上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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お姉さんは心配性

 春日山はにわかに騒ぎ立っていた。

 武田、一向一揆のことが片付き、後は織田と戦う前に北条、今川をどう倒すかという大事な時、慶次が突如としてしばらくの間、暇を乞いたいと言い出してきたのだ。

 まさか織田に戻り、上杉と敵対するつもりか、と噂になったが、慶次が頑なにそれは違うと真面目な口調で言ったため、表立って口にする者はいなくなった。しかし、疑っている者は少なくないだろう。疑いを晴らすために慶次は正式な出奔を伝える前に様々な人のところに訪れることにしたらしい。

 

「……何で俺の所に最初に?」

 

 龍兵衛は淹れた飲み物を慶次の前に放り投げる。温いお湯が少し畳に零れた。

 

「やっぱり、こういうのは近いところから堀を埋めていくのが普通よぉ」

「だから、何でそれが俺なんだよ」  

「えぇ~だってぇ……」

 

 身体を前に傾けさせて知らない人なら色気で顔を赤くするであろう体勢で龍兵衛の隣に隙間も無い程にくっ付く。顔が赤く若干わざとらしいが、息遣いも荒い。

 

「裸の付き合いをした仲じゃなぁい」

「あれをそう言うと、お前が変態と言ってるようなもんだぞ」

「もぅ。誰がそうしたのよぉ」

「誰でしょうねぇ?」 

「じゃあ、あたしがばらしても文句無いわよねぇ?」

「それとこれとは話が別。そもそも、今の状況でお前にばらされたところで俺が不利益を被ることなどない」

 

 わざと当てていた胸を外すと慶次はつれないと口を尖らせる。しかし、ここで脅しに乗るような龍兵衛ではない。

 

「やっぱり出て行くのは、駄目なの?」

「当たり前だ」

 

 武田や一向一揆との戦は、戦自体は少なかったとはいえ、激戦が多かった為、将兵の消耗が激しく、立て直しを計るには時間がかかる。あっさりとここで慶次を手放すのは上杉にとって不利益以外の何ものでもない。

 とはいえ、慶次もその状況を把握出来ないほど、馬鹿ではない。今でなければならない理由を尋ねると、彼女は視線を逸らしながら口を開く。

 

「んー……何だかぁ、たまには羽を伸ばしたいってゆうかぁ? 京も大分変わったみたいだし、藤っちにも久々に会ってみたいしね」

 

 何故か、慶次は堅物であると噂の細川藤孝とは妙に波長が合うらしく、今でも書状でやり取りをしているらしい。だが、今の都は羽を伸ばせるような状況ではなく、細川ら旧幕臣も離散していて藤孝も織田に仕えて、京にいるかは定かではない。

 

「心配するのが友達ってやつよぉ」 

「その心は?」

「京にある闇を見たい。出来ることならなるべく除いておく」

 

 滑稽に真剣が返ってきた。慶次の本気であることは真っ直ぐこちらを見てくる目で分かる。おそらくは身の丈以上の危険を踏むことは無いだろう。しかし、慶次は武人であって影で動くことは好まないはず。

 

「止めとけ。触らぬ神に祟りなしだ」

「あたしだって触れたくないわよぉ」

「じゃあ、行くな」

「あらぁ、心配してくれるのぉ? 嬉しいわぁ」

 

 途端にわざとらしくなる慶次を白い目で見ながらも龍兵衛は首を傾げる。今の状況で自身がいなくなるのは上杉にとって得策では無いこと自体、慶次も知っているだろう。京のことはわざわざこちらから派遣せずとも謙信公認の者がいる。

 織田が京に勢力を伸ばしている為、そろそろ越後に戻すべきではないかという意見もある。だから。慶次を内密に派遣するのはどうかとも思う。

 ましてや彼女は織田に顔を知られていて京の者達とも面識がある。ましてやこれから上杉にとって、北条に対する大事な時だというのに、払う損失と返ってくる利益がまるで釣り合わない。

 

「本当に、戻ってくるのか?」

「もちろん」

 

 真剣な表情で即答したところを見ると大丈夫だろう。

 

「期間はどれぐらいを予定している?」

「んー……だいたい一年ぐらい?」

「謙信様と颯馬の子供には?」

「来れたらぁ、みたいな?」

 

 目を泳がせながら返答をした慶次は何かに気付いたようで龍兵衛に近付いて耳元で尋ねる。

 

「そもそも赤ちゃん出来てんの?」

「まだだ……たぶん」

 

 素っ気ない返事にずっこける慶次を見て少しは期待していたのかと龍兵衛は悪いと心の中で一分思いながらも残る九割九分は慶次を騙したことに対する嬉しさで支配された。

 

「そう言うのは出来てから言うものでしょうに」

「あの感じだといつ出来てもおかしくないだろ?」

 

 確かにそうかもしれないと慶次は頷く。

 

「ま、気が向いたら戻ってくるんだな」

「そうねぇ」

 

 考える間もなく返事をしたところから察するに、間違いなく興味本意でふらりとまた戻って来るだろう。

 謙信と颯馬については、上杉領内に潜む一向一揆は織田という本願寺を圧倒する勢力が現れてずっと大人しく、憂うのは織田だけになっている。当の織田は将軍家と手を組んだ中国の毛利や同盟を反故し、三好と手を組んだ四国の長宗我部と戦を行わんと支度している。

 仕込むなら今だと龍兵衛は慶次や親憲と共にけしかけていたが、なかなか出来ないのが現状で颯馬が他の女に手を出し過ぎて子種が無くなったのではないかと噂していることもある。

 

「ちなみに、そういうことってあり得るの?」

「無い。単純に互いの相性の問題。そもそも、その……あれだ……」

「中に仕込んでるかも見るわけにはいかないからねえ」

「その通り」

「もっとけしかけるしかないわねぇ」

 

 互いに溜め息が出る。一応、その辺りの知識も持っている龍兵衛からすれば、どちらかの体に問題が無ければ良いと願うだけだ。しかし、ここはその作戦を立てる場所ではない。龍兵衛は手を叩いて、場を引き締める。

 

「話が逸れた。実は朝廷から謙信様に参内するようにと密かに使いが来ているんだ」

 

 声を潜ませると慶次は目を見開いてから、真剣な表情になる。

 

「その護衛をあたしが?」

「京の事に明るくて、人脈があるからな」

「何か企んでるでしょ?」

「まさか、将軍家から自分の家を守る為に織田に不承不承鞍替えした人達の説得を手伝えなんてこれっぽっちも……あ、口に出てた」

「……わざとでしょ」

 

 織田に降った細川や明智との連絡も自身を繋いでということになるだろう。悟った途端に面倒くさいと慶次は口を尖らせる。 人からやらさせるからそう思うのだろう。どの道危険なことをしようとしているのだから、変わらないと思うが、慶次の気分を読んで、あえて言わないでおく。

 

「危険な仕事なのは承知している。でも、謙信様の護衛も兼ねて、な」

「それにしても、何で今なのかしらねぇ」

「京が平穏になるからだろ」

「え?」

「織田にとって第二の大拠点である京が平穏になる。つまりは、他国に目を向けられて織田による天下が広がるのが怖いんだろ」

「自分たちの住む所を、また廃れさせてまで?」

「よっぽど朝廷に嫌われているんじゃないか? 織田家は」

「ま……誰かに頭を下げるような性格じゃないからねぇ」

「だからこそ、謙信様が非公式に会うと知られれば面倒だろ? ここは一つ、頼まれてくれ」

 

 頼むと龍兵衛は深々と頭を下げる。しかし、頼まれた側の反応はどこか得心が行っていないようで首を捻っている。

 

「まぁ、けんけんの護衛になるのは納得。だけど、けんけんも向こうだと何かと縛り付けられるのよぉ。あたしだけっていう訳じゃ……」

「行くのは俺と颯馬だけだった」

「……誰がそう言ったの?」

「本庄殿だ」

 

 

 

 二日前、龍兵衛は本庄実乃の屋敷を訪れていた。

 外見は雪の如き白さを誇る美しい髪にとても四十路とは思えない若々しい顔つきと引き締まった身体。仕草は雅で、なまじの男であれば誰もが求愛行動に出るだろう。

 彼女はそれだけに止まらず、かつては謙信に軍学を教え込む程に兵法にも長けた存在として上杉家全体の信望も篤い。

 それが本庄実乃という人物の姿である。

 かつて家臣を取り仕切っていた定満亡き後、家中の混乱が無かったのは実乃の影の働きかけによるものが大きい。 

 定満の死を知った実乃はすかさず、越後の上杉家直臣や親憲といった忠誠心に間違いがない者達に密書を送り、警戒すべき者を徹底的に監視するようにと厳重に命じ、春日山城にいた楊北衆や陪臣をほぼ軟禁に近い状態にしてその動向を確認させた。

 中には不満を持って実及に訴えて来る者もいたが、かれらに対して彼女は笑みを浮かべた。

 

「不満があるということは謙信様に逆らおうとしているのかしら?」

 

 実及はあえて冷徹な女を演じて反発する勢力を事を起こさせずに黙らせた。その時の活躍を他の者達は春日山に残っていた者達から聞き、実及に畏怖の念を抱いた。

 兼続達、直臣はさらに実乃を尊敬し、筆頭家老の地位は彼女によって引き継がれるのだと確信した。

 そして、引き継がれた筆頭家老の業務を実乃は彼女のやり方で忠実にこなした。定満のようにあれやこれやと自らも先頭に立つのではなく、あくまでも現場は見つつも自らは手を下さずに各々の思う通りに行わせる。

 結果として上杉が長年抱えていた謙信や景勝がいて、初めて動けるようになるという課題を解決出来た。

 見えないところでの功績は恐らく自身よりも遥かに大きいだろう。龍兵衛は彼女のことを定満以上に恐れていた。

 龍兵衛は実及に呼ばれ、彼女の部屋にやってきていた。普段、彼女が人を呼ぶことは滅多に無い。あるとすれば、それは言うのも憚れること。

 しかし、緊張感を持って部屋を訪れた龍兵衛とは裏腹に、実及は特に重要な話をする訳でもなく、のんびりと茶を勧め、今、話しても仕方無い話を始めた。

 

「最近、前田殿が出る出ないと騒いでいるみたいね」

 

 子供を癒やすような穏やかで、包容力のある口調。のほほんとした定満とは違い、奉行職らしい時間を無駄にしない性格が表れている少し早口気味の話し方だが、決して人を焦らせる気持ちにはさせない。そういう独特さを持っているからこそ、現場主義の上杉の中でも筆頭としていられるのかもしれない。

 

「止めるつもりです」

「損失は計り知れないからね」

 

 実乃は宙で算盤を弾くように指を動かす。使い方すら分からない龍兵衛はどういった計算方法で答えを導いているのか分からない。

 

「甲斐の方はどう? 上手く治められそう?」

「自分はあくまでも病を抑え、野菜や果樹を育てるように促しただけです。後は颯馬を筆頭に、信州の者達次第かと」

「そうね。じゃあ、加賀はどうなの?」

「如何せん、民達が心を掴ませてくれません。厳密に申せば、掴む心も無いと言えばよろしいでしょうか」

「働いてはくれるのね?」

「ええ、言えば」

「言えば」

「ええ」

 

 実乃は話題を切り替えるために短く息を吐く。いよいよ本題かと龍兵衛は身構えた。

 

「ところで、大熊はどうなったの?」

「武田の館で遺体を見つけたと。颯馬が言ってましたが」

「そう……なら良かったわ」

 

 心から嬉しそうな表情を浮かべている。同じ奉行職上がりとして実乃と元上杉家臣の大熊朝秀は反りが合わず、事あるごとに対立していた。

 余程の何かがあったのだろう。普段から家臣同士の仲には気を配る彼女が最後まで取り合わなかったのだから。

 

「ところで、最近の謙信様のご様子を、貴方はどう見る?」

 

 無理やり話の流れを変えたところを見るとやはり何かあるのだろう。しかし、あえてここで聞こうとする理由も勇気も無いため、流されることにした。

 

「すこぶる壮健かと」

「違うわ。颯馬との関係のことよ」

 

 最初から一言付け加えろと思いつつ「はぁ……」と曖昧な返事を返す。

 

「最近、謙信様も颯馬により執心のご様子。あれなら、今が内に京に上る密命を実行するのが得策でしょう」

「確かに……されどこれ以上、上杉が大きくなるのを織田や北条が黙っているとは思えません。近々動くことになるのでは?」

「北条はもう虫の息。織田も今は西に執着しているわ」

「織田に知られぬようにするのは、至難です」

「私達がどれだけ強化しても入り込んでくる間者がいるじゃない」

 

 かつての武田や一向一揆の国境と同様に、加賀や上野との境は徹底的した規制を敷いている。それでも、何としても情報を持ち帰りたいとすり抜けてくる輩がいる。しかし、それは裏を返して同じことも言える、と言いたいのだろう。

 危険だと龍兵衛は首を横に振って否定する。一方の実乃はまだ微笑みを浮かべている。

 

「だから、謙信様には船で若狭に下りてもらってそこから近畿の豪族を通じて京に行ってもらうわ」

「……早くそれを言って下さい」

 

 龍兵衛は溜め息を吐いた後、彼女から出たかなり重要な言葉を思い出したて、目を見開く。

 

「というより、京に上洛など、初めて聞きましたよ」

「ええ。まだ皆には言ってないから」

 

 怒りを拳に堪えさせる。叩けば畳を通り越して床を軋ませることが出来るのではないか。どうにか心を落ち着かせると龍兵衛は溜まっていたものを口から息にして一気に吐き出す。

 

「で、それはいつ頃来た話です?」

「昨日ね。今回は幕府じゃなくて朝廷からだけど」

「何故に帝が?」

「さぁ、織田が気に食わないからでしょう。暦を決める権限も取られそうみたいだし」

 

 曖昧な返事しか出来ない。龍兵衛にとって暦は天皇が死んでから初めて変わる世界で生きてきた。無論、この頃は暦には意味があって、不吉なことが起きれば変えるのが当たり前なのは知っている。つまり、暦を決めることは日ノ本の行く末を定める上で、非常に大切なのだ。

 

「朝廷からの要件は?」

「会ってから話す。そうくどいように書いてあったわ」

「必ず来い。ということか……」

「ええ。成功させないと駄目なのよ」

 

 龍兵衛は黙って深々と頭を下げる。他人事みたいに話しているが、彼女はきちんと手筈は整えてくれているのだろう。船から信頼出来る船頭の確保。航路の確認など、全て丸投げにはせずにきちんと練ってくれる。それが実乃だ。

 

「潜入といえば……この前、また一向一揆絡みのことがあったのよね?」

「……何のことです?」

「知らないの? それでも謙信様から西の役目を承っているわね」

「……どなたかが自分への情報を妨害しているようなので」

「あら、邪な奴がいるのね」

 

 さも自分がやったと言わんばかりのわざとらしい言動。舌打ちしたいのを必死に堪える。

 仕方ないからと教えてくれた情報に龍兵衛は眉間にしわを寄せた。本願寺の援助が絶望的になった一向一揆が残党を率いて能登で城を攻めようと画策しているというものだった。

 

「さて、どうするの?」

「決まっています。徹底的に叩き潰すだけです」

「そうね。じゃあ、誰を派遣するの?」

「吉江親子殿と竹俣殿が適任だと思いますが?」

「適任ね。でも、景資殿は京に連れて行くのが良いんじゃない?」

「人のものとなった京に連れて行くことは望みません」

「あら、優しいのね。でも、いざという時に役に立つかもしれないわ」

「では、景資殿の代わりには……」

「斎藤で良いでしょう」

「鶏に牛刀ですか」

「徹底的に潰すべき。と言ったのは貴方よ」

「それは、まぁ……」

 

 真剣な目をしていた実乃は口を噤んだ龍兵衛を見て、微笑みに変えた。面白がっていたのだ。

 

「でも、確かに斎藤は別に加賀のこともやってもらうからね。柿崎や甘粕にも辺りにもそろそろ功を立てる機会を与えましょう」

「確かに。今回は留守居で苛々してましたから、丁度良いかと」

「よろしい。じゃあ、京のことについてはよろしくね。ちゃんと謙信様を守るのよ」

「……はい?」

 

 自分はあくまでも情報を集めて選別し、護衛として向かうのは別の者だと思っていた。しかし、今の物言いはまるで龍兵衛自身も謙信に付いて行くようにと言っていた。

 

「後のことは兼続に任せなさい。将来は上杉を支える一番の柱になってもらうからね。良い経験でしょう」

「お待ち下さい。何故に、自分が行かねばならないのですか? 護衛としては力不足でしょう」

「いえ、必要なのよ。貴方には、他のことをやってもらうから」

「他のこと?」

「織田を内部から裂きなさい」

「……謙信様には?」

「もちろん内緒」

「失敗した場合は?」

「無理しないで良いわ。もちろん、生きて帰れる状況ならね」

 

 龍兵衛の眉間のしわが限界まで寄せられる。織田が畿内で様々な敵に当たりながらも生き延びて、大きくなったのはそれだけ内部の統制がしっかりしているからだ。最近では、本拠を安土に変えて本格的な天下統一に乗り出そうと部隊編成に勤しんでいるらしい。その状況下で、第二の拠点である京の警備を厳重にしないはずがない。そのような時に京を混乱させて織田を動けなくする役目の危険性を考えれば、龍兵衛が実乃からどう見られているか、すぐに分かる。

 

「捨て駒ですか……」

「どうとでも捉えて良いわ。だけど、貴方にだって原因はあるのよ」

「自分にも?」

「分からない?」

「ええ」

「だから自分のあるべき様に気付けないのよ」

 

 唇を噛む。手痛い言葉の一撃は拳骨よりも効き目があった。

 

「家臣達の中には貴方を疑う者が多くいるわ。それが上杉家中なら良かったんだけど、最近だと少し変わった噂が流れてるからね」

「噂……?」

「今教えるのは貴方のためじゃないわ」

 

 表情に余裕が無くなってきたのが自分でも分かる。他家からも疑惑の目を持たれているということは知らなかった。実乃はおそらく龍兵衛が危険な役目をきちんとこなして忠誠を誓っていると思わせる機会を作ってくれた。しかし、他家からも疑念の目を向けられている理由を教えてくれないまま役目を与えた。まるで龍兵衛のいない間に何かを行うかのように。

 

「本庄殿、一つ尋ねたいことがあります」

「何?」

「貴方は自分が嫌いなのですか? ……大熊殿のような」

 

 龍兵衛の真剣な表情で聞いてくる問いに実及はころころと笑い、それから首を横に振った。

 

「貴方は奴じゃないわ」

 

 笑っている彼女の目は鋭く龍兵衛を睨んでいる。その名前を出すこと自体がろくなことにならないと改めて知らされる。

 

「もちろん、味方よ。ま……」

 

 可愛らしく小首を曲げて実及は満面の笑みを浮かべる。

 

「ちょっと心配性なだけだから。ね?」

 

 にこりと微笑む実及は定満のように赤子をあやすような包容力では無く、大人の妖艶な雰囲気を露わにさせてくる。

 それで雄の欲情が出る程、やわな龍兵衛ではない。しかし、魅せられていた。実乃から滲み出てくる恐怖という毒に。背筋が凍るほどの笑みの裏にある恐ろしい邪気と疑惑の目。

 普通の人であれば泡を吹いて気絶していたかもしれない。幾重にもある刀が周囲に張り巡らされているかのような居づらくも動けない緊張感と恐怖がこの部屋を支配する。どうにか離れることによって彼女の恐怖を脱した龍兵衛は緊張のあまり止まっていた息を整える為、二度、深呼吸をする。

 一瞬得た解放感は、固まっていた頭を再び動かした。反動が働いたかのように、龍兵衛は思わず「あ……」と声を漏らした。

 

「まさか、自分が今まで政治が得手であるというのに戦が始まると出陣するようになっていたのは……」

「ご明察。人の心には不安というものがあるのよ。それを排除して戦に存分に集中出来るようにする。それが、私の役目」

 

 しだれ掛かる実乃の般若の如き表情と冷徹な言葉に龍兵衛はぞくりと背筋が凍った。

 定満の後、上杉の調整役は実乃に任せられている。決して実及も定満同様に酷薄な人物ではないが、私情で味方を許すような人物ではない。いざという時は斬り捨てることも辞さない。

 

「性格だけじゃない。あなたの場合は発案が新しい過ぎて付いていけない時もある。その時、いつも私と斎藤よ。あなたが根回し出来ないところを動かしてあげているのは」

 

 龍兵衛は分かっていると力無く頷く。龍兵衛の内情を知らず、長らく上杉を支えてきた実乃は彼のことを兼続達のように心を許してはいない。動いているのはただ、上杉のためになると合理的に見ただけだ。

 そう悟った時、額から汗がたらたらと流れ落ちている。今まで戦に彼が駆り出されていたのは国内に火種を置いておくことを防ぐ為であった。ならばと龍兵衛は浮かんできた疑問を実及にぶつけた。

 

「では、此度のことは何故に? 謙信様が京へと内密に向かうということは端から見れば明らかに自分は疑われます」

「ええ。でも、無事に生き延びれば私も貴方を認めざるを得ない」

 

 龍兵衛の額のしわが動く。これは実乃から課せられた最後の試練だ。

 無事に何事も無く終われば何も起きずに平穏に済む。だが、何かがあれば分からない。京という地はかつて吉江景資が言っていたように何があるのか分からない。

 実乃を含めて上杉の者全員が承知の上で謙信が京へと望むのは、不安を抱かざるを得ない。その中での護衛は最大の好機と言える。実乃が認めれば、上杉の者達もそれに従う。

 

「……分かりました。認めさせましょう」

「期待しているわ。後ろのことは私も動くし、こっちは朝信達に任せておけば。無事に帰ってくれば手土産が待っているし、大丈夫。何か讒言する人は私や朝信が何とかするから」

「……御意」

 

 上辺だけの応援されたが、龍兵衛の心は晴れない。妖艶な笑みの裏にある実及の裏にある恐ろしい狡猾さに気付いたからだけではない。

 いよいよ本当の命の危険を味わっている。幸いにも未だに実及が龍兵衛自身のことを少しは信じている為、手を出さないと言ってくれた。

 だが、実及が自身を信用出来なくなったら。

 

(間違いなく、やられる……)

 

 死というものを何よりも嫌っている龍兵衛は死なないようにと露払いや根回しを慎重に行ってきた。

 だが、実乃はそれら全ての根回しを上から叩き潰す程の力を持っている。如何に声高に叫んでも龍兵衛には敗れる道しか残されていない。

 

「お聞きしたいことが二つあります」

「なにかしら?」

「斎藤殿は、何と?」

「彼はあなたを気に入っているから大丈夫よ」

 

 安堵したと肩の力を抜く。斎藤とは一向一揆との戦い以来、あまり会う機会がない。事情を説明しなければと思ったが、本当なら大丈夫だろう。あくまでも、実乃が事実を言っているならば、だが。

 

「では、もう一つ。必ずや謙信様を無事に春日山城へと……それで自分は疑われなくなりますか?」

「どうかしらねぇ。あなた、人の噂には敏いけど自分の噂には鈍いでしょう?」

 

 そのようなことは無いと否定したくなった。しかし、思い返せば今までの自分に対する悪い噂は自身がかぎ取った訳ではなく、偶然聞いてしまったというのが多い。

 龍兵衛が口を噤んで黙っていると実乃は仕方ないと溜め息をついた。

 

「定満が死んだ時、あなたが政景殿を殺したって噂があったのは……引きつった表情、知っているみたいね」

 

 実乃の口が三日月を描く。知っていることを頷いただけだが、何が面白いのか龍兵衛には検討が付かない。疑問をよそに彼女は右手の人差し指を立てた。 

 

「じゃあ、これはどう? 定満を口封じに殺したという噂は?」

「……えっ?」

「知らないって反応ね。まぁ、仕方ないわ。その噂、広めたのは黒川よ」

 

 最初に聞いた時には脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けたが、相手を聞いて、さすがに舌打ちが出た。

 

「……ただの嫉妬じゃないですか」

「そうね。でも、それが人ってものよ」

 

 剥き出しの負の感情を晒すことが許される乱世だからこそ人は今が好機と邪魔者を排そうとする。念の為にと龍兵衛は実乃に黒川が相変わらず、上杉に抗おうとしているのか尋ねる。実乃が首を横に振ったのを見て、安心出来た。

 ただ意地の悪いところはなかなか変えられないようだ。恥をかかされた恨みを晴らさんとここにきて躍起になっているようだ。ちょうど上洛命令を受けた時に限って動くのは、鼻が聞いているからだろうか。

 

「その噂……信じているのですか?」

「貴方にやられるほど、定満はやわじゃないことぐらい知ってるわ。でもね、ただあの時に政景殿と死する価値があったのか……そう思うのよ」

 

 価値があるかは、人それぞれだろう。しかし、分かっていても言いたくなるのが実乃が定満のいなくなったことへの悔しさの表れなのだろう。

 

「噂は事実無根です。黒川のことはきちっと謙信様にも報告します。話が終わりなら、自分はこれで失礼させて頂きますが?」

 

 戦友を偲んでいるのは分かる。しかし、元々居づらかったこの部屋から早く逃げ出したかった龍兵衛にとっては好都合でしかなかった。そもそも実乃の部屋に長居することほど、珍しいことはない。おそらく後で兼続辺りから質問攻めに遭うだろう。

 返答も待たずに外へ出ようと痺れそうになっている膝を立てた時、実乃の目が見開かれて龍兵衛の目を射貫いた。若干血走って赤く見える眼から動くなと言われなくても伝わってくる気を感じる。

 たじろぐ龍兵衛を「大事なことを忘れてた」と顎で再び座るように促す。素早く言われた通りにすると実乃は表情を元の穏やかなものに戻した。

 

「そう言えば。この前、織田軍が越前と伊賀の一揆を完全に滅ぼした話はしたよね?」

「えっ? ええ……」

 

 胸を撫で下ろすのも束の間、生返事で返す。越前の一揆、伊賀の国の抵抗はどちらとも、頑強だったらしく、怒った信長は徹底的な弾圧を命じたらしい。

 そのことが何だと思っていると耳を貸して欲しいと実及は手招きをする。

 ふっ、と耳元で軽く息を吹きかけてきた。驚いて身体を震わせる龍兵衛の反応を面白がってから実及は「残念な報せかもしれないけど……」と本題に入る。

 

「……はい?」

 

 全て聞き終えた時、間の抜けた龍兵衛の声が部屋に響いた。

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