実乃の屋敷から戻った龍兵衛は、即座に官兵衛の下に走った。到着するや否や何だ何だと顔を覗いてくる。官兵衛を屋敷の中で、と押し戻して襖を閉めて事情を話す。全て実乃から伝え聞いたことだが、と前置きをしてから話した内容に官兵衛は徐々に目を丸くし、最後には一通り戻って無になった。
それからしばらくして、二人は腑抜けた表情で屋敷の縁側に座っていた。
「何でですかねぇ……」
「ねぇ……」
再び沈黙が訪れる。秋の風が枝を鳴らし、夏を忘れさせる心地良さがある。残念なことに二人にそれを味わう気が一切無い。出された茶も手を付けていない為、すっかり冷めてしまった。
「まさか、ねぇ……」
「冷静に考えれば仕方ないけどね……」
「先を越された感じでどうもやるせないですが」
「まぁ、半兵衛ちゃんだって好機と見てやったんだからね」
事情があるのは分かる。しかし、龍兵衛のため息は止まらない。かく言う官兵衛も魂が抜けたような表情を続けている。
実乃からもたらせた情報は、井上道勝が信長からの不興を買い、処刑されたというものだった。原因は一向一揆に加担していただのと色々と噂されている。しかし、実際にはおそらく斎藤の者たちが好機と見て一斉に動いたのだろう。
巷では井上は斎藤の血を引く唯一の生き残りとして、懸命に戦う人格者として名が通っている。
おそらく実乃はそれを信じて、龍兵衛に残念な報せとして伝えて面白がりたかったのだろう。それは微妙に合っていて、違うことだと知らずに。
「いたかったなぁ……」
「ほんとですよ」
これまで何度も罪を重ねてきた者だから美濃にいれないのは当然である。それでも、龍兵衛と官兵衛はそこに加われなかったことが悔しいのだ。
井上を倒すことは斎藤のお家騒動を知っている者達にとって悲願であった。主の娘、義龍を脅して黙らせ、彼女の弟である龍興を織田から離反させて殺した。
勢いのままに義龍を殺すのかと思っていたが、井上はそれをしなかった。理由は定かではない。しかし、彼女は上りつめることをそこで止めてしまった。おそらく人を操ることに味を占め、快感を得るようになったからだろう。
その隙を半兵衛が逃すはずがなかった。昵懇の秀吉を通じて井上が斎藤を乗っ取ろうとしていると信長に訴え、毛利や足利に宛てた内通をするという偽の書状を作り上げた。
信頼していた信長の怒りは凄まじく、弁明の余地すら与えてなかった。進退窮まった井上は半兵衛や稲葉一鉄に指示をして、やむを得ずに一向一揆に寝返り、その智勇を貸すように命じた。しかし、そのようなことに二人が乗るはずもなく、あっさり織田に敗れた井上は逃亡中に討たれたらしい。
「首は上がってるの?」
「みたいですよ」
「呆気ないよね~」
「織田が大きくなったから、ですかね」
「……なるほど。気を緩めるなってことだ」
「でも、元々の力があったわけじゃあ無いですからね……それに……」
「なに?」
「いえ。何でも」
半兵衛が手を下したのだから仕方ない。言うまでも無いことを口にしても、気休めにならない。むしろ虚無感が増すだけで、後悔も深まるだけだ。
「いつか、あいつのことを伍子胥みたいに遺体を暴いて骨を叩いて良いですか?」
「馬鹿。んなことしたら上杉の印象悪くするだけ」
「冗談です」
「そうは見えないけど」
ばれたかと龍兵衛は肩をすくめる。官兵衛が何年も一緒に同じ釜の飯を食っている彼の心中を分からないはずがない。
その一方で、官兵衛も彼と同じ気持ちを抱いている。どれだけ心を落ち着かせてきても、あの井上の顔を忘れることなど出来ない。だから、龍兵衛は目の前にいる官兵衛に思いをぶつけた。
「だって自業自得で死ぬって自分勝手過ぎるでしょう?」
「まぁ、確かにそうだけど……逆に言えばあの塵も所詮その程度だったってことでしょ? もしかしたらぼろを出して半兵衛ちゃんが何か仕掛けたのかもしれないし」
龍兵衛は諦めたようにゆっくり官兵衛から目を逸らして俯き、溜め息を吐く。推測の域を出ないが、半兵衛が井上の誤りに付け込んで密かに織田から遠ざかるように仕向けたのは確かだ。
「半兵衛ちゃんが頑張ったんだからそれを無駄にしちゃ駄目だよ。いくら敵同士になるとはいえ……」
「重さんの思いを無為にするような愚かなことはするな、でしょう?」
分かっているじゃんと鼻息を鳴らして官兵衛は頷く。
「ま、織田との戦はまだまだ先ですがね」
「やっぱりね」
織田と上杉の国の規模は五分五分だが、国力は畿内一帯を手中にしている織田の方に分がある。今は消耗した国力を回復して軍備の改革や治安の維持、商業や農業の促進を図り、一揆などが一切起きない国にすることが優先である。
「別に今から戦って勝てない訳ではないけど……」
「毛利とですか?」
「残念。上杉単体で」
「……はっ?」
呆気に取ったことが嬉しいのか官兵衛はにやりと歯を見せる。
「えげつないことを考えてますね?」
「当たり」
官兵衛は嬉々として耳打ちをしてきた。そして、聞き終えた龍兵衛は頬を引きつらせた後、笑った。
「確かに。それなら自分達の計画も確実に上手くいきますね。当てはもちろんあると?」
「当然」
「では、やりましょう」
「了解」
官兵衛は膝を打って立ち上がる。ここまでくれば龍兵衛がここにいる意味も無い。立ち去ろうと襖に手をかける。
「万が一のために毛利への交渉もお願いしますよ。向こうだって思惑は一緒のはずですから」
「言われるまでもないね。もう実家には書状送ってるし」
「出奔した説教を自ら受けに行くのか……」
「あ?」
「何でも」
官兵衛が鋭い目つきで睨んでくる。全く怖くないが、大事な話をしているからここでからかうのは良くない。
官兵衛の実家は小寺という播磨の豪族である。今は毛利に付くか織田に寝返るかで揉めているだろう。官兵衛の交渉次第になるが、毛利への扉を開けるには欠かせないものとなる。
官兵衛は名前を捨てて家を飛び出した身であるため、実質の勘当状態である。しかし、有能であるが故に密かに戻ってきて欲しいという声をもらうこともあるそうだ。
この状況下を龍兵衛は笑いたくなってしまう。史実では、迷う主家を織田に付かせようと説得していたというのに、ここでは毛利に忠誠を誓い続けるようになるとは。
「滑稽な……」
「最近独り言多いよ」
「すみません。何でもありませんから」
「あんたの正体を知っているあたしにまで隠さなきゃいけないこと?」
「ええ……ですが、悪いものではないので」
「話の脈絡が掴めないんだけど」
「聞いてくれるな。ということです」
好奇心の強さから、官兵衛は納得しないと頬を膨らませる。家に帰ったら餅を買いに行こうと龍兵衛は決心した。
官兵衛は龍兵衛がどこから来たのか知っている。だからこそ、言いたいことは言えるし、何も包み隠すことはない存在である。しかし唯一、史実で彼女がどのようなことをしていたのかは言っていない。
歴史を変えることへの恐ろしさはあったが、上杉をこれだけ大きくさせて何もないのだから、理は読めない。言わぬが花と言うようにただ待っていれば良い。本当はどうなのか語って欲しいと言われるまで。
「ところで、謙信様はこのことを知っているのですか?」
「うん。毛利と手を組むのが得策なのは分かっていたみたい」
「ま、戦略的にそうなりますよね。将軍家も毛利に頼っているみたいですから」
隠居しているとはいえ、元就が未だに健在である毛利ではその意見は絶大な力を誇る。家臣達には織田との対決姿勢を明確にするからと反対する者もいたようだが、鶴の一声に適うはずが無い。
あくまでも風の噂だが、経緯が越後にも届いている。必然的に織田にも通じているだろう。毛利が同盟を求めることが出来るほどの利害関係が一致していて、互いに利益があるのは自ずと上杉になってくる。九州は今、大友が九州統一に向けて最後の決戦を開こうとしており、とても中央に構っている暇は無いらしい。
「さて、出立時期を決めないと」
「直接向こうに出向くということは、一回京にも立ち寄るということですか?」
「そりゃあね。織田がどうなっているのか知りたいし」
「一応、軒猿や闇商人からも情報は得ているのですがね」
「気付けないこともあるでしょう?」
「なら、自分達と時期を合わせませんか?」
「はい?」
真顔で首を傾げているのを見ると本当に知らないのだろう。龍兵衛は手を添えて官兵衛の耳に口を近付ける。小さいので首が大変だが、何とか聞こえる所で上洛のことを話す。
「……そっち行きたい」
「駄目です」
「えー楽しそう」
「楽しかないわ」
「どうせ、あわよくば織田の重鎮をやるんでしょ?」
「そんな子供が遊びに行くような目をして言わないで下さい」
「子供じゃない!」
「そうじゃなくて……」
へそを曲げないように宥めて龍兵衛はきちんと京に行く任務がどのようなものかを改めて伝えた。謙信の護衛という名目で龍兵衛が行くというようなことに疑問を持たれるのは分かっていたため、包み隠さずに実乃の名前を出した。
「あの妖怪ばばあ……」
官兵衛は本気で怒っている。目には見えない青色の炎が雰囲気から伝わってくる。目が両端がこれまでかとつり上がり、拳は腕も震えるぐらい強く握っている。
「何か聞いていませんか?」
「いや、変な噂は聞いてない。だけど、あくまでもあたしの場合だよ」
「まさか、自分は……」
「大丈夫。今のところ、あんたに変なことをしようとするのはいない。あくまでも悪口」
「なら良かった」と言えない。唇を噛んだまま視線を外に移す。悪口は悪口で龍兵衛の心に害を成している。未だに鮮明に感じるかつての虐げられた屈辱はたとえ見えず聞こえずとも怒りとなる。
「定満殿がいた時は良かったですが……やはり……」
「あの人は特別」
「そう、ですよね……」
「あんた。珍しく人に期待してるの?」
「状況が状況なだけに」
官兵衛は溜め息を吐きながら首を横に何度も振る。表情も呆れ返っていると口にしなくても分かる様だ。それは龍兵衛自身もよく分かっている。これまで誰かに頼ることは一際せずに自分で出来る範囲のことをやってきた。それが彼のやり方である。
だが、今の龍兵衛はとても一人で自分を支えられるような状況下ではない。だからこそ淡い期待を心に抱き、荒れた心を落ち着かせるために現実から逃避している。自分でも分かっている。それでも、期待をすることで恵みを得られそうな気がするのだ。
期待したところで、変わることなど何も無いというのを知っているのに。
「ま、あたしは何があろうと味方だよ」
「ありがとうございます」
「だけど、今のあんたはその気になれない。自分でも理由は分かるでしょ?」
項垂れるように龍兵衛は頷く。おそらく孤独を貫こうとするが故に、誰かが手を差し伸べたいと思うようになるのだろう。今までは自覚したことの無いところだったが、最近の状況の変化の中で何となく分かっていた。しかし、孤独を自覚してそのままでいられるほどに龍兵衛の心は決して強くない。
「手掛かりは自分で探しな。あたしがあれこれ言うことじゃない」
「そうですね。それに、今はそれどころじゃない」
「……はぁ」
龍兵衛は官兵衛の顔をうかがう。溜め息を吐かれるとは思っていなかった。何かぶつぶつ言っているみたいだが、よく聞こえない。何かと尋ねようと思ったが、詰めたところで言ってくれないのは分かっているから諦める。
「あ……」
顔を引っ込めようとすると官兵衛は気付いていなかったのか、こちらを見て驚き、顔を赤くする。
「いつからそこに!?」
「いや、最初から……」
「うっさい死ね!」
「は?」
口を開け閉めしたと思ったら、そっぽを向いて頬を膨らませてしまった。箸でも持ち込んでつついてやりたいが、先程から脱線続きの話を戻すためにわざわざ非合理的なことをすることは出来ない。
「ともかく、京に行く以上は細心の注意を払いましょう。毛利の方と接触する機会も得られたら儲けものです」
「……そうね。あたしもついでに準備しとく。謙信様にも相談してみる」
「お願いします。それから……義龍様も今は京で過ごしているとか」
「……で?」
「せめてもの見舞いを」
分かったと官兵衛は頷く。先程までの不機嫌さはどこにも無い。ただ、脳内で貪欲に策を巡らせている。斎藤家の面々は様々な織田の家臣の配下になっている。主の義龍の下には誰もいない。
密かに面会することは叶わないだろう。とはいえ、連れ帰るわけにはいかないが、せめて安全な所に退避させたい。そのための流れを官兵衛は必死に模索している。龍兵衛も、もちろん考えているが、なかなか妙案が浮かばない。
「さて、自分も言うことは言ったので戻りますね」
立ち上がる前に腕を大きく上に伸ばす。固まっていた筋肉や骨が気持ち良い。一部音が鳴ったが、支障は無いので気にしない。
「でも、良かったよ」
前に伸ばしていた腕が止まった。口を開いたのはもちろん、官兵衛の口調が明るいものからどこか寂しげのあるような雰囲気に変わったからだ。
「何がでしょう」
「あんたがてっきり忘れていたと思ったからさ。あの約束を」
「……忘れるわけがないでしょう。何故自分があなたに付いていかなかったのか」
脳裏に蘇る記憶が龍兵衛の心にも影を落とす。内輪もめで斎藤家の勢いは一気に落ちた。そして、義龍を傀儡にした井上によってさらに美濃は死に向かった。自力で立ち直るには時間が足りなさすぎる。そう判断したからこそ、龍兵衛と官兵衛は道三と義龍に暇を乞うた。
しかし、三人の軍師は味方の恩を何も返さないほど冷酷ではない。とはいえ、あの時の半兵衛はどこかへ旅立てるほど体調が良くなく、官兵衛も家出同然で美濃にいた。
「誰かが大きくならなければならない時でしたから」
「だからあえて二手に別れた方が機会は増える。そう言ってた。初めてだったよね、あんたがあたし達二人のことに意見したの」
「そうでしたか。それは覚えてませんでした」
「別にどうでも良いけどね。ただ、あの時は驚いたし、少し嬉しかった」
「何故?」
「え……成長したな~って」
「にはは」と笑う官兵衛の表情はどこかぎこちない。とりあえず、口元を緩めて答える。吹いていた風が一瞬だけ強くなり、龍兵衛は不意に外へと視線を向けた。ここまで上杉を大きくするために上杉の者達が嫌う汚い仕事を背負い、褒められずに過ごしてきた。それでも、動き続けられたのは上杉への恩もある。だが、それだけではない。
「確かに自分達は上杉の天下統一のために動いています。それは紛れもない事実であり、願いです。が、自分を雇ってくれたおかげで力を付けれたのは道三様の計らいがあったからこそ」
「それから、受け入れてくれた斎藤家だからこそ。でしょ?」
首を勢い良く大きく縦に振る。さすがに長居し過ぎたと立ち上がり、固まった腰を伸ばす。そして、官兵衛にも自分にも言い聞かせるような小さい声で決意を改めた。
「斎藤家の復興は決して忘れることの無い悲願ですから」