「それは無理なことだ」
兼続は龍兵衛に謙信と話していたことを伝えると一刀両断された。首が消えたことに関しては知らないと言われ、保留することにした。
「人は誰かに支配されないと自らを律することが出来ない。仮に例に漏れる者がいてもそれは少ないよ」
「だからこそ、皆を律するべき者がいなければならない。か?」
「そ。支配する者がいてこそ秩序は成り立つ。どんなことでもな」
龍兵衛は立ち上がると空を見上げる。ただ、立ち上がりたかっただけだと兼続は直感で分かった。曲がっていた腰を伸ばそうと手を組んで上に上げ、左右に揺らしている。
「仮にそのような世が出来たら?」
「出来たとしてもいずれ人々は矛盾や平等から成る疑問によって崩壊する」
「絶対か?」
「ああ」
頷いてみせると龍兵衛は充分だろうと腰を下ろした。しかし、兼続は納得行かないと龍兵衛の前に出る。陣幕の外から聞こえる兵の声や足音がより大きく聞こえてきた。
「確証があるのか?」
「うん……」
自信なさげな返事の後、龍兵衛はおとがいに手を当て、少し考えると諭すような口調で兼続の目を見る。
「仮に皆が平等な世を作ったとしよう。先程言ったように支配者がいなければ、のところは省く。完全な平等ということは職から得る利益も平等でなければならない。分かるな?」
「つまり、成果を如何に人よりもあげようとも貰える食い扶持も成果の低い者と同じであるということか?」
兼続自身、謙信の呟いた言葉に疑問を抱き、尋ねてみたのだが、確信があると強く頷く龍兵衛にやはりそうなのかと思ってしまう。
「だが、それはかなり極端な話だな」
「それが完全なる平等というものさ。いずれ根幹から崩れるのは目に見えている」
「だからこそ、お前が言う支配者は必ずいるということか」
「そ。支配者が謙信様や景勝様のような方であれば良いけど、明や朝鮮から聞くような暴君だと国は根幹を乱すことになる」
先程から龍兵衛の口調が乱暴になっていることに違和感を抱きつつも兼続は何となく納得した。謙信や景勝ならば良き支配者として道を違えることなく民を導き、国内の平和を続けられるだろう。暴君と知られた者達は日の本、明の歴史を辿れば確実に身を滅ぼした。また、その身が果てた後に国は滅んだ。
「隣り合わせということか」
「不安になるのは分かる。国をまとめて盤石なものにするには一代では出来ないからな」
自分の表情が険しくなるのを兼続は感じた。まるで謙信と景勝では成すことが出来ないと言っているようなものだ。誰かに聞かれていたら救いようがない。人はいない為、聞かれていないようだが、もしものことを考えれば失脚も免れない。
もちろん兼続にも龍兵衛の考えは理解出来る。鎌倉や室町の歴史を見れば、一代で体制を安定化させたことが無い。龍兵衛はよく歴史から物事を考える。細々したことを覗いて大まかなものは一通り同じであるというのが龍兵衛の主張の根底にある。
だが、仕えている者として前例に無いことを成せると信じている兼続としては龍兵衛の言い分をすんなりと受け入れる訳にはいかない。心の防壁が謙信と景勝なら出来ると言って不可能という主張と戦っている。
「それにしても、謙信様はどうしてそんなことを急に言ったんだ?」
話を逸らそうとしたのか龍兵衛は首を捻り、問いかけてくる。外から数人分の足音が聞こえてきた。兼続は感心したと息を漏らしつつも突き放すような口調で「私に聞かれても困る」と言った。
「だよな」
「分かっていたなら言うこともないだろう?」
「気付いていたなら言うこともあるまい」
龍兵衛が顎で外を差す。兼続は表情を変えずに鼻で笑った。かつての経験からか龍兵衛は人の気配に敏感なところがある。
「しかし、謙信様がどうしてそのようなことを仰ったのか。私も気になる」
兼続は謙信の零した言葉の方に頭が行っていた為、どうして謙信はそのようなことを言ったのかについて考えていなかった。龍兵衛の言うように謙信は民のことを気遣う発言をよくしていたが、今回のように大き過ぎるような理想について口にするのは初めてだった。
「何かありそうだったか?」
「いや、特には」
「じゃあただの譫言か?」
「たった今、そのようなことを言ったのはどうしてなのか聞いてきたばかりだろう?」
「そりゃあ、そうだけどさ……」
颯馬でもいればそれとなく彼の口から聞くことも出来ただろうが、相手が謙信ではなかなか難しいことだ。はぐらかされて終わりか、下手をすれば「そのようなこと言ったか?」と笑われてしまう。景勝に頼もうにも恐れ多い。
「……はい!」
「うわ!?」
龍兵衛が目の前で手を叩いて大きな音を立てた為、兼続は反射的に声を上げて後ずさる。何をするのだと詰め寄るが、龍兵衛は至極真面目な表情になっている。
「今、そんなこと考えてたって無駄だろ? 後回しにして帰ってからでも聞けば良い」
「……確かに、そうだな……」
今やるべきことから兼続の思考は完全に外れていた。感謝すべきなのかもしれないが、龍兵衛のやり方は気に食わない。どうしてもっと穏便な方法で出来ないのか。おそらく尋ねればこれが一番良かったと思ったと有無を言わさない口調で押し切るだろうから聞かないが、最近の変わり者ぶりには眉をひそめたくなる。
一体、何が原因でそこまでひねくれた性格になったのだろう。きっかけも無く変わった龍兵衛に最初は驚き、何があったのかと調べる者もいた。しかし、自分の身の回りにはよく気を払う龍兵衛ではなかなか分からずにうやむやになってしまった。
別に良いかと兼続は内心で適当に片付ける。人が変わったところで龍兵衛の上杉に対する忠義は変わらない。
「さてと……関東の反北条の連中にはどう詫びを入れるか考えないとな」
「そうだな……」
渋い表情の龍兵衛に兼続は溜め息で答える。関東の大名が集ったところで北条に引導を渡すと言った以上、簡単に引き下がる訳にはいかない。理由は後付けでいくらでも出来るが、諸大名達にとって都合を全く考えていない為、信用が落ちるは明らかだ。
「ま、そこはまた必ず関東へ討伐をすると言えば大丈夫だろ」
「そう簡単に上手くと思っているのか?」
「いや。でも、そう信じなきゃやっていけない。撤退するのは謙信様の命令だからな」
兼続は鼻を鳴らして息を吐きながら渋々頷いた。過程こそ人それそれだが、上杉の者達は基本的に謙信の命令には従順である。今、兼続達がやるべきことは撤退に向けて北条に悟られないよう準備を進めることだ。
「仕方ない。やるか」
「そうだな」
兼続より少し遅れて龍兵衛も腰を上げる。だが、一歩だけ歩いて龍兵衛の足は止まってしまった。
「どうした?」
「あるにはあるんだよなぁ……」
「何がだ?」
「それなりに皆が平等になるようにする仕組み」
「本当か?」
「だが」
身を乗り出す兼続を押さえるように龍兵衛は手を挙げる。
「今の日の本を根底から覆す程の行動をしなければならない。下手をすれば日の本は全てを失う」
「全てとはどういう意味だ?」
龍兵衛は表情を変えずに鼻で笑って答えた。一瞬、頭に血が上り、突っかかりそうになったが、兼続は踏みとどまり、聞かないことにした。その後に龍兵衛が浮かべた表情に何か言いたくないようなことも含まれていると直感的に思ったからだ。普段の兼続なら構わずに問い質しただろうが、龍兵衛の表情はあまりにも冷た過ぎた。兼続の頭に浮かんでいた考えを全て凍てつかせる程に。
「さ、支度を始めるとするか」
呆気に取られていた兼続は慌てて龍兵衛の隣に並ぼうと駆け出す。伺うと何も考えていないような無表情になっていた。表情から伺えない以上、龍兵衛の口から聞くしかない。だが、先程見せた冷たい表情から兼続は聞くのを諦めた。
「それにしても、義元の首はどこに行ったのだろう?」
「さぁな」
それ以降、めっきり会話数は減ってしまい、気付けば龍兵衛の姿は無くなってしまった。しかし、兼続は気にせずに作業を続けた。他の所で作業をしているのだろうと思い、夕焼けの眩しさに目を細めながら。
地面からさくさくという残雪を踏む音が小さく聞こえる。空を見上げれば見事な星空が広がり、新月である月の代わりをしている。しかし、星だけでは月のような大物に適わず、人へ明かりを与えるには足りないようだ。なかなか分からない足元を一歩一歩確かめなければ、山道は進めない。
狼や熊が出る危険もあるが、そのようなことを気にしている暇など無いと進む。白い息だけが闇色の中で異なる色となり、辛うじて目が慣れてきた人に自らは生きていることを示す。かじかむ手をはめている手袋の上から擦り合わせながら進むと人影のようなものが見えた。普通ならどうしてこのような時、場所に人がいるのかと思い、道を引き返すか変えるかするだろう。しかし、進むという選択肢しか無ければやむを得ない。
「思ったよりも遅かったですね」
「あなたと違い、自由がありませんからね」
姿がはっきりしないまま相手が話しかけてきた。皮肉めいたことを言うと納得したように相手は笑う。そして、よくこのような刻限に来れたと感心した。ますます眉間の皺が深くなっていることを自覚しながら近付くと相手の姿がはっきりと見えてきた。徐々に影が光へと変化するように相手の全身も完全に見える所まで近付き、手に持っていたものを渡す。
「これで良いのですか?」
「ええ、ありがとうございます」
雪斎は満面の笑みで不機嫌な口調の龍兵衛に応える。そして、雪斎は懐に忍ばせていた袋を取り出すと龍兵衛に渡す。龍兵衛は雪斎を警戒しながら袋の中身を確認する。中には眩しいとも思える程の金子が入っている。
「確かに、頂きました」
「少し多かったような気がしますが」
「当然の額です。幽霊を捕まえるような行いをお願いしたのですから」
雪斎は龍兵衛の言葉がおかしかったのか口元を緩ませる。何がおかしいのは不機嫌な口調で龍兵衛が尋ねると雪斎はますますおかしいと笑みを深めた。一方、龍兵衛からすれば迷惑この上ない。雪斎は密かに上杉の陣に潜入すると義元の首を欲した。龍兵衛に術をかけられていることを広めると脅して。
「何がおかしいのですか?」
「いえ、幽霊になっている方の生きていた証を持ってこさせたのですから言い得ていると思いまして」
「それを如何するのですか?」
「先ずは、これを今川家の菩提寺である臨済寺にでも届けて遺体と共に供養した後、密かに見守ろうかと」
「見守っているだけ。ですか?」
「はい。義元様に生涯お仕えしようとしておりましたが、義元様がこの世から消えた今、私は義元様と共に目指したものが無くなったのです」
「目指したもの?」
雪斎は空を見上げ、言葉にし難い何とも儚い表情を見せる。目を瞑り、深く息を吸うとゆっくりと目を開き、満足したように微笑みを浮かべる。
「あえて言うことは致しません」
「それは残念だ」
「人に言う時、それは是非とも共鳴して欲しいと思う時です」
「なるほど。では、どうやって今川の陣から抜け出して来たのですか?」
「人から話をよく聞きたがりますね」
「情報は重要なものです」
短くはっきりした正論に雪斎も肩をすくめるしかなかった。
「少しお暇を頂いてきたのです」
「……理由を詮索しても?」
「駄目です」
龍兵衛は驚いたと両手を広げる。教えてくれると思っていた為、即答で断られるとは全く思っていなかった。段々とどこまでは問いて答えてくれるのか基準が分からなくなった。
雪斎の表情を読み取る気など全くない。その前にどうして今川を捨ててしまうのかが理解出来なかった。義元が消えた今川の後を継ぐであろう氏真の補佐をすべきではないのか。それほどまでに支えてきた家を離れるような真似が出来るのだろう。昨日に見た雪斎と変わりないところは本当に怒りを抱く。
「私にとって承坊は最後の望みでした。消えた望みに縋り付くよりも潔く去るのが良いと思えたのです」
「理解出来ませんね」
「私もされたいとは思っておりません」
しれっと言ってみせる雪斎には悲哀の感情が全く無い。やれやれと思いながら龍兵衛は乱暴に頭をかく。
「ならば今後は一人で過ごすことですな」
「ええ、そのつもりです」
雪斎が躊躇いもなく言い切った為、呆れ返ってしまう。今川に対する未練などまるでないと今の一言は全てを言うよりも遥かに勝っていた。
「これからのことは、私が信頼のおける方に渡しましたから織田の中でも体裁を保つことは可能でしょう。それに私のようなうるさい人間がいなくなり、氏真様も清々している筈です」
「誰かが主に諫言をしなければ主はあるべき姿を無くしかねないのでは?」
「ええ。きちんと人がおりますから大丈夫だと思います」
「信用されているのですね」
雪斎は笑顔で頷く。悲しみの表情など一切無い。もし、義元が雪斎の立場ならどうなっていただろう。やはり、運命だと諦めたのだろうか。意味の無いことを思いながらも龍兵衛は話もこれで終いにしようと頭を下げ、踵を返そうとする。すると、雪斎の方から待ったがかけられた。
「一つだけ助言をしておきます」
「何でしょう?」
「術をかけられた以上、何か成すべきことがある筈です。あなたはそれをまだ知らないだけです。時と共に見えてくることもあるでしょうが、物事は動かなければ見えてこないものです」
龍兵衛の胸に鋭利なものが深く突き刺さった。確かに今までどうしてこのようなことになったのか知ろうとしていたが、手緩かったのかもしれない。否、龍兵衛はやれることをやってきたという自負がある。自分のことを赤の他人に言われる筋合いなど無い。
「焦ることはありません。思わぬ所に宝物は落ちているものです」
何となく含蓄があるような気がした。おそらく雪斎と義元の出会いも同じようなものだったのだろう。世継ぎではなかった義元が大舞台に立ったのは偶然の巡り合わせであり、雪斎も後継者争いに巻き込まれなければここまで有名になれなかった。思わぬ人の死や事件によって自分が術をかけられた意味を知れるのだろう。雪斎の場合、義元と共に天下を取ることを目的とした後に術をかけられたようだが、裏に隠れて見えない意味を知る時は必ず来る。
「楽しみにしてますよ。あ、今川家を残して頂きたいですね」
「まるで織田では駄目だという物言いですね」
「急進的ですからね」
龍兵衛は小さく唸り、目を細くする。雪斎の表情から嘘であると思えなかったが、信用する程、馬鹿正直ではない。そのあたりは間者を使えば良いと思いながら龍兵衛は礼の言葉を言う。雪斎も応えるように頷くと西へと足を踏み出した。
「これから、何処へ向かわれるのです?」
「……どこでしょう?」
振り返らずに雪斎は去って行く。背中を追うことはしない。出来ない。吹き荒れる風が壁となり、二人の間を裂く。別次元の空間が切り取られ、雪斎の姿は元の世界へと戻るように暗闇に溶けた。
上杉軍が撤退したのはそれから一ヶ月後のことだった。関東の落としていった城を全て放棄し、越後へと去った。国を空け過ぎたことを理由にしたが、謙信は思う以上の引き止めを関東の諸大名に食らった。小田原城を力で落とすことによる利益と兵の損害から出る人の減少を取っても明らかに前者の方が良いと。
しかし、謙信は一向一揆と武田の動きが不穏であるということを主張し、撤退を是とさせた。北条の疲弊を考えればすぐには今までの国力に戻すことは出来ない。その間に自分達で北条の力を切り崩せば良いだろうと。この判断によって佐竹と里見は立ち直らない北条と独力で戦うことになる。拮抗してきた三つの勢力で戦えば互いに動くことは難しく、上野や下野に残る大名達も黙っていないだろう。関東は再び荒れる。争いの結末はいつになるのか、まだ不明。