上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第百五十四話 理由が無い

 雪斎は韮山城から足柄峠に差し掛かったところで息を吐き、兵に休みを取って良いと言い渡す。韮山城から足柄峠までは箱根峠と違い距離がある。一日で上杉軍の背後に回り込むのは難しい。

 上杉に読まれている可能性も含め、義元とは綿密な話し合いをしている。問題は上杉軍が背後を取った時である。さすがにそれは無いだろうと義元は言って流していた。しかし、雪斎の不安が拭われることは無い。

 闇が徐々に深まり、頼りになる篝火の周辺に兵は集まっている。寒さを堪えて皆が寄り添っている。雪斎も兵の苦しみをよく分かっている。今は苦しみを無視してでもやらなければならない。上杉を止めるべきという意見の大きくなった織田の中で今川に役目が回ってきたのは当然と言える。

 今川は織田の傘下に入ってからこの方。全くと行って良い程、功が立てられていない。東からの脅威を守ると共に徳川と攻め込むことになっているが、武田と北条の壁は厚い。

 かつての栄光と共に勢いまでも失ったか。そのような陰口もちらほらと出始めていた。しかし、見返そうにも今川に出来ることは西に進む織田の背後を警戒したり、援軍を差し出すことぐらいである。その為、今回の機会は正に千載一遇の好機である。今川が未だに健在であることを示し、織田の中でも侮れない関係にあるということを知らしめる為の。

 別れる前、雪斎は義元にきつく言ったが、大丈夫だと思っていた。義元が油断によって敗れたことで今川軍自体が油断への危機感を強く抱いた。

 

「おそらく承坊は今頃、箱根の峠を突破しているでしょうね」

 

 雪斎の呟きは誰にも聞かれずに空に消えていった。かつて義元が今川家の三男として生まれ、寺に預けられた際、呼称は承坊だった。義元の教育を一手に引き受けていた雪斎だからこそ呼べるのである。今では雪斎よりも年を上回っているように見えるが、相応の実力を付けている。

 織田に天下の趨勢を委ねざるを得なくなったが、義元が生きている限り、雪斎は今川に尽くす。使命でもあり、義務でもあり、義元の思いを叶える為でもある。

 雪斎は一つ息を吐くと目の前の状況に集中する。

 上杉が迎え撃つ態勢を整えていると判断して義元は箱根峠を抜けたらすぐに戦に入れるように陣形を整えておくと言っていた。

 

「大丈夫ですね。今のところはですが……」

 

 戦に絶対は無い。あくまでも可能性の高いものを予測し、有り得ないということへの対処も必要である。雪斎は夜空を見上げると息を吐き、明日に備えて眠りに就いた。

 

「申し上げます! 本隊が上杉軍による奇襲により敗北!」

 

 好機は呆気なく逸することになった。早朝、雪斎が出発すると将兵に命じようとした時、報告は舞い込んできた。雪斎は驚きながらも平静を装い、表情を変えない。

 

「足柄峠に迂回路を確保し、上杉を挟撃出来るかと思いましたが……さすがに上手くいきませんか……」

「雪斎様、如何に致しましょう!?」

「やむを得ません。本隊と合流します」

 

 落ち着いた声で雪斎は指示を出す。本隊が敗れた以上、数の少ない別働隊で上杉に勝利することは難しい。一旦、兵をまとめて義元と合流し、後続の部隊と共に再び箱根峠を越える。

 善後策も考えていた雪斎の内心から本隊敗北の報告による驚愕も既に消えていた。すぐに雪斎は兵をまとめるように指示を下すと思案を始めた。

 しばらくすると兵が皆起きたという報告を受けた雪斎はそちらへと向かう。表情を変えない為、他の者から雪斎の内心を読み取る者はいなかった。

 雪斎が箱根峠へと向かうと命じると兵は一斉に戸惑い始めた。しかし、それは雪斎の想定内のこと。雪斎は今なら味方を助けることが出来ると断言することで兵の士気を保とうとする。そのまま勢いのままに反転を命じる。

 ほんの気休めに過ぎないが、士気を落としたままにするのは良くない。雪斎も馬に跨がり、腹を蹴る。足柄峠を後ろに見て、今川軍は箱根峠へと向かおうとした。だが、蹄の音によって動きは阻まれた。

 

「申し上げます! 上杉の軍が周辺に出現!」

「やはり、伏兵を置いていましたか……件の通りに動くように伝えて下さい」

 

 周辺は開けているが、足柄峠付近には木々がある。また、他にも伏兵を置けそうな場所が数カ所ある。雪斎は事前に確認しておいたが、鬨の声を聞くと兵は思ったよりも少ない。今川軍が予期していないと思ったのだろうか。否、上杉の強さは軍の速さだけでなく、確実に相手の打つ手に対処すること。今川軍が伏兵を予期していたと考え、数を多く置くことも上杉軍なら出来た筈だ。

 ならば、どうして上杉軍の数は少ないのか。声を聞くと数は多くても二千を下回る。雪斎は口元を軽く緩ませた。

 

「伝令を。やはり、我らは密集し、敵を迎え撃ちます」

 

 雪斎はあらかじめ上杉軍の伏兵を各個撃破することで戦意を挫こうとした。兵が今川軍の兵数と同等かあるいは少し多いぐらいと。上杉軍の伏兵の数が少ないのは機動力をより欲したからに過ぎない。数の利を使うことで簡単に上杉軍は崩れる。同時に雪斎は嫌な予感を覚えた。本当に上杉は速さだけを求めて少ない兵で挑んできたのだろうか。

 雪斎は悩んでも仕方ないと頭を振ると目の前に集中する。今川軍は上杉軍の奇襲に混乱しかけたが、今は適切に対処し、善戦している。

 

「南側の敵軍、我が軍と交戦を始めた由。混戦状態の模様」

「数では我らが有利。刀を交えた者、合い言葉を言えなかった者は容赦なく斬り捨てるように伝えて下さい」

 

 雪斎は背中に流れた汗が嫌に冷えていると思った。上杉の部隊は雪斎の予想通り兵が少ない。奇襲のつもりだろうが、対処してしまえば奇襲などただの兵の少ない軍との戦いにすぎない。だが、と雪斎は状況を今一度整理する。そして、気付いた途端に雪斎は顔を上げ、足柄峠へと視線を向けた。

 

「申し上げます! 敵部隊のほとんどが敗走して行きます! 追撃の命を!」

「なりません! 全軍に直ちに足柄峠から来たる敵軍に備えるように伝えて下さい!」

 

 血相を変えた雪斎の叫びは兵を驚かせた。しかし、そのようなことを気にする暇など雪斎には無い。再び足柄峠へと雪斎が視線を向けたのと同時だった。足柄峠より鬨の声が上がり、旗が多く上がった。

 

「ま、まずい。伏兵はまだいたぞ!」

「おい! あの数、かなり多いぞ!」

 

 気付いた兵達が徐々に騒ぎ始め、動揺が広がって行く。雪斎は表情を険しくしつつもまだ対応出来ると判断し、声を上げる。

 

「落ち着きなさい! 敵軍のほとんどは既に敗走状態。勝っているのは我らなのです!」

 

 兵に広がる同様が徐々に収まる。雪斎は一度、間を置くと足柄峠に上がる旗を指した。

 

「打ち倒すべき敵は今、あの軍のみ。倒せば我々の勝利は確実です!」

 

 雪斎は言葉を発しながら安堵していた。徐々に兵の雰囲気から悲壮感が無くなってきている。周りの兵だけだが、徐々に動揺が収まっていくのを待っていれば良い。後は上杉に対処するだけだが、雪斎は足柄峠の敵とまともに戦う気など無い。

 

「距離を取り、逆落としをかけられない所で迎え撃ちます」

 

 密集したところに勢いのまま突撃をされるのは混乱を招きかねない。万が一、雪斎の思惑通りだとすればこのままでも勝てるが、何が起きるか分からない。朝日が眩しく東の空から顔を出してくる。雪斎は太陽を目に入れないようにして足柄峠の上杉軍を見る。旗印は上杉以外に最上のものもある。兵の数は同じくらいだろうかと雪斎が思っていると足柄峠の旗が山を下り始めている。

 

「初段の攻撃は矢です。竹束と木板を前に置き、指示があるまで前に出ないように」

 

 雪斎の命を聞いた者達が散っていく。それからしばらくすると上杉軍から放たれた矢が今川軍の方へ向けて降ってきた。逆光を利用して被害を大きくしようと思ったのだろうが、雪斎はそのようなこと承知済みである。

 次にどう出るのか。雪斎が動かずじっと待っていると上杉軍は一気に動いてきた。

 

「敵軍。真っ直ぐこちらへと突撃を仕掛けておりまする!」

「ならば、こちらは更に後退します。弓兵と鉄砲隊を前に。上杉の勢いを挫くのです」

 

 今川軍が罠にかかったと思っている上杉軍の士気は高い。そして、雪斎は先程の北と南から攻めてきた伏兵の不自然な撤退にも疑問が残っていた。

 

「おそらく、撤退した伏兵は態勢を立て直し、再び攻めてくるつもり……足柄峠の上杉軍が本隊だとすれば、三方向より攻めてくる……ですが……」

 

 雪斎は伝令兵を呼ぶと伏兵ごと上杉軍を撃ち破る為、陣形を整えるように指示する。義元が敗れたからこちらも負けるつもりはない。本隊と合流し、後続の部隊との数を合わせれば上杉と対等に渡り合える。仮に再編を要する数でも北条と小田原城なら後半年は保つだろう。後はどのようにでもなる。今川にとっての利益が転がり込むなら北条が如何に犠牲を被ろうとも構わないのだ。

 織田から受ける恩恵は少し減るだろうが、今川にとっての損害が減るのであれば何ら問題ではない。上杉とまともにぶつかって今川軍の損害が大きくならなければそれで良いのだ。織田の中で今川の存在が小さくならなければ良い。

 雪斎は一つ息を吐くと戦況を見定める。比較的日も昇ってきた為、上杉の位置も把握出来るようになった。上杉軍は足柄峠を背にして魚鱗の陣を整えている。

 

「関口殿に防戦に徹するように伝えて下さい。上杉は勝負を決しようと焦る筈。時が来るまで待つようにと」

 

 雪斎の言葉を伝える為に出て行った伝令兵と入れ替わりに他の伝令兵が駆け込んできた。

 

「左右より伏兵が再び攻勢を仕掛けておりまする!」

「天野殿に兵を分けて対処するように」

「それが、先程の伏兵よりも遥かに数が多いと」

「ほぅ……」

 

 雪斎は狼狽えることなく、そうきたかと少し考える。予想外ではあったが、雪斎の率いる兵の中から少し引き抜けば良い。

 

「援軍として私の隊から三百を向かわせて下さい」

 

 周りの守りが薄くなるが、雪斎は別に構わなかった。敵の狙いは間違いなく雪斎自身。ならば、到達出来ないようにすれば勝利である。

 一刻程経つと敵の動きが少しずつ弱くなってきた。雪斎は上杉の動きを見逃さず、撤退の指示を出す。上杉軍に負けなければ良い戦である以上、深追いは無用である。

 朝日もすっかり顔を出し、眩しさも和らいできた。上杉軍が追撃してくる様子も無く、今川軍は順調に進んでいる。上杉軍も本隊を破った為、別働隊にはあまり気を引いていなかったのかもしれない。だが、雪斎は少し疑問を残していた。あそこまで手の込んでいた兵の動きと最上の増援で簡単に諦めてしまうのだろうか。

 ふと雪斎は顔を上げた。箱根と足柄の間にはもう二つの移動可能な峠がある。しかし、長尾峠と湖尻峠は箱根峠、足柄峠よりも整備されていない為、軍での移動は困難であるとされている。そこに雪斎は確信を持った。

 

「湖尻峠……」

 

 横に見える峠を呟くと雪斎は全軍に急ぐように伝える。将兵は雪斎に従って更に足を速め、雪斎の後ろに付いて行く。急な命令に首を捻る者もいたが、それはすぐに解決された。

 

「後続の部隊。襲撃を受けている模様!」

「敵です。すぐに突破するように伝えて下さい」

 

 やはりと雪斎は唇を噛んだ。もし、気を抜いてただ合流する為に移動していれば今頃雪斎も巻き込まれていただろう。湖尻峠を突破すればもう箱根も近い。しかし、上杉軍も簡単に今川軍の行軍を許さない。

 

「前方に上杉と思われる軍勢が!」

「本隊を破った軍がこちらに向かっている……数は分かりますか?」

「一千かと」

 

 それぐらいなら突破しても良いが、更に増援が来ると考えて良いだろう。本隊との合流を諦めるしかないと結論付けた雪斎は前の敵に構わず進軍路を変えるように指示を出す。上杉軍も動き出したようだが、雪斎は構うなと声を上げ、統率を保つ。雪斎の指示で今川軍は一気に西へと進軍するが、上杉軍も騎馬を主力としていたのか動きが速い。

 

「全力で駆け、上杉の包囲が縮まる前に突破するのです!」

 

 今川軍は更に速度を速めるが、後続が続々と上杉軍に飲み込まれていく。引き返そうにも上杉軍の勢いを考えると反転して陣を整えるのは難しい。雪斎は前を向き、後続の軍を無視することにした。雪斎が止まってしまえば今川軍は敗北したも同然である。

 

「(少々の犠牲はやむを得ませんか……)」

 

 

 雪斎がひとしきり上杉軍を振り切ったと判断した時には既に昼前になっていた。走りっぱなしで兵の疲れはかなりのものになっている。さすがの雪斎も更に皆を酷使させる訳にいかず、休息を取るように伝えた。 戦に集中していた為、気付かなかった寒さが将兵の体を襲う。雪斎は敗れていないものの被害を多く受けた今川軍を見て、表情を険しくさせる。上杉軍にもそれなりの損害を与えたのだから良しとしたいが、予想以上に受けた損害にそうもいかなくなった。

 

「雪斎殿、ここにおられたか」

「これは関口殿、何か?」

 

 関口親永は今川家に長く仕え、幕府の奉公衆に任じられていたこともある老将である。

 

「本隊を諦めるのはやむを得ないのか?」

 

 雪斎の隣に座ると関口は険しい表情で本題を切り出してくる。

 

「残念ですが、今の私達で本隊を破った上杉軍にまともにぶつかるのは下策かと」

「それでは義元様が……」

 

 関口の顔の皺が深くなる。それだけで主を亡くすことへの恐れと今川への忠誠がよく分かった。しかし、雪斎は大丈夫だという確信があった。

 

「朝比奈殿が率いる増援も合流しているでしょう。故に、本隊に当たった上杉軍も私達に向かってきたのです」

 

 確信があるという雪斎の口調に関口はならば大丈夫だろうと少し表情を和らげる。雪斎も上杉軍は夜から早朝にかけて冬の峠では体力の消耗も激しい筈だと考えている。しかし、雪斎の胸元に残るわだかまりはどうしても拭えない。

 

「どちらへ?」

「少し、周りを見て参ります。すぐに戻りますので共は必要ありません」

 

 動くまでまだ少し時間がある。少し自分の中に流れている空気を入れ替えればどうにかなるだろうと思った雪斎は軍から離れ、散策を始める。

 林の中はすっかり葉が散っている為、淋しさを募らせる。近くにあった小池も寒さを増長させる。しかし、雪斎は足を止めずに軍から離れない程度にあちこちをうろうろした。

 本当にどうして自分がこうしているのか雪斎も分からない。ただ歩を進めていれば何となく何かありそうだと思った。林や草村、小池の周り、洞穴の中などを見たが、結果として何もなく、ただ無為に時間を過ごした。雪斎は溜め息を吐くと軍が休息を取っている方へと足を向ける。

 

「そろそろ、時間ですね……」

 

 雪斎が空を見上げると太陽の位置が軍から離れた時よりも少し動いている。冷たい風が強くなってきた。これ以上、止まっているのは兵の体調にも影響が出る。期待外れになって残念だと思いながらも足を踏み出した途端だった。

 

「あなたが太原雪斎殿ですか?」

 

 背後の声に雪斎は何故だか驚くことが出来なかった。必然的なことではないにもかかわらず、分かりきっていたことだと。本当に何となくだった。

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