上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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狂った夜

 降り続けていた雨がようやく止み、庭に咲く紫陽花が滴を受け止めて味を噛み締めるようにゆっくり下へ導く。滴ももう少しと花びらの下で粘るが、無情な紫陽花は風の力を借りてそれを振り払った。

 光秀はその様を見届けると部屋で茶をすすりながら書物に目を落とす。

 信長が昨晩遅くにいち早く京に戻ったため、その日の内に留守の間のことを報告した。光秀は労いの言葉をもらい、京の守備を分担していた村井貞勝に全て任せることになり、毛利攻めに加わることになった。

 将軍家を保護して明確に織田に対する抵抗意識を見せた毛利を圧倒的実力差で倒すことで静観をしている諸大名に力を示すのが信長の描いている構想である。畿内に続き、中国を取れば天下の半分を治めたも同然である。そう彼女は考えているのだろう。

 しかし、光秀は上杉もまた警戒すべきに値すると考えていた。北の国を討伐して何の意味があろうと小馬鹿にしている者もいたが、かつて将軍家に仕えていた身として諸勢力の情勢を伺っていた自身からすれば恐ろしいほどに発展を進めている。

 まず民の生活が非常に豊かで、法令がきちんと遵守されている。万が一、何か不正でもあれば必ず取り締まりが行われ、無情の刑罰が執行される。

 代わりに貧しい者には援助が施され、堤の建築や鉱山の開拓など、仕事が与えられる。農民も上杉から無償で農耕具が支給されるなど、恩恵もきちんと受けている。商いでも格差の出ないようにしつつ、競争を生んでより質の良いものを出そうと専売すべきものは徹底をさせ、他については誰でも商売が出来るような仕組みを作り上げた。

 これらを支えられるだけの財が上杉にあるということを示している。そして、これらの政策を請け負っているのがほとんど河田龍兵衛だというから恐ろしい。思えば彼が美濃を追放されてからというもの斎藤の財が上手く回らなくなり、いつの間にか国を支えるだけで手一杯になったことがある。あの時は半兵衛や官兵衛がいなくなったからと思っていたが、半兵衛と再会してあれは自分達ではなく龍兵衛のおかげであると言われ、驚愕した。そして、先日の彼との邂逅で確信に変わった。

 彼は商人を探すと言っていた。おそらく上杉の商いに新たな風を吹き込もうとしているのだろう。野放しにしておけば必ず織田の脅威になる。しかし、光秀は止めずに黙認した。それぐらいのことはどこの家でも行っているからだ。

 商人は利益が大きければ誰にでもなびく。弱肉強食の世の中で、上杉が強いと思われたなら織田を恐れるようにすれば良い。もし重要なことを漏らすのであれば首をはねれば終わることだ。龍兵衛を捕らえなかったのもここで無駄な上杉との間に火種を作り、毛利や長宗我部と挟撃を受けることを恐れたからである。

 上杉は国ごとに特産物を定めてそれを税の代わりにしている。それだけでなく、米や野菜なども新たな品種を作り、質の良いものを惜しみもなく国内では売り捌いているらしい。国外には持ち出し禁止とされているために光秀も口にしたことは無いが、間者曰く、今までの物が全く食えなくなるのではと震えてしまったらしい。

 その原動力の紐を辿れば必ず龍兵衛に繋がる。もし上杉がこれから戦に備えて兵の鍛錬にさらに力を入れ、毛利と手を組めばこれほど恐ろしいことはない。気になった光秀がそれとなく毛利について聞いたが、龍兵衛は平然と「毛利は強いですが、織田と大友の間では適わないでしょう。毛利の両川も二人だけではね……」と機密情報を言っていた。もし、上杉が毛利との同盟を頭に入れているなら龍兵衛は毛利のことから話を逸らしただろう。しかし、その後も龍兵衛は毛利の置かれているであろう状況下をつらつらと言っていた。

 仮にそれがわざとだとしても京の西側の関所から龍兵衛らしき容姿の者がいたという報告も無い。昨日、密かに龍兵衛が訪ねてきたが、忍びに追わせたところ確かに東の関所から出ていったと報告が上がった。

 念の為、信長にも名は明かさずに潜伏者がいると報せたが、放っておいて良いと笑っていた。新型軍船が完成して機嫌が良かったことも幸いしたのかもしれないが、彼女はあえて見せつけることで他家とは異なる威容を知らしめようとしているのだ。

 確かに信長の天下はこれまでの日ノ本を大きく変えようとしている。恐れを抱かせ、目指す先を示して魅了し、忠義を誓わせる。彼女の配下はある種、信奉者なのかもしれない。だからこそ、前例に無い命令も驚きつつも受け入れて実行する。理解出来ない者は彼女から離れていく。明確に家臣として付いていく者と敵対する者がはっきりしていて良いことかもしれない。

 斎藤や将軍家の時はどっちつかずの者も上手く手懐けなければならない主の苦しむ様を見てきた。信長は反抗する者は明確に意志を示すのだから、それを討つだけで事が済む。

 信長らしい体制の取り方には本当に驚かされるが、理に適っている以上、あれこれと言うこともない。そもそも自身は仕えて日の浅い外様であり、最初からあれこれと口に出すのは信長や譜代家臣の心象も良くないだろう。現に光秀は意見を求められた時だけ進言をするようにしている。これから先、天下の秩序が徐々に戻ってきており、下剋上は少なくなる。その時勢の中で仕官先を失った後に再び仕官出来るだけありがたい。無論、ただいるだけでは実力主義の信長は許してくれない。その恩に報いる時がもう少しでやってくる。

 明日には坂本に戻らなければならない。今、休める時に休まなければ、また戦でろくに眠れない時が続く。

 かつて仕えた主がいる御家を攻めるのは気が引けるが、試されていると思い、腹をくくらなければならない。明智には将軍家や細川家のような家格も無く、滅ぼそうと思えば誰も文句など言わない。これまで生きるために必死に生きてきてようやく得た安息の地は主が変われどそのままにしていかなければならない。

 光秀は茶を飲み干すと自身の滞在している寺へ戻る。既に坂本から兵馬の支度は整えてあると連絡は来ており、後は光秀を待つばかりだそうだ。

 

 滞在している寺は東山の近くにある。山中に向かう途中に建てられ、通りにも出やすい場所にあるため、旅の者たちも時折ここを使う。それ故に小綺麗で庭にも規模に似合わない風情がある。

 

「戻られましたか」

 

 住職とは将軍家にいた頃からの付き合いで、読経よりも庭の手入れに時間をかける変わり者である。それ故に贔屓が多く、食べていけると胸を張っていたが、仏に仕える身として如何なものかと思う。

 

「明日の朝にここを発ちます。また機会があれば」

「お待ちしております。そういえば先程、客人が訪ねております。本堂にてお待ちです」

「私にですか? 珍しい」

 

 織田に仕えてから日の浅い自分に誰かと思いつつ、光秀は住職の言葉通り本堂へ上がる。

 

「お待ちしておりました」

「徳川殿、安土より堺に向かっていたと聞いておりましたが」

「堺の見物も終わり、三河に戻る前に挨拶をと思い、参りました」

 

 徳川家康は笑顔で深々と頭を下げる。穏やかな雰囲気をまとい、桃色の髪に小柄な背丈。一見、町娘と思われてもおかしくない。

 

「安土では明智殿に饗応役を務めて頂きながら、御礼の挨拶も出来ず、失礼を致しました」

「いえ、私が急遽役を解かれ、中国への援軍を求められたのですから。致し方の無いことです」

「それが今度は京の守備ですか。相変わらずのようですね」

 

 苦笑いを浮かべる家康を見て、かつて彼女が織田の人質であったことが思い出した。分かってくれているのは織田の家臣だけでなく同盟国の主までもとなれば心強い。

 

「しかし、信長様の下には行かぬのですか?」

「生憎、今は貴族の方と会見しているそうなので」

 

 おそらく官位についての問題だろう。貴族側は信長を何としても味方にしようと関白、太政大臣、征夷大将軍の地位を与えようとしているらしい。しかし、天下統一が目的である信長にはどれも意味の無いものらしく、平行線のまま今日まで来ている。

 

「時に、明智殿はいつまで京に?」

「明日までにございます」

「それは良かったです。ぜひ、明智殿とは一度こうしてお話をしたいと思っておりましたから」

 

 おそらく、新しく入った自分の品定めだろうが、笑顔で言われると悪い気にはならない。

 

「それはそれは……では、茶の支度をさせましょう」

「大丈夫です。先程、住職殿から頂きましたから。京の方は羨ましいです。あれほど美味しい茶と菓子を頂けるのですから」

 

 今度は光秀が苦笑いを浮かべる。客を確保するためとはいえ、相変わらず手が早い。家康の前で無ければ盛大な溜め息を漏らしていたところだ。

 

「それで、話とは?」

「ああ、そうでしたね。先程も申したように今日は以前の御礼に参りました」

「ですから、そのことは……」

「いえいえ、きちんと御礼はさせて頂かないと。それに、明智殿はこれまでも苦労されているのですから。ささやかながらこちらを……」

「これは……」

「堺で商人から勧められた茶器です。明智殿の好みでは無いでしょうか?」

「いえいえ、とんでもない」

 

 光秀が好きな色である淡い水色の茶碗。手触りが極限まで滑らかにされていて、厚みもなく、これまでのような唐物の模倣品でもない。

 

「本当に、よろしいので?」

「はい。それとも、お好みではなかったですか?」

「いえいえ。しかし、このような物をどこで?」

「私が明智殿にと仰ったところ、ある商人が貴殿のことを知っていると申されて」

 

 咄嗟の嘘だと光秀は思いつつも「では、有り難く」と礼を述べる。自身に堺の商人とはそこまで繋がりは無い。おそらく家康自身、商人の押しに負けて買った物を価値が本当にあるのか分からないから折角。といったところだろう。だが、このような物は信長も持っていないだろう。

 

「商人曰く、城が一つ買えるそうですが。本当なのでしょうか?」

「私も目利きは素人故に、正確には分かりませぬが?…もしかすると、一国とも取引出来るかもしれませぬ」

「そ、そんなにですか?」

 

 価値を本当に知らなかったままだったのようで、家康は目を見開いて光秀の手にある茶碗を見る。一気に自身の良心が痛むのが分かった。

 

「やはり、こういう物は徳川殿こそが持って相応しいかと」

「それは違います。やはり価値ある物はその価値を真に知る方が持つべきです」

「いえ、そのような……」

「良いのです。明智殿は美濃や京などを渡り歩き、風情の価値を分かっています。私は三河の田舎大名。そのような者に持たれていて、茶碗も喜びません」

 

 家康が経歴を知っていることに驚いた。その上で、価値を知ってもなお、渡そうとしているのは光秀のことをそれだけ信用出来る者としてくれたのだ。

 

「徳川殿、真によろしいので?」

「はい。これからも共に、天下の泰平のために戦いましょう」

「有り難き幸せにございます」

 

 信頼されることの嬉しさ、織田に仕えてから味わえなかった喜びが甘く胸に染みる。疑念も忘れ、光秀は額を床に付けんばかりに深々と頭を下げた。

 

 

 少ない休みはあっという間に過ぎてしまうもので、家康と別れた頃には既に夕暮れ時に差し掛かり、住職が掃除した庭を散歩している間にとっぷりと日が暮れてしまった。

 光秀は夕餉を取った後、特にすることも無いと確認し、早々に床に着いた。明日からは寝られない日が続く。深い眠りに付こうと何も考えずに目を瞑る。夢も見ない穏やかで、疲れの取れる眠り。隙間から吹く夏の夜風に当てられて気分良く意識を手放し、すぐに朝を迎える。そう思った矢先だった。外からうるさい足音がこちらに向かって来た。

 

「明智様、大変です! 本能寺より火の手が!」

 

 共に連れてきていた斎藤利三が甲高い声で許可無く、襖越しに報告してきた。だが、そのようなことを気にしてなどいられない報告が舞い込んできた光秀はすぐに起き上がった。

 

「鎧をここへ。直ちに手勢を率いて、本能寺へ!」 

 

 長い髪を振り乱して利三は慌てて走って行く。外に出ると確かに本能寺の方が赤くなっている。一瞬、夢かと思ったが、床の冷たさと湿った風が現実だと教えてくれた。

 

「さぁ、殿、お早く!」

 

 妹のような存在である彼女が鎧を着るのを手伝ってくれながら情勢を教えてくれた。突然、本能寺から火の手が上がり、あっという間に燃え広がったらしい。利三も今日は信長も帰ってきて、平和だろうと気を緩めていた矢先のことで、炎が完全に見えるまで気付かなかったそうだ。

 

「誠に不覚です」

「構いません……これで私も出られます」

「馬は既に用意しております。こちらへ」

「私はひとまず数名で村井殿に状況を伺います。利三は主力を率いて本能寺へ。仔細は任せますが、信長様をお守りすることを最重視するように」

「御意」

 

 光秀は利三と分かれ、村井貞勝が陣を構えているであろう向かった。屋敷から本能寺の場所と兵を動かすのに最適な場所を推測し、そこへと向かう。だが、その地に向かうため、通り過ぎようとした村井の屋敷で光秀は馬を止めた。あまりにも騒がしく、中から薬師を呼ぶような声も聞こえる。嫌な夜予感を覚えつつ馬を下りて屋敷の番人に声をかける。

 

「何者か!?」

「明智日向守。村井殿はどちらへ」

「失礼致した。急ぎこちらへ」

 

 通された屋敷に入ってすぐの客間に鎧姿の白髪の老人が横たわっていた。屋敷の主である村井貞勝その人が怪我を負っている様を見て、光秀は慌てて駆け寄る。

 

「村井殿! お気を確かに」

「あぁ……明智、殿……」

 

 頭に受けた傷は深く、動けないようだが、意識はまだあるようで安堵する。

 

「信長様は?」

「本能寺に……明智殿、やはり、我らは謀れたようですな……」

「どういう意味です?」

「今は、ともかく信長様を……拙者の手勢をお貸し致す」

 

 力尽きた村井はそこで意識を手放した。屋敷の者に彼を委ねると周囲にいた彼の手勢を率いて本能寺へと向かう。信長を狙う頃合としては確かに間違いない。しかし、今日本能寺で彼女が貴族と会見することは織田の家臣の中でも上の者しか知らないことである。

 

「斥候より報告。本能寺を囲む兵の数は二千とのこと」

「それほどの兵が……どうやって」

 

 こちらの兵は二百程度で、とても戦えるとは思えない。一瞬、思案に入ったが、すぐに頭を振って光秀は本能寺へ顔を上げる。しかし、それだけの兵が京に入るなら関所から報告がくるはずだ。確かに信長が関所の廃止を進めてから京の関所も減ったが、質まで落ちてしまったのだろうか。

 それとも知っている者だから素通りさせたのだろうか。だとすれば首謀者は限られてくる。嫌な予感を覚えつつ、光秀は本能寺へと急ぐ。その途上、抱いていた違和感が確信へと変わった。

 

「旗印が見えない……」

 

 夜襲は気付かれないように動くために旗を多く掲げない。しかし、同士討ちを防ぐために最小限の旗は掲げておく必要はある。余程、統率力に自信があるのだろう。だが、怯んではならない。

 光秀は真っ直ぐ境内へ突撃をかけた。周辺の屋敷は既に焼け落ちていて、あちこちで喧騒が聞こえる。信長に忠誠を誓う者達が謀反人に向かっているのだろう。しかし、多勢に無勢。すぐに声は聞こえなくなった。

 申し訳ないと思いつつ、本堂に向かう。信長を探すため、また味方を安堵させるために声を上げようとした時だった。

 

「な……本堂が、爆発?」

 

 見上げると瓦や何かの破片やらが飛散して降ってきている。同時に火の勢いは増え、とても中に入れるような状態ではない。

 呆然としている間に第二の爆破が襲ってきた。瓦や壁が光秀達に降り懸かり、頭や顔に望まぬ傷を負う者もいる。光秀は素早くその者たちを後方に回して、後方の者を前線に交代させ、消火と本能寺の中の捜索へと移らせる。

 しかし、中の捜索は火の勢いを考えるとかなり難しい。光秀自身も歯ぎしりしながら本能寺を見るしか出来ない。

 

「何故これほどの爆発が……」

「昨日、火薬がこちらに運び込まれたからです」

 

 聞き覚えのある声に振り向く。怒りよりも何故ここにいるのかという疑問がまず浮かんだ。仮面を被っていても分かる。ゆったりと近付いてくるその人物は光秀の表情と燃え上がる本能寺を見比べて、優越感に浸っている。

 

「貴方が……」

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