「やられた……」
「ちょっとびっくりしたけど、これぐらいはしないと武人は務まらないよ」
子供が虫を捕まえたように無邪気に笑われて龍兵衛は少し恥ずかしくなった。流れのままに不意を突いて組み敷いたつもりだったが、取ったと確信した途端、惟信は龍兵衛の大柄な身体をもろともせず、翻して逆に組み敷いてしまった。持っていた小刀もいつの間にか奪われている。
「私は貴方と違って頭も知識も無いからね」
「代わりに腕があるから良い。と?」
「女の子に向かって言う言葉じゃないよね。昔から本当に容赦ない」
わざとらしい不機嫌な惟信の口調に龍兵衛は鼻で笑って応える。
「自分で言わせたようなものだろ?」
「皆まで言うな、ってこと」
「そりゃあ、無理だな。気を許した相手ならなおさら」
「じゃあ、私の疑問に答えてくれない? 皆まで言わずに分かるでしょ?」
この助けも来ない孤立無援の状態、言わば二人だけの空間の中で尋ねようと思っていることはただ一つ。
「どうして、俺はお前を見限り、最後まで求めを拒んだのか。か?」
「さすが」
「お前の考えていることは玩具を欲しがる目をした子供ぐらい簡単に分かる」
「あらら、それは不覚」
言葉とは裏腹に龍兵衛の襟元を掴む力はさらに強まる。
「俺からもいいか?」
「なに?」
「さっきの俺の動きに無駄があったか?」
惟信は龍兵衛の問いに唇を吊り上げる。称賛しているようにも見下した嘲笑とも捉えられる表情に龍兵衛の表情はますます険しくなる。
「無いよ。私が君のことよく知らなければ多分傷は付けられたと思うよ」
「俺のことを知っている?」
「右肩を庇うように動く癖。直ってないよ」
龍兵衛はそういうことか、と溜め息をつく。右肩に爆弾を抱えている彼は無意識に庇う癖があった。そう指摘してきたのは他でもない目の前の彼女だが、どれだけの時が経とうとその悪癖が治ることは無いということだ。
「反撃を怖がって微妙に右肩を引いたからそこに隙が出来たおかげね。それに左利きのおかげで右腕がさらに引いていたし」
納得したと龍兵衛は鼻で笑う。左手で刺そうとした刀に向かって惟信は彼の右側に移動した。そして、左手を交わすと足をかけてあっという間に彼を床に叩きつけた。
「さて……どうしてこんなことを?」
小刀を扇子を扱うかのようにひらつかせながら上に跨がったまま微笑んでくる。その微笑みが何を意味しているのか、龍兵衛には分からない。昔はいとも簡単に悟れたはずだが、どんなに彼女の目を見ようとも見えてこない。故に龍兵衛は投げかけられた言葉をそのまま返すしかできなかった。
「どうして? まぁ、見ての通りだが」
「はぁ……期待したのが馬鹿だったわ」
失望感が部屋中を埋め尽くす。龍兵衛は覚悟を決めながらも震える唇を開く。
「俺を殺す?」
「自分が死ぬのを一番嫌がっている人が死を覚悟してるの?」
意味ありげな笑みを浮かべる惟信を見ると全て分かっているのかと龍兵衛は苦笑いを浮かべる。肩をすくめて鼻で笑う。確かにこの部屋には誰もいない。
「周りには間者が多く潜んでいる。俺が叫べばそれと共にお前も死ぬ」
「あら、八方塞がり?」
「せめてもの情けだ。何か遺す言葉があれば聞こう」
どうとでもなれという思いのままに言葉を繋いだ。しかし、龍兵衛の背筋を走る冷たいものは流れ続け、身震いするのを抑えるのに必死だ。軒猿がいるのは確かだが、あくまでも謙信の命令で本能寺の件を探っているに過ぎない。それ故に龍兵衛自身の危機に変わりは無い。彼女が腕を上下すればそれで命は尽きる。
「そうね……じゃあ、一つお願い」
「何だ?」
「……一緒に逃げない?」
眉間のしわが極限まで強く寄った。それを見た惟信は彼の心を落ち着かせるように優しく微笑む。
「私には三つの顔がある。武人、数寄者。そして……恋する女子」
最後は少し恥ずかしそうに長い髪を指で回しながら惟信は蚊の鳴くような声で呟く。わざとらしいかと思ったが、頬と耳を赤くしているのは偽りがないことの証だ。
「無駄を省いて一つのものを残すとすれば、残ったのは……」
「本気で言っているのか?」
「本気も本気よ」
泣きそうな上目遣いで見られて動揺しないほど、龍兵衛も朴念仁ではない。しかし、何事も耐性というのが生まれる。
「お前に残ったものがそれとするなら、俺に残ったものが共通のものだと言えるのか?」
「だからこうして奪おうとしているのよ」
「欲にまみれたか……」
「私だって自分に驚いているのよ。あんなに努力して忘れてきた感情が貴方を今日見た瞬間に一気に湧き上がってきたことに」
「あれは誘ったのか」
「私の本当は、最後の女子だって遅蒔きながらに気付いた。でも、もうそれは叶わない夢。なら、残った二つの中で大きいのはどちらか……それは武人としての私。そう思っていたはずなのにね……」
龍兵衛はか細くなる声を聞いていると肩に入っていた力が抜け、恐怖感が収まってきたのを感じた。
『人間、生来備わっている欲には抗えないもの。欲しさや見たさに生きたいと思い、大切な人や身内も犠牲にしなければならないのです。それでも、根付いたものは大木の根の如く完全に取り除くのは難しいのですよ』
山上宗二の言葉が脳裏で蘇る。目をつむり、溜め息が零れた。
(こいつは叶わない夢と思っていながらも心の隅では淡い希望を持っているのか)
同情出来るような立場では無いが、少しだけ惟信のことを哀れに感じた。だが、許せなかった。それは無碍に命を捨てようとする者に彼女もまた成り果ててしまったことにではなく、自覚した上で自らを大切にしなくなったことである。
平和な世の中を生きてきた者だからこそ自己保身に努め、醜くとも生き抜こうとする精神が生まれた。龍兵衛はそれこそ平和の象徴であると思っていた。
故に、龍兵衛は表情を引き締め、立ち上がって惟信を見下ろしながら厳しい口調で言った。
「もはや、お前に何も浮かばない。大友に殉じることも不可能なお前に待っているのはただの犬死だ」
惟信の表情が一瞬だけ苦しそうに歪んだ。
氷のように浴びせられる容赦ない無慈悲かつ全てを否定するような言葉が続けざまに惟信の心に突き刺さっているのだろう。
彼女もまた死ぬことを恐怖と感じ、ただ生きることだけを求めてきた時代から来た。それ故に生きるために誰かを殺めることは躊躇わないが、我が身に降り懸かってくると分かれば隙が出来る。
そう思っていたが、彼女の腕に込めた力が緩むことも監視する目が泳ぐこともなかった。
以前の少し抜けていたところがあった彼女ならと思っていたが、やはり成長するものなのだろう。口調が毅然としたものになっただけではなく、精神力も強くなっている。
だが、龍兵衛とて譲れないものがある。上杉の天下と自身の保身のためにここで惟信をやらなければ全てを闇の中に葬ることは出来ないが、今は惟信に命の手綱を握られている。
いかにしてこの状況を打開するか。彼女への注意を払いつつ思考を巡らせていると不意に抑え付ける腕の力が弱くなった気がした。
「ふふっ……馬鹿ね。私って」
「急にどうした?」
「敵同士でも分かり合える友だっているじゃない。だから、こうして無理やり奪おうとしなくても良いのに……」
「そんな都合の良い物語のように行ってたまるか。ここは乱世だぞ」
「相変わらず鋭いのに鈍いね」
「生憎、俺に逃げる度胸は無いよ。おそらく、生涯変わらない」
「そうね。貴方はそうやってそういう振りをしてきた」
「どういうことだ?」
「逃げるには勇気がいる。それを貴方はよく知っている。でも、勇気が無いからと言って嘘をつく」
「何故そう思う?」
惟信は問いには答えず、胸元から一輪の小さな紫色の花を彼の下に置いた。苧環の花であった。
「これは?」と問う前に惟信がもう一つ胸元から静かに置いた物に彼は大きな衝撃を受けた。
「その様子だとまだ勇気があるということよ。これを忘れないぐらいにはね」
不協和音の狂想曲が耳の鼓膜を破壊するかのように頭蓋に反響し続ける。突如の激しい頭痛が襲い、視界が霞む。
「駄目なのね? それでも」
上杉の下で孤独に生きるか、彼女と共に心を満たすか。これだけなら龍兵衛とて迷い無く後者を選ぶ。しかし、彼にとって一番大切なのは自分自身が惨めな思いをせず、生きること。その定義は心を満たすのではなく、人間らしい豊かな生活を送ることである。
首を微かに縦に振る。その様を見た惟信は疲れたと溜め息を吐き、龍兵衛の拘束を解く。そして抱き起こすと持っていた小刀を彼の手に添える。
「眠る勇気。未だに目を覚ませる気がないのなら、目覚めさせましょう」
「な……」
「ふふっ、未だに未練を残して逝くと思っていたけど、どうやら全て終わったみたいだね……願いが、叶ったし」
そう言うと惟信は小刀を持つ龍兵衛の手を取り、呆然としている龍兵衛など気にせずに自身の胸にそれを突き立てる。その様を見て彼女が何をしようとしているのか悟り、我に返ると体を揺さぶり、抵抗する。
「動かないで」
「駄目だ。何故お前が死ぬ必要がある?」
「私がそう望むから」
「意味が分からん」
「もう嫌なのよ。人を殺してまで生きていくことが」
「だから平和な世の中を作ろうと奮闘しているんじゃないのか」
「それでも私達は平和な未来から来たのよ」
「人の死を受け入れられないと?」
「私は貴方と違って頭が良い訳でもないし、歴史に詳しい訳でもない。だから色んな失敗をしてきた。でも、こうして生きていられるのは人を殺してきて、代わりに死んでくれた人がいるから」
「それは俺も思うところはある。だけど時代が違う」
「私は割り切れないわ」
「なら武人を辞めれば?」
「どうやって生きるのよ?」
「……宗麟殿の側仕えとか?」
「……もういいよ。疲れたわ」
「悪くないと思うけど」
「ほんと自分勝手……せめて、一緒に逃げてくれるって言って欲しかった……」
美しい惟信の目に薄らと浮かぶ涙を見て心を打たれない人などいないだろう。
心はすでに鬼となっていたはずの龍兵衛もまた例外ではない。明日をも知れない中に身を投じて想われる恋を選び、共に全てを捨てて逃げるか、確実に生き延びる為に情を捨て、怨念をさらに増やすか。懊悩の中で龍兵衛は改めて自身の信条を省みる。これまで自身が命を賭けて動いたことなどあろうか。確実に生き残る算段があったからこそ行動してきた愚かな自身が突然変わったところで運は巡るのだろうか。
生きることこそ自身がこの乱世の中で定めた信念であり、死を美徳とする思想に一石を投じるのが役目だとしてきたのではないのか。
改めて龍兵衛は静かに首を横に振る。
惟信はそれを認めると声を上げて笑い出した。腹を抱え、正に抱腹絶倒と言うべきほどに。数分が経った後、彼女は涙を吹きながら震えた声を発する。
「あー笑った……やっぱ、君は君だったんだね。あの時から変わらない」
「ほんとにすっきりした」と言うと惟信はすんなりと自身の胸に小刀を立てると迷いなく刺した。
その間、龍兵衛はまるで異次元の光景を第三者の視点から見ているようで全てを眺めることしか出来なかった。
我に返った時、すでに彼女はもう手遅れとなってしまい、倒れた彼女を抱える他無かった。
「お前は、残酷だな……」
「どうかな?」
微笑みながら言うと惟信はゆっくりと瞼を閉じた。
死に際に微かに動く惟信の唇。その動きを見て龍兵衛は全身を風刃で裂かれた。生きた心地が刹那的に奪われ、体内の臓器が全てもぎ取られた気がした。
「全て、お前の筋道通りだったのか?」
指輪を元通りに薬指に戻し、両手を胸に置くと花を両手の甲に添える。
両手を合わせると龍兵衛は彼女に戻した指輪と花を外し、自身の懐に入れる。形見である以上は枯れようとも遺せる間は遺しておかなければならない。たとえ、怒りや恨みの声を浴びようとも、知る者としての義務を果たすべきである。
「捨てられた恋人か……確かにそうだな」
封印していた罪悪感が蘇り、龍兵衛の心を容赦なく串刺しにしていく。改めて自身が相手のことを分かることのできない愚か者だと嘆き、溜め息を吐く。
それでも行かなければならない。孤独を忘れさせてくれた人達が待っていると信じて。しかし、なかなかその一歩が出ない。まるで何かを盛られて身体が痺れているように微動だにしない。
「行かなくては……」
動かない。何故と問いても龍兵衛の身体は動いてくれない。問いに答えを返してくれない。ならばと龍兵衛は頼み込んでみる。動いてくれと心の中で身体へと土下座をする。罰ならば既に惟信に受けている。
それでも、気付かされることで気付いただけでは天は飽き足らないらしい。だが、戻るべき場所があるのであれば、龍兵衛は一歩を踏み出さなければならない。
(いや、上杉に待ってくれる人がいるのか?)
官兵衛も不在にしている。颯馬や兼続、慶次達同年代ぐらいの者達にとって自身はもしかしたら邪険に扱いたい存在かもしれない。何故なら自身は上杉を影から支え、正々堂々戦う者たちから忌み嫌われる存在であり、理解ある者といえども眉根をひそめている。だが、ここで一番の難点がある。
(上杉を捨てたとして行くべきところなにかあるのか?)
裏切りを働き、拾ってくれた恩を捨てて出奔。ましてや決して褒められるような功績もさほど上げておらず、行っているのは調略や政務、工作の指示など武人が嫌うようなことばかり。主君に迎えられても讒言によって命を落とす危険もある。
それならたとえ一人のままであろうと上杉で孤独に生きるほうが良い。所詮、軍師とは孤独であり、それを乗り越えてこそ一人前である。
自然体を装い外に出る。辺りは人の気配が無く、不気味な雰囲気さえも感じられる。
「河田様。如何なされました?」
「いや。何でもない」
突然背後から現れた軒猿の者に振り向きもせずに応える。
「そうでございますか。汗が凄いので何かあったのかと」
指摘されて龍兵衛は額に手を当てる。確かに滝のような汗が流れていた。道理で外に出た時に涼しく感じたと思いつつ、手に付いた汗を振り落とすと手の者に努めて冷静な口調で命じた。
「これは燃やしてくれ」
先程までいた屋敷を見て言うと手の者は怪訝そうな表情を見せる。
「織田の目が厳しい故、危険かと」
「構わない。やってくれ」
「承知」
表情を見せまいと下を向いたまま龍兵衛は静かに歩き出す。
「燃えてしまえ。罪もお前も……」
心を許し合えると信じ、互いに想い合っていた者を殺めた大罪はいかなる罰で償われるのか。意識に苛まれた中でも龍兵衛は謙信達が待つ屋敷へと足を止めることは出来ない。愚かにも自分が生き延びることしか考えられない彼の思想は心の部屋から一人を追い出し、穴を空ける代償を支払い、境地に達した。
しばらくして本能寺近くで火災が発生し、住民の怨念の感情はより一層強くなった。
本当に明智がやったのかと疑問を持った敏い者もいたかもしれない。しかし、それらの少数の声は愚かな大衆の声にかき消された。