上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

171 / 207
第百六十一話 秋雨戦線異常あり

 武田は正に今が踏ん張りどころである。上杉がそれに乗じて攻め込むのも当然であった。

 川中島の敗北。織田領への侵攻の失敗。それによる軍の被害を埋める為の多大な出費による財政の困窮。補う為の増税。最悪の循環を続けていた。

 無論、信玄も悪循環を抑える為の施策を試み、上手く行っていた。今川や徳川からの攻勢も無く、国内の立て直しに集中出来たからだ。しかし、如何せん時間がかかりすぎた。信州の国人衆の不穏な動きはもちろんのこと、甲斐自体の国力が高くないことも要因だった。

 そもそも信玄は決して民に対して善政を敷いている訳ではない。民に課している税は周辺勢力よりも重く、反感を買ってもおかしくない程であった。これまでは父の悪影響によるおかげと戦で順当に勝っていた為、声が大きく上がることはなかった。大敗を喫しても続けずに見事雪辱を晴らしていた。

 しかし、連敗を重ねた今はどうか。いくら上杉、織田と勢力が異なるとはいえそのようなことを民が理解してくれるはずがない。不満の声は徐々に広がり、小さな国人衆にも不安となって広がる。このままでは自分達の備蓄にも手を出されるのではないかと。 

 これに付け込む形で上杉は信州の国人衆を併合しようと動いた。旧信州の国衆である高梨や須田を筆頭に、寝返りそうな者達に水面下での交渉を行っていた。そして、国力が以前のようになる前に上杉は武田を完全に滅ぼす為、東北の大名にも号令をかけた。

 かつては拮抗していた両軍も川中島の戦いにて勝敗が決して以降、外征をどうにか成功させていた上杉が勢力的にも先を行っている。

 

「信玄には気の毒だが、これも因果なのかもな……」

 

 颯馬は前から聞こえた声に苦笑いを浮かべる。確かに武田の政策は紙一重だった。税を重くしたのもそうだが、専売を強化し、物価を上げた。物が売れなくなる可能性もあったが、そうしなければ甲斐が国の土台がぐらつくのは明白で、財政から武田は滅びただろう。

 どうにか国を保たせているのは信玄の成せる業かもしれない。颯馬は冷静さを装って分析する。さすがに甲斐の虎という異名は伊達ではない。

 颯馬は油断などしていない。中には諸大名を合わせて三万の軍勢ならばすぐに勝てると思い込んでいる者もいるだろう。相手が武田ということを忘れてもらっては困るが、上杉の者しか武田と戦い、恐ろしさを知らないのだから仕方ないだろう。無論、放っておく訳には行かない。

 とはいえ人というのは一度自分の身で物事の苦汁を味わなければ本当に分からない。口で分かっていると言われても信用出来ない。颯馬は小さく溜め息をこぼすと空を見上げる。

 時折、風向きが変わり、雨の匂いと微妙に感じる温度が変わった。今年の秋は雨が降るかもしれない。そう龍兵衛は言っていたが、颯馬も同感だった。

 龍兵衛の天気予報がよく当たることも確信の一つだが、雲の多い気候が秋になってから多い。

 

(霧の次は雨か……)

 

 颯馬は視線を前に戻す。左手に畑、右手に山という光景が変わらず続き、開ける気配がない。越後の南は武田との戦があり、人口もさほど多くない。多いのは万一に備えての砦と山だけだ。

 

「颯馬、先鋒の蘆名は今どこにいる?」

「おそらく、既に善光寺に到着している頃合かと」

 

 謙信は顔を少し落として考え込む。戦が始まってから崩さない凛とした表情はいつものことだ。だが、今回は少し違うと颯馬は直感的に思った。

 

「我らが到着するまで待てと厳命しろ」

 

 疑問を口にせず、颯馬は静かに息を吐くと頭を下げて返事をすると伝令に声をかけた。

 

「なぁ、大丈夫なのか?」

 

 指示を出し終えると後ろから景家が小声で話し掛けてきた。

 

「何が?」

 

 景家ではなく、隣にいる長重なら問いに問いで返すようなことはしなかっただろう。

 

「謙信様、何か近寄り難いというか……」

 

 景家の言いたいことはおおよそ間違っていない。ただ、近寄りにくい訳ではなく、謙信の中で思うことがあるのだ。それによっていつもとはどこか違うところがある為、話し掛けづらくなっているのだろう。

 どうしてかと訪ねられたが、颯馬も確信には至っていない。頭を振ってみせるとがっかりしたと景家は肩を落とす。悪いと思ったが、原因が分からない以上、何とも言えない。行軍中でなければやるせなさに頭を抱えていたところだ。

 もう一度、颯馬は謙信に視線を移す。今の話を聞いていなかったのか眉一つ動かさず、馬に揺られている。

 

 川中島に陣取った上杉軍は武田の動きを注意深く探った。海津城には虎綱が入っていることは分かっている。相変わらず武田の動きは隠密で確かな情報と偽の情報が錯綜している。

 

「さすがだな……」

 

 呟いた謙信を一瞥し、颯馬は頷く。幾度となく戦ってきた武田軍は主力がどこにいるのか悟らせず、気付けば背後にいるなど神出鬼没だ。更科あたりにいるという情報が多いが、本当は既に海津近くに潜伏しているのではという噂も流れている。

 

「戦うならば武田がどこにいるのか確かにしなければならない。颯馬、早急に斥候を増やせ」

「御意」

 

 陣幕を出ると颯馬は少しだけ振り返り、また歩き出した。謙信の落ち着きのなさが気がかりだが、今は戦に勝つことが先決。そう思いたいところだが、大元の原因は武田のことだろう。武田との戦が控えてから謙信はどうも落ち着きがない。

 いよいよ武田と完全に雌雄を決する時が近いからか、何か他に気がかりなことがあるのか。颯馬にも分からない。数の差では圧倒的に上杉が有利だが、相手は信玄。宿敵同士にしか分からない何かがあるのか。 考えても仕方ないことと分かっていても気になる。後ろ髪を引かれながらも颯馬は足を遅々と進めた。雲の厚みは増すばかりで雨が降るのは時間の問題だ。このままでは川を突破するのも危うくなる。急ぐべきか否か。最終的には謙信の決断だが、促すのは軍師である颯馬だ。

 

「おい、阿呆面してんな」

「……何か文句あるのか?」

「別に~面白い顔してたから、そう言いたかっただけ」

 

 舌を出す官兵衛をひっぱたきたくなったが、堪える。こっちは真剣に考えているのだ。邪魔されたくない。しかし、官兵衛は構わずに付いて来る。

 

「愛する人の為……なーんて夢物語でも考えてた?」

「うるさいぞ」

 

 普段なら軽口でも叩き合うようなところだが、如何せんそのような気分にはなれない。腹立たしいが、言い返したところで颯馬に分がある訳ではない。一つ息を吐くと颯馬は黙り込む。負けたと言いたいだけだ。無邪気な子供が悪戯に成功したような表情を浮かべる官兵衛が本当に癪に障る。満足した様子の官兵衛は一つ咳払いをすると軍師の顔になる。

 

「で、武田が動かない理由は分かった?」

「まったく、これじゃあ、こちらも動けない」

「武田が動かくか本隊の動きが掴めないと駄目、か……」

 

 やれやれと頭を振る官兵衛だが、上杉にとって武田とは必ず倒さなければならない相手であり、脅威である。

 官兵衛は知らないだろうが、上杉の者達には心の奥底で武田への思いがくすぶっている。

 

「謙信様も同じようなところかな?」

「ん?」

 

 小首を曲げられ、何でもないと首を振る。官兵衛は武田と戦ったことがない。敵の奇策を警戒こそすれ、上杉の物量を以て方を付けようという考えを持っている。

 

「うん?」

「どした?」

「いや、今……」

 

 顔を上げると颯馬の頬に雨粒が落ちてきた。次に官兵衛にも落ちてきたようで、二人は雨粒の当たった所に手を当てながら顔を見合わせる。それを合図に颯馬と官兵衛は別方向に駆け出した。

 

 颯馬が斥候に直接任務を伝え、官兵衛の下に向かうと既に雨の対策は出来上がっていた。兵糧が雨によって腐ることは未然に防げた。もちろん、この場に踏みとどまっている間だけの話で、進めばまた雨に濡れるだろう。あらかじめ雨に濡れないように対策はしておいたが、無事であるか否かは天候次第。

 とにかく湿った場所に置くなと口酸っぱく龍兵衛は言っていたが、これでは上から湿気が降りてきているのも同然だ。とにかく涼しい場所を選んで置くように指示を出すと颯馬は官兵衛と共に謙信の下へ戻る。

 中では謙信の他に須田満胤が眉間に皺を寄せていた。謙信はかねてより一向宗と繋がりがある須田に信州の国衆への工作を命じていた。入ってきた二人は座るよう促され、言う通りにした。

 

「信州の国人衆の動向は?」

「やはり、降伏を考える者が少ないかと。されど、戦う意志がある者がいるとは思えませぬ」

 

 義清が亡くなった為、更科や安曇郡といった旧村上の領地からは武田に残る上杉に寝返る意見がはっきりと分かれた。望月を使った暗殺も少なからず影響があったのだろう。

 須田と対面するように座った颯馬だが、どうして須田が眉間に皺を寄せているのか分からなかった。

 

「一向宗の者達は?」

「私が檄文を飛ばせばすぐにでも謙信様の下に馳せ参じましょう」

 

 颯馬の疑問は泥沼の中に落ちた小石を見つけるほど、難しくなってしまう。信州の国衆は一枚岩でないならさほど脅威ではない。ならどうして須田は渋い表情をしている。

 

「真田が武田に付くと明確に示したので御座いまする」

 

 颯馬は脳裏でどこかで聞いたことがあると探ってみる。しかし、脳裏を散らかった部屋から資料を探すようにかき分けても見つからない。

 

「確か、信州の中で切れ者って有名で、村上を信州から追放した?」

「うむ。その真田だ」

 

 官兵衛の表情が暗くなる。そういえば龍兵衛がかつて信州から義清達が越後へと逃げ延びた時に同じような表情をしていた。弟子は師匠に似るのだろうか。そのような詮無きことに行きかけた思考を元に戻す。

 

「でも、当の真田幸隆は亡くなったんじゃないの?」

「否、奴の息子である昌幸は幸隆の才をそのまま鏡で映したかの如き切れ者だ。織田との戦いで兄達が討たれたのが悔やまれることよ」

「兄達の方が凡庸だと?」

「そうは言わぬ。だが、知略においては間違いなく父譲り故、遮二無二攻めるのは如何なものかと」

 

 話す度に眉間に寄っていく皺を見るとあまり反りが合わないのだろう。

 だが、これではっきりしたことが一つある。武田の本隊は信州にいる可能性は低い。いたとしても南の松本や高遠辺りだ。真田が防波堤となって上杉の進軍を食い止め、その間に武田が迎撃の準備をする。おそらく国衆の中でも真田は忠誠心が高いのだろう。だが、颯馬の考えは官兵衛によって振り出しに戻った。

 

「もしかしたら、真田を餌にして背後を突くとか……」

「……なるほど、真田に限らず、信州は山城を根城にしている国衆が多い。伏兵の置くのも容易いな」

 

 須田も同調してしまった以上、颯馬の読みは外れたと言っても良い。しかし、可能性としては捨てきれない。希望論と慎重論というぶつかり合う筈のないもの同士。だが、颯馬はすぐに自分の考えを捨てた。

 

「だとすれば、武田の本隊は川中島……いや、横山城にいるのだろうか」

「んーもうちょっと先……真田と一緒にいるかもね」

 

 上杉としては広野でのぶつかり合いを望んでいる。だが、武田は必ず山での戦いを望んでいる。数に劣る以上、地の利を活かすことが当然勝利する為の道となる。

 三人は苦虫を噛み潰しているような表情で、北信州の地形図を見る。良い考えが浮かばない。隊を二つに分けたとしてどちらかと分断されれば意味がなく、固まっても狭い所に誘い込まれては今川のように成りかねない。

 

「さらに調略の幅を広げてみるのは……」

「南信州までとなると厳しいかと。松本、高遠には武田一族の者が籠もり、忠誠も固い故」

 

 重い空気が漂う。いっそ攻めるべきではと颯馬は思ったが、足をすくわれた時の被害を考え、内心で首を振る。ならば次なる策はと考えても別より攻めることは難しい。今更引き返しても武田に時間を与えるだけだ。

 誰も口を開かない中、努めて明るくしている声が上がった。

 

「戦ってみようではないか」

 

 思わず顔を上げた三人をよそに楽しそうに謙信は言う。 

 

「私も真田という名は義清らが信州より逃げてきた時より忘れていた。だが、須田程の者が警戒するのであれば、不足はない」

「されど、武田との戦も未だに始まっておりませぬ。今より戦うのは下策では」

「ああ。だが、いつまでも止まっていては駄目だ。この雨の中、待つのは得策ではない」

 

 言い淀んでしまったが、颯馬も同意するところはある。兵糧もそうだが、山の多い信州の地を通るのは雨の上がる前に動いた方が良い。

 だが、もしかしたら武田もそのことを計算に入れているのではないか。前に出たところを背後より急襲される可能性が高い。可能性の内だからこそ怖いのだ。何せ相手は武田なのだから。

 謙信も分かっている筈だ。にもかかわらず、戦おうと言い出した。颯馬は首を捻る。謙信があえて積極策を取ることは良くある。だが、いつもとは違うような気がした。具体的にどのようなものなのかは分からない。

 

「畏れながら、海津城は如何致ましょう? 彼の城に籠もる虎綱春日は武田の重鎮。なかなかに手強い相手でございます」

「うむ。全ては海津城を落としてからだ。虎綱は守る戦には滅法強いと聞く。如何にして落とすか……」

「開城は無論できないでしょう。ならば、力攻めしか方法はありませぬ」

「かといって、遮二無二攻め立てれば必ず大きな被害を被る。戦は始まったばかりだから無理は出来ないね」

 

 再び議論が中断される。虎綱とて武田四天王の一人。長く海津城の守備を任されている為、上杉の内情にも詳しい。お互い様だが、どちらが上手く相手を騙せるかが勝負になる。

 颯馬は息を吐いた。謙信が攻めると言った以上、攻めなければならない。

 官兵衛を一瞥すると緩みそうな口元を必死に堪えつつ戦術を考えているのが分かる。頼もしいが、単純に切り替えが早いことに羨ましさも感じた。子供っぽくて可愛らしいという邪な感情も少しあるが。

 

「颯馬。伊達や蘆名に通達を。直ちに話を進める」

「承知」

 

 謙信の声が少し低くなる。少しあった穏やかな空気がかき消される。だが、その一方で颯馬は寒気を覚えた。秋雨による冷えではない。謙信の声に背筋が伸びたのだ。

 官兵衛への羨望のようなものが謙信に若干の嫉妬を覚えさせたのだろうか。謙信はかなり苛々しているのだろう。否、悩んでいるのだ。

 おそらくは信玄に対して。しかし、積極的に戦うと言ったのは謙信であり、悩む余地がはたしてあるのだろうか。

 

(後々で、聞いてみるか……)

「颯馬。知らせた後、直ちに補給路について話すべきがある」

 

 頭を抱えるか、天を仰ぎたくなる。聞く機会が出来たとしてそれが望むべきものではない時、人の気力は一気に下がる。

 颯馬は頭を下げ、一足先にその場を離れる。そして、どう切り抜け、どう話を聞き出すか。様々な場面を想定し始めた。

 秋雨の音は颯馬を嘲笑うように激しくなり、冷たくなっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。