上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百四十八話 怒りの行方

 謙信の心はいつになく怒りに燃え、それを抑えようとする理性と戦っている。それが燃え上がる炎のように絶大な覇気となって周りに伝わり、兼続や慶次でさえも近付くことを許さない。一人、謙信は忍城城内を歩き、かなり奥の部屋へと向かった。

 

「龍兵衛、景勝は!?」

「謙信様。今、眠っているところです。お静かに」

 

 大きな音を立てて入った謙信に冷たい水を被せるような龍兵衛の冷静さを保った言葉。謙信はおかげで少しは怒りの炎を鎮めることが出来た。寝息を立てているかも怪しい景勝を見て謙信も今の行いは過ちであると自分を戒める。

 

「大丈夫なのか?」

「ええ、ちょうど段蔵が戻って来なければ景勝様の傷は更に深手となり、命も危うかった筈だと手当てした者は言っておりました」

 

 龍兵衛はその時の光景を思い出しているのか視線の定まらない目を細める。

 動けない中、龍兵衛は景勝に振り下ろされる小刀を黙って見ることしか出来なかった。正直なところこのような形で肩の荷が少しだけでも軽くなるとは思えなかった。これで自分を知ることに焦らなくても良くなる。約束の代わりに時間を得ることが出来る。

 そんな龍兵衛の思いを失わせたのは段蔵だった。鉢形城からたまたま戻ってきたという彼女は侵入した形跡を見つけると城内を詮索した。すると、危機寸前景勝を見つけ、間者の背後を襲った。音の無い襲撃だったが、間者の方も慣れているのかそれをかわしつつ景勝に下ろしかけていた小刀を景勝に収めた。

 収めればそれで最後という訳でもなく、間者は小刀を引き抜くと激痛で動けない景勝に再び襲いかかろうとした。しかし、段蔵が寸でのところで間に入り、間者の動きを止め、一騎打ちのような態勢になった。龍兵衛はそれを見逃さず、兵達に景勝の保護を命じた。同時に救援に来た兵が多数やってきた為、間者もさすがに諦めたのか段蔵に目くらましの雪を投げつけるとどこかへ去って行った。

 結果として残ったのは兵達に命じておきながら一番に景勝の元へ駆け付けた龍兵衛と大量の血を流した景勝だけだった。

 段蔵は間者を追跡し、全員がいなくなった忍城に庭には雪の上にどす黒い色に変わった血が残っている。

 

「龍兵衛、景勝に適切な処置を行ったと聞いている。それが無ければもしかしたらと医師は言っていた。感謝する」 

「いえ……頭をお上げ下さい」

 

 龍兵衛は謙信から頭を下げられても慌てる様子を見せない。当然のことをしたまでと思っている。応急処置として龍兵衛は兵に酒と水を持ってこさせた。すぐに酒特有の成分を使って消毒を済ませると資料を整理していた部屋に景勝を抱えて戻る。痛みで身体を震わせている景勝の様子もお構いなしに水を手拭いに浸して傷を洗い、酒で消毒するのを繰り返した。おかげで景勝は辛うじて命を取り留めた。

 

「何でも、景勝の許可を得た上で傷を直接を触れるように服を少しはだけさせたとか」

「(少し殺気が……)ええ。まぁ、景勝様の許可を得たのは事実ですから。景勝様も助かる為にと仰っておりました」

「そうか……なら良い」

「(何がだよ)」

 

 謙信の殺気が解けたので龍兵衛は安堵の息を吐く。龍兵衛は背筋が凍りかけ、姿勢を崩したくなったが、謙信と景勝の御前ということでどうにか耐えた。景勝は規則的な寝息を立てている。龍兵衛はしばらくその寝顔をじっと見て様子を見ていたが、不意に謙信が口を開いた。

 

「このこと北条に伝わった後にどうなるだろうか?」

「おそらく……北条はこのことを広めようとはしないでしょう。あの動きは間違いなく風魔のかなり上の者であったようだったと段蔵が」

 

 謙信は最初驚いたように龍兵衛の方を向いたが、納得したように頷くと景勝の方に視線を戻す。風魔の存在は有名だ。その上の者をわざわざ使ってまで景勝を殺そうとしたということは北条もかなり切羽詰まっているのが分かる。

 早雲は北条一族の氏邦が討たれたことで北条の落ちた士気を回復させたのではない。そもそも、武人にとって道理や義に反する行為は戦の中では御法度である。成功したならまだしも、失敗した時の周りの声が怖い。今回のことを受けて北条に愛想を付かせる者もいるかもしれない。

 

「ところで、景勝のことは?」

「その場にいた兵達には決して口外しないように厳しく言っております」

 

 景勝の暗殺未遂は北条に危険性の高いものであるが、上杉に対しても次期当主が暗殺未遂に見舞われるのは恥晒しだ。これからが大事だという時に上杉の警戒態勢は肝心なところが薄いと見られては内部から不信感を抱かれかねない。

 

「もし、人に言うことがあればどうなるか、かれらも分かっているでしょう」

 

 兵達に龍兵衛は半ば脅しているように何度も言い聞かせた。怯えながら兵達も原因を作った龍兵衛がしつこいと思える程、頷いて返事していた為、漏れることはないだろう。しかし、人の口に戸は立てられないことは誰もが知っている。

 

「あえてこちらから景勝の無事を発して我らの士気を上げることに使うのはどうだ?」

「なるほど……かなり効果的ですが、賭けでもありますね」

 

 謙信の表情が険しくなる。否定されているのを快く思っていないのだろう。しかし、箝口令を敷いたとしてもいつどこで景勝のことがばれるのか分からない。龍兵衛の性格は基本的に慎重である。危険を冒してまで事を進めることはない。

 

「いや。此度は私の考えを通させてくれないか?」

 

 己を通す謙信の目は強かった。そして、龍兵衛に有無を言わさない覇気が備わっていた。表向き、普段通りの平静さを保っているのだろうが、かなり謙信は頭にきている。

 

「兼続には?」

「まだ言っておらぬ」

 

 博打をかけるということなら兼続に言うべきだろうと龍兵衛は思った。兼続の方が戦のことに長けている。根回しをしていくなら先に兼続の了承を得ておくべきだ。分かっていると言うように謙信は言葉を繋げる。

 

「お前に前もって言う理由は、お前を脅す為だ」

「と、仰いますと?」

 

 謙信の方を向く龍兵衛の様子に全く驚きは無い。

 

「いざとなれば、お前を景勝の警護を怠った罰として春日山に返す」

 

 龍兵衛は納得したように頷いてみせる。おそらく以前からくすぶっていた龍兵衛に対する不満が再び再燃したのかもしれない。謙信の耳に入ったのか気遣いなのか分からないが、ここで謙信の言葉に反対するのは龍兵衛にとって悪影響しかない。謙信はあえてここで龍兵衛に警鐘を鳴らしておきたかったのだ。龍兵衛も謙信の中では欠かせない家臣の一人。大熊の失脚後に財政面を支えているのは龍兵衛なのだ。

 

「御意。謙信様のご指示に従います。兼続には自分から……」

「いや、私から明日にでも伝えておく。お前はもう休め」

「しかし、兼続達が……」

「良い。お前は景勝の命を救った。それだけでも多大なる功だ」

「自分が護衛を行っておきながらも間者の接近を許したことは?」

「命が救われた。それだけでお前の失態は帳消しだ」

 

 さらに食い下がろうとする龍兵衛に謙信は無言で睨み付ける。それを見た龍兵衛は諦めたように身を引くと頭を下げて部屋を辞した。

 

「何だかんだで責任の強い奴だ……」

 

 謙信は龍兵衛の去っていった襖を見て静かに笑みを浮かべる。普段からよく分からない奴だと周りから思われがちの龍兵衛だが、兼続や颯馬が仲良くするのだから間違いない存在である。亡き定満もまた龍兵衛を認めていた。 

 なかなか表情を表に出さない為、勘違いされがちだが、あれで胸の奥には熱いものを持っているのだろう。

 

「颯馬達はそのことに気付かず、良い奴だと思って接している……あの三人が長生きすれば、上杉は安泰だな……」

 

 颯馬には謙信自身を構って欲しいという願望があるが、それはもう少し後のことだ。今は愛娘と言える景勝の回復を祈るばかりだ。

 

「……ん」

 

 景勝が少し身をよじらせたのを見て、謙信は景勝に近付く。しかし、景勝は再び規則的な寝息を立てて夢の中へと微睡んでいった。

 

「頼む。景勝……」

 

 謙信は景勝の手を力強く握ると静かに呟いた。同時に謙信の心は景勝から伝わる体温を養分のように吸い取り、怒りという果実を確実に成長させた。

 

 

 

 

 

「(あれはかなり頭にきているな……)」

 

 部屋を出て少しだけ歩くと龍兵衛は足を止めて謙信の言動を思い出して溜め息を吐く。気付いていなかったのかもしれないが、龍兵衛にも分かる程、謙信の表情は憤っていた。だから慎重さを破棄して積極策を取ろうとしている。

 

「(まぁ、景勝様が目を覚ませば済むことだ……)」

 

 しかし、景勝がいつ目覚めるのかは素人の龍兵衛には分からない。龍兵衛は応急処置程度の知識しか知らない。時が経てば経つ程、謙信の怒りは大きくなり、心に積もっていく。今降っている雪のように。

 

「どう?」

 

 部屋を出た龍兵衛を待っていたのは段蔵だった。おそらく部屋に入って行く龍兵衛を見て気になったので話を聞かないように待機していたのだろう。その辺りの線引きを出来ると知っているので龍兵衛も聞いていたのかは尋ねない。

 

「かなりお怒りの様子だ。さて、また忙しくなるぞ」

「さすがに風魔がここまでしてくるとなると、あたし達も外に出す人も少なくなるよ」

 

 段蔵の声が一層真剣さを帯び、龍兵衛の胸に深く刻まれる。しかし、龍兵衛が次に浮かべた表情は笑み。その笑みは苦し紛れから出るものではなく、余裕から出るものだった。

 

「だからこそ、今あれを使わずにどうする?」

「あれって……遊女達?」

 

 龍兵衛が密かに集め、段蔵も間者としての心得を教授したことのある集団。謙信が内密にその存在を黙認し、決して知られることの無い存在。

 

「まだ国内の情報を得るぐらいしか使えるのはいないよ」

「あくまでもほとんどだろ? 使える者もいる筈だ」

 

 段蔵が否定しないところを見ると当たりだと龍兵衛は確信する。まだ段蔵は不安を抱えているようだが、龍兵衛は使えるのであれば使わなければならないと景勝が襲撃された時から決めていた。それは動揺ではなく、龍兵衛の心を強く突き動かした何か。謙信の中で燃えているものを炎とすれば、龍兵衛の中でうごめいているそれは外に降る雪のような冷たいもの。否、あてられれば川さえ凍らせるようなものだ。

 

「じゃあ、頼めるか?」

「了解。誰かに言って……」

「あ、ちょっと待って」

 

 段蔵が配下の所へ行く寸前のところで龍兵衛は彼女を呼び止める。

 

「なに?」

「なぁ、あの間者は景勝様の首を狙ったのか?」

 

 龍兵衛の問いに段蔵は少し驚いた表情を見せ、すぐにその時の光景を思い出すようにおとがいに手を当てる。そして、間違いないと龍兵衛に頷いてみせる。

 

「でも、どうしてそんなことを?」

「いや、何でもない。少しだけ気になった……じゃ」

 

 龍兵衛は段蔵と別れ、踵を返して景勝の部屋の辺りを見張ることにした。周りは静けさに包まれていて、誰がいるのかも分からない。

 

「誰じゃ?」

「自分です。河田ですよ、景資殿」

 

 気配も漂わせないのはさすがに剣豪の塚原卜伝から剣術を習っただけある。一瞬、身体の動きを止めた龍兵衛だが、声を聞いて冷静さを取り戻した。一方で景資は殺気を完全に収めた訳でもなく、龍兵衛の顔を確認するまで鬼の形相を崩さなかった。

 

「何か変わったことは?」

「無い。しかし、何が起こるか分からぬ」

「あちら側の方は?」

 

 龍兵衛は景資の奥を視線で差す。景勝のいる部屋はかなり奥にあるが、間者がどこから来るか分からない。

 

「資正と犬がやってくれている。他の所の警戒を薄くする訳にもいかぬ」

「ええ、皆が此度のことでかなり責任を感じているようです。もちろん、自分もですが」

 

 景資の隣に龍兵衛は座る。互いに周りに気を払いながらだが、徐々に空気が和らいできた。

 

「具合はどうじゃ?」

「今はぐっすり眠っています。いつ目覚めるかは分かりませんが」

「助かることは聞いておる。しかし、皆は不安じゃ」

 

 龍兵衛は景資の言葉に目を見開き、彼女の方を向く。

 

「まさか、兵達にも?」

「いや、重臣の将にしかまだ伝わっておらぬ。お主の脅しが利いているようじゃ」 

 

 安堵の息を吐いて龍兵衛は立ち上がる。景資がいるのであれば安全である。資正の方も大丈夫だろう。そもそも、間者が警戒の強まった景勝の身の回りを再び襲うことは考えにくい。

 

「あるとすれば……逆か……」

「何じゃ?」

「いえ、何も……では、景勝様をよろしくお願いします」

 

 景資に頭を下げると龍兵衛はその場を後にする。景資の覇気は無くなり、また気配がほぼ完全に消えた。いると分かっている龍兵衛でも微妙にしか感じない。

 

「(確かに来る度にここで圧を掛けられたら困るよな……)」

 

 景勝への見舞いは禁止されているのだろう。謙信が景勝への見舞いもかなり限られた者しか知らないだと龍兵衛は思った。だから景資はあえて気配を無くすことにしたのだ。龍兵衛は引っ掛かっていたことがようやく解けた。同時に少しだけ気が抜けたのか寒い風を受けた龍兵衛の身も一層凍えた。

 

「うっ……」

 

 同時に龍兵衛は痛みが走った右肩を強く抑える。龍兵衛の右肩は塞がっていると言ってもおかしくない。日常生活以上のことを行うには限界がある。今はなりを潜めているが、肩の堤防の決壊がいつになるのか龍兵衛自身も分からない。

 

「さてはて……これも何かが取り持つ縁かいな?」

 

 くだらない洒落を言って龍兵衛は自分で苦笑いを浮かべる。さらに寒い風が強くなった気もする。景勝の怪我を面白おかしくしようとした罰だろうと龍兵衛はその風を真摯に受け止める。

 運良く景勝の首を外れた凶刃は肩に深い傷を与えた間違いなく、生涯消えることは無いだろう。不憫と言えば不憫だが、死ななかっただけまだ良かった。

 

「(まぁ、全ての責任は俺にあるけどな……)」

 

 他人ごとのように構えていれば足元をすくわれる。龍兵衛自身、評価がここで落ちるのは覚悟の上だが、景勝の護衛の失敗となると心証もかなり悪い。

 

「(いやに今日は冷え込むな……それに……)」

 

 龍兵衛はもう一度強く右肩を掴む。痛みが引くように祈りながら深呼吸を何度か繰り返す。このところは痛みが走るようなことも無かった。ところが、突如として今夜になってから痛みが走り出した。

 

「まさか、連動しているのか?」

 

 龍兵衛は自分の言ったことに苦笑いを浮かべる。景勝のやられた肩と元から古傷だった龍兵衛自身の肩が同じ右とはいえ現実的に有り得ない。あれだけ痛がっていた景勝のこと、今も寝ているが、いずれ痛みでうなされるのは目に見えている。

 

「しかし、これで進軍は当分出来ないかもしれないな……」

 

 謙信が景勝の襲撃を公表する気満々である為、次の進軍は少し時間がかかるだろう。不意に龍兵衛は顔を上げた。早雲の目的はそこにあるのではないかと思ったのだ。上杉を迎え撃つ時間を稼ぐ為に間者を動かしたのではないか。

 

「いや。弱いかな」

 

 わざわざ景勝の暗殺という手段を使わなくても間者に兵糧を焼かせたりした方が間者の面も割れづらいし、時間稼ぎには効率も良い。

 

「(何を企んでいるんだ。北条早雲は……)くっ……」

 

 考え事をしようとおとがいに手を当てようとすると龍兵衛の右肩が再び疼き出した。しばらく大人しくその場で待っていると痛みは引いた。龍兵衛は思わず舌打ちをする。不機嫌極まりない。今になって痛みが復活することも腹立たしいし、北条のやり方も理解出来ないことから苛々が募るばかりだ。

 

「(だけど、今は分かることも出来ないことに構っている訳にもいかないか……)」

 

 溜め息を吐くとその場を静かに後にした。内心の怒りを静かに燃やしながら。

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