謙信が護衛を伴って上洛する上杉の中でもかなり秘匿事項とされた。臣のみが知るものとされ、知った者の多くが危険だと反対した。しかし、重鎮の実乃、斎藤、兼続もなどがこぞって賛同したため、反対意見は見事に押し潰された。
若狭から陸路を取り、謙信達は京に入った。信長が関所の多くを撤廃して、偽造された免状も簡単に信じてもらえるほどに質が低下している。
関所が無くなれば、人の流れが良くなり、経済的には効果がある。決して悪いことではないが、戦乱の世の中ではせめて質を高めなければならない。
もしかすると、毛利や畿内の豪族の討伐に向けて人が出払っているからかもしれない。そう考えた謙信は先行していた段蔵や繋がりのある京の商人に連絡を取り、これが現状なのか、他国を欺く罠なのか確認をすることにした。しかし、宮中からの要望もあり、歩みを止めることも出来ない。
結果として京に到着することは出来たが、目立ち過ぎるのは良くないと考えた謙信は商人達が使うような宿を使うことにした。朝廷側が用意してくれた宿には申し訳が立たないが、詫びとして大量の金を送ることで、密告を防いだ。
朝廷への謁見は官位を持っている謙信と顔が知られていないという理由から慶次が護衛として向かった。慶次は様子を見る時間が減ると渋っていたが、唯一官位を持っていて宮中に参内出来る存在だからと我慢してもらった。
不満げな彼女を尻目に龍兵衛は官兵衛や景資を伴って密かに動き始めた。謙信には京の様子を見て、あわよくば味方に付いてくれそうな商人や牢人を引っ張るのが目的と言っている。
龍兵衛が外に出て商人や酒屋の酔っ払いと話をして、官兵衛が屋敷で具体的な策略を練ることになった。景資にも具体的なことは一切話さず、あくまでも謙信と同じように説明している。一番京を知っているからこそ、外に出るべきなのは自分だと言っていたが、肝心な時に屋敷と官兵衛を守る者がいないと断った。
「来た意味が……」と愚痴を言っていたが、肝心の拠点を守る者が官兵衛じゃ心許ないと説得して不承不承首を縦に振ってくれた。
龍兵衛は京に到着してすぐに行動に移った。織田が京の警護に当てている者や地形を歩くことで頭に入れ、怪しまれないように刀は持たずにただ京に見物に来た者を装った。
(案外楽だな)
毛利などと戦を行うため、畿内から軍の派遣するのに重要な地である京。かなり警戒されていて当然だろうと思っていたが、何故だろうと思うほどに武士がいない。
上杉と繋がりのある商人は、皆が今の京は外敵から身を守るべく、兵たちが日々監視をしていると言っていた。だからこそ裏があるとしか思えない警護の薄さに混乱している。
信長は既に天下を取ったつもりでいるのか。上杉や毛利を無視してまでそのようなことをすることが出来るのか。あえて間者に京の繁栄を見せつけることで、織田の力を示しているのか。
真綿で首を絞められるような思いに龍兵衛は見えないものを外すように首をかく。
とはいえ、収穫は得た。京の道や町並み。どのような店の並びになっているか。先だって潜伏していた段蔵が送ってくれた地図と変わっていることはあまりない。つまり、考えていた通りに事を進めることが出来るということだ。
(実行出来るか出来ないかじゃなくてやるかやらないかだからな……)
立ち寄った茶屋で温くしてもらった茶をふくんだ後に盛大な溜め息をつく。一度座ると歩き回っていたことでたまった疲れがどっと足にのしかかる。
畿内の情勢を知る担当をしているが、龍兵衛はこれまでさほど関心は持たずに越後の治安維持と産業の発展だけに心を砕いてきた。そのために情報を突貫で仕入れ、繋ぎ合わせている。さらに実乃からの脅迫も精神的に追い詰める負担となっていた。
(色々疲れるな……)
普段から何事も自分でこなしてきたため、体力的には問題無い。しかし、上杉にいられなくなるかもしれないという恐怖は拭えない。恐怖が体を突き動かすことは滅多になかった。
「お隣。よろしいですか?」
「どうぞ」
顔も上げずに女性の声に答える。不意にかけられた声に驚きも感じられないほどに疲れていると実感する。これまでの重圧ははね除ける材料があったが、今回は正に背水の陣であり、龍兵衛の命もかかっている。実乃という巨大な存在では謙信も無視することは出来ないだろう。龍兵衛は額に手を当てて俯く。
「お悩みですか?」
「ええ……」
「かつての同朋を忘れるほどに?」
「え……あっ……」
声に導かれるように隣を向くと目を疑い、確信を得ると絶望を感じた。隣の者が向けてくる微笑みの裏にある詰問の目は誤魔化せない。
「あっ……何故、光秀殿……」
「貴方の変装は美濃の頃よりよく見ておりましたので」
「自分を信長の下に連れて行くおつもりですか?」
「何かそれだけのことをしているのであれば」
「決して織田に害が被ることではありませぬ」
「本当に?」
「ええ」
間髪入れずに龍兵衛は偽りの力強い頷きを見せる。光秀はじっとこちらの目を見てくる。ここで何か動きを見せたら負けだと彼女の目を真っ直ぐ見る。見えないはずの実乃が突き立てる刀を背中に感じ、正面から銃口を向ける光秀を必死に抑える。
数秒の時が四半刻ほど経ったように感じられた。幸いに光秀はつり上がっていた目を緩め、微笑みを浮かべた。
「どうやら、疑わしきことは無いと信じて良いみたいですね」
「ありがとうございます」
「ですが、完全に信じた訳はありません。何をしに来たのか。問うてもよろしいですか?」
「少し商いを」
「商い?」
「人が欲しくて」
納得したと光秀は頷く。笑っていなかった目も比較的警戒が解けたようだ。事実ではあるために龍兵衛からすればそれ以上の答えは出来ない。運ばれてきた団子を頬張ることで示すと彼女も話は終わったと注文をし始めた。
「改めてお久しゅうございます」
「ええ。お変わりないようで」
色々あったと言いたいが、我慢する。あの頃は景勝とも寄り添っていた。親友とも再会して廃れていた心が充実していた。それが今、孤独になり、上杉譜代の者からの重圧に耐え忍ぶ日々が続いている。過去の真実を知り、同家の者なら言えたであろう愚痴。だが、彼女もまた智略に富んでいて何か愚痴を言えば上杉の結束にひびを入れるだろう。
「将軍様が追放された後、織田に降ったとお聞き致しておりましたが、お変わりないようで何よりで御座います」
「藤孝殿も忠興殿も織田に降りました。細川家という高貴な家柄を守る為には致し方なかったので御座いましょう」
「貴方はどうなのです?」
「意地の悪い」
「性分です」
怒っているように見えてどこか嬉しそうだ。相変わらず捻くれているところを見て、安堵したのだろうか。
「明智は土岐の血を引く家。下剋上の波に呑まれたとはいえ、守らねばならないものがあるのです」
光秀は一つ溜め息を吐くと落ち着いた口調で話してくれた。義昭は信長に対抗出来ずにあっという間に追放されたらしい。しかし、諦める様子も無いようで、再三光秀や細川にも書状が届くらしい。
大切なものは一度失ってからその価値に気が付くと言うが、義昭はどうやら足利の誇りを取り戻す気概を見せ始めたようだ。
謙信から聞いていたような雰囲気とはまた少し変わっている。
「将軍様は大分躍起になっているのですね」
「河田殿。ここは通り故に、もう少し……」
失礼と龍兵衛は頭を少し下げる。人通りはまばらだが、京は都であり、多くの者が集まる場所。一段と声を潜めることを心掛けて口を開く。
「義昭様は?」
「毛利様を頼って鞆の津へと向かわれたとお聞きしております」
「なるほど、水軍ですか。京に織田の方々がいないのは、堺にいるからでしょうか?」
「さすがに鋭いですね。私は留守居を預かっております」
「信頼されている証ではないですか」
光秀は眉間にしわを寄せ、首を横に振った。
「見せたくないだけですよ。私や細川殿が未だに義昭様と通じていると恐れているだけです」
「ですが、都たる京の守りを任されているのは誇って良いかと。それに、聞けば畿内の領地を与えられているのが何よりの証では?」
「違います。信長様にとって京や畿内はそれだけの価値しか無い。ということです」
「そのように仰っている割には、嫌そうにしているようには見えないですね」
光秀は苦笑いしながらその通りだと頷く。信長は降った光秀や細川親子三人を冷遇せず、むしろ落ちぶれた将軍家の権威をそれなりに持ち直させた能力を買って城や領地まで与えてくれた。最初こそ保守的な家から移ったために革新的な動きに戸惑うこともあったが、今では割り切ることも出来るようになり、理に適ったことを信長はしていると気付いたらしい。
「良い刺激を得ているようですね」
「ええ、本当に」
「では、何故に将軍様と文を?」
「来るべき時のために、ですよ。変わらない京をまた見れる時を夢見て」
「まさか、京に呼び戻すおつもりで?」
「さすがに信長様へすぐに義昭様の赦免を申し上げることは出来ません。折を見て、ということになりましょう」
官兵衛が龍兵衛の部屋を訪れたのは深夜のことだった。
夕方に謙信から帝や公家が生きにくい世の中になったと不満を漏らし、もし信長を討つのであれば必ず味方に付くとお墨付きをもらったと報せを聞いた。
明日はまた関白に会うと言っていたため、今日はもう大丈夫だろうと既に布団に潜り込み、まぶたを完全に閉じ掛かっていた頃に官兵衛は龍兵衛の脇腹を蹴った。
何でこのような時にと愚痴りながら身を起こすと息の音も聞こえるぐらいの至近距離で官兵衛が見下ろしていた。早くしろと連続した蹴りを入れてくる彼女を睨み付けながら龍兵衛は話を聞く姿勢を整える。
「何の用です?」
「ほれ」
官兵衛が龍兵衛の目の前に広げたのは半分寝ていた彼を完全に目覚めさせるには十分だった。
「上京だけでなく、下京の地形もこれほどまでに鮮明に……」
「全部、あんたが放ってくれた間者が調べてくれたものの結晶だよ」
官兵衛は本当なら自分でやるべきだろうにと不満げだが、地図の出来を見て満更でもなさそうだ。
「闇商人には話してある。裏切らない人達であることも約束するよ」
「やるんですか?」
「うん。あたしも考えたけど・……やっぱり、この方法が一番、織田の動きを止めて、あたし達を動かすのに丁度良いから」
上杉が動けば織田もまた然り。実力は拮抗しているが、京や畿内といった発展し、人口の多い国々を席巻している織田の方が断然有利だ。朝廷や堺の商人の一派が上杉になびいたとしても乱世である以上、最後に物申すのは軍事力である。
「謙信様には?」
「内緒に決まってるでしょ」
龍兵衛は少し戸惑ってしまう。謙信に黙って行動したことは今まで何度かある。しかし、今回は規模や危険性を考えると実行すべきなのか強く心を左右させている。この世界に来て人を殺すことに躊躇いが無くなった訳ではない。何故か、首を縦に振ることが出来ないのだ。
「怖がってる?」
「保身を第一にしてきた心が騒いでいます」
「でも、やるしかないよ。あんたみたいな過去がある人を雇うところなんてどこにも無い」
「痛いところを付きますね……まぁ、自分の心は既に上杉に預けていますから別に良いですけど」
「へぇ。あの打算的な龍兵衛がそう言うの」
「変わりましたよね」
「うん。まぁ、上杉はいて飽きない」
「からかうのはやめて下さい。人が心から仕えている御家を宿屋みたく言うのは」
「本気なんだ……」
「ええ。もちろん」
意外だと官兵衛は目を丸くしたままこちらを見ている。龍兵衛にとって上杉に忠誠を誓っているのは紛れもない事実であり、それ以上でも以下でもない。たしかに斎藤家の復興は忘れていないが、あくまでも一番は上杉のことである。どうやら官兵衛は勘違いをしていたようだ。
「受け入れられるかも分からない中で受け入れてくれただけなく、重要な役目も与えられて、なおかつ孝さんを呪縛から解放した。これ以上の恩義、どれだけ嬉しかったか」
「うっわ、肌に粟が立つ~」
「本当に引いているところがまた腹立つな……」
「あんたが冗談も本気も同じ口調で言うのが悪い」
「性格ですから」
「そこで嫌われるか嫌われないか変わるのに」
「もう諦めてます」
「本当、あんたに心から信頼を寄せる人の頭を覗きたいわ」
龍兵衛は溜め息をつく官兵衛に近付き、真上から上から見下ろす。影に気付いた彼女が慌てて部屋の隅まで後ずさる。それ以上近付いたら人を呼ぶと言わんばかりの形相でこちらを睨んでくるので、龍兵衛は地味に傷付いた。
「な、なに?」
「え? 頭覗こうとしてただけです」
「な、なんで?」
「その答えを自分で今言ったじゃないですか」
「あ……別に許して無いから!」
「あら残念」
肩をすくめると官兵衛は舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。さすがにからかい過ぎたかと少し反省し、龍兵衛は真剣な目つきになる。
「信長は明日か明後日に堺から京に戻るそうです。三日後に貴族達と会談をするとか」
「誰から聞いたの?」
「光秀殿から」
官兵衛は頭をかきながら溜め息をつく。
「呆れた……いくら昔の同朋だと言っても、敵同士でしょうに。ましてや龍兵衛は軍師でしょうが」
「美濃にいた頃はまだまだ性根は腐ってなかったですし。自分は明後日には帰ると言ったので」
「最初にぬかしたのはどうでも良いけど、後に言ったことは少しぐらい嘘と思って良いと思うけど」
「警告もあったのかと思いますよ」
「……なるほど、信長が来るまでに急げってことか」
「見慣れない者がうろうろしていれば警戒されるでしょう。もしかしたら信長派の貴族が密告するかもしれません」
「いざとなったら謙信様は近衛様御用達の宿に入れる準備は出来てるよ」
「ありがとうございます。自分は変装しますから大丈夫です」
「あたしは?」
「何とか中国まで逃げて下さい」
「投げ槍過ぎない?」
「本当の役目はそっちでしょう?」
官兵衛は渋々首を縦に振る。構って欲しそうだが、無視して龍兵衛は地図に目を落とす。計画の手順と実行日は決まった。最後に重要かつ難題が残された。元々、行き当たりばったりの策略故に苦し紛れなところがあるのは否めない。そのために肝要なところが今になって決まるという惨状が二人にとっては現実逃避をしたくなる思いに繫がる。
「指示したのは京に止まっている明智で良い?」
「いえ、光秀殿はあくまでも監視を怠っていたとしましょう。信長が上京の者達と対立していたのを理由に密かにどこかの工作して火を放った。この方が道理に適っています」
更に言えば、光秀は今の京の景観は足利幕府の名残が残っていると考えている。龍兵衛は昼間の邂逅で悟った。
仮に信長が実行しろと言っても光秀は頑なに否定し、信長を説き伏せるだろう。そして、光秀の人となりは京の商人達の間でも評判がある。
「信長が否定してもあたし達の風聞が上京の人達には受け入れ易くて、明智と織田の仲を違わせることも可能……でも、駄目だね」
官兵衛は龍兵衛の意見に感心する素振りなど見せず、一刀両断に策を斬り捨てる。肩透かしを食らったような表情をしたが、龍兵衛はすぐに官兵衛が厳しい口調で駄目だと言ったのか手を叩いた。
「実行するのが光秀殿でなければ道理に合わないということですか?」
「そ。否定されたら信長が動かない可能性もある。代わりになるほどの価値がある人がいるなら別だけどね。そっちの方が後々のことも楽になりそうだし」
確かにと龍兵衛はおとがいに手を当てる。信長であると周りが叫んだところで信長は自身ではないと主張し、あらゆる手段を講じてでも、下手人を探し出し、黒幕の大名を討とうとするだろう。
しかし、龍兵衛は官兵衛の言葉にすんなりと承諾出来なかった。先程の光秀に京を焼くなど出来る筈もない。あれほど京に愛着がある者が急に京を焼き払うなど誰もが疑うに決まっている。
「間者がやったことで済みませんか?」
「……身代わりを作ってその人を殺せば大丈夫だよ。目的は果たして自害した。そういうことにすれば」
さらっと官兵衛は言ってのける。背筋が冷えたが、やらなければ自身の身に災いが降り懸かると考え、冷酷になるしかないと割り切る。
ならばと考える。死人に口無しということにしてしまえば捕らえた者から自身が無実で信長の指図など受けていないという否定をすることが出来なくなる。
また、信長が否定しても京の商人達は彼女を憎み、光秀、細川との間にも不協和音が生じる可能性もある。そして、当の信長は黒幕が誰なのか疑い、周辺勢力との仲が悪くなる。その時、上杉は毛利と結託して東西から織田を挟撃する。二つの家に関与する者達では織田も京の商人もやはりと思い、怒りをそちらに向ける。何故と思わせられる人物こそが相応しい。
「……あ」
「いるんだね?」
違うと首を横に振りたかったが、官兵衛の目は普段では考えられない鋭さを持ち、龍兵衛を離さない。唇を口の中に引っ込め、歯で強く血が滲む程、噛み締める。
今朝、見掛けた人物が本人ならそれに十分な条件を満たしている。決して反織田に対しても反感を持たず、何かしてもおかしくない。
「本人か確証は持てません」
「確証したら、やれる?」
龍兵衛は口を噤み、意味もなく舌を動かす。合理的に考えれば他家の力を削ぐ機会だが、度外視をすればすぐに結論が出た。
「……やっぱり、光秀殿で行きましょう。ちょっと天秤の傾きが」
「だったら何で一回考えたのよ」
「光秀殿のことだけを案じていました」
「自分から言い出しておいて、都合の良い」
「誰でも良ければすぐに用意したので」
「あーあ、冷酷な弟子だこと」
「育てておいてどの口が言ってんだか……」
これ見よがしな官兵衛の得意げな表情に腹が立つ。しかし、それで気が晴れるほど龍兵衛は楽観的ではない。人の命を天秤にかける愚かなことをしている。昔からだが、友が関わると自覚を生み、自己嫌悪に陥る。喉から湧き出るような不快感を押さえようと意味もなく軽く胸に手を当てる。
「どちらにせよ、かつての友人を堕とすことになるのか……」
「親友だろうとも利用して、されるのが乱世での運命だよ。それに、死にたいの?」
首を横に振る。生きるためにこれまでやってきたのだ。望んで死を受け入れるなど龍兵衛はまっぴら御免だ。それに、これのために京の内通者も作った。ここまで来て戻ることなど出来ない。
腹をくくったと龍兵衛は大きく息を吐く。その様子を見た官兵衛が胸を撫で下ろす。迷う中での謀は敵に隙を与える。しかも、織田の間者も決して対処が簡単な訳ではない。これまで何人もの犠牲者を出しつつようやく実行に移すまでのところまでやってきたのだ。軒猿の指揮を執っている龍兵衛が実行せずに引き返せば彼らは上杉から離れ、情報収集の柱を失うことになる。信頼と力を失えば価値など無くなる。龍兵衛は一度目を瞑り、見えない覚悟を目に植え付け、開く。
「実行はそちらに任せます。俺は下京に向かいます。よろしいですね?」
「変な気を起こさないように」
「……ならば、軒猿の精鋭の数人をこちらに回して下さい。念の為にね」
「あいよ。武運を祈る」
官兵衛にも通じたのか何も言わずに部屋から出て行った。
決断した以上、もはや戻ることは許されない。
そして、歴史の大局を変えることは出来ても、変えられない運命もある。弄ばれているのか、連れてきた者がそうしているのか。
異端者であることを忘れないように仕向けているとしか思えない流れに龍兵衛は溜め息をつくしか出来ない。もはや、抗うことさえ難しいと諦めるしか道はないのだ。
すっかり目が覚めてしまった龍兵衛は朝が来るまで外を眺め、止みそうにない雨をぼんやりと眺めていた。