上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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貴方を読む

「颯馬。今後、我らは如何にすれば良い?」

 

 謙信は戦後処理をしている兵たちを見ながら問いかけてきた。

 

「武田軍の戦場に消えた兵の遺族への慰労。民や建物の復興でございます」

「甲斐の者たちの上杉への偏見はかなりのものだ。はたして上手くいくのか?」

「おそらく時間はかかるでしょう。しかし、成し遂げれば我らに何倍もの利益が返ってくるかと」

「利とは武田軍に恩義を着せ、強力な家臣団と今川、徳川への壁を作れるということか?」

「御意」

「正直、この様子を見るとな……」

 

 不安げな表情を浮かべる謙信の気持ちも分からなくはない。

 謙信が信玄を討ち取ったと声を上げた時、近くにいた上杉軍の者たちは彼女の威容に畏れを抱き、皆が膝を付いた。遠くの者は声を聞き、歓声を上げた。

 では、武田の将兵はどうしたか。全員が信玄の仇を討たんと、はたまた後に続かんと謙信に向かって決死の突撃を仕掛けてきた。誰かの指示ではなく、自ずと皆がその意志で繋がり、一つの軍となった。

 慌てて駆け付けた親憲や慶次が修羅の如き活躍で敵を撃ち返し、どうにか謙信に危害が及ぶことは無かった。しかし、多くの武田の将兵が血を流してしまった。否、全滅したと言って良い。

 たとえ颯馬の考えでいったとしても途方もない時間がかかるのは明白。

 

「謙信様らしくもない」

「相手が武田だと、そう思ってしまうのかもな」

 

 颯馬は小さく息を吐く。何となく得心がいった。謙信は武田を恐れていた。心中では知ることが出来なかった恐ろしさを自分の中に抱えていた。しかし、何を恐れる必要があるのだろう。信玄は既に討ち取り、この世から消えた。有能な将もほとんどが信玄に殉じている。

 疑問を感じ取ったのか、謙信は颯馬と官兵衛を呼び寄せて館の外れまで歩こうと誘ってきた。二人きりになれないのが残念だが、それ以上に大事な役目があるのだろう。

 館内の塀際をゆっくりと歩きながらしばらく謙信は無言のままである。周りの気配を気にしているのか、気配の無い所まで行く気だろう。

 それまでならと颯馬は辺りを見る。館の造りは質素で、時折書院造風の窓枠や部屋の内部が見える。庭は戦場の跡らしく、汚れているが、岩や木々が均一に並べられていて、信玄の真面目な性格が伺える。

 

「信玄には妹がいるそうだ。それを探してくれ」

 

 周りの気配を感じなくなった途端、謙信は平然ととんでもないことを口にした。

 颯馬と官兵衛は互いに無表情のまま固まり、思考が追い付いてようやく目を見開いた。幸いにも驚愕の声を上げることは無かったため、どこかから兵が飛んでこない。しばらくして颯馬の方が先に我に返った。目の前では謙信が二人の顔を見て笑っている。

 

「さ、されど、既に脱出しているならわざわざ探さず必要は……」

「そうですって。だいたい、信玄が上杉に身近な者を託すわけが……」

「ある」

「どうしてそう言えるのです?」

「信玄が私に言った」

 

 颯馬の疑問を謙信は簡単に、かつ予想の斜め上をいく答えで解決してくれた。

 

「妹は逃した、よろしく頼む。と」

「だけど、妹は本当に上杉に降る意志を持っているのですか?」

 

 官兵衛の問いに同調すると颯馬は頷く。上杉憎しという色に信玄から末端の兵まで染まりきっている中で信玄の妹なる人物がこれまでを洗い流して上杉に許す心を持っているだろうか。

 謙信は二人を見比べると苦笑いをして首をすくめた。

 

「それ知らん。聞いてない。だが、持っているだろう」

「……聞くのを忘れただけだな」

「何か言ったか?」

 

 謙信の言い訳を瞬時に読み取ったが、うっかり口にしてしまった。何でもないと首を横に振って誤魔化すが、おそらく一段落付いたら詰問される。颯馬は先を促して謙信の言葉に集中する。隣で興味深い話を遮られた官兵衛の視線が痛い。

 

「信玄は我が宿敵にして頼りになる存在。奴とて民たちのために天下の統一を望んだ。これ以上、甲斐の地を汚したくはないだろう。それに、信玄は妹のことを愛していた」

「つまり、見つければ必ず降る。と?」

「そうだ。颯馬に仔細は任せる何としても見つけ出せ。官兵衛はその支えだ。頼むぞ」

 

 颯馬と官兵衛は互いに頭を下げる。謙信は見つけるまでこのことは決して口外しないようにと念を押すと表へと先に戻って行った。

 取り残された二人は顔を見合わせて溜め息をつく。面倒ごとであるのは明らかであり、確証も無い中での遂行は難しい。情報も入っていなければそもそも北のどの方向へ向かったのかも分からない。

 

「八方塞がりだね」

 

 官兵衛は先に足を進める。両手を顔の後ろに組む様は仕事を頼まれて面倒くさそうにしている子供のようだ。

 

「とはいえ、命令ならやるしかない」

「まったく。謙信様も何でもっと聞き出せなかったんだろ」

「別れを優先したんだろうな」

「別れ?」

「宿敵でもあり友であった」

 

 官兵衛は何かを察したように息を吐く。友との別れにあれこれと聞き出す野暮はいない。言葉を交わさず思いで通じるのが真の友である鉄則である。

 

「その場で取引しなかったのは、さすがだと思うけどね」

「まぁな」

「問題は、信玄の妹がどこにいるのかだけどね」

「手当たり次第に心当たりを当たるか。それに信玄の影ならそれなりに妹も風貌が似ているはず」

 

 官兵衛は不満げな表情だが、仕方ないと首を縦に振った。謙信の言葉はあれで全てだろうし、信玄は既にこの世にいない。場所がはたしてどこなのかを知るのは信玄の妹しかいない。

 

「私が配下を遣わして金を撒く。それらしき者を見つけたらさらに上乗せをするとね」

「ま、それが一番無難だな。後は、信玄の妹が本当に上杉に降るのか」

「さらに言えば本当に妹がいるのか」

「まさか。死に際まで信玄は上杉を惑わすのか」

「上杉の詮索を行わせることで越後に火種を撒いてあらかじめ焚き付けていた周囲の勢力を起こす」

「考えられなくないが、あまりにも他力本願過ぎる」

「あくまでも可能性だよ」

 

 歩調を合わせる気のない官兵衛はさっさと進む。颯馬は慌てて足を並べて隣の様子を伺う。相変わらず面倒くさそうに口を尖らせている。

 

「兎にも角にも今は謙信様の命に従うだけだ。おそらく信玄の言うことが正しいと信じてな」

「はいはい。まったく、本当に甘いね」

「従うお前もいかがなものかと思うがな」

「雇ってくれた恩だからね」

 

 不意に颯馬は口元が緩んだ。官兵衛が恩や情で動くような人ではないことは知っている。上杉に利益があるから反対せずに動こうとしている。信玄の妹は本当にいると確信があり、たとえ虚言であっても何か上杉のためになることが頭の中で動いているのであろう。

 自身の頭では辿り着けないような謀とは何であろうか。興味が湧いてきてしまうのが同じ軍師の性なのかもしれない。とはいえ、颯馬がこの役目の頭目を任されている以上、動くところは動く必要がある。

 

「とりあえず、甲斐の領内にまだいるはずだ。身を隠すことが出来る寺や神社を探そう。兵ではなく、忍びを使ってな」

 

 頷くことで官兵衛は合意したことを示してくれる。信玄の容姿が皆目麗しいと知っている。おそらく影武者もそれ相応の容姿でなければ務まらない。戦続きでかつ武田という難敵との戦いが終わった今、昂りを迎えている兵も少なくない。万一にでも間違いを犯して元々低い甲斐の民たちの信頼度を下げさせるような真似はしたくない。

 そう考えると先のことまで不安になってくる。元々、甲斐という国は貧しい。そのため、土地を治める国人衆は自らの利益を強く欲している。それを利用して地位を約束した信玄は甲斐の民から好かれた。

 だが、謙信は甲斐の民から元々嫌われている。その上、上杉の組織内は謙信を筆頭に家臣達は上杉の規則に則って動く中央集権体制である。与えるものは与えてきたが、取り上げるものは取ってきた。はたしてそれが今後味方になるであろう彼らにどう写るか。

 

「謙信様はこの甲斐をいかに治めるのか……」

「適任がいるじゃん。うちに一人」

「え?」

 

 官兵衛は不意に出た言葉を簡単に返してきた。驚いて足を止めた颯馬に知らないのかと彼女は振り返る。真面目な話だというのにどこか落ち着きがなく、何故か嬉しそうだ。

 

「昔、美濃である者が斎藤家に仕官した後に領内の治安と財政は瞬く間に安定して楽園になったとまで言われたことがある。けど、その者が斎藤家を去ってからその制度が全然動かなくなって逆に混乱したんだ」

「まさかその者って……」

「さすが、察しがいいね……てか、あたしの口から言ってんだから分かるか」

「だが、奴しか知らないことも越後にはあるんだぞ」

「大丈夫大丈夫、あいつのことだから手は打ってくれるって」

 

 颯馬は官兵衛の嬉しそうな笑みを一瞬だけ楽しみが増えると思っていると考えたが、撤回した。その笑みは人の不幸を笑い、これから忙しくなるであろう弟子に向けた悪戯っ子のそれなのだ。

 

「さ、あたしたちも仕事しないと」

 

 鼻歌交じりで歩く官兵衛の後ろで颯馬は北西に向けて手を合わせた。

 

 

 謙信が甲斐を制圧した五日後の北陸。既に景勝率いる北陸討伐隊が越中の親不知近くまで帰還していた。全て将兵が精神的に参ったようで、勝ったにもかかわらず口を動かす者は皆無である。

 解放感から何か狼藉を働く者がいるのではないかと龍兵衛は配下と共に監視を怠らなかったが、彼らも他の兵たち同様に動きがままならず、結果的に兼続にも頼んで実質二人での監督となった。

 

「越後は戦を続け過ぎた。しばらくは国内に目を向けないとな」

「具体的にはどうする?」

「ありきたりだが、国を豊かにして民の困窮を救う。それに、そろそろ試したいことも色々出来た」

「お前の施策なら問題無いか」

「兼続にしては珍しく褒めてくれるな」

「私は事実を言ったまでだ。それでつけ上がって失敗したらただではすまんからな」 

「ご忠言どうも。だが、言われるまでもないさ。俺はこれ以上の失敗を許されないからな」

 

 兼続はそれ以上話さずに黙ってしまった。口元を緩めて冗談のつもりがそうは聞こえなかったのだろう。試したいこともある中で失敗を許されない立場にいる龍兵衛にとって現実味が多すぎたのかもしれない。

 それから二人は肩を並べて馬に揺られていた。その間、龍兵衛は十分に思案に暮れることが出来た。分野は違えどあれやこれやと思う内にいつの間にか親不知を通り過ぎていた。

 自分でもよく無意識に通れたと感心しながらも龍兵衛は再び思考の海に入るだが、少しして兵に扮してやってきた軒猿の者によってまた引き上げられた。

 

「……分かった。戻って段蔵に伝えてほしい。信州には気を付けろとな。だが、契約を結べそうなら結べ」

「承知」

 

 軒猿は兵の中に溶け込むとどこかへいなくなった。

 

 

「景勝様、報告が入りました。謙信様が信玄を討ち取り、甲斐を占領したとのこと」

「やっと……勝った?」

「ええ。謙信様はしばらく甲斐、信州の慰労をするため、越後のことは景勝様に任せるとのこと」

「……」

 

 不安げな表情を浮かべる景勝に龍兵衛は努めて穏やかな口調で答える。

 

「案じることはございません。朝信殿と景資殿、竹俣殿が越中より西は治めてくれましょう」

「越後……」

「自分や兼続がいるでしょう? それに、実及殿もおります」

「……ん。龍兵衛言うなら間違いない」

「それから……」

 

 龍兵衛は景勝に顔を近付ける。内々の話なのであくまでも小声で話すために行っているのに、景勝の顔が若干赤くなっているのは無視する。

 

「これも聞いたのですが、信玄には影武者がいたようです。そしてその者が武田の重臣である虎綱春日と共におり、降伏したとか」

「……!」

「やはり驚きますか。自分も正直なところ、このようなことになるとは……」

 

 龍兵衛は南を眺める。木々の狭間から見える太陽が断崖の海岸を望める北陸方面へと徐々に西へと動いていく。

 

「ですが、これで甲斐、信州は幾分か落ち着いて治めることができましょう」

「……」

「何か気になることでも?」

「龍兵衛、嬉しそう」 

「おや。顔に出てましたかな」

 

 龍兵衛はごまかすように頬を撫でる。確かに微妙に口元が緩んでいたかもしれない。しかし、公では鉄仮面を貫く龍兵衛でも表情を変えるぐらいの理由がある。

 

「上杉と武田。決して交わるはずの無かった両者の手が交わされる」

「……」

「これほど面白いことはありません」

 

 龍兵衛は景勝に対して公で滅多に見せないはっきり分かる顔つきで笑みを浮かべた。信玄は死んだ。しかし、死ぬはずの者が生き延びている。仮にも信玄として生きていた者を上杉に迎え入れることのなんと面白きことか

本物の信玄と謙信が手を取り合い戦う様も見たかったが、それは高望みなのかもしれない。

 

「信玄さん死んだ。忘れない」

「申し訳ございません。失言でした」

 

 景勝の目つきは真剣に咎めている。肉親の死がいかに辛いことか、景勝も龍兵衛も分かっている。信玄という姉を亡くした妹の思いはおそらく言葉には出来ないだろう。

 妄想を頭の外に放り出して龍兵衛は現実へと思考を戻す。

 謙信はこの二方向への遠征を最後に一度内政に力を入れると宣言している。これまでの戦で越後の開墾はなかなか進まず、東北の土地改革や金脈の捜索もままならない状況である。さらに兵の数はいたずらに増えただけで精錬された者が減っている。

 この状況に龍兵衛は舌を舐めずりたくなった。何故なら龍兵衛が美濃で台頭し、半兵衛や官兵衛とも肩を並べられるようになったのは軍略ではなく、政治によるものだからだ。

 

「これからどうする?」

「生憎ですが、自分ではなく、兼続や官兵衛殿が景勝様を支えることになるでしょう。自分は甲斐に行かなければ」

「ん……」

 

 少し残念そうな景勝は見ないように目線を落とす。

 

「官兵衛殿なら自分があらかじめ残しておいた越後での情勢を知る資料を見れば大丈夫でしょうし、兼続もいます。景勝様はどうか安心して政務を行ってください」

「あらかじめ? 龍兵衛、こうなる、知ってた?」

「ええ。あくまでも可能性の一つですが」

 

 口を開けている景勝が可愛らしい。という邪心を投げ捨てて龍兵衛は表情を引き締める。

 

「官兵衛殿もおそらく分かっていると思います。もしかすると書状が既に届いているかも……」

「遠くでも分かる?」

「一応は師弟ですから」

 

 青い空を見上げる。声が聞こえなくても分かる。官兵衛のあれをやっとけこれを残しておけというやかましい喧騒が龍兵衛の耳をつんざく。その姿を想像するとどうしてあのような子供のままなのだろうと口元が緩むのを堪えるのに必死になる。

 

「まぁ、いいや……孝さんには馬車馬になってもらわないとな」

 

 龍兵衛は無表情で南東の空を見た。

 後ろであまり構ってくれないと景勝が嫉妬と羨望を込めた目を送っていると気付かずに。 


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