「申し上げます。忍城、鉢形城、陥落した由。北条氏邦様、成田氏長様共々、討ち死」
「そうですか……分かりました」
小田原城城内の奥。当主の間で早雲は報告を聞き終え、報告してきた者が去って行った途端、奥歯を強く噛んだ。武蔵の主要な城二つが陥落したこと、愛娘の一人である氏邦が討たれたことも憎々しい。
「聞いていましたか?」
「はっ」
声と共に風魔小太郎が部屋の隅から姿から現した。
「忍城はともかく、鉢形城の落城は明らかに不自然。上杉の間者が動いていたのは必至」
「申し訳ありませぬ」
静かな声の裏にある早雲の烈火のような激しい怒りを感じた小太郎はすぐに謝罪の言葉を口にする。しかし、早雲の怒りがこれで収まる筈もない。
「言葉でならばどうとでも言えます。いざとなれば、こちらも強引な手段を使ってでも上杉の勢いを止めなければ」
「はっ……」
小太郎は早雲の言葉の意味を悟ったのか静かに返答すると音もなくどこかへと向かった。残された早雲は一つ息を吐くと感情を落ち着かせる為、目を閉じる。
忍城と鉢形城が落ちたとなれば武蔵の守りはほぼ瓦解したと言って良い。同時に里見の海賊衆も動きを活発化させている。そして、里見も動こうとしている。東側から攻める上杉軍も謙信率いる軍勢より行軍が遅いとはいえじりじりと北条を追い詰めている。また、結城、小田、宇都宮も上杉になびいた。那須も滅ぼされては頼るところが無い。
「いえ、そのようなことはありませんね……もちろん、上杉も可能性の一つとして見ているでしょうけど」
だからこそ風魔を動かせる。上杉の行ったことは当然の範囲。一方、北条が行うことは身内からも批判が出るであろう行い。しかし、やらなければ北条は本当に存亡の危機に晒される。たとえ批判を受けてもそれは一時のこと。上杉には一生のことかもしれないが、氏邦を殺された報いは受けてもらう。
早雲は手を叩き、人を呼んだ。
「幻庵を小田原城に呼びなさい。それから、綱成を玉縄城へ。決して、無理はさせないよう」
謙信率いる上杉軍は忍城にて成田氏長を討ち取ると水を引いて入城した。それから、周りの集落に謝罪の印として多少の金銭と服などを支給した。
「(また馬鹿にならない出費が……)」
龍兵衛は良いことをしていると思う反面、胃が痛くなるのを必死に堪えた。今回の戦の出費だけでも多くの鉱山で当たりがなければ赤字になっていたかもしれない。しかし、本当に赤字になってもおかしくない。
「(帰ったら本庄様と金銭のやりくりしないと……さすがに鉱山事業に頼ってばかりじゃいられないし……)」
龍兵衛が考えているのは農業の本格的な展開だ。上杉が支配している領地内に農業技術を広め、多くの農村で品質の良い作物を作らせる。当然、税で半分ぐらいが飛ぶのだが、そこはいずれ四公に抑えるようにしたい。
「(だけど、めちゃくちゃ時間かかるんだよな。あれ……)」
歴史以外の知識は高校生並みの龍兵衛だが、それなりに知っていることもある。歳入が減れば、上に立つ武人は不満を持つ。上杉の者ならまだしも、他の大名家の中には阿呆な考えを持っている者がいるかもしれない。
更に、歳入の現象によって行いたい政策などに限りが出てくる。その中には堤を作ったり、仕事環境の改善を行うなどの民に還元するものもある。税が減っても環境が悪くなればそこから不満を抱く民も現れるだろう。その為の微調整だが、これがまた龍兵衛に面倒事となってくる。
上杉の経済の一翼を担っている龍兵衛にとって決断が迫られるところだ。本来なら戦に次ぐ戦で連戦続きの中、あまり経済的に面から見ると良い状況とはいえない。
「(どっちにしろ早く戦終わらせんと……)」
龍兵衛の思いとは裏腹にこれから対北条は正念場を迎える。相模の国に入りそうになれば北条も必死に抵抗してくるだろう。それに氏邦という北条一族が殺された怒りは相当な筈だ。
配給を終えると龍兵衛は共に来ていた景勝と兼続と共に片付けを始める。龍兵衛の方は兼続の説教というおまけ付きで。
「龍兵衛、少しは笑って民に当たれ。怖い印象を持たれては後々面倒だぞ」
「分かってるけどさ……笑っているつもりなんだけど……」
「つもりでは意味がない。きちんと実行してこそ意味があるのだ」
「じゃあ、景勝様がずっとお前や俺の後ろや隣で俺達でなきゃ聞き取れない声で顔赤くしてたのは良いのか?」
景勝は急に話題を自分に向けられて目を丸くして龍兵衛と兼続を見比べている。
「それはそれだ。しかし、景勝様を衆目の前で説教しては威厳に関わるだろう」
兼続の言う通り周りには同行した兵が行ったり来たりしている。しかし、龍兵衛は納得がいかないと兼続を睨む。
「弥太郎殿のような先達を衆目で説教するのは良いのか?」
「主家と配下の差だ。問題ない。とにかく、景勝様は後回しだ」
「……だ、そうです。景勝様、逃げると更に時間が長引きますよ」
説教されることを悟った景勝がこそこそと遠くに行こうとしたのを龍兵衛は見逃さない。景勝は身体を震わせて素早く元いた場所に戻って作業を続ける。
「それにしても、景勝様は働かなくてもよろしいのに……」
景勝は兼続に向かって首を横に振る。そして、皆が働くのを見物しているのは嫌だと主張してきた。兼続は最後まで反対したが、龍兵衛が景勝の味方に付いて今のように景勝も作業をする状態になっている。
「しかし、万一に備えて誰かが指揮を執れるようにしておくべきではないか?」
「その為の謙信様だろうに」
指摘を受けて兼続は溜め息を吐くと景勝に聞こえないように龍兵衛に近付く。
「先程、兵と笑いながら喋っている謙信様を見たのだが……」
「……もう駄目だ」
投げやり気味に龍兵衛も兼続同様、呆れたと溜め息を吐く。そして、景勝の方を見ると気付かれないよう二人一緒に小さく溜め息を吐く。
「仕方ない。私は吉江殿を探して、代わりを頼んでくる」
「ああ。よろしく」
兼続が去って行くのを見届けると龍兵衛は再び作業に没頭し始める。水攻めは現代でいう浸水とほぼ同じだ。城の壁は下手をすれば腐って使い物にならなくなり、城内の部屋など到底、人が住めるような環境ではない。先程まで考えていた民への支給も考えると龍兵衛は胃だけではなく、頭痛もしてきた。
とにかく金が足りなくなってきた。織田が勢力を伸ばしている中、それに対抗する為に戦を断続的に続けるのはやむを得ないと割り切っている。しかし、資金が追い付かなくなってくると話は別だ。更に言えば、龍兵衛自身の配下の兵を養う金も危うくなってきている。
「(その為に、早く関東に眠っている可能性を引き出さないとな……)」
意思と共に流木を担ぎ上げると龍兵衛は隣で難儀している景勝を見る。
「(頑張れ、景勝様!)」
心で応援しながら龍兵衛はすたこらと先に進む。しばらくすると景勝が流木の塊を引きずりながら龍兵衛の隣にやってきた。頬が餅になっている。周りを憚っているのか、小さめだが、怒っていることに変わりはない。
「むぅ~……」
「何でしょうか?」
「……ぷいっ」
龍兵衛が少し声を震わせているのに気付いた景勝は本当に怒ってしまったようで、そっぽを向いてしまった。
「どうもすみませんでした」
さすがにやり過ぎたと感じた龍兵衛は景勝が持っていた流木の一部を取り上げて歩調を合わせる。本当なら放っておいても良いのだが、さすがに人前で目立つようなことはしたくない。あの祭りでの黒歴史を除いて。
景勝は難儀していた流木を簡単に龍兵衛が持ち上げてしまった為、目を丸くした。それからすぐに状況を悟り、声を小さくしてありがとうと言った。俯いた表情の中で顔を赤く染めているのを龍兵衛はあえて無視した。
その後も城内の整理を続けていると龍兵衛と景勝は謙信を見つけた。予め持っていたのか動きやすい、作業をする宿の女将のような格好をして指示を出したり、あちらこちらを動き回っている。あれが本当に上杉の総大将だと他人に教えても相手は怒って嘘を付くなと怒鳴るだろう。
龍兵衛と景勝は揃って溜め息を吐くと謙信に近付く。
「護衛も無しではさすがに不用心ではありませんか?」
謙信は顔を上げ、龍兵衛と景勝を見ると笑みを浮かべた。
「案ずるな……ほら……」
謙信が後ろを振り向くのにつられて二人も視線の先を眺める。業正が人知れずに静かに掃除をしていた。気配をほぼ完全に殺し、なまじの人では気付かないだろう。
「景勝様に護衛は無しですか?」
「お前と兼続がいるだろうに」
「兼続は景資殿を探して今は自分一人です。いざという時、自分だけでは不安があります」
「とはいえ、他の者はほとんど鉢形城にいるからな。済まないが、もうしばらく頼む」
龍兵衛は謙信の前にもかかわらず、溜め息がこぼれた。謙信は何も咎めず、龍兵衛に代案を持ちかけてきた。景勝を一人にするのはさすがに出来ない。龍兵衛の護衛では心許ないのも分かっている。そこでさほど人手の必要ない所で作業をしてくれと。
「確かに、多くの兵に目を光らせる必要もありませんね……分かりました。時間が空き次第、どなたか連れて来て頂きます」
「分かっている。しつこいな、お前」
「景勝様をお守りする為です。自分一人ではとても……」
景勝は思わず龍兵衛に視線を向けた。嬉しかった。いつも景勝に厳しいことを言ったり、話しかけてくれなかった。
「とても……景勝に振り回されて適いませんから」
景勝は一瞬でもときめいた感情を返して欲しくなった。言った龍兵衛だけでなく、謙信まで笑っている。
「む~……」
「あぁ、怒らせてしまったようだな」
「頬が焼いた餅のようですね」
「……ぷいっ」
謝らない龍兵衛に景勝は完全に拗ねてしまった。龍兵衛と謙信は目配せすると同時に謝罪してきた。景勝は二人を見る。何とか宥めようとしているようだ。
「謙信様、龍兵衛、からかう駄目」
「分かった。もう機嫌を直せ」
謙信が景勝の頭を撫でる。すると、徐々に景勝の表情が緩んできた。内心ちょろいと龍兵衛は思いながらも謙信に感謝しきりだ。
「さ、もう行け」
「はっ……ありがとうございます」
龍兵衛は近付いて謙信に小声で感謝の弁を述べる。
「良い。最近機嫌が悪い時が多いのだ。少し見ていてくれないか?」
龍兵衛は頷くと小首を曲げている景勝の下に適当な言い訳を言って人の少ない所を探して進む。
しばらく兵達に頭を下げられながら二人は歩いていた。しかし、なかなか見つからない。やはり、水攻めの効果はかなり強かったようだ。至る所で水を含んだ畳だの柱の木などを片付ける作業に兵達は没頭している。
「(これなら鉢形城に行って忍城はゆっくりで良かったのに……)」
これから武蔵一帯の完全掌握に向けて鉢形城か忍城は重要な拠点となる。しかし、わざわざ忍城と鉢形城双方に上杉軍を配置しなくても良い気がした。
あくまでも龍兵衛の中にある合理的な判断だが、謙信の場合、合理的の範疇から離れた判断をする。むしろそれが取り柄だと言われている。忍城周辺の民を巻き込んだ罪滅ぼしだろうが、はたしてどれほどの効果があるのか。
「(まぁ、信長みたく城下の民を意図的に殺すよりはましか)」
民を第一に考えるところは謙信の良いところでもあり、悪いところでもある。凄いのはそれが足を引っ張るような真似をなかなかしないところだ。
「龍兵衛」
「おっ、と……すみません、景勝様」
景勝が足を止めていることに気付かずに龍兵衛は数歩先に行っていた。謝りながら景勝の指差した方向を向くと行っているのは水を含んだ城内の資料を整理している作業だった。
雪の降っている外では行えない作業の為、城内の大部屋で行っている。人も少なく、部屋内ということもあって誰かに気を取られる心配もない。
「ここに致しましょうか」
「(こくり)」
中に入ると作業していた兵達が二人に気付いて頭を下げてくる。そのままで良いと景勝が言っていると龍兵衛は通訳すると共に資料の整理を始めた。使えそうな資料を探し、乾かせばまだ読めるものを日に当たる場所に移すだけという簡単な作業の為、龍兵衛は徐々にぼんやりしてきた。
早く小田原城を落として春日山に戻りたい。それから先は戦略的に武田、一向一揆、織田の順に戦うことになるだろう。ただ、武田は織田に先を越されるかもしれない。毛利との水軍の戦いにも決着が付く時はいずれ訪れる。その時、本願寺はいよいよ織田との和睦に本格的に乗り出すだろう。
「(畿内の豪族の反乱をこちらから誘い込むべきか? いや、それはさすがに毛利がやってくれるか)」
謀神と謳われる毛利元就が未だに健在である以上、織田も毛利との戦線に気を抜く訳にはいかない。おそらく九州、四国にもなにか手を打つだろう。大友か長宗我部かと手を組み、毛利の戦線を崩しにかかる筈だ。
「(崩れたところを見計らって動きのうるさい上杉を動けなくする為に何か手を打ってくるだろうな。なりふり構わずに)」
龍兵衛は資料を乾かす為、景勝に背を向けた。景勝もまた警戒する人数が少ない為か作業に没頭している。その為、距離が離れた時に景勝の背後に足音も無く近付いてきた兵に気付かなかった。
「……?」
景勝は影が出来たことに気付いて顔を上げる。視線の先で兵が刀を振り下ろしていた。慌てて景勝は辛うじて切っ先をよけ、倒れ込む。その音に反応した龍兵衛が振り返ると状況をすぐに察知して景勝を庇う為に駆け寄る。
「景勝様!」
間者は龍兵衛のことなど目にも入っていないようで景勝に再び小刀を振り上げる。飛びかかるように景勝に覆い被さった龍兵衛は辛うじて間に合った。しかし、間者の攻撃を自分で守る術など持っていなかっ。
「(右肩が!?)」
小刀が刺さり、激痛に見回れた。龍兵衛は右肩を反射的に押さえた。血は思ったよりも出ていない。安堵した龍兵衛だが、右に隙が出来たせいで間者に景勝の身柄を一瞬で奪われてしまった。
「しまっ……待て!」
龍兵衛は慌てて景勝に向けて手を伸ばす。だが、届かず、間者は景勝を抱えて外に出る。
「くそっ……」
龍兵衛は痛みにこらえて間者を追って庭に出る。そして、転がっていた石を適当に拾い上げて兵に向けて投げる。力はさほど入らなかったが、後頭部に当たり、景勝を抱えた兵の動きを止めることに出来た。
「囲め! 一大事だー! 早く来ーい!!」
珍しく切迫した声で叫んだ龍兵衛の声に部屋にいた兵が慌てて飛び出す。景勝を抱えた兵は龍兵衛の思ったよりも早く起き上がった。怪我の影響で利き腕にも力が入らなかった為に威力が低かったのは仕方ない。かなり頑丈な間者だということか。景勝の首にしっかりと腕を回して離していない。
龍兵衛は舌打ちをして、景勝を人質にしている兵を見る。女のようだ。一瞬、景勝の方に龍兵衛は目に行った。かなり苦しそうにしている。確実に間者は景勝を殺す気だろう。
残党の仕業かと思ったが、龍兵衛はすぐに考えを捨てた。上杉軍の鎧を盗むような暇など無かった。考えられる結論を自ずと限られる。
「お前、まさか風魔の……」
「……」
若干ずれた笠から白い髪が流れる間者は無言で動くなと龍兵衛に圧をかけてくる。龍兵衛は足を止め、奥歯を強く噛んだ。
龍兵衛は前日に謙信の了承の上で段蔵達を小田原城を中心に相模方面に放ってしまった。逆に言えば、内側に入り込んでくる間者に対する警戒が弱くなっている。
「(しかし、何故謙信様ではなく景勝様を……)」
すぐに龍兵衛は結論が出た。鉢形城を守っていたのは北条一族の氏邦である。可愛がっていた者を奪われた恨みを晴らそうとしているのだろうか。
だがと龍兵衛は内心で首を捻る。早雲はそのような感情的な性格ではないと聞いている。上杉の戦う士気を失わせようとしているのだろうか。
「(何故……とは聞いてくれそうにないな……)」
投石を行おうにも風魔の者は龍兵衛を一番強く警戒しているように見える。周りの者に指示を出そうにもその時点で間者は景勝を殺すだろう。先程の身のこなし方は明らかに手練れ。この場から脱出する自信もあるのだろう。
一気に間者に突進することも考えたが、景勝を盾にされては龍兵衛とて何も出来なくなる。
「河田様。早よう景勝様を……」
「うるさい! 分かっている……」
冷静になれと自分に言い聞かせるが、龍兵衛は景勝が捕らわれるという非常を超えた異常事態に動揺をなかなか隠せない。
どうすると頭の中で何度も問い、答えが出ないという状態を続けている内に足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた兵達が駆け寄って来たらしい。
「さぁ、もう逃げられまい。大人しく景勝様を渡せ!」
兵の一人が威勢良く声を張り上げる。しかし、龍兵衛の顔はむしろ青くなった。この手の手練れの間者は人が少ない所を選び、油断した大物を討ち取ることを生業としている。
もし人が大勢やって来るのであれば。龍兵衛は顔が引きつった。そして、身体が震えた。景勝の目と間者の静かな殺気が龍兵衛に悪寒として襲ってきたのである。龍兵衛は下を俯いた。間者と景勝が出た庭には雪が積もっていた。そして、足跡が二つだけ一直線に今二人がいる所まで通じていた。
「景勝様……」
龍兵衛の小さな呟きと共に小刀が静かに振り下ろされた。