山に囲まれた躑躅ヶ崎は日が昇るのも遅く、謙信も今か今かと足を揺すりたくなるほどだ。この日をどれだけ待っていたか。とても表現出来ない。
「謙信様、夜明けにございます」
「よし。親憲、狼煙を上げるよう伝えろ」
「はっ」
上杉の旗が今か今かと動いている。謙信とて気持ちは同じだ。しかし、それなりに足並みを揃えなければ総大将として面目が立たない。
「きたな」
白い狼煙が空へゆらゆらと上がっていく。待っていたかのように上杉の兵たちの雰囲気が変わる。人の皮を剥き、敵を狩る狩人となった。謙信は宥めることなく、刀を抜く。
「今日この日に武田との真の決着を付ける。皆、覚悟は良いか!」
武人らしい雄々しい歓声が山々に響く。兵たちも武田との決着を待ち望んでいたのがよく分かる。長引いた戦で辟易とした雰囲気があったと感じていた。
「行くぞ! 一気に攻め立てろ!」
謙信は馬の胴を蹴り、先頭を切って躑躅ヶ崎へと進む。ここまできたら面倒な戦略は無い。一気に攻勢を加えてこの館を落とす。武田の騎馬隊も入り組んで道の狭い城下町なら機能を上手く使いこなせないだろう。
「謙信様、城内より火縄が」
「やはりか……こちらからも撃ち返せ。鉄砲隊の援護も怠るな」
相互から鉄砲のけたたましい音が聞こえてくる。謙信も最前にいて戦況を見守りたかったが、家臣たちによって無理矢理後ろへと下げられた。
「騎馬隊、銃撃の隙を突け!」
「謙信様、敵はまだ矢を使っておりません。今少し待たれた方が」
「構わぬ。矢が来ればこちらからも撃ち返せば良い。颯馬、これは義戦だ」
「ならば、私にも考えがあります」
「任せよう」
仰々しく颯馬は体をこちらに向けてくる。
「火矢の支度を」
「ならぬ」
「どうして……」
颯馬の方を向く。納得いかないと顔が言っているように眉間にしわが寄っていた。謙信はおもむろに颯馬の額に手を伸ばしてしわをほどく。慌てた颯馬が少し顔を赤らめたが、気にせず手をそのままに館へと視線を向ける。
「これは私と信玄の戦いだ。颯馬、お前には悪いが、これは私たちだけの戦い。この戦の差配は全て私が決める」
額のしわがほどかれて眉根が上がっているのが指先で分かる。颯馬は軍師である。戦で勝利するために謙信に献策を立てて実行に移す。そして戦場では戦術を立てて勝利のために合理的に動く。しかし、それを禁じられた今、この戦での颯馬の存在価値は無くなってしまった。
「では、どうすれば良いのですか?」
「私がこうしたいと言った時、そう動けば良い。官兵衛にも伝えろ。此度は下手な細工は無用だと」
「謙信様が指揮のみに従えと」
「そうだ。颯馬、すまないが諦めてくれ。これは……もう揺るがない」
颯馬は怒りで顔を歪ませている。謙信の表情はおそらく誰にも見せたことのない冷淡になっている。そのような表情をこれまで見せてくれなかったものからか、軍師としての自尊心を傷付けられたからか。
「……わかりました。官兵衛に伝えてきます」
颯馬は諦めたと一つ息を吐く。そのまま馬に跨がり、後方へと下がっていく。
「済まない……」
届かない声を颯馬の背中にかける。公私を分けている手前、ここで何かをすることは出来ない。謙信は城の方へと直る。相変わらず城門前で上杉と武田の攻防が続いている。しかし、徐々に上杉の兵が城門の壁まで届くようになってきた。
「鉄砲隊、弓兵隊。援護をさらに強めろ! 全兵士、城門だけを見て駆けよ! 鉄砲玉も矢も恐れるな!」
謙信の声は両軍の怒号の中でよく響いたようだ。上杉の兵が声を上げて一気に前へと進んでいく。兵の士気は決戦前に一気に上がった。武田との決着によってどれだけ自分たちの生活が平和になるのか。皆がよく知っている。
謙信の合図で予め用意されていた狼煙が上がる。親憲に任せた部隊や信濃の国人衆たちの陣営の動きが慌ただしくなっている。
少しずつ上杉は城門へと近付いている。それでも武田の守りはなかなか崩れない。
だが、謙信の表情に苛つきはない。戦を楽しむように晴れやかになっている。人生の中で最大の宿敵である武田との最後の戦で、上杉が勝利を収められる。心躍らないはずがない。
そう考えると少し寂しさも覚える。幾多の相手を相手にしてきたが、信玄との戦は常に一味違う面白さを感じることが出来た。負けそうな危機感も勝てそうな高揚感も、全てが塩を振るさじ加減のようで、飽きることがなかった。望むことが出来るのであれば今ここで時を戻し、再び川中島で一戦を交えたい。
それももう適わない夢である。上杉の主として今は役目を果たさなければならない。その中でも謙信らしさを見せたい。
だからこそ謙信は颯馬を遠ざけて一人になった。すべきことをするために。素早く馬に駆け出して跨がると刀を抜いて胴を蹴る。反応良く愛馬は前足を高々と上げた。いとも簡単に体勢を整えると謙信は刀を館へと向けて大きく口を開いた。
「今だ! 私に続け!」
歓声と共に上杉の兵が一気に城へと進む。幾人かの将が呆気に取られて謙信を止めることも適わずにいるのを尻目に謙信は先陣を切って進む。矢や鉄砲玉が飛んでこようと構わずに城門へと駆ける。体に当たりそうなものは全て身を反らして避けていき、ついには先に城攻めを行っていた者たちと同じところまで来ていた。
謙信は前線の兵を鼓舞しつつ城内へ向かう。主自らの出陣に兵たちは奮い立ち、それに続かんと怯んでいた者も動き出した。
そして、謙信は城門前へと立つとそれを斬らんとして出てきた武田兵を倒すと閉まりかけていた門を兵と共に押し止める。武田軍も必死に応戦するが、次々に雪崩れ込もうとする上杉軍によっていよいよ限界がきた。上杉の兵数人が中に入ると謙信もそれに続いて門のかんぬきを力ずくで破壊した。
「城内へ攻め込め! 信玄を討ち取るのだ!」
一際大きな歓声が響き、上杉軍が館へと雪崩れ込む。武家屋敷が均整に建っていて、平坦な道の続く躑躅ヶ崎は兵力で勝る簡単に押し込むことが出来る。戦をよく知らない兵たちはそう思っている。
しかし、各所に道が狭くなっている所があり、そこに兵を集中されていると報告を受けている。謙信は兵と共に前に進みながら辺りを見回す。
「そこの屋敷を探ってみろ」
所々で気配を感じれば謙信は小隊の長を止めて詮索させた。案の定、いくつかの屋敷で鉄砲や弓矢を持った伏兵を見つけた。容赦なく討ち果たすとさらに奥へと進む。
「謙信様」
「おう、親憲か。そちらはどうだ」
「伏兵の様子が感じられます。火を点けてあぶり出しては」
「いや。こう狭い道が続いては退路を断ってしまいかねない」
道の両端に木々が立っている。道自体も五人から六人程度が通れれば良いぐらいの幅になっている。
「お前は兵を分けて伏兵を討て。私が屋敷へ向かう」
「いえ、謙信様がこちらに残り……」
「いや、これは命令だ。聞け」
「駄目よ」
振り返ると謙信に続いて城内に入ってきた慶次が真剣な目つきでこちらを見ている。
「慶次」
「上杉の主でしょう? そんなに危険なことをするのは反対」
「悪いが、そうもいかん。行かせてもらう」
「万一、命は誰が預かるの? まさかこれからという時にかっつんに任せる訳じゃないでしょうね」
「言いたいことは分かる。だが、これは性分だ。お前らは伏兵の詮索にあたれ」
謙信の進む方向へ慶次が素早く立ち塞がる。親憲なら無礼者と一喝出来るが、客将の彼女だと話が違う。謙信はより一層目つきを鋭くさせて慶次を見る。
「どいてくれ」
「これから天下を取ろうとゆう人がそんな軽率なことをして良いと思ってるの?」
「こんな、だと……」
「ええ、宿敵かもしれないけど、武田はもう終わり。何でそこまで自らの手に執着するのか理解できない」
「お前らしくもなく、理屈を述べるか」
「残念だけど、あたしは理由もなく動くようなことをしたことが無いのよ」
「理由、か……」
辺りでは上杉の兵が館内や武家屋敷の中へと進んで行っている。近くの屋敷内からは叫び声が聞こえ、伏兵がいたことを教えてくれる。その中でこの三人の場所だけは安全な後方の陣営のように別空間だ。矢が飛び交うことも無ければ敵が斬り込んでもこない。
もはや武田の抵抗は無力に等しくなっている。兵たちに任せても時間が解決してくれるだろう。そこにわざわざ総大将が出てくる筋合いなどない。
「理由があるなら考えてあげても良い。けど、納得はさせてね」
「……分かった」
慶次の強い気が謙信に伝わる。もし納得がいかなければ問答無用で後方に送り返すつもりだろう。だから謙信は息を深く吸うと周りの兵もこちらを向くような力強い口調で言った。
「理由は、信玄が永久に私の宿敵である……それが理由だ」
「それだけ?」
「……だからこそ、信玄の最期は私が取る」
強い信念を込めた静かな声が喧騒にかき消されることなく、二人に通じた。親憲は絶対に行かせてはならないと足に力を入れる。やはりそのような理に適っていない理由など親憲には通用しない。しかし、颯馬さえも追い返したのだ。ここで簡単に引き下がる訳にもいかない。
謙信は強引に押し通るべく、どこか二人に隙は無いか探る。親憲は残念なことに隙が見えない。内輪揉めをしている暇も無く、簡単に戻ることも出来ない。
諦めて慶次の方を向き、そして目を見開いた。身構えていた姿勢がすっかり棒立ちになり、槍を持つ手にも力が入っていない。
「……行って良いわ」
「慶次……」
慶次は館へと続く道を譲るように体を引く。見定めていた目は既に呆れと諦めを合わせたものへと変わっている。だが、その中にも謙信と戦場に対する滾りは確かに残っている。
「納得した訳じゃあないからね。これでどうなったって知らないから」
「大丈夫だ。必ず生きて戻るさ」
「今はそれだけは信用しましょ」
「ありがとう」
素直に褒められたことが恥ずかしいのか、口元を微笑ませる慶次の耳が少し赤くなっている。
「親憲、我が軍の指揮はお前に任せる。颯馬や官兵衛の言をよく聞け」
「謙信様……」
親憲が詰め寄ろうとするが、慶次に肩を掴まれて止められた。驚く彼を宥めるように慶次は首を横に振る。
「もうあたしたちの知ったことではないわ。行きましょう」
「しかし……」
納得いかないと親憲の目は謙信から慶次へと移る。その目は謙信を擁護することに対する抗議の思いがしっかりと込められている。
「これはあたしたちが言えることじゃないわ」
「されど……」
「もう無理よ。何かを持ちかけても」
親憲から手を離すと謙信の方を真っ直ぐ向く。そして強く頷くと黙って武家屋敷へと存在を示すように大声を上げながら突撃していく。
親憲も慶次がいなくなり、分が悪いと思ったのだろう。何度か謙信と慶次が去って行った方向を見比べ、観念したように頭を下げた。
「親憲」
「何でしょう?」
「お前に任せる。上杉の兵の命を頼む。欲を言えば、私のもだが」
一瞬、呆気に取られたように立ち止まった親憲だが、意図を悟ったとすぐにいつものような穏やかな笑みに戻る。
「御意。謙信様の代役、見事に務めてみせましょう」
意図を完全に悟ってくれた。やはり親憲も乱世に生きる武人に変わりない。だからこそ謙信を行かせてくれた。慶次と違い、上杉の直臣であることが思いを殺して諌める方へと向いたのだろう。それは決して悪いことではない。過ちを犯す前に防ぐのであれば謙信は家臣たちの言うことを聞く。しかし、今回ばかりはどうしても譲れない思いがあった。
「さて、私も行くか……」
駆け出した。馬は既に城攻めの時に下りてしまい、頼れるのは自らの足だけ。既に謙信と共に先陣を切った兵が道を作ってくれている。とはいえ先程のやり取りでかなり時間を割いてしまい、一町ぐらい離れている。
それでも謙信を諦めさせない原因はこの先にある。信玄という宿敵はこのような弱体化を招いても最期まで上杉の敵であらんとしてくれる。
周りには激戦の末に命を散らした上杉と武田の将兵の亡骸があちこちに転がっている。残念なことに幾度も戦場で見かけた勇将たちも死んでいるのを認めた。
心中で手を合わせながら謙信はただ進む。こちらも義清を失った。信州奪還を目指していた夢を引き継ぎ、彼女同様武田に信州を追われた者たちを救う。信玄が勇将を失い怒れども、こちらも奪われたものがある。
何度か武田の残兵が謙信を認めて襲ってきたが、敵ではなかった。簡単に斬り捨てると再び走り出す。館の本丸へと近付くにつれて思いは宿敵一人になっていく。
(私が向かうまで死ぬなよ……)
軍記物でしか有り得なかったと思っていた物語が現実の中にやってきて自身の身に降り懸かってくれた。これを行幸と言わずにどうすれば良いのだろう。
そしてこれをめでたしで終わらせるのは謙信をおいて他にはいない。それが彼女の今を支える力となっている。
いよいよ謙信は本丸へと駆け込んだ。邪魔は幾度も入ったが、どのような連中だったか忘れてしまった。
これからが物語の終焉。その先があるとしても今は今を楽しむ。
「さぁ、いずこにいる。信玄……」