上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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虫よ滅べ過去へ向けて

 甲斐という国は元々、豊かな土地ではなく、商売を行うにも山がちな地形のために武士達も田畑を自ら耕し、分かっていても増税を敷かなければ財務がままならない地である。

 信玄も先代信虎を追放して民に喜ばれていたとはいえ、税収を減らすわけにはいかず、畑仕事の無い冬に戦を行うことでどうにか不満を少なくさせていた。また、合議制を敷いて家臣や民が結託して反乱を起こさないようにし、漁業や寺社を保護するなど、民のためになる政治を行い、甲斐という国を一つにまとめ上げた。

 しかし、その信玄にさえ、諦めなければならない民の要望はいくつかあった。それは人であるが故、その国だから故というのがあった。

 

「うーん……」

 

 龍兵衛は田畑や用水路を見ながら腕を組む。知識を基に作り上げた越後の農業環境に比べて粗悪な環境であるのは否めない。だが、今はそれよりも人の命に関わることを見ている。

 後ろでは信廉が不安そうな表情でこちらを見ている。

 

「いかがでしょうか?」

「はっきりと確証は得られませんが、やはり、この水の中に原因がありますね」

「それでは、我らは作物を作れません」

 

 信廉の後ろに控えていた村の長が顔を青くする。この辺りで一番大きな村に協力してもらっているが、その割には随分と若く、龍兵衛よりも少し年上ぐらいに感じられる。

 彼らにとって作物を作るなというのは死ねと言うのも当然。龍兵衛は落ち着くように手で促す。

 

「厳密には水ではなくて、この水の中にいる生き物が原因です」

「生き物?」

「これです」

 

 首を傾げる信廉の前に龍兵衛は用水路に持ってきた菜箸を突っ込み、貝を一つ取り上げた。

 

「これが病の根源だと?」

「違います。この貝を依り代にしている虫が原因です」

「虫? こんな小さな貝の中に?」

「ええ。我々の目では捉えられないほどの小さな虫です」

「そんなものがいるなんて、信じられませぬ」

 

 村長が首を振って否定する。この頃、妖怪や幽霊でなければ、人の目に見えないものなど存在しないと思われていたのは常識だった。信廉も村長に同意だと頷いている。

 

「皆様はこの病を奇病であり、先祖の悪行が祟られた末路と言っているそうですが、残念ながらそんなことはこの世にありません。病には病になる理由があり、その原因となるものが必ずあるのです」

「だからといって、本当にそのような虫が……」

「いないと思うなら、長殿、今すぐこの水の中に入れば良い」

 

 有無を言わさずに村長を黙らせると龍兵衛は再び口を開く。

 

「虫は貝の中に住み着き、水の中を動いています。それ故に水の中に入ったり、飲んだりすることで体内に入り込みます」

「ちょっと待って下さい。飲んで、というのは分かりますが、触れただけで?」

「ええ。それがこの虫を最大の特徴と言えるでしょう。そして虫は体内でも生きていける力を持っていて、体の肝などに卵を生みます。その卵や返った子供が血の巡りを止めて、小幡殿のような状態にさせるのです」

 

 想像したのか二人の顔色が悪くなる。だが、説得力のある説明に納得したのか、曖昧に頷いてくれた。

 

「では、長殿。村の主だった方を集めて下さい皆に説明して、今後を話し合わなければ」

 

 第一段階は突破したと一息つく。しかし、これからさらに難しくなるのは必定。村長はかつて武田の家臣だったために分かることも多いが、これから相手にするのは生粋の農家である。どうやって自分達の利益に繋がるか、きちんと説明しなければならない。

 さらに龍兵衛を億劫にさせているのは仲間内にもある。

 虎綱春日がいることだ。

 どうも折り合いが悪いらしく、なかなか彼女は龍兵衛にだけ心を開いてくれない。颯馬や兼続に聞いてもそんなことは無いと笑って返されるので、明らかに嫌われているようだ。

 人付き合いがそこまで得意では無い龍兵衛にとって、上杉に忠誠を誓っているのであればそれで構わないと思っていた。しかし以前、春日山で信廉と話を合わせるために気にしている素振りを見せたのが悪かったのか、信廉は「良い機会ですから」と護衛で連れてきた。確かにまだ上杉の領地になったばかりの甲斐で武田の者たちがいるのは心強い。

 あくまでもかつてであって今は味方であればの話であるが。万が一に備えて龍兵衛も護衛として慶次を連れて来たが、水には絶対に足を踏み入れないと言って、すぐにどこかへ消えて行ってしまった。

 

「河田殿、如何しました?」

「いえ、少し考え事を」

 

 味方のことでとも言えずに誤魔化す。確かに今は味方のことばかり考えていられない。

 商人はこの辺りではなく、水を他から引いて暮らせば良い。

 問題は農民たちだ。彼らは否が応でも土に触れなければならない。死ぬ可能性の高い田に入りたくなくても糧を得なくては生きて行けない。

 

(はたして、どうなることか)

 

 龍兵衛は胸元に携えている書状を軽く握る。長の家はかなり大きく、周辺の村の代表が十数人以上、集まっても余裕のある部屋があった。

 中ではそれぞれの村のことについてあれこれと討議しているようで、一触即発の雰囲気となっている者達もいる。

 

「我らは皆と上手くやっているのですが……」

 

 申し訳無さそうにしている村長に大丈夫と軽く頭を下げる。そして、龍兵衛は先導しようとした村長を差し置いて襖を勢い良く広げた。

 乾いた音が部屋中に響き渡り、信廉達も中にいた者も呆然とこちらを見ている。周囲の反応をよそに龍兵衛はずかずかと中にいた者達の間をぬって一番の上座に座る。

 

「お忙しいところお呼び立てして申し訳ございません。皆様に説明をする河田と申します」

 

 連られるがままに中にいた者達は頭を下げ、その間に信廉達が龍兵衛の脇に控える。

 

「自分の方で色々と調べさせて頂きました。おかげで病の根源と対処法が分かりました」

「対処も何も、あれは先祖が悪さしたからかかるものじゃないねぇのか」

「そうだ。寺の坊さんも言うとったど」

「生憎ですが、この世にある病に祟りなどありません。そのお坊さんが言っていることもただの世迷い言。下らない戯れ言です」

 

 吐き捨てるように龍兵衛が言うと村の代表達は声を荒げ「嘘言うな!」とあちらこちらから反論を繰り出す。しかし、どれも祟りは本当にあるなど、龍兵衛にとっては馬鹿馬鹿しいものであった。しかし、この時代はそれが本当に信じられている。

 

「嘘であるならば、どうして皆様はこの場にいるのです? ここにはこの地での病は何故に起こるのか。を説明すると事前に周知させていたはずですが」

「そ、そりゃあ」

「貴方は先程から一番色々と言ってますが、何か祟りじゃないとまずいことでもあるのですか?」

「い、そんな訳あるか!」

「まぁ、そのことに今は目を瞑りましょう。それよりも、先程申し上げたように祟りはありません。皆様の働き次第で、病は根絶します。それとも、貴方は自分に病は祟りだと言って欲しいのですか?」

「……」

「説明するので黙っていて下さい」

 

 筋骨隆々の中年の農民が黙り込むのを見届けると龍兵衛は先に信廉達に説明したことを村の代表たちにも分かるようにかみ砕いて説明した。最初の内は半信半疑だった者達も、龍兵衛の説得力と力強い言葉に徐々に彼を信用するようになり、病の恐ろしさに顔を青くした。

 

「河田様の言うことは分かったが、水が無ければ作物は作れないのだぞ」

「実は自分もかつては田畑を耕していました。今も仕事の傍らにですけど、土に触れています」

「なら、どうすれば俺たちは救われるんだ?」

「簡単なことです……田を捨て、武人になりたい者はいないですか?」

 

 農民達にとって武人の身分になるということは税を払わずに威張り散らせる魅力的な身分である。しかし、その代わりに戦などで突然死ぬこともある。もちろん、彼らも徴兵されたことがあるのだからその恐ろしさは知っているだろう。

 龍兵衛は一人一人の顔をじっと見比べる。生粋の武人になれるかもしれないと顔を赤くしている人や、命と天秤にかけて眉間にしわを寄せている者も多くいる。

 しばらくの沈黙の中でそれを破らんと顔を上げた者がいた。先程、病は祟りだと抗議していた者だ。

 

「おらたちは田を捨てたくねぇ」

「つまるところ、死ぬのが怖い。と?」

「河田殿!」

 

 信廉の抗議も聞かず、龍兵衛は男に近付き、首を傾げる。そんなことはないと男は小さく呟いたが、目を逸らす。さらに逸らした方向へと顔を動かして無言の詰問を続ける。

 しばらくすると無言の空気が気まずくなったのか、観念したのか、男は諦めたように口を開く。

 

「そうだよ。戦でやられるぐらいなら病で死んだ方が良いだ」

「これから先は簡単に武人となって外に出ることは出来なくなりますよ。商人や工人になるのは結構ですが」

「そ、そんなこと誰が言った!?」

「上杉が治める国のあり方です」

 

 龍兵衛は国を発つ前に謙信や兼続達と綿密に話し合った上で、これから先は、武士と農民の区別をはっきりとさせて専業化を図る法令を発布させた。

 龍兵衛が春日山にいた頃は内々で決まっていたことなので、国中に出回るのは昨日だと兼続から二日前の内に書状が来ていた。

 

「ともかく、既に決まったことなのです。今の内に決めておいて良いかと思いますよ」

 

 皆にも伝えるように周りを見る。それぞれが表情を変えて揺らいでいるのが分かる。この貧しい甲斐で病や凶作に怯えて黙って生きていくのか、外に出て死と隣り合わせながらも最後の立身出世を夢見て動くのか。

 沈黙の中にいるはずなのに、皆の思考が頭から言葉になって聞こえてくるようだ。

 

「まぁ、正式なものが届くのはこれから先。それよりも今は、農地をどうするべきかです。当分は人足を借りますし、田畑にも正直、水路が安全になるまで入って欲しくないのですがね」

「それはあんまりじゃ」

 

 一番前の中央に座っている老人が弱々しく声を上げる。

 

「わしらは作物を作らんと生きていけん。作物を作る田畑に入るなとは死ねと言っているものだ」

「だからこそ、水路を安全にさせる工事を行い、田畑は別のものを与えます」

「そんなもの、どこにある?」

「一度、皆様の畑を借り上げます」

「わしらの命を奪う気か!?」

「人の話を最後まで聞きなさい!」

 

 突然の怒鳴り声に不意を突かれたのか、色めきだっていた部屋の雰囲気がぴしゃっと落ち着く。控えている信廉達も見たことない龍兵衛の態度に目を見開き、行く末を見守っている。

 

「これは皆様のためになるのです。今のやり方で駄目なら新たな作り方をすれば良い」

「だったら何でおらたちから畑を取り上げる?」

「皆様に病気で苦しんで死ぬのではなく、天寿を全うしてもらいたいからです」

 

 天寿という言葉が響いたかは知らないが、取りあえず農民達に意図は伝わったらしい。

 

「原因となっている水路や川から水を引いている畑の水を抜き、水田でなく、畑で採れる作物の種を蒔きます。形づくまで皆様の生活の保障は可能な限り致しましょう。そして、形づいた後に税としての徴収を再開致します」

「じゃあ、それまで年貢は?」

「代わりに人足を頼むことになるでしょうが、作物はいりません」

 

 優しい御方だと頭を下げる者もいれば、命と生活を天秤にかけてどうすべきか悩んでいる者もいる。その中で龍兵衛はしばらく時間を与えて考えさせている間に村長を議論の輪に入れ、信廉と虎綱を手招き、農民達と距離を取る。

 

「正直なことを言えば、農作物は五年十年でどうにかなるでしょうが、今の我らの力で病の根幹を絶つことは出来ません。おそらくあと、五百年は必要かと」

「五百……」

「……」

 

 小声ながら確固たる自信を持った言い方に二人は呆然としてしまう。農民達にこのことを伝えれば間違いなく田に残ると決め、何とかしろと声を上げる。

 

「申し訳ありませんが、病の原因を減らすことは出来ても根絶となると話が違ってきます故。何卒……口を閉ざして頂きたい」 

「……分かりました。未来の甲斐ために、私もこのことは秘しましょう」

 

 上に立つ者は何百年も先のことを考えて政策を行わなければならない。だが、民は今の生きていることで必死である。今の自分たちが利益が無いとなれば心からの協力など出来ない。

 水路の工事や人足で手を抜かれてしまえばいつ欠陥が見つかり、防げる病や事故で死ぬような人が現れるか分からない。

 貧しい甲斐を救うには国力を上げるだけでなく、守ることも必要である。上げようとすれば貧富に差が出る。守りすぎても、他国と遅れる。

 信玄が謙信に負けたのは国を強くしようとし過ぎたからだ。

 

「河田様……」

「これは長殿、いつから」

「今声をかけた時からです」

 

 先程の病のことは聞かれていないと安堵しつつ、耳を傾ける。後ろでは話し合いで盛り上がっていて、聞き取りにくい。

 

「私は武人に戻ることにします。病で死ぬよりは、夢がございます故」

「ありがたい。しかし、村のことは?」

「そこなのです。私の村は頑固な者が多い故になかなか米以外で何かを作るとなると説得が難しいのです」

「ああ。先程、自分が申したのは米の品種を変えたものではないですよ」 

「え……まさか……」

「田で獲る米ではなく、他のことで稼ぎませんか? と言ったのです」

 

 言い終えると口元を緩める。何を言っているのか悟った信廉と村長は驚き、龍兵衛を直視したまましばらく固まっていた。農民達は何が何だかと顔を見合わせあっている。

 

「つまりは、米を育てるのが難しいこの地で、他のものを作れば良いのです。上手くいけばこの作物で米よりも収穫が増え、税を納める負担も減ります」

「ですが、それでは……」

「長殿、確かに先程の作業と新たな作物を作るための畑の開発はかなりの時間を要するでしょう」

 

 龍兵衛は村長から視線を外して皆へと顔を向ける。村長と同じことを考えていたのか、表情は暗い。人足と一からの畑の作り直しには病に侵されている村々で対応は困難である。分かっているからこそと龍兵衛は大きく口を開いた。

 

「周辺の村から取る税を七割減らし、病に対する作業には上杉の兵を少しばかり派遣致しましょう。また、武人になりたい方達も無理に前線に出すのではなく、荷駄など後方で動いてもらえるようにはからいます」

 

 その発言に歓声が上がり、反対と訴えていた者など「村の皆に伝えてくる!」と飛び出していった。まだ確実に実行されるとは限らないと説明する雰囲気でもなく、龍兵衛は仕事が増えたと心で頭を抱える。

 

「河田様、真に感謝致します」

 

 後ろから声をかけてきた村長の声からも不安が消えている。民の不安を取り除き、生活を充実させるのは上に立つ者の役目だが、期待され続けるのも善し悪しがある。口にするわけにもいかず、龍兵衛は表情を変えないで頭だけ軽く下げる。

 

「皆様にはかなりの協力をして頂くことになります。感謝するのはこちらです」

「いえ。これまで奇病と恐れられた病を防ぐばかりか、かようなまでに慈悲のあるお心遣いをして頂き、真に嬉しゅうございまする」

「なら、長殿もわざわざ武人に戻ることもありますまい」

「いえ、実を申さば、拙者の家は代々武人でござった。しかし、父が……」

「……お気になさらず、姉はもう既にこの世にいません。また、私も上杉の下にいる身です」

 

 察していたが、やはり武田と因縁があるようだ。信廉の穏やかな表情に安堵した村長は彼女に向けていた視線をこちらに戻す。

 

「拙者の真の名は曽根孫次郎と申し、かつては……」

「え? まさか、曽根殿の……」

 

 龍兵衛は初めて虎綱の表情が変わったのを見た。それ以上にまさかの大物の出現に信廉も虎綱も目を丸くしている。

 

「左様。我が父はかつて御館様や信廉様の父君である信虎様の戦略に反対して勘気を被り、処断を恐れて出奔致しました」

「どうして、このような所に?」

「武田への忠誠を捨てきれなかった。拙者はそう考えております」

「私たちのせいで、辛い思いをさせてしまいましたね……」

「いえ……」

 

 信廉の表情を見て、龍兵衛は沈黙をあえて破った。

 

「曽根殿の父君はもしかしたら、信玄殿と信廉殿の処遇を巡った上での対立したのでは?」

 

 龍兵衛の声を聞いて、虎綱は表情を再び無にし、信廉は息を呑んだ。龍兵衛が戸惑う信廉の目を真っ直ぐ見ると彼女は曽根と龍兵衛を見比べながら唇を軽く噛む。

 

「先程、武田は上杉に降ったと仰ったのは信廉殿ですよ」

「そう、ですね。なら、迷うこともありません」

 

 背中を押すと信廉は曽根に向かって頭を下げた。突然のことに曽根も虎綱も目を見開き、頭を下げられた本人は目を白黒させている。

 

「如何されたのです? 拙者如きに」

「孫次郎には詫びねばなりませんが、なかなか難しいのです。ですが、河田殿が背中を押してくれました」

「されど、それは……」

「貴方の父、曽根三河守は私たちの内、どちらかを殺すように最後まで父上に訴えていたそうなのです」

「なっ……」

 

 曽根の表情が歪む。彼としてはこちらが害を受けた身としてそこにつけ込み、再び武田に仕えて父が果たせなかった忠義を成そうとしたのだろう。だが実際には、曽根の父は信廉にとって命を奪おうとした仇敵であり、おいそれと取り入れるわけではなかった。

 

「ですが、それはあくまでも貴方の父のこと。今更、何を問うべきでしょうか」

「では……」

「正式な帰参は謙信殿を通すことになるでしょう。しかし、必ずや戻れる支度を整えていて下さい」

 

 曽根は幾度も頭を下げて信廉に礼を述べる。どうやら、龍兵衛が思っている以上に曽根は純粋な男らしい。真っ直ぐにただ信廉を見る目は確かな忠義の者だ。第三者の目から見るその様は実に微笑ましい。 

 

「河田様。よろしいですか」

 

 口元をひくつかせていた龍兵衛は再び一文字に戻して村の代表達の方を見る。

 

「何でしょう?」

「やはり、俺達だけじゃ、決めらんねぇから村に持ち帰るだ」

「構いません。派遣する代官に伝えて下さい。それからすぐに動きましょう」

「ありがとうございます!」

 

 嬉しそうな目で皆が一斉に頭を下げてくる。龍兵衛は一通り頷いてみせると皆の顔が上がったと同時に腰を上げた。

 

「河田殿、如何致しました?」

「いえ……少し外に出てきます……」

 

 信廉が声をかけてきたが、それをかわして外に出る。先程まで東にあった太陽が、既に南の頂点を超えて西に動き始めている。

 

(今日はここに泊まらずに済みそうだな)

 

 議論が白熱すれば、と考えていたが、思ったよりも皆が理解してくれた。

 龍兵衛は心で嬉しいと思いながらも、裏に隠れて壁にもたれかかった。そして、誰もいないと確認すると盛大な溜め息をつき、持ってきた水筒の水を一気に飲んだ。

 また、人知れずに龍兵衛は自分の負担を増やした。怨嗟などの負の感情の方がまだ良かった。はっきりしない穏やかな尊敬の念を持たれた。これほど軍師となって辛くなったものはない。彼は兼続や颯馬のように義を掲げて頭を下げたり、正しいことを行う軍師ではない。

 大義や上杉のためには邪魔になる者を容赦なく粛清し、ただ冷徹に汚れた仕事を行う。しかし、かつて生きた世の中で一人の民として生きた彼はその頃の自分よりみすぼらしい生活をしている民を無視することも出来なかった。

 自分は嫌われ者に徹して成したいこと成す者の支えになるつもりだった。だから、このことを知っていても無視しようとしたが、信廉や甘利のすがる目には勝てなかった。

 未来で待つ者達の手柄を奪うようなことはしたくない。しかし、政を司る身として目の前の人を見捨てるわけにもいかない。たとえそれが日ノ本の一部だけの民だとしてもだ。

 

「甘いな……」

 

 垂れた水を拭う。拭いきれなかった水が地面に落ちて、土の色を黒くする。足でかき消すと気持ちを落ち着かせるように何度も深呼吸をする。

 

「早く越後に帰ろ」

 

 そう呟いて、屋敷へと戻った。

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