上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百五十三話 箱根越え

 今川にとって桶狭間での敗北は想定外以外のなにものでもなかった。当主の義元は軍師の雪斎からたとえ小勢の織田でも油断するなと耳にたこが出来る程言われた。

 しかし、四万の軍勢に対して僅か数千の兵の戦で油断するなと言われても必ずどこかで緊張感は解けるものである。義元は織田による奇襲の手を読むことが出来なかった。豪雨で進軍を中止し、緩みきったところを奇襲を受けた為、今川は混乱した。結果的に今川は松平の寝返りも受けて多大な損害を被り、上洛を断念せざるを得なくなった。

 その上、義元が撤退の最中で織田に先回りされて捕らえられるという事態に陥った。動揺した今川を落ち着かせたのが軍師の太原雪斎である。雪斎は駿河の混乱を岡部元信や朝比奈泰朝らと共に収めると義元の身と引き換えに自分を人質にするよう願った。

 

「義元様、そろそろ……」

「む。そうだな……」

 

 雪斎の声よって現実へと戻された義元はゆっくりと立ち上がる。

 

「如何されたのです?」

「何でもない。ただ、うたた寝をしていただけだ」

 

 雪斎は義元の嘘を見抜いているのだろう。しかし、今、優先べきことは義元への追求ではなく、急いで軍を進めることだと理解している雪斎は義元にそろそろ進軍を再開するべきだと言って出て行った。

 後で何を考えていたのか雪斎にきつく詰問されると義元は少し冷や汗を流す。織田に負けるという屈辱をいつまでも引きずっている訳にはいかない。

 思い返してみると織田の判断は当然のものだった。援軍も望めず、籠城しても意味が無いのならば野戦しかない。その野戦もまともにぶつかり合えば織田の負けは明らか。残った選択肢は野戦において今川とまともにぶつからない方法、奇襲しかない。見抜けなかったのは完全な失態だった。その点では義元も負けを認めなければいけなかった。

 義元は軍議を行っていた場所を後にすると兵馬が待機している場所へと向かう。既に雪斎を始め、岡部元信や鵜殿氏長など今川の重臣達が揃っている。義元は将兵全員を見回す。

 

「出陣!」

 

 呼応する将兵達の士気は高い。農民から徴兵したのではない兵を生業としている者達を選んだ甲斐があったと義元は思った。

 兵の数は計一万五千。春まで待てばさらなる兵数を率いることが出来るが、上杉も想定済みだろう。ならば、雪の溶けない箱根峠を無理を承知で越えた方が効率的であると義元は考えた。

 箱根峠が冬に突破出来るような代物ではないのは誰でも知っていること。仮に上杉が想定の内に入れていたとしても打ち破ることが出来る自信も義元にはあった。

 そもそも、上杉は兵を今川が集めていることさえ遮断された箱根峠によって知らない筈だ。今川が兵を集めた理由はあくまでも畿内で苦戦している織田の援軍ということになっている。駿府城を発った義元は三河の国境まで向かい、反転して韮山城まで戻ってきた。

 義元は馬に揺られながらそれとなく兵の様子を見る。特に疲労の色も無く、先程の呼応も偽りではないと分かる。これならば上杉に勝てるだろうと義元は思い、慢心は駄目だと自らを戒める。

 上杉は精兵揃いと言われ、連戦に次ぐ連戦でも将兵共に血気盛んであると聞いている。また、伊達や最上なども上杉の為にかなり貢献しているらしい。その辺りは今川が織田の思い描くことに興味を持ち、協力しているのと同じようなものなのだろう。

 その織田は畿内の勢力に手を焼いているが、毛利の水軍を破ったと聞いている。畿内の勢力が頼みの綱としていた毛利が敗れた今、流れは織田へと変わるだろう。紀伊や伊賀に反抗勢力が未だ健在だが、本願寺などに比べると脆弱である。彼らを滅ぼし、畿内統一の後はいよいよ東西の大大名との戦いとなる。

 その時は今川が徳川と共に東の先鋒になる。しかし、上杉が関東を落としてしまっては得るものが少なくなってしまう。上杉が関東を得てしまうと織田も上杉にあてる兵を増やさなければならなくなる。上杉の関東平定を防ぐ為、北条に一時の和睦を持ち掛けた時、氏康がかなり屈辱的な表情を一瞬だけ見せたと使者として向かった雪斎は言っていた。

 北条にとって今川は以前から因縁があり、同盟を破った間柄である。力が弱まれば見限り、飲み込むのが戦国の習わしであるが、因縁を簡単に拭えるものではない。氏康は都合良く手を差し伸べてきた今川を快く思っていなかったことは目に見えて分かる。しかし、北条は上杉に追い詰められた今、今川に頼るしか術はない。それはかつて義元が織田に頼らなくてはならない状況を作られた時と同じ。嫌でも提案に乗るしかない状況である。

 

「(宗匠と景春には真に命を救われたのう……)」

 

 義元は本来、桶狭間の地で死んでもおかしくなかった程の混戦であった。近藤景春が命を賭して守ってくれなければ義元は間違いなく討たれただろう。そして、雪斎がいなければ義元は織田の手中で生涯を終えたかもしれない。一命を賭しての織田との交渉によって義元は織田への臣従を条件に駿河へと送り返された。

 無論、義元も家臣も納得出来る訳がなかった。敗れ、甚大な被害を被ったとはいえ国力の差は歴然である。今川から離脱した徳川を含めても兵を立て直せば今川の勝ちだ。しかし、織田はあっという間に美濃を落とすと浅井との同盟で今川と同等の実力を付けてしまった。さらに武田も織田と盟を結び、今川を攻める姿勢を見せた。北条に援軍を求めた今川だが、色好い返事を見せるだけで肝心の兵を送る素振りを見せなかった。

 ここにきて義元は織田と盟を結ぶことを選んだのである。雪斎の後押しもあった為、家臣からの強い反対も押し切ることが出来た。足利幕府より副将軍格の地位を得ていた今川は織田によって落ちたのである。 

 

「義元様、今ここで説教をお望みですか?」

「あ、いや、結構。雪斎。兵の様子はどうだ?」

 

 どうして分かったのだろうかという疑問を胸にしまい、義元は雪斎に威風堂々と、内心おずおずと尋ねる。

 

「今のところ変わった様子は見受けられません」

 

 雪斎の静かな口調に義元は胸を撫で下ろす。同時に義元は軽く身を震わせた。箱根から下りてきた風が今川軍に向けて強く吹いたのだ。見上げると箱根の山は雪が残っていて、見るだけで体温が下がりそうになる。

 

「雪斎、峠を越えるには如何程の時がいるだろうか」

「箱根峠は険しき道。されど、半日から一日の間に突破出来ましょう。兵の疲労を考えてでも進むべきです」

「雪斎は?」

「私達はおそらく二日程かかるでしょう。義元様は先に上杉軍へ急襲を。さすれば私達と挟撃出来ます。後の足りない軍勢は北条によって補うのです」

 

 義元はもう一度、箱根峠を見上げる。雪化粧と枯れた枝が不気味に揺れているように感じた。

 

 

「義元様、私はこれにて」

「うむ。関東の地でまた会おうぞ」

 

 雪斎とは別れ、義元は本隊を率いて箱根峠へと向かった。兵は一万。雪斎の方は韮山城に残った朝比奈が駿府より来る援軍を率いて増やす手筈となっている。冬の間に進軍出来るだけしてしまい、春になった頃に今川の兵を用いれるだけ用いる算段である。

 毅然とした表情で雪斎と別れた義元は目の前の箱根峠を見て溜め息をつきたくなった。下りてくる風はある意味、今川軍を歓迎しているようだった。

 

 

 

 冬の強行軍はかなり厳しい。分かっていたことだが、箱根峠は風同様に雪も積もっている為、行軍が遅れる。あらかじめ冬の為の装備をしてきた為、凍死者が出ることはなかった。しかし、寒さによって兵の足が遅くなるのは目に見えて明らかだった。

 義元は兵の様子を見て、頭を悩ませる。今いる箱根峠の頂上付近で兵を休ませる訳にはいかない。頂上に登るまで定期的に休息を与えてきたが、強行軍である以上、時は有限である。

 義元は心を鬼にして何も言わずに馬に揺られる。織田信長という人物が成す天下を見たいが為に。

 破天荒な発想とも見れる信長のやり方を面白いと思える者もいる。義元もまたその一人であった。日の本に飽き足らずに世界までを制すると言ってのけた信長は反抗勢力が多いながらもその全てを倒そうとして、実行出来ている。行く末は本当に危ない橋渡りのようにあやふやだが、だからこそ興味が湧くということもある。はたして転がる先にあるのはどちらなのだろうか。今川もまた織田同様に守護大名でありながらも将軍家との縁を桶狭間の前に切っている。その為、織田のような新しい時代には興味がある。

 はてさてと義元は織田の進む先を近くで面白く眺めていた。尾張のうつけと呼ばれた信長はどこまで昇るのだろうかと。昇る道を作る為にも北条にはまだまだ生きてもらわなければならない。上杉と泥仕合を繰り広げてもらい、時が来ればまとめて打ち砕く。

 

「……ふぅ」

 

 義元は身体を震わせる。思考を遮るような冷たい風を背中に受けた義元が上空を見上げると既に夕日は沈もうとしている。既に箱根峠の頂上は越えている。振り返ると峠の頂がかなり遠く見える。

 今日はここで休むと義元は口にしたかったが、雪が降るかも分からない寒さの中で野営をすることなど言語道断である。しかし、兵の足取りは明らかに遅くなっている。

 

「おい」

「はっ」

「しばしここで休みを取ると伝えよ。ただし、火は起こさぬようにと厳命するのだ」

「御意。皆の者、ここでしばし休む! 腰を下ろして良いぞ!」

 

 その声を合図に兵はこぞって腰を下ろす。箱根峠の険しさは徒歩の兵にはかなりの負担なのだろう。義元も馬から降りると様子を見る。かなり疲れているのかかなり大人しくなっている。

 今川軍の足跡は雪が降っていない為か来た道をはっきりと示している。義元は溜め息を吐くと小姓が用意した椅子に腰掛ける。冬は身体が冷える為、気付かない内に体力を消耗する。義元も寒さを堪えていたのと休息による緊張感からの解放で疲れたような溜め息を吐く。

 

「将を集めよ。ここで今一度、軍議を行う」

 

 今川軍は休息を取ったことで緊張感をほとんど失っていた。義元は立ち上がって大きく口を開く。

 

「皆! ここは既に今川の地にあらず、身体を休めども心まで休めるな!」

 

 義元直々の言葉に将兵皆が顔を上げたり、背筋を伸ばすなどの反応をみせる。やはり緩みきっていたかと義元は目を細め、渋い表情になる。そして、ずっと隣に控えていた庵原元政の方を向く。

 

「庵原、兵達に交代で休むように伝えよ」

「はっ」

 

 庵原は頭を下げるとすぐに兵の下には行かず、義元に近付いてきた。

 

「如何した?」

「殿。敵に我が軍の動きを悟られぬよう火を焚かずにいるのはお察し致します。されど、兵にこれ以上寒さを堪えさせるのは危険でございます」

 

 義元は近くにいる兵が身体を震わせているのを知っている。人の通ることが滅多にない冬の箱根峠の中で火や煙が立っているのはどうか怪しんでくれと言っているようなものだ。しかし、家臣の声も見逃すことは出来ない。

 

「……やむを得まい。ただし、必要以上に焚くなと伝えろ」

「御意」

 

 庵原が伝令の為、走って行く。義元も疲労が溜まっていたのか少し瞼が重くなってきた。いかんと思いながらも近くの兵が上げた火は義元に若干の暖かさを与える。隠していた疲労が徐々に義元を襲い、遂に義元は完全に瞼を閉じた。

 しかし、すぐに異常を知らせる喧騒が義元の瞼を開けさせた。義元は顔を上げ、辺りを見回す。兵達が周りを見回しながら騒ぎ出している。

 

「狼狽えるな! 落ち着いて戦況を確認するのだ!」

 

 義元の檄が届いた者はすぐに四方八方に散る。義元が空を見上げると先程までの夕闇があっという間に夜に変わっている。思ったよりも早かったと義元は舌打ちをする。

 

「申し上げます! 後方の部隊が襲撃されている模様!」

「夜盗か!?」

「分かりませぬ」

 

 義元はすぐに状況を詳細に判断するように命じた。兵を待機させ、どこから来ても良いように備える。

 箱根峠を今川が越えることを上杉は察していたかもしれないという想定をあらかじめしていたが、箱根峠にて今川軍を迎え撃つとは思っていなかった。しかも、上杉の方から奇襲攻撃を仕掛けてくるとは義元も思っていなかった。後方からとなるとかなり地理に詳しい者を雇ったのであろう。

 

「敵軍の数は不明! 後方の部隊、敵を徐々に押し返し、北へと追っている模様」

「深追いをせぬように伝えい! 今は守りを固めよとな!」

「申し上げます! 敵によって退路が絶たれた模様!」

「想定内のこと。敵をひとまず追い返すように伝えよ」

「殿、ご無事で!」

 

 庵原が血相を変えて戻ってきた。後方から少しずつ戦闘を行っている声が大きくなってくる。

 

「庵原、兵を率い、後方の部隊との連絡を絶たぬ致せ!」

「殿、御身は!?」

「案ずるな。他の者も戻って来よう」

 

 渋る庵原を急かすように義元は出陣させると自分も後方に下がる為、馬に駆け寄る。後一歩で馬に飛び乗れる。そう思った途端に馬が急に嘶き、暴れたと思うと音を立てて倒れた。

 

「うん。弓の腕は自信がなかったけど上手く行った」

 

 義元は声がした方を向く。女武将が一人で立っていた。否、背後にも気配がある。敵将も兵も武装がきちんとしている。義元は悟られていたのかと奥歯を噛む。

 

「何奴!?」

「問答無用。今川義元と見た。潔くこの地で果てなさい」

 

 将は躊躇わずに槍を振り下ろしてくる。しかし、義元も驚きで身体を硬直させる程、やわではない。義元は刀を抜くと唸る槍を受け止める。途端に義元は顔をしかめた。想像以上に重く、義元の身体に負担をかける。強引に敵の攻撃を振り払うと義元は距離を取って次に備える。

 距離を取って相手を見る。声から女武将であることは分かっていたが、ただならぬ気をまとっている。敵将は義元が仕掛けてこないのを見ると自分から攻撃をかけてきた。

 

「っ……」

 

 速いと思った瞬間に敵将はさらなる攻撃を仕掛けてくる。不気味な程に光る切っ先が義命を刈り取ろうと動物のように義元目掛けてやってくる。義元は冷や汗が止まらない。距離を取ろうとするが、すぐに敵将は距離を詰めてくる。次に悲鳴を上げながら落ちてくる槍を義元は辛うじて受け止める。だが、続けざまに槍が突き出されると義元は思っていなかった。義元は横に転がることで何とかかわす。

 

「さすがに海道一の弓取り。なかなか簡単には討たせてはくれないか……」

 

 将の言葉の中には残念さの中に楽しさを含んでいる。相手が生粋の武人であると悟った義元はやむを得ないと将に背を向ける。

 

「逃がすか!」

 

 義元を追って将は駆けてくる。今川軍は誰もがそう思い、義元を守ろうと壁を作る為に将と義元の間に走る。義元も姿勢を低くして兵の中に紛れようとする。恥ずかしいが、総大将が討たれては何もならない。

 

「背を向けるとは愚かな……」

 

 小さい独り言の筈が義元にはっきりと聞こえてきた。もしやと義元は振り返る。

 

「殿! 危のうございます!」

 

 さすがに義元も槍が飛んでくるとは思っていなかった。身を翻そうにも義元の身体と槍の速さは比べものにならなかった。義元は刀で槍の方向だけでも変えようと試みる。しかし、放たれた槍の重さは義元の愛刀さえものともしなかった。

 

「殿!」

「防げ! 誰ぞ、殿を急ぎここから遠ざけよ!」

「この私が今川義元を討ち取った! 今川の総大将は死んだぞ!」

 

 駆け寄る将兵達と槍を投げてきた将の声が入り乱れる。義元は自らを仕留めた敵を改めて拝もうとしたが、視界がぼやけてしまい、青の服をまとっているとしか分からなかった。

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