上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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かんばせ隠し

 屋敷内に入って謙信はまず鼻をつまみたくなった。流れて血と汗の臭いが充満して、精神を集中させていなければ頭が働かなくなる。

 普段より戦場で生きてきた中でもこの中での臭いは強烈である。それほどの激戦があったと示しているのだ。

 否、敵が武田だからだ。そう謙信は思い、屋敷の奥へと踏む込む。上杉の武田への思いと武田によって故郷を追われた信州の国人衆の怨念。そして武田の上杉に対する憎悪と川中島の屈辱を晴らさんとする執念。

 

「勢いとはここまで勝敗を分けるものか……」

 

 溜め息が自然とこぼれた。警戒しつつ謙信は館内を一人で進みながら周りを見る。倒れているほとんどの屍が武田の将兵である。上杉の兵たちも倒れているが、それでも圧倒的に武田の方が多い。

 開戦前、兵力は確かに上杉の方が幾千か多かったが、数千の差だった。何度も川中島で相見えた時、常にそれぐらいの差はどちらかにあった。それでもあのような激戦を繰り広げてきた。しかし、一度の敗北でいくら兵を集めてもこのようになってしまうのだろうか。

 信玄自ら信州に出向くことの出来ないまま甲斐への侵攻を許し、負け戦を続ける。何と嘆かわしいことかと謙信は眉根を下げる。

 

「敵将! 覚悟!」

 

 襖の向こうから突然、武田の兵が襲い掛かってきた。破れた襖が邪魔になったが、相手の刀を扱う実力が遠く及ばなかった。攻撃を簡単によけると体勢を崩してがら空きになった首を切り裂いた。

 

「新参者に本拠を守らせるとはな……」

 

 謙信の顔を知らない者など武田では少ない。知らないのは彼女のことを見たことの無い人だ。このようなものなどに本拠を守る軍に組み込むほどに人がいないのだろうか。

 だとすれば何と哀れなことだろう。天下を掴むことも出来た勢いと人材を抱えていた武田。一つの戦での敗北がここまで家を衰退させる。もちろん上杉のためだけではない。徳川や織田といった西の敵による攻勢もあった。

 他家のことを他人事と捉えるのは愚かな当主である。謙信は一つの敗北の恐ろしさをこの躑躅ヶ崎で痛感した。これまで謙信は戦で負けたことはない。劣勢に立たされようと頼れる家臣たちの力で押し退け、勝利、最悪でも引き分けに持ち込んだ。

 敵ながら学ぶことも多かったが、最後に最も初歩的で、忘れやすいことを教えてもらえた気がした。ここで感傷に浸っている場合ではない。「さて」と謙信は前に集中する。

 館内はさほど入り組んでいるわけではなく、おおよその予想を付けながらさらに奥へと進む。そして謙信が武田の評定の間に入り、ようやく上杉の兵と合流出来た。

 

「謙信様、かような所まで?」

「それより信玄は?」

「探せども見つからず。敵将とは幾度か立ち会い、討ち取り申したが……」

「その姿を見るとかなり苦労したようだな」

 

 兵にはいくつか傷が残っている。館の内に入るほど上杉軍の屍もいくつかあった。重臣たちも決死の覚悟で意地を見せたのだろう。

 

「ともかく館の中にいることは間違いない。徹底的に探せ」

「はっ」

 

 謙信は辺りを見回す。しかし、誰か敵が潜んでいる気配が無い。

 

「武田の将は討ち取ったのか?」

「我らは内藤昌秀を討ち取りました。別部隊が山県昌景を討ったと報告が」

「私は聞いていないぞ」

「それは……」

 

 兵は慌てて口を噤んだ。おそらく謙信があちらこちらに動き回っているから報告が遅れたと言いたいのだろう。 

 言わんとしていることは正しい。とはいえ言われなければ恥ずかしいこともある。兵と総大将の格の差もあるが、そこを越えていくような者がいないのだろうか。何か一つ考えなければならない。

 

「手分けして信玄を探せ。奴さえ見つければ勝利を得る。ただ、乱暴な真似はするな。私がとどめを刺す」

 

 兵たちは頭を下げると四散する。皆がどこか不満げな表情をしていたのは気のせいではないだろう。信玄が見目麗しいのは皆知っている。長年の武田との戦で鬱憤が溜まっている兵たちに釘を打たなければ何をするか分からない。ましてや先鋒を務めているのは旧信州の者たち。恨みを持つ者は多い。

 積年の恨みは己の理性を簡単に越えてくる。越後統一からここまでで謙信は身に染みてそれを感じてきた。たとえ適わない分かっていても本能を剥き出しに向かってくる目を幾度も見てきた。

 

「仮に信玄に手を出す者がいれば容赦なく罰す。命令だ。他に略奪を働けばそれも斬ると伝えろ」

「は、はっ!」

 

 兵が一人館の外へと向かう。残った者たちに手分けして館を探すように命じると謙信もまた奥へと進む。

 

「さて、いずこにいるのか……」

 

 館内は外見の質素な造りからは想像もつかないほどに広い。部屋も小分けにされていて、襖の先に何があるのか分からない。

 

「謙信様、いっそ火を点けては……」

「ならん。ここには甲斐や信州の土地や川の位置などが書かれている文献もあるはず。それを使わずにいかにして甲斐の民を治められよう」

 

 兵が弱音を吐くのも分かる。たかが館と侮っていた心が謙信にもあったのだ。慶次たちを待つかと一瞬頭をよぎったが、頭を横に振る。

 

「進むぞ。警戒を怠るな」

 

 信玄の命を絶ち、武田との因縁を断つのは謙信である。そう自身に言い聞かせてこの甲斐へと侵攻した。颯馬にさえ隠した企みをここまできて翻すわけにはいかない。

 兵たちと足並みを揃えつつ謙信は進む。途中幾度かの妨害があったものの、どうにか避けて最奥と思われる場所まで来た。十数畳ある部屋には一切華美な物が置かれていない。風林火山の文言を綴った掛け軸だけがある。これまで押し入った部屋の中で一番静かで不気味である。おそらくここが信玄の部屋だろうが、ここにも信玄はいない。

 すわ逃げたか、と思ったがそれならば外の包囲陣から連絡がくる。謙信は耳を立てる。周りから何も聞こえない他を当たっている兵たちも戦闘をしているようにも、大物を見つけた声も聞こえない。ならばと気配を窺うが、全く感じられない。どこかに身を隠すにしても人の発する気を感じ入ることが出来ないほど、柔な謙信ではない。

 

「お主らは他を当たれ。私はここで少し様子を見る」

「け、謙信様を一人にするなど……」

「行け」

「……御意にございます」

 

 組頭に凄みを利かせて皆を追い出す。一人になったところでもう一度部屋を見渡す。一見質素に見えて名器と思える茶器や刀が置かれている。少しは山上の教育が役立っているのかもしれない。さらに注意深く謙信は部屋の造りを見る。これといって変わっているところはない。だからこそ不気味に感じる。ここまで無策な信玄は見たことない。最後の最後まで何か企んでいるはず。

 生憎、外の兵たちの気配が消えたわけではない。すぐに駆け付けられる所で聞き耳を立てて待っている。愚直なことは嬉しい。しかし、今だけは少し邪魔と思ってしまう。もっと離れろと念じたところで彼らに届くはずもない。

 いっそ直接言ってしまおうかと謙信は踵を返す。だが、すぐに溜め息をつき、足を止める。

 振り返ると視線の先には誰もいないはずだった。

 

「……」

 

 どこから出てきたとは聞かない。

 目の前にいるのは赤い甲冑を身に纏った武田の当主、武田信玄その人だった。

 川中島の時に一瞬だけ現れた影ではない。彼女にも信玄たる迫力があった。しかし、真の信玄の覇気を出せるのは信玄のみである。

 故に、皆を欺こうと必死で努力したのだろう。そして得たものが謙信さえも驚愕させる代物となって現れた。だからこそ信玄は影ではなく自身が残った。

 

「心を許せる影を逃がすべくしてここに止まったか……」

「何を言うのです景虎。信玄はこの世にただ一人。私の他にはおりません」

「ふっ、それでこそ信玄。我が宿敵よ」

 

 悟られているかもしれないと分かっていても最期まで毅然として否定する。おそらく家中の者たちにも秘匿にしていたのだ。簡単に言ってみせる様は川を流れる水のようである。感心している謙信をよそに信玄は刀を抜きながら近付いてくる。

 

「己が立場をわきまえず、戦場の最前にいるとは……貴方はいつまでもか愚かですね」

「されど、そなたはそのような愚か者に負けたのだ」

「ええ、この信玄。末代までの恥」

 

 謙信は静かに口元を緩める。信玄には子供がいない。にもかかわらず、まるで武田の意志は繋がれるかのようだ。

 ここにきて信玄は僅かに落ち着きを失った。外で繕っても心の焦りが見て取れる。今の状況で落ち着くというのは無神経な者でなければ出来ない。

 

「武田の重臣たちは皆討ち取った。貴様も諦めたらどうだ」

「何を言うと思えば……武田の者が守護代の家臣である長尾に降るはずがないでしょう」

「相も変わらずそう言うか……まぁ、良い。これがお前との最後になるからな」

「笑止。戦はまだ終わってはいません。貴方さえ討てば……」

 

 思わず謙信は鼻で笑ってしまった。確かに謙信を討てば上杉は大黒柱を失い、家中に混乱が起こるだろう。まとまるのは武田が体勢を立て直した時よりもかかり、切り取った領土も諸将たちの反乱で取り戻すことも難しくなる。しかし、信玄に負ける気が今の謙信には全く無かった。

 

「残念だが、私が死んでも既に全てを託せる者がいるのでな。その期待は抱くだけ無駄だ」

「さぁ、どうでしょう。貴方たちが嫌いな謀略を持ってすれば分かりません」

「なに。全てはこれが終わってからだ」

「まるで既に勝ったかのような物言い……仮にも主たる者が前線に来ていることでさえ愚かというのに」

「ふっ……お前とは、主という顔を捨てて、一介の武人として決着を付けたいと思っていたからな」

 

 言い終えると謙信は速攻を仕掛けた。首めがけて突いた刃先は信玄にかわされる。ならばと首を薙ぎ払わんとするが、これも止められた。さらに胴元や心の臓などことごとく急所を狙うが、全て信玄に届くことは無い。

 

「鈍い」

「好きに言いなさい。まだこれからです」

 

 てっきりかわすだけで精一杯と思っていたが、信玄の反撃はなかなかに重い。油断していたら間違いなく首と胴体が分かれていた。しかし、川中島の時よりも遅くて弱い。

 あの時、後に現れたのはやはり影であり、一番目の攻撃を受け止めたのが信玄。抱いていた自身の殺意が徐々に薄れていくのが分かる。それでも信玄は謙信を殺さんと虎の如き牙を剥き出しにして向かってくる。少しでも気を許せば呑み込まれる。それを許しては越後の竜の名が廃る。ならばこちらも竜の牙を見せつけるしかない。

 決着は実に呆気なかった。本気になった謙信と信玄の攻撃が共に交わった時、互いの刀の内、信玄の刀が簡単に腕で支えきれずに崩れた。体勢を立て直そうと下がった信玄だが、謙信は素早く彼女の目の前まで移動して必殺の構えを取った。

 

「……以前より、腕を上げたようですね」

「いや、お前が弱くなっただけだ」

「そう、ですね。そうでしょう……」

 

 信玄の体が崩れる。膝を付いて咳き込む様はとても他人には見せられないほどに無様で全く威厳が感じられない。

 

「その様では私とまた戦えまい」

「全く、天はどうして私を病弱にしたのか」

 

 油断した。信玄は脇差を素早く抜くと謙信の首下へと突っ込んできた。下がっても間に合わないと身体を反らして辛うじて避けるが、頬を冷たい何かが掠めた。体勢を直すと足で信玄の膝裏を払う。体勢が整っていなかった信玄はもんどり打って倒れた。

 

「不意打ちとはお前らしい。危うかったぞ」

「兄を追放した慮外者が何を言いますか」

「まだその話が残るか。あれはもう互いに了承したというのに。ま、今その話をしても意味はない」

 

 謙信は信玄に近付き、首下に刀を向ける。信玄の殺気は衰えない。最期まで諦めない気概は賞賛出来る。しかし、それを誇るには既に時が遅すぎた。

 

「早く斬りなさい。貴方に討たれるならば本望です。さぁ……」 

「信玄、本当に良いのか。お前が死ぬことで世から消えなければならない者がいる」

 

 信玄の身体が僅かに震えた。影は本当にいるのだ。そして信玄は意外にもその者を身内のように思っている。否、本当に身内なのかもしれない。あれだけ容姿も所作も言動も似せるのは血を分けた者でなければ出来ない。長いようで短い間の後、信玄は首を横に振った。

 

「私がここで貴方に屈すれば、死んだ者たちに顔向けが出来ません。私が最後の一兵まで戦うと誓ったのです」

 

 信玄はゆっくりと姿勢を正す。見ている先は日の向きからして北の方。死を覚悟しているのか、はたまたあちらに気になるものがあるのか。

 

「家臣達はお前を守るために死んだ。ならばお前の影が為にも生きても良いのではないか」

「確かにその通り……しかし、私は貴方を宿敵と呼び、慮外者と貶めてきた。今、長尾に膝を付けば私は天下の笑いものです」

「命よりも誇りが勝るか。お前も結局は武人だったのだな」

「景虎、頼みがあります」

「聞こう」

「貴方の言うとおり、私には、私の影を務めてくれた妹がいます。あの子だけは見逃して頂きたい」

「……既に死んでいるかもしれないが」

「私が無理矢理止めました。今は虎綱春日と共に城を脱出させています」

 

 謙信は海津城のことを思い出した。信州で唯一頑強に抵抗していたのは海津城のみ。城主の虎綱は長く上杉に対する抑えとして立ち塞がっていた。包囲を解いて強襲したことでようやく落としたが、虎綱は城を脱出して行方知れずになっていた。

 

「そして……二人には北へ逃げるよう言ってあります」

「愚かな。何故南に逃がさない」

「徳川もまた我ら同様、武田を目の敵にしています。ましてや上杉から逃れた武田の者を抱えれば次に戦になるのは明白でしょう」

「なるほど。織田は今、西に注力している。徳川にとって我らと戦うのは避けたい。だから二人を匿うことはない。ならば……」

「北条も当てになりません。未だに早雲は生きているという噂もあります。上杉と北条は相容れない仲。戦になれば武田の残党など邪魔な存在。佐竹や里見を警戒しながら上杉を相手にすることなど、愚の骨頂」

「織田は?」

「あれこそ駄目です」

 

 はっきり言い捨てると信玄は兜を脱ぎ、部屋の真ん中に座った。謙信としてはもう少し話を進めて敵意を削ぎ、降伏させたかったが、やはり信玄である。

 心は決して動じず、堂々として死を待っている。謙信もその隣に刀を振りかざして立つ。

 

「織田のやり方は確かに素早く天下まで昇り詰めることが出来る。しかし、それ故に危うい」

「それは我らも変わらぬ」

「私はそうは思いません」

 

 謙信は目を見開く。忌避されてばかりだと思っていたが、信玄に上杉を受け入れられる度量があったとは。

 

「天下を取ることが出来るのは今や織田と貴方のみ……私は織田の天下など見たくもない」

「それが妹を救うのと、どういう理由が?」

「私は織田との戦には毎度信廉を使わしていました」

「……お前は、妹をまだ戦場に送らんとしているのか?」

「無慈悲と思われるなら結構。しかし、どこに逃げるにしても戦から逃れられない」

「ならば、お前の妹を家臣として扱い、織田を討てと」

「いずれそうせざるを得ない時がくるでしょう。貴方の掲げる正義を世に認めさせるなら」

 

 謙信は信玄の言葉に嘆息した。

 

「実を言えば、私は正義を掲げているが、本当に天下を取れると思っていない」

 

 今度は信玄は目を見開き、こちらを向いてきた。それに応えるように謙信は先程の彼女同様に無表情を貫く。

 

「戦をしなければ戦に呑み込まれる乱世に正義を掲げるのは難しい。それぞれが自分の正義を掲げている。私の正義は私が信じる正義である。それがあまりにも表立った。ただ、それだけだ」

「何故に東北を取ったのです?」

「家臣達がこれから越後を守るには、関東管領の務めを果たすには必要だと」

「では、信廉は……」

「案ずるな。私は織田や徳川や北条のような無慈悲なことはしない。望む者は迎え入れる」

「そうですか」

 

 本心から良かったと思っているのか信玄は少し表情を緩めた。

 

「それだけで、私は安心してこの世を去れるというものです。もう未練などない……いえ、貴方に負けたこと以外は」

「まだ言うか……」

「ええ。あの敗戦でどれだけ差が開いたか。優れた軍師だけでなく、多くの兵を失った」

「一歩間違えれば我らがそうなったのだがな。運が良かった」

「運。それだけではないでしょう。貴方たちの戦はとてもではないですが、我らの動きを読んでいた」

「優秀な軍師がいただけのことだ」

「何人もの軍師を抱えていると聞きましたが、本当に来る者は拒まずですね。聞けば謀反人も抱え入れているとか」

「奴は、決して悪人ではない」

「貴方の目で決めたならそうなのでしょう。現にその者は民の生活を豊かにして、治安を安定させているとか」

「奴の本領だからな」

「惜しいことです。逃げる先が武田であれば」

「それも運だ」

 

 信玄は静かに笑う。そして、首を横に振った。

 

「さて……外が騒がしくなってきましたし……そろそろですね」

 

 おそらく後続が館内に入ってきたのだろう。謙信を呼ぶ声も微かに聞こえてくる。信玄は改めて姿勢を正すのを見て、謙信も構えを直す。

 

「口惜しいかな信玄。互いが相容れる間柄であればな」

「ええ……本来、貴方と北条は相容れない仲なれど、上杉と武田は相容れる間柄でした。互いの性格がなければ」

「……」

「最期に改めて信廉と、春日を頼みます。それから、貴方への助言を与えましょう」

「聞こう」

「貴方のその我が侭。無くさなければいずれ家臣達が疑念を抱き、火種となりますよ」

「言われずとも、これが最後の我が侭だ。私が公でするな……」

 

 信玄は安心したように首を少し下げる。僅かながらに残っていた迷いも今の謙信からは完全に消えた。結局、自身と信玄は互いにどちらかが死ななければいけない間だったのだ。これは決して家柄から来るものではない。互いに戦の俊英であるからだ。天下を取るのは一人である。その世の中に乱世を治める英雄は一人しかいない。つまり最後は一人で生きていかなければならない。英雄は孤独なのだろう。それでもここまで来て、気持ちを分かり合える宿敵に託されたのであれば歩みを止めることは出来ない。決意を新たにするその一歩がこの信玄の命である。

 

「さらばだ。信玄……我が宿敵にして、最たる友よ」

 

 一閃。確かに信玄の命を奪うには手応えがあった。倒れた信玄を顔を整える。首筋から止めなく流れる血は確かに信玄が人であることを示す。謙信は徐に顔を近付ける。穏やかな死に顔は武田を一大勢力にのし上げた主のものではなく、ただ一人の華奢な女性の顔。

 

「主の顔を無くした時、私もこうありたいものだ……」

 

 そう言うと謙信は自身の唇と信玄の唇を重ねた。長いようで短い口付けは謙信から涙が頬を伝い、信玄の頬に流れるまで続いた。これまで義清が死のうと仲間が死のうと泣けなかった。しかし、信玄は泣けた。それは敵味方であることを捨て、互いに主という仮面を捨て、自らのあるがままに戦い、言葉を交わしたからだ。考えずとも分かる。定満が死んだ時と同じ思いが込み上げてくる。しかし、ここは戦場であり、上杉の兵を率いる大将として動かなければならない。その時が来るまでは、再び謙信という人間としての顔を覆わなければならない。

 

「……行くか」

 

 信玄の身体を抱えて部屋を出る。

 控えていた兵たちは謙信の姿を見て膝を付き、黙って後に続く。館内に突入して血眼になって武田の残党を探していた者も皆がその姿に足を止めてその姿に見入る。

 

(見ろ。これが私の歩む道だ)

 

 そのまま館の外に出ると謙信は大きく息を吸い、甲斐の山々にこだまするほどの声を上げた。

 

「武田信玄、上杉謙信が討ち取ったり!」

 

 その後、謙信は信玄との最期の邂逅を生涯誰にも、颯馬にさえ話さなかった。

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