川中島の戦いから早数週間。
勝利した上杉軍は東北遠征に備えて夏の太陽が照りつける中でその暑さに負けないぐらいの厳しい鍛練を行っていた。
川中島での被害は少なかったものの、兵士達の疲れが溜まったまますぐに遠征に行くのは愚の骨頂である。
幸いにも計算上は今年の収穫を待たずに行けることが出来る。
その為、しばらくの休息を取った後に東北遠征に行くことになっている。
強行な判断だが、武田の邪魔が無い機会を逃すわけにはいかない。
問題は収穫を控えた農民の後方支援部隊としての動員だが、一家の主と長子以外を動員するしかないと謙信は決断した。
それで初めて大体軍勢が七、八千となる。最大動員数はそれ以上だが、蘆名軍にはそれくらいで十分であるという軍師達の見解もある。
当主の盛隆は二階堂家の人質から蘆名家当主となったので彼女を快く思わない者もいる。
肝心の主君が家臣との足並みが揃わない以上、団結力は日の本の軍の中でも屈指の上杉軍が有利になるだろう。
龍兵衛は今が楽しくて仕方がなかった。
遠慮なしに仕事をこなして策を立てることが出来る。
斎藤家の頃の修行の賜物であるのは彼が一番知っているが、そこで鍛えた頭脳が発揮出来るのが楽しいのだ。
自惚れかもしれないが、それぐらいは誰にでもあるものだ。
今日の仕事を早く終わらせて資料をまとめて棚にしまう。時間帯は正午過ぎぐらいで一番暑い時間だ。
だが、温暖化だのと騒がれていた平成日本の夏の中で何年も過ごしてきた龍兵衛にとってこの時代の夏はどうということはない。
部屋を出て涼しい城をぶらぶらと歩く。
ついでに城下に出たいと思い、部屋に戻り、平成の時代からこの時代でも愛用している黒い手袋をはめた。
潔癖な彼は手が汚れるのがあまり好きではないため、夏でも手袋をはめている。
素材が皮なので上杉家では南蛮の物を斎藤家にいた時にもらったと周りには言ってごまかしているが、たまに「追放された身でよくもまぁ」と嫌みを言われたこともあった。
先の反乱未遂でそのようなことを言っていた連中は悉く粛清された。つまり、残ったのは比較的良い人ばかりなのだ。
「(定満殿が言っていたことは本当だな)」
彼は自分が異端者であることは当然のごとくひたすら隠しているが、それ以外のことは別にどうってこと無く心を開きだしている。
笛を吹けるなどいくつかを除いてではあるが、それは放っておく。彼は素早く立ち上がって城下に出た。
喧騒が城を出た所からすぐに聞こえる。
かなり賑わっているが、足りないと龍兵衛は思っていた。
西洋の技術がまったく入って無い。田舎の部類に入る越後を考えると当然だが、早く港を増やして整備や拡大を出来るところをもっと見つけ商業の発展させたい。
九州や畿内に近い程、当然ながら西洋の文化は多く入ってくる。
西洋の船が太平洋側に入ってくることが多い以上は日本海側の越後上杉家は動かざるを得ない。
蘆名や伊達の太平洋側の東北に出て行き、港を拡大させる。西洋船が来る回数は少ないが、こっちよりはましだろうと龍兵衛は考えていた。
色々と試さないといけない状態はまだ続いている。次に何が起こり、何がどの動きに繋がるのか。よくよく考えないと時代には付いて行けない。
龍兵衛としてはこの世界の時代の動きが不自然で付いて行けないところが多くあったので混乱するところがあった。
いい例が関東管領の上杉謙信の就任や足利義輝の永禄の変、さらに第四次川中島の戦いが史実よりも早くなっていることだ。
だが、それも逆に取れば無いこともあり得るということだ。そこはプラスに取ってもいいと彼は思っている。
まだ鉄砲が普及して来てないし、北条早雲がまだ生きているおかげで北条との間で戦が起こることはまだ起きていない。先の貢ぎ物の件も早雲が指示して行っていた事らしい。
これも逆に考えると早雲がいることは脅威だが、攻めて来る可能性は低いだろう。今、北条は里見と戦っている。別にこれはいい方向に捉えてもいいだろうと龍兵衛は思っていた。
戦があり、いつ取られるか分からない命の危険はあるが、自分の心の寄りどころがある。
緩む心を戒めるように龍兵衛は小さく気付かれないように首を振る。
本来、自分はここにいるべき人間ではない。どんなに楽しくても平成の世の中で生きるべき人間だ。たとえそれが嫌でもだ。
前回の武田軍との戦いでも勝ったとはいえ八百の人の命を犠牲にした。
軍師は戦で死んだ者の思いも負担にならない程度に背負っていく。そのことは忘れてはいけないと師匠もそう言っていたではないか。
気付けば顔馴染みの商人が心配そうに声を掛けていた。それでようやく自身の眉間に皺が寄っていることが分かった。
なんでも無いと安心させて一息入れる為に近くの茶屋で一息入れる。
本来もう少し寄りたいところであったが、龍兵衛は今日は一人でいると良くないと考えて城に戻ることにした。
鍛練は夏にやれば無論暑い。下手をすれば倒れる者もいる。
だが、今日は大きい訓練の為、謙信以下多くの武将が出席しているので兵士達も油断出来ない。
軍師である颯馬も半ば強引に連れ出されて鍛練に参加している。
「くっそー・・・・・・龍兵衛の奴。上手いこと逃げやがって」
龍兵衛は呼ばれた時に厠に行っていた為、連れ出しに来た弥太郎に見つからずに助かった。
「恨み言は後にして。ほら、さっさと私の相手をしろ!」
渋々颯馬は弥太郎の相手をする。謙信もこの鍛練に参加している為、武将も手を抜くことは出来ない。全員が真剣に打ち込むが、この暑さでは一回一回の終わりが段々と早くなっていく。
「汗が止まらないな・・・・・・」
休憩中に手拭いで何度も汗を拭いてもなかなか止まらないので皆うんざり気味である。義清などは半分死にかけているのを先程景家が気付いて強制退場させる始末だった。
「龍兵衛はともかくとして何で前田殿はいないんだ!?」
兼続は龍兵衛と違って意図的に逃げ出した慶次に毒づく。
「仕方無いさ兼続、慶次はそういう性格なんだ。諦めろ」
「し、しかしですね謙信様、これでは配下に示しが・・・・・・」
「あれに示しも何も無いだろう」
謙信はもうほとんど慶次をほったらかしている。
慶次になに言っても変わらないことぐらいは兼続でも分かってはいるが、生真面目な性格なのと以前に二人の好敵手は彼女を止めているので諦められない。
「じーーー」
景勝はさっきからずっと義藤の刀を興味津々という様子で見ている。
「ん、なんじゃ? この刀が気になるのか?」
「コクコク」
頷くと義藤は今度部屋にある刀達を紹介すると言うと景勝はとても嬉しそうな顔をして喜んでいる。
景勝が刀の収集が趣味であるのは皆が知らなかったので『へぇ』と驚いている。
普段は自己主張が少ないので自分の趣味をぽんぽんと明らかにすることはなかったのだ。
「(龍兵衛、こういう風、良い)」
景勝は龍兵衛が自分の趣味を隠す理由が分からなかった。趣味を共有して交友を深めることもこうして出来るというのに。
何かを思い出したように顔を景勝がしたのを謙信が気付いて訳を聞く。
「龍兵衛、刀、振った。見たこと無い」
そういえばと皆が記憶を探るが、龍兵衛が刀を振っているのを実際に見たことがあるのは彼が上杉家に仕えるきっかけとなった戦で見た謙信と慶次しかいない。
「決して弱くはないと思うぞ。私が見た時の記憶が正しければ颯馬や兼続と同じ位だ」
皆が成る程と頷く。二人と同等ならば軍師としてはかなりの腕前であるということになる。
「ですが、何故に龍兵衛は鍛練をしないのでしょう? 俺達も鍛練はなるべくします」
その時、道場の扉ががらっと開いて全身を黒で統一した大男が入ってきた。
「呼びました?」
「龍兵衛!? いつの間に!?」
いきなり話題の主が鍛練場にやってきたので颯馬を始めとして全員が驚いてしまったので龍兵衛も驚いてしまった。
「い、いや、ちょっと・・・・・・城下の市場で慶次を見かけたんで報告しようと思って」
「・・・・・・ちょっと失礼します。城下の市場に用事を思い出しました」
兼続が出て行った。そして、誰もが思った。
「(終わったな。慶次・・・・・・)」
「まぁ。慶次は別にいいとして・・・・・・龍兵衛、ちょっと颯馬と手合わせしてみろ。これは命令だ」
「え!? いきなりですか!?」
謙信のいきなりの発言に龍兵衛は困惑するが、そんなのお構いなしに颯馬は木刀を持って立ち上がる。
「さ。諦めろ」
相対して来る颯馬に「はぁ」と溜め息を出しながら龍兵衛も木刀を取る。
まず仕掛けたのは颯馬だ。
左から横払いで刀を繰り出す。それを龍兵衛は受け止めることをせずに下がることでかわした。
続けて颯馬は一気に間合いを詰めて突きを出すもこれも龍兵衛は身体を逸らすことでかわす。ここから龍兵衛は反撃に出た。
逸らした身体の力を利用し身体を反転させながら、颯馬の右肩から一気に刀を振り下ろした。慌てて颯馬はかわすがそのせいで右ががら空きになった。龍兵衛はそれを見逃さずにさらに右に攻撃を一回二回と仕掛けた。
どうにか颯馬は避けて体制を整えることに成功するが、力では龍兵衛が上の為、力付くで押すと思いきや、龍兵衛は一旦下がった。
間合いを開けてゆっくりと颯馬のどこを攻めるかを観察する。
のんびりと構えているように見えるが、彼の目は集中力を高めている。まるで本当の戦の時の敵を見るように颯馬を見ている。
だが、彼は決して自ら攻撃するようなことはせずに颯馬が攻撃するのをずっと待っている。
しばらくの膠着状態に痺れを切らした颯馬は一気に決着をつけようと畳み掛けるが、龍兵衛は攻撃をかわしつつも隙を見つけてはそこにつけ込むようにちょろちょろと動く。その繰り返しを続けていた。
そして、颯馬が龍兵衛に上段から振り下ろした時に勝負は決した。
颯馬の攻撃をかわすと龍兵衛は左から横払いに斬り込むが颯馬はそれを受け止めると龍兵衛は遂に力を入れてその刀を力任せに振り上げた。
だが、思ったよりも力が入って無かったようで、颯馬が刀を手離すことはなかった。
颯馬には隙が出来た。それは龍兵衛も同じでそこからお互いの隙に入るのは丁度同じタイミングだった。
颯馬は心臓に、龍兵衛は首にお互いの刀を向けていた。
「そこまで!」
兼続の声が響いた。
「もったいないわね~もっとガツンと行きなさいよ」
終わった瞬間から休憩する時間も無い。
さっきの攻め方に龍兵衛は武将達から大ブーイングを受ける羽目になった。
「そうですよ。龍兵衛殿は巧さよりも力で押すような刀の使い方が合っているはずですよ」
親憲にまで言われている。ちょっと考えてない方からの口撃に龍兵衛は凹んでしまった。
「いや。別に自分はそこまで・・・・・・」
「何を言うか。お主はちゃんと鍛練すればそれ以上のものになる。もったいないぞ」
剣豪の義藤に言われ照れ臭そうに龍兵衛は頬を掻いた。
誤魔化していると共にもう話を終わりにして欲しいという感情丸出しである。
「それにしても大丈夫か? 今日は暑いから倒れたりされては困るぞ」
「大丈夫ですよ。暑さには慣れているんで」
謙信の言葉に淡々と返す龍兵衛。
汗はかいているが、顔色一つ変えていない姿に彼が暑さにやられるような気配はない。
熱された道場の中の暑さはこれくらいで人工芝のグラウンドと同じぐらいのものとなる。龍兵衛はけろっとしていた。
その後は復活した義清が帰ってきて自分も龍兵衛の腕がどのようなもの知りたかったと悔しそうだった。そこに謙信が「まだ龍兵衛は一回しか立ち合っていない」と。
龍兵衛は悪魔の言葉を聞いた気がした。
「龍兵衛殿、立つのじゃ!」
「嘘でしょ~」
結局ほぼ休み無しで義清に立ち向かった結果はどうなったかは言うまでも無い。
鍛練という地獄が終わり一人になった瞬間だった。
龍兵衛は腰と肩を押さえて苦悶の表情を浮かべる。うずくまり、脂汗をぽたぽたと流しながら足を引きずるように歩く。
平成の時代に野球をやってきて数年間、休み無く突っ走って来た代償として腰に疲労を溜めて慢性的な腰痛を患い、さらに肩を脱臼して手術をすること無く野球を続けていた為にプレーには制限があった。
それ以上の力が必要とする刀を振るうにも強引な力技を使わずにいなしてかわして相手に入り込んで隙を突くやり方を好んでいるのはこの後遺症の残る持病に極力負担をかけない為だ。
颯馬との戦いで最後の刀を振り上げた時に身体は自分の頭の命令を聞かないで勝手に動くようになってしまっていて気付いた時には遅かった。
音はしなかったが、本人は右肩の痛みが来たのがわかった。
「(痛い)」
ただその感情だけが頭にあり、ふらふらと龍兵衛は夕日が眩しい廊下をさまようように歩いていた。
景勝と兼続から思ったよりも早く解放された慶次が見たのは偶然だった。
出会った二人は部屋で世間話をする為に一緒に歩いていた。その時僅かながらに呻き声が聞こえた。二人はその声が低く、小さいがずっと続いているのがわかる。かなり苦しいそうな声だ。
その方向に向かって角からこっそりと見ると龍兵衛が身体の節々を押さえながら苦しそうに歩いていた。
途中で彼は女中とすれ違ったが、その姿を見るとすぐにいつもの龍兵衛に変わり、何事もなかったようにすれ違い視界からいなくなるのを確認すると苦しそうに腰をさすっていた。
かなりの無理をしていると誰にでもわかるような動きをしながら龍兵衛は自分の部屋に入っていった。
二人は手伝おうにも龍兵衛の雰囲気がそうさせてくれなかった。
そのまま付いて行って慶次がそっと襖を少し開ける。景勝は止めた方がいいと思ったが、慶次はそんなの関係なしに中を覗く。
「この、呪われた身体め・・・・・・せめて、この肩だけでもなんともなければ・・・・・・」
龍兵衛は横たわって恨みがましく自分の身体に言っている。
ふらふらと立ち上がると龍兵衛は手拭いに水を含ませて着物を脱いで、肩に手拭いを当てた。
そこまでで二人は見るのを止めたが、とんでもない物を見た気がした。
普段の彼が鍛練をしないのはこの為で決してさぼっている訳ではないのである。
それを庇う為に力を抑えた技を身に付けようとしているのであるとわかった。
慶次は今思えば一緒に最初戦っていた時も彼は右肩を気にする素振りを見せていた気がした。
景勝にとってはなんとも後味が悪いというか罪悪感があった。
自分の言葉を一番最初に理解してくれて上杉の為に目立たないような自分が嫌われるようなことも厭わずに汚れ仕事も行って来ている事も知っていた。
分かっていたつもりだった。だが、本当は自分は龍兵衛のことをわかっていないことに気付いた。
あれほどまでに自分の抱えている爆弾に苦しむ姿を颯馬達に見せたことがあるのか。
慶次を見ると景勝の言いたいことを察したのか知らなかったと首を横に振った。
自分の都合の悪いものは自分の身体のことでも後回しにして上杉の為に動いている。
前から腰を叩いて状態を気にすることはあったが、ここまでひどいとは誰が思ったであろうか。颯馬達も知らないだろう。
何故、龍兵衛はここまでボロボロになっても仕事を続けて戦場にたち続けるのかが景勝には分からなかった。
死に急いでいる訳でも無い。ただ、上杉家の為に動くにしても最近の彼はどんどん働いている時間が増えている気がした。
「龍兵衛、心配」
「そうねぇ、もっと休むことも大切よねぇ」
心配とお気楽。二人は対照的な顔をして歩いている。
景勝は謙信に伝えるべきだろうかと思ったが止めた。
龍兵衛はそういうことが人に容易く広まるのを最も嫌う。
黙っておこうと慶次にもそう言うと彼女も頷く。その一方で彼女は景勝から龍兵衛が今まで何をしているのか無理をしている時もあるのだということを聞くと少し目を見開いた。
「かっつん、龍ちんのことよくわかっているのねぇ」
「龍兵衛、景勝の言ってること、一番に分かってくれた」
あの内乱騒動の後も景勝と龍兵衛の仲はあまり良くないという噂があった。
慶次もそれを本当だと思っていたが、どうやらそれは違っていたようだ。
嬉しげに語る景勝を見ると逆に景勝は龍兵衛を良く理解していると分かる。おそらく龍兵衛も景勝を同じくそうなのだろう。噂とは当てにならないものであると慶次は思った。
龍兵衛は先程の疲れから眠りについてしまい、目が覚めたのはその三十分後だった。まだ西日が差している。
伸びをして身体を起こすと手拭いが濡れたまま床に起きっぱなしだった。乾かしているとぽたぽたと水がまだ垂れている。痛みが強かったのでちゃんと搾らなかったのが悪かった。
しばらくその水の滴り落ちているのを眺めていると外では空模様がおかしくなっていた。雲がやってきている。龍兵衛が少し襖を開けて風に当たると風の匂いが変わっていた。
「(来るな・・・・・・)」
そう思った時にゴロゴロという音が聞こえて雷と共に雨が落ちてきた。