。またかと思いながら振り返ると景勝が膝と膝を擦り付けて顔を若干赤く染めていた。
「風邪ですか?」
冬に近付くにつれて徐々に気温も低くなっている。それならそれで輿を用意する必要がある。しかし、景勝は風邪ではないと首を横にふるふると振った。
「ちゅー・・・・・・して」
すとんと周りの空気が暗転した。景勝の単刀直入の攻撃はもはや何度も食らっている。さすがに物事慣れというものがあるので龍兵衛もあまりどぎまぎしなくなっている。同時に龍兵衛の感情も瞬間的に変わった。
「い、や、で、す!」
龍兵衛は怒った蛇のように「しゃーっ!」と舌が出てくる勢いで景勝を威嚇し、激しく拒絶する。景勝は絶対に誰にも見せない筈の上目遣いでわざとらしく目を潤ませて龍兵衛にせがんでくる。
邪な気持ちを岩で叩き付けるようにして破壊すると龍兵衛はきっぱり首を横に振る。しかし、景勝も諦めない。以前の御門城攻めの際にも城が落ちてほとぼりが冷めた隙を見て龍兵衛を無理やり頂こうとした。その時は当然のように龍兵衛は起きていて景勝を担いで行った。
「じゃあ・・・・・・あのね・・・・・・」
「戻ります・・・・・・いてっ」
踵を返してどこかへ逃げようとしたが、景勝が素早く背中を掴んで来た為、龍兵衛は勢い良く歩き出したこともあって尻餅を付いてしまった。立ち上がって龍兵衛は景勝を見る。一瞬、顔が強張った。
「(凄く良い笑顔をしてらっしゃいますね・・・・・・)」
花が周りに咲いているように見える笑顔だが、龍兵衛からすると嫌な予感が背筋を這い回る虫のように駆け巡った。
「じゃあ・・・・・・」
小首を傾げて悩む姿を見て、龍兵衛は周りに誰もいないのか冷や冷やし通しで辺りを見回すことで必死だった。
すると、龍兵衛の不安を遮るように暖かい感触が手を包む。愛用の手袋をしているとはいえ風に吹きさらしになっている場所ではほとんど効果は無い。しかし、寒さを抑えるような感覚に龍兵衛は驚き、景勝を見る。
両手で龍兵衛の左手を力強く握り締め、そのまま自らの頭の上に置く。
龍兵衛は仕方ないと溜め息を吐く。周りに誰もいないことを確認すると景勝の頭の上に置かれた手を動かした。
我慢すれば良い。今だけこれだけをやっておけば景勝も後数日間は我慢してくれる。その筈だが、龍兵衛は眼前の猫が撫でられて気持ち良さそうな景勝の表情を見ると不安しかなかった。
「♪・・・・・・(はーと)」