正午が過ぎ、徐々に日暮れが早くなった冬間近の午後。氏康は櫓の上でいつものように上杉軍の動向を見落とすこと無く伺っていた。
とはいえ、今日も特に何も無い。普段通り、上杉の兵達の罵声を無視しながら氏康は上杉軍の動向を伺う。
北条が北関東をまだ支配し始めて間もない。しかし、気候の変動はそれなりに理解している。そろそろ、秋の風が冬の風へと変わり、雪が降り始めるだろう。
上杉は冬の理由に撤退する気は無さそうに見える。考えれば佐竹や東北の者達もこぞって動かしている以上、そう易々と撤退する訳にはいかないのだろう。間者から三国峠の街道を広くし、長期戦も辞さないということは前もって知っていた。
次々と上野北の城を落とし、食糧を自身達のものにしたことで越後から送られてくる物資に頼らなくても当分は大丈夫なのだろう。
だからといって北条の士気が挫かれると聞かれればそうでもない。箕輪城の城内には上杉何するものぞという気運が籠もり、上杉の仕掛ける攻勢を次々と退け、最近では上杉は不気味な程に動こうとしない。
城内では上杉は我々に怖じ気付いたなどと上杉軍を卑下する将兵も出始めているが、氏康はかれらに決して便乗することはない。むしろ、そのような輩を見た場合、その場で戒め、気を引き締めさせる。
上杉の軍とまともにぶつかったのは今回が初めてであるが、櫓から見る動きや将兵の動きを見ると東北を奪っていったことにも納得いった。
ごたごたが続く東北勢の自滅もあったとはいえ、ほとんどの勢力でのとどめは上杉軍の攻めである。それさえ封じれば上杉軍は持ち前の兵の強さを活かすことは出来ない。
故に、周りの城が落とされようとも箕輪城に籠もっていれば焦ることは無い。
下野の情勢は未だに入って来ないが、幻庵に送った書状は彼にかなり有益なものになった筈だ。上杉軍の息が掛かっていても宇都宮は形勢不利になるだろう。
「姉上ー」
思考を遮るように櫓の下から元気な女の声が聞こえて来る。その声の主は氏康の許可無しにずんずんと櫓に上り、音を立てて立っている氏康の隣に座った。
「上杉はなかなか攻めてくれませんねぇ」
「そう都合良く攻めてくるような相手ではない。お前も分かっておろう」
「まーね」
間延びした返事をしながら女、北条氏邦は目一杯腕を伸ばして欠伸をする。氏邦は跳ぶように立ち上がると氏康の腰より少し上のところまでで止まった身長で上杉軍の動きを遠くを見るように額に手を当てて眺める。
「動き無し。ただ兵が挑発してくるだけ。馬鹿の一つ覚えだね」
「ああすることで自分達が有利だと思い、士気を維持しているのだろう」
「やっぱり、馬鹿決定! ところで、綱成は常陸の方でどうなってるの?」
「緒戦で躓いたと聞いたが、その後はどうにかもっているみたいだ」
「じゃあ。こっちが本隊の動きを止めれば後は東西の連携が断たれて上杉はこの冬を何もない上野で過ごすことになるのか~・・・・・・いい気味」
上機嫌に人の不幸を笑う氏邦を氏康は呆れた目つきで見る。前々から無邪気な声で相手が苦しんでいるのを喜ぶところがあった氏邦だが、氏康が小田原城、氏邦が上野を支配していただけあって久々にそれを聞くと分かっていても思うところがある。
氏邦自身に悪気が無いとはいえ、無意識の内に吐く毒の衝撃は本当に毒を持つ生物に食われたようにかなり強い。
面と向かって氏康が言われたことは無いが、同じく箕輪城にいる邦憲の方は何度か餌食になっている。先の戦で邦憲が沼田城に向かう前に氏邦は彼女を呼び止めてこう言った。
「頭に血が上らないよう、馬鹿なりに頑張れー!」
無邪気な笑顔で人が気にしていることを言われたのだから邦憲の傷付き具合は相当なものだっただろう。邦憲の方は氏邦の悪い性格を知っているが故に心に刺さるものがあっても決して不満を言わなかったのだ。
邦憲から聞いた一件を思い出して呆れたように溜め息を吐く氏康の動きを遮るように突然吹いてきた北風が二人を襲う。
「さっむっ! そろそろ冬かな~?」
氏邦は小動物のように身を小さく震わせると再び風が当たらないようにとしゃがみ込む。一方の氏康も一瞬だけ目を瞑り、寒さを堪える。
上杉軍が動くとすればそろそろだろう。冬が近付き、これ以上、動きが無ければ軍の中でも何かしらの不満が出る可能性もある。
しかし、この箕輪城は上野一の規模を持つ城。正攻法では簡単に落とせないことは謙信も承知済みだろう。
今まで無駄に上杉の兵が北条を罵っていたのは退屈しのぎや本気で箕輪城から北条軍を誘き出そうとしていないと考えればそこから導かれる攻め方は一つしかない。
「氏邦、夜襲に備え、裏門の搦手の警備を更に強化するように皆に伝えろ」
「はいはーい」
氏邦はひらひらと手を頭上で振って櫓を降りて行く。氏康は彼女を見届けると上杉軍の動きを再び眺める。
今宵の月は新月。動くとすれば今日か明日だろう。
謙信の首を取ることでこの戦は終わる。そこに上杉軍に負わせた犠牲の数は無いだろう。それを知っているからこそ謙信もまた容易に動いたりしない。
だが、有限である時の終わりが近いと悟った謙信はそろそろ腰を上げるだろう。その時こそ北条が上杉を打ち砕き、上杉に変わって日の本東を制する者として君臨するのだ。
その始まりが謙信の首である。謙信を討ち取ることで関東の上杉派の大名や東北の臣従している者達をことごとく跪かせる。
大き過ぎる野心かもしれないが、早雲の思いが関東の平定と安泰なら娘たる自身は更なるものを求めても良いのではないか。
「申し上げます。上杉軍、正面より襲来!」
「迎撃するだけで良い。深追いは無用だ」
その日の夜の内に上杉軍は氏康の予想通りに動いてくれた。
まず、夜襲として正面の大手門を攻め、北条軍の目を引いている隙に伏兵が裏の搦手より奇襲を掛ける。そう考えていた氏康は正面の上杉軍を軽くあしらっている間に搦手へと上杉軍を誘導する。
上杉軍は搦手で分断され、辛うじて戦っている。しかし、それも時間の問題である。救援に向かっている部隊もあらかじめ氏康が配置していた兵によって合流出来ない状況となっている。
しばらくすると裏手からかすかに歓声が聞こえ、氏康は顔を少し背後へと向ける。
「申し上げます。裏手より襲来した上杉軍、我が軍によって撤退を開始した模様」
「深追いは無用。私が向かうまでその場を動くことのないよう伝えなさい」
氏康の言葉を聞いた途端、氏邦は目を丸くして氏康へ素早く顔を向ける。
「姉上、本当にあたしが出なくても良いの?」
「お前は万一が為の遊撃だ。大手門が本隊だった場合に備えてだ」
氏邦は頬を膨らませるが、邦憲程の猪では無い。氏康の言いたいことを理解し、また氏康の判断への信頼もあってそれだけで隣に音を立てて座る。
箕輪城は規模が大きい。だからといってそれだけで堅牢とは言えない。きちんとその規模に見合った人の数がいてこそ城は初めて堅牢になる。
氏邦は武勇の人だが、知略にも優れている為、彼女がいれば少ない兵も多くを率いているようにすることが可能になる。
大将として動きが制限される氏康自身の代わりになってもらうことが氏邦の役目である。
半刻程経つと上杉軍は策にはまったと知るや否やすぐに敗走を始めて行ったという知らせが舞い込んできた。
「氏邦。城内のことは任せた」
「本当に姉上が行くの?」
「何か不満か?」
「いーや、別に」
口を尖らせている時点で説得力が無い。ここは少し機嫌直しをしておいた方が良いと思い、氏康は膝を折って氏邦に視線を合わせる。
「致し方ないだろう。私の後ろを安心して任せられるのはお前だけなのだから」
その言葉を聞いた途端に氏邦はお菓子を貰った子供のように心から嬉しいと言っているような笑みを浮かべる。
子供がそのまま大人になったような性格をしていると氏康は内心で肩をすくめながらも本心から氏邦を頼りにしている以上、自身もかけた信頼が損なわれるような真似をしてはならないと気を引き締める。
謙信を討ち取るか、上杉軍を追い払うか。同じようで圧倒的に異なる戦果。得るべきは当然決まっている。それを得ることで氏邦の信頼に答えることが出来る。
氏康の予想通り、裏手から攻め込んだ上杉軍の方が数は多かった。氏康はすかさず城付近に残っていた兵を追い払い、それが終わると一旦集中力の糸を切るように息を吐く。
「さすがは氏康様で御座います」
背後から裏手の警戒を任せていた邦憲が若干の感嘆を込めて賛辞を送ってくる。しかし、氏康からすると当然のことだった。
今までの均衡が続いた戦況。それを打開しようとしない上杉軍の怠惰。上野に止まるということへの上杉軍が被る不利な条件。
「このまま追撃を行いましょう! 今なら上杉軍を越後に追い払うことも出来ます!」
搦手で北条軍を指揮していた邦憲の配下が戻ってきて氏康を急かす。息は荒く、上杉を打ち砕くことしか頭に無いというような顔をしている。しかし、氏康は首を横に振って静かに息巻く将兵達を諫める。
「いや、追撃は無用。無闇に攻めては同士討ちになる」
氏康は撤退する上杉軍を眺めて首を傾げた。あまりにも手応えが無さ過ぎたのである。なかなか、攻略出来なかった箕輪城をようやく攻める。
今、追撃をしなければ好機を逃すこととなる。しかし、氏康は上杉軍が仕掛けてきた決戦にもかかわらず、あっさりし過ぎる撤退に疑問を抱いた。
上野で冬を待つような愚行を上杉がしていると思えない。箕輪城を落とせば上野の趨勢はほぼ傾く。今日を逃せばその機会は秋の間には無くなる。冬が来てしまうからだ。
にもかかわらず、上杉軍はせっかく均衡していた状況を打ち破ろうと動いたのにみすみすと箕輪城を落とす機会を逃そうとしている。
氏康はおとがいに手を当て考える。
上杉が夜襲を仕掛けながらも簡単に撤退し、北条軍をねずみを見つけた猫のように誘っているのは何故なのか。
城内に上杉の手の者が入ることは城壁の高さなどを考えてほぼ不可能。裏手の方は警戒態勢を厳重にしている為、伏兵が騒ぎ出しても意味を成すことはない。
「周辺を調べよ。皆はこの城門付近の守りを固め、何処から攻められても良いように待機だ」
待機と言いながらもいざという時に箕輪城へ撤退する為に上杉軍から距離を取るように下がる。
「北西に上杉軍の伏兵を確認。数は不明でございますが、さほどの数ではないかと」
「他に伏兵の気配は?」
「私が見た所にはおりませぬ」
氏康は物見を下げると後ろで追撃とその伏兵を討ち取るべきと主張する配下の者達に前置きも入れずに指示を下した。
「その伏兵は放っておく」
周りからどよめきが起きる。氏康には確信があった。その伏兵こそが上杉の本当の策の肝であると。この上杉軍の夜襲を仕掛け、それが悟られることも考えて実行している。
万一、裏手から奇襲を掛けることが失敗しても次に兵を立て直して更なる一手を打つ。否、元々の攻勢も見せかけかもしれない。
「氏康様。誠に良いのでございますが?」
「良い。おそらくは陽動・・・・・・本当の隊は別にいる」
邦憲はそれ以上、何も言わずに氏康同様、徐々に下がる。
氏康は徐々に慣れてきた目で周りを見る。晩秋の冷たい風だけが音を立て、静寂に包まれた北条軍を襲う。思わず、身を縮めている者もいるが、氏康は長い髪が顔にまとわり付くのも気にせずに身動き一つしない。
枝や周辺の茂みの動きを観察するも風に乗った動きしかしていない。
「申し上げます。上杉軍の本隊と思われる部隊がこの先におります。数はおそらく五千程かと」
「上杉謙信の姿は見えたか?」
「夜が深い故、はっきりとは致しませぬが、姿形は間違いないかと」
氏康は思考故に寄っていた眉間の皺を一気にほぐし、内心で全てが繋がったと膝を打った。
「なるほど・・・・・・本当の目的は箕輪城では無かったということか」
推測に過ぎないことは分かっている。だが、上杉は夜襲で伏兵に次ぐ伏兵を投入している。北条にとって有利だったのはこの辺りの地理を把握し、伏兵を置くならばどこなのかを隈無く確認していたことだろう。
「私の目的と上杉軍の目的は同じ・・・・・・ならば、その思い通りにさせなければそれで良い」
取るべき時が来た。
氏康は軽く笑みを浮かべるとすぐに口を真っ直ぐに結び、邦憲に顔を向ける。
「ここはお前に任せる。上杉軍の動きを食い止めろ。鉄砲の合図で撤退するのだ」
「伏兵は如何致します?」
「私の配下を回す。猪俣はそのまま上杉軍に突撃を仕掛けろ。脇を見ず、ただ真っ直ぐにだ」
静かに頷くと邦憲は兵を率いて進んで行く。城内のことは氏邦に任せている為、問題はないだろう。
氏康は手綱を返して箕輪城に急ぐ。上杉軍の目的は夜襲を失敗したように見せかけて謙信の首を目的に城を出るであろう氏康を上杉の本陣へと向かわせること。
氏康は箕輪城へと足を向けながらも闇の背後で行われているであろう戦の音を聞く。喧騒が徐々に大きくなり、混戦になってきているのが分かる。
賽子が転ぶのはこちらである。北条は北条として関東の民と日の本東を統べる使命がある。この撤退はその為の布石である。今まで置いてきたのと同じような一過性の布石に過ぎない。
全ては謙信を討つという最大の布石を置く為。早雲ではなく氏康自身の望みを叶える為。
「氏邦に城を任せると伝えよ。我らは左右より猪俣の隊を援護する」