忍城では城主の成田氏長が頭を抱えていた。上杉軍を足止めせんと気張っていたのは良い。氏長は上杉の正義というのに不可能なものにすがる愚か者と見下していたからだ。
だが、間者からの連絡が取れなくなり、情報も曖昧となった。更に、行田口を守っていた部隊が勝手に本丸に兵を退き、叱責しようと夜に呼び出そうとした。すると、その前に忍城付近の川が一気に増水し、忍城自体が浮島のようになってしまった。
氏長も北条では名のある将。すぐに退却した成田近江守と市田太郎を呼び出し、内通しているのではと問い詰めた。しかし、二人はあらかじめ、上杉からの連絡役、河田長親からの書状を行田口で燃やし捨てていた為、身の潔白を主張した。氏長はそれでも疑ったが、成田一族である近江守が大声で言った。
「どうして成田一族の某やその配下である市田が裏切るのであろうか。もし、裏切るのであれば既に水攻めの被害に合わないように外に出るのが道理であろう」
そう言われてしまえば、氏長も納得せざるを得ない。許す代わりに監視を付けて二人を解放した。戦況を見ると忍城は圧倒的不利である。僅か数日間で突貫工事とはいえ、堤防を築かれ、逃げ道も無くなった。また、行田口以外の守備兵の中には溺死したり、寒さで凍死した者もいる。また、ここにきて雪も降ってきた。冷たさと寒さで兵の士気は下がる一方、食糧も確実に無くなっていく。
「くっそ。何が正義だ、長尾め。そのこじつけのおかげでどれくらいの人がお前に怨念を抱いていると思っている」
氏長は貧乏揺すりをし続けている。打つ手は無い。謙信のことだ。おそらく、堤防を壊そうとしても伏兵で対処して来るだろう。攻めることは不可能だ。泳いで移動しても敵陣に辿り着く前に凍死するのが目に見えている。筏を作ろうにもこちらに備えてあったものはほとんど水でやられ、本丸に残っているものではたかが知れている。
「父上、失礼致します」
思案中の氏長の下に来たのは息子の長親と娘の甲斐だった。氏長は保守の人である。甲斐には女として生きてもらいたかったのだが、武人の血を濃く受け継いでしまったらしく、武芸においては長親よりも強くなってしまった。
「城内の者の様子は?」
「皆、寒さに震え、中には瀕死の状態になっている者も」
氏長の奥歯が鳴った。城内には兵だけでもなく、民もいる。かれらにも食べさせなければならない飯の量も考えるといつまでも籠城を続ける訳にはいかない。では、開城するかと言われれば、氏長は絶対に嫌である。
「父上。父上が降らぬと仰られるのならば私達はそれに従いまする。されど、今の状況を如何に打開致しましょう? 内通者がいるという噂もあり、かなり浮き足立っております」
甲斐の言葉に氏長は顔をしかめる。内通者においては箝口令を敷いていた筈。誰が話したのか尋ねるが、甲斐は首を横に振った。
「分かりませぬ。監視している者からも、近江守達の口からではないと」
「そうか……」
氏長は少し残念そうに表情を暗くする。かれらの仕業なら即刻首をはねて士気を盛り上げることも出来ただろう。しかし、この城の状況では効果も薄いかもしれない。
「かくなる上は犠牲覚悟でこちらから動くか……」
「父上! それでは敵の思う壺。ましてや、信用ならぬ者もいるというのに」
「落ち着け甲斐。最後まで父上の話を聞け」
長親のおかげで甲斐が渋々大人しくなったのを見ると氏長は一泊置いて話を進める。
「とにかく、動かねば、我らは飢え死するだけ。ならば、武人らしく戦場で死ぬべきだ。私は長尾ごときに降るつもりは一切無い」
長親と甲斐も揃って頷く。二人共、上杉に対して徹底的抗戦のつもりでこの場を迎えていた。
「そこでだ。二人には大役をはたしてもらう。忍城の命運、二人の肩にかかっていると言っても過言ではない」
長親と甲斐は神妙な顔付きになった。氏長の表情からは決死の覚悟とこの戦に賭ける思いがひしひしと伝わってくる。上杉を追い払う為、動くことは不可欠。状況を打開するには上杉の裏をかくこと。三人は近付いて夜遅くまで戦略を練り続けた。
翌日の夜に忍城は動いた。氏長は内通者に睨みを利かせる為、城に止まった。代わりに長親と甲斐が筏で兵を城外に導き、二手に別れた。まず、甲斐が兵五百を率いて和田方面から白川戸に陣を張っていた最上軍に仕掛けた。忍城側から攻めてくると考えていなかったのだろう。最上軍はすぐに混乱状態になった。
甲斐はすぐに撤退せず、しばらく暴れ回った。すると、最上から法螺貝が鳴らされ、遠くから返答のように法螺貝が返ってきた。
上杉への援軍要請だろう。甲斐は直感的にそう思った。
策の肝は郭外の堤を断ち切ることだ。それだけで流れが一気に変わる。上杉軍は想定外の奇襲に驚き、堤防の警戒が手薄になっているだろう。最上の陣まで上杉軍をおびき寄せれば甲斐の役目は終わりだ。
「姫様、上杉軍動きました!」
「よし。徐々に退くぞ! 川沿いを通り、敵を更に引き付ける!」
確かな手応えがある。上杉軍に勝てる。北条軍に今まで辛酸をなめさせてきた上杉軍に今度は北条軍が辛酸をなめさせる側となる。氏康や幻庵は策に警戒すべきと警鐘を鳴らしていたが、水攻めからすぐに動かなかったのが間違いだ。勢いが重要な戦において敵の士気が低くなった時に攻めるのは必定である。
甲斐は追撃してくる最上軍に尻尾を掴めそうで掴めないように速さを調節しながら撤退する。このあたりは成田の戦好きお転婆娘と影で言われているだけある。
追い付いてきた最上軍の兵も簡単に打ち倒すと徐々に速度を速め、筏を置いてある所に急ぐ。不意に遠くから悲鳴に似た声が聞こえてきた。甲斐はほくそ笑んだ。上杉軍恐れるに足らずと叫びたくなった。
「む?」
川沿いに進んでいた甲斐は異変に気付いた。夜が深いとはいえ、目も慣れてきて、遠くが見えるようになった。
「おい。あそこに筏を繋いでいた筈だよな?」
甲斐は隣にいた騎馬武者に尋ねる。間違いないと騎馬武者も答える。筏は十ぐらい用意して数往復してきた。しかし、一つも無いとは考えられない。
「きちんと停めてあった筈なのに何故だ!?」
とばっちりを受けた騎馬武者は首を傾げる。しかし、分からないのは誰でも同じだ。そして、甲斐は一つ失念していた。
「姫様、最上軍がこちらに接近しております!」
「ちっ、迎撃だ。態勢を整えろ!」
「無理です。数が違いすぎます!」
「うるさい! 逃げるたってどこに逃げる!?」
ここから近いのは鉢形城だが、甲斐は城内の父や堤防を決壊させ、城外で頑張っている長親を見捨てることなど出来ない。
「来い! 長尾の犬共、私が全て追っ払ってくれよう!」
甲斐は刀を抜くと近付いて来る蹄の音に向かって高らかに叫ぶ。蹄だけでなく、敵の姿が見えてきた。先頭にいる騎馬武者に甲斐は狙いを定めると馬を蹴り、一気に前へと出た。
こうも上手くいくとは成田長親は思わなかった。上杉軍は白川戸の最上軍に夜襲が起きたと知るとすぐに救援部隊を派遣し、堤防の警戒を弱めた。長親は上杉軍に気付かれないよう堤防の上に上陸した。
武蔵は鉄の産地で有名だが、土は質が柔らかく、なかなか堤防を築きにくい。しかし、それをあっという間に行ったのはさすがに上杉軍というところか。長親は一人、感心していた。氏長のように上杉は憎いが、長親は甲斐程強い影響を受けていない。かなりの労力を使っただろうが、それだけ忍城を落としたいという気持ちの表れだろう。
「だが、やらないと……」
上杉を倒さなければ北条は滅びる。武蔵まで攻め込まれている現状はここで打開しなければ成田にも明日はない。息を一つ吐くと配下の脇本利助、坂本兵衛らに堤防破壊を始めるように命じ、長親は上杉軍の動きを観察する。
鋤を持った兵が堤防を壊そうとそれぞれ腕を上げる。
「ぐあ!?」
「なっ……」
長親の顔をかすめた矢が後ろにいた兵に当たった。それを合図に次々と矢が降り注ぐ。そして、次に銃声が響き渡り、北条軍の兵は動揺し始める。
「狼狽えるな! 早よう、堤防を決壊しろ!」
思わず、長親は叫んでしまった。同時に長親の方に矢が集中的に降ってくる。
「不覚……」
長親は十数本の矢を身体に受けてあっさりと虫の息になった。
「わ、若様がやられたぞー!」
「い、如何する?」
「ええい! 狼狽え……がはっ!?」
何とか鼓舞しようとした兵も次々と討たれ、北条軍は背中に寒い水が待っている以上、適当にどこかへ逃げるしかない。しかし、追い討ちをかけるように北条軍に悪夢が襲い掛かる。
「小島弥太郎これにあり! 北条の武者共、死にたくないならさっさと降伏しろ!」
その声に大将を失った北条軍は完全に静かになった。
「申し上げます。姫様、大蔵大輔様、討ち死」
翌朝、氏長は目を見開くとがくりとうなだれた。奇妙な呻き声を上げると拳を床に三度叩き付けた。それでも落ち着かない氏長は叩き付け、傷付いた拳を口の中に入れ、拳を強く噛んだ。
控えていた将が何とかして止めようと声をかけようと試みるが、氏長の異様な雰囲気によって誰一人近付こうとしない。
「殿、一大事でございます!」
「うるさい! 分かっておるわ!」
氏長は入ってきた兵を睨み付け、刀を抜く。慌てて将達が押さえた為、大事には致らなかった。どうにかして氏長を座らせると将の一人が代わりにどうしたのか尋ねる。
「それが、鉢形城が陥落した模様」
「なっ……」
氏長は顔を上げ、兵に近付く。そして、両肩に手を置くと本当なのかと確かめるように尋ねる。兵も悔しげな表情で頷いた。
「氏邦様は?」
「行方も知れませぬ」
氏長はがっくりと腰を落とすと憎しみと怒りを合わせた表情で将達を見る。
「忌々しい長尾め……この恨み、晴らさずにはおけぬ」
「殿、まさか出陣なさる気か!?」
「なにが悪い!? 貴様に私の気持ちが分かるのか!?」
「若様や姫様を失おうたご心中はお察し致します。されど、数に劣る我々は如何に戦うのでございますか?」
「黙れ! 大将さえ討てば良い!」
氏長を慰めようと将が立ち上がろうとしたが、氏長は暴れてなかなか止まろうとしない。そこに再び報告の兵が入ってきた。
「申し上げます! 敵がこちらに攻め寄せております! また、成田近江守様、市田様、敵方に寝返り!」
氏長の血管が大きな音を立てて数本切れた。
「さすが、段蔵だな……」
龍兵衛は忍城の西、鉢形城と忍城を結ぶ道の脇に控えていた。向いているのは鉢形城の方面。忍城は今日中に落ちると確信していた。おそらく、外の情報が不明である為、忍城城内ではあることないことが言われ、誰が間者なのかも分からない状況になっている筈だ。
内応も本当なのだと分かり、忍城が水に囲まれた時点で堤防の決壊に動くのは分かっていた。どのように動くのか、着陣して間もない最上軍に何かしてくるのはすぐに悟った。少数と見せて夜襲部隊に目を向かせることも。
「(報告通りなら、成田も大したことなかったことになるな……)」
やはり、戦は経験が物を言うのだと龍兵衛は改めて感じた。そして、そこで成長するかしないかの差だ。
「……」
「分かってますよ」
隣にいた景勝が袖をくいくいと引っ張って鉢形城の方を指差す。北条軍が近いのに少しぼんやりしていた龍兵衛にちゃんと集中しろと言いたいのだろう。
水攻め以降、兼続と警戒していたのは鉢形城の出方だ。鉢形城を守る北条氏邦は動かない姿勢を見せていた。しかし、段蔵に北条の兵に紛れさせ、本当のことを伝えさせると救援に動くことにしたらしい。
見殺しにしたとなれば北条の面子に関わるからだろう。はたまた、本当に助けられると思っているのかもしれない。論理的に見ると忍城城内の士気は水攻め以降、低くなり、元々籠もっていた兵も少ない。
頼みの堤防破壊も不可能になった今、成田に生きる道は降伏しかない。しかし、それも無い。成田の上杉嫌いは上杉の中でも有名である。
「……」
「はいはい……見てます」
景勝が再び袖を引っ張ってきた。宗二との茶会以来、龍兵衛はほぐれた。元々、周りには気付かれていなかったが、対応する時の気持ちが楽になった。特にぎくしゃくしていた景勝ともそれなりに話すことに抵抗はなくなり、兼続達程ではないが、多く話せるようになった。一方、景勝はまだ不満げだが、その点は龍兵衛も申し訳ないと思いつつも割り切ることにした。
「来た……」
景勝の視線の先から蹄の音が聞こえてきた。龍兵衛は合図を送って他の場所に伏せている吉江達に準備をするように促す。
鉄砲の火薬の匂いが敵に悟られないように筒を下に向け、もっと低く構えるように兵達に手で合図を送る。
段々と音が近付き、地が揺れてきた。雪でどれほどの音がするのか不安だったが、杞憂に終わったようだ。きちんと聞こえてくる。
「戻ったよ」
段蔵が龍兵衛の後ろに降りてきた。
「数は?」
「三千から四千」
「忍城がまだ落ちていないと踏んだか……段蔵、忍城に戻っていいぞ」
段蔵が去って行ったのを見届けると龍兵衛は北条軍の動きに注視する。こちらに気付いている様子はない。あわよくば北条氏邦が出て来て欲しいが、それは高望みが過ぎると龍兵衛は自分を戒める。そもそも、氏邦がどのような格好をしているのか、容姿はどのようなものか。龍兵衛は知らない。
「あっ……!」
「きっ!」
「すみません……」
思わず声を出した龍兵衛は景勝に思い切り睨まれた。咳払いをして誤魔化すが、段蔵に聞いておくのを忘れたのを後悔し、額に手を置く。
「(仕方ない。首実検まで待とう)」
切り替えて龍兵衛は北条軍の様子を見る。先頭の騎馬隊が龍兵衛の目に入ってきた。目を凝らすと先頭で兵を急がせているのはかなり小柄な人物。背丈はおそらく景勝ぐらい。かなりの重装備で鉄砲も矢も通さないかもしれない。逆に言えば、それだけの将だということだ。
「来た」
「もう討つ?」
「いえ。少し通させてからです」
龍兵衛は目を皿にして集中力を北条軍の動きに定める。徐々に先頭が近付いてきた。そして、龍兵衛達の前を通り過ぎた。
「氏邦様! …………」
龍兵衛の耳に微かに入ってきた言葉。間違いなく言っていた筈だ。
「景勝様、聞きましたか?」
「(こくこくこく)」
景勝の耳にも入っていたようだ。確信を得ればそれで十分だった。龍兵衛は口元をつり上げると腕を上げ、振り下ろした。
「みーつけた」