本能寺にて織田信長が死去してから三日後。
未だに混乱が続く京の中核から離れた山科では現世とは結界を張られている常世のように良く言えば自然豊かな悪く言えば田舎臭い空気が漂っている。今の武人や商人が見れば顔をしかめるような貧相な屋敷がまばらにある程度で喜んで移住しようとは思えない街並みが続いている。
逆に言えば世捨て人や事情のある者達の格好の隠れ蓑であるとも言える。
その中で異彩を放つ者が一人、身支度を整えて自邸からゆったりとした足取りで出てきた。白く腰まで伸びた髪の毛は優雅に揺らめき、背筋をしゃんと伸ばしている姿はとてもお尋ね者とは思えない。端から見れば何故こんなところに住んでいるのか眉根をひそめてしまうだろう。
今日は気分が良いようで彼女は楽しそうに外で跳ねるように屋敷の周りを歩き回る。
一周りすると満足したのか、彼女は屋内に戻り、囲炉裏の傍にに少ない家財をまとめる。
もう一度外に出ると女性は火打ち石を取り出し、手際良く備えてあった藁の束に付けると躊躇うことなく自邸に放り投げた。あらかじめ油を撒いていた廊下はあっと言う間に燃え広がり、全体を炎で包んだ。
女性は微笑みながら自分の屋敷の前に立ってその様を眺める。今まで住処として使ってきたみずぼらしい屋敷が囂々と紅蓮の炎を上げて燃えている。
今までの己としての人生を終えてさらに奥深い闇に落ちる支度の始まりである。中では彼女が彼女であるために認めた茶についての本や道具も燃えている。
だが、本人は嬉しそうに眺めている。決して茶の湯を捨てる訳ではないが、新たな自分として生きる為にと思うと心が躍るのだ。
ここに何の未練も無い。しかし、せめて今まで使っていた屋敷を処分するのを見届けるのはせめてもの礼儀である。考えた結果がこの場を炎によって浄化し、全てを無に帰することで新たなものを一から生み出すきっかけとなる。
「あんたはん、随分と変わりましたなぁ……」
女性の隣にはいつの間にか京訛りの口調をした女性がいた。屋敷の主より頭一つほど高い背をしており、桃色の着物を基調とした浅緑色の羽織りを身にまとい、落ち着いた様子で燃え盛る屋敷を眺め続けている。
「活き活きとして、ほんで顔に力が漲っている感じや」
「分かる?」
「やはり、新たな己に会えると思うているが故に?」
「うん。やっぱり私にはこの道は合わないと分かったから。これからしばらくは名も無く生きようかなと」
「だからって屋敷を焼くとは……うちもさすがに思いもよりまへんでした」
「そう、なの?」
不安そうに小首を傾げる定満を見ると本当に実年齢とは思えない程に可愛らしいと思えてしまう。だが、本来の年齢は彼女の功績を知る者であれば信じられないほどに上である。
少々の羨望を抱きつつ宗易は深々と頭を下げた。
「丿貫としての最期、ほんに見事過ぎます」
「これが私のけじめだから」
「まさか、道具や書物も焼いてしまうとは、思いませんで。あまり、感心致しまへんけど」
「人の栄華は身と共に終わる。だから、宗易さんもそうすると良いと思う」
女性の不安を和らげるように千宗易は頭を横に振った。
「うちはうちの色をこの世に広めるまでは生き続けます。そのために貴方達に付いたのですから」
「欲深いの」
「ええ。それがうちという人でありますから」
にっこり笑っている宗易から真っ黒な欲の気が見える。何年も京に滞在し、多くの欲を見てきた中で彼女は欲の表す色や気を感じられるようになってしまった。
おぞましい。
それが宗易に対する丿貫の評価である。彼女の欲に比べれば信長や武人の抱く欲など生易しい。彼女は自身の願いのために躊躇いもなく主を斬り捨てる。
今回の本能寺の事件を手引きしたように。
信長を明智が殺したように見せるために京に光秀を呼び出し、茶会を開いたのは紛れもない宗易である。信長に毛利攻めの援軍に向かう明智軍の激励を行うことも兼ねてと進言した彼女の暗躍は見事に成功した。
信長を本能寺に止め、火薬を仕込み、明智を京に置いて主犯をすげ替える。さらに光秀が素早く京に到着したことも幸いした。火を付けた光秀が失踪したのは明智軍をいち早くまとめ上げ、京を支配下に置くための支度を整えるべく動いたからという憶測も上手く民衆に流れた。
しかし、光秀も流石である。自身が無実であることを示す書状を織田の諸将に巻き、黒幕の存在を謳い、今一度織田の家中がまとまることを訴えた。また京にも御触書が立ち、冷静さを取り戻した京の人々は疑心暗鬼ながらも光秀を信じる空気が出始めている。
それを良しとしない宗易や丿貫といった反織田の者達がさらに行動し、光秀が信長の持つ天下の茶入を奪ったのではないかと流言をした。これによって光秀に対する疑いは再燃した。当然、光秀もそれについても対応しようと動いた。しかし明智が陣を構えていた場所に本当に茶入が置かれていたため、さすがの彼女も動揺を隠さざるを得なかった。
仕込んだのは当然ながら闇商人の一味だが、息のかかった者を派遣したのは丿貫である。
彼女が懐柔した商人達は本能寺の変の混乱に乗じて明智軍の陣に忍び込み、件の茶入を置いた。
息のかかった者からの連絡では家臣の中には叩き割って証拠を隠滅する意見も出たらしい。しかし、律義者であり数寄者である光秀はそのようなことなど出来るはずもなく、言い訳ができないと悟って潔く茶入を保護したと公にした。
奪取では無いと言ったところに最後の抵抗を感じたが、もはや意味はなく、光秀は信長を殺して天下に名高い茶入を奪い、号令をかけたと認識された。
「これから明智殿は大変なことになりますなぁ」
「柴田、丹羽、羽柴が続けて各戦線からの撤退を始めているみたい」
「最も早く明智を討伐した者が次の中央の覇者となる。やけど、丿貫殿にそのつもりはない」
「私は必ず天下を取ってもらいたいと思う方がいるか」
「だからこそ、力強い目を呼び戻した」
そう言って宗易が微笑むと丿貫も図星だと苦笑する。
京にいる間、怠惰を貪っていたわけではない。だが、織田による統治が上手く機能してくるにつれて動きが思うようにいかなくなり、二の足を踏むことが多くなった。信長の死は再び畿内を混乱に陥れ、彼女が動くに易い環境を生むことに成功した。
受け入れる度に気持ちが滅入っていた丿貫にとって新たな動きは喜びと楽しみを返り咲かせるには十分だった。
「華は一つあれば良い。宗易さんがそう言うなら私も、新たに一つの華を見つければ良い。拾った華を捨ててもね?」
「明智殿は元から拾うつもりではなかったの違います?」
「私が拾ったのは明智じゃない」
宗易は本当に驚いたと目を見開く。屋敷から燃えた紙くずが宙を舞い、二人の間を通って地面に落ちた。場をつなげようと宗易は口を開く。
「信長が死に、京は混乱を極めております。これからうちらも身の振り方を考えませんと」
「すでに決まっているんじゃないの?」
「ふふふ。さすがに読まれますか」
丿貫は頷いて宗易の目を覗き込む。辞めてほしいと宗易は手で目線を遮ると溜め息を付いてはっきりとした口調で言う。
「うちは当分羽柴殿に付きます」
「柴田さんや丹羽さんは?」
「あの人らは根っからの武人やから、侘び数寄のことをただの嗜みと思うております」
「羽柴さんは違うと?」
「あの御方は全てを受け入れる心を持ち、万人の上に立つ器を持つと考えております。少なくともうちが見た中での話ですが」
「そう……」
丿貫は素っ気無い返事を返し、その様を見て宗易も諦めたように溜め息をつく。
宗易に定めた人物がいるように丿貫にも尊敬する人物はいる。未だ出会ったことも無いが、丿貫や弟子である山上宗二からの手紙を読む限りはかなり魅力的な人物なのだろう。
宗易が秀吉に魅せられたように。
そう思いつつ丿貫に目をやる。相変わらずつぶらな瞳をこちらに向けて、改心を促してくる。
最初に彼女と出会い、この目を見た時には同性でも誘惑に負けてしまいそうになり、危うく良い茶器を渡しそうになった。宗易は既に見慣れたが他の商人仲間の中にはこれにすっかり当てられてしまった者も少なくない。
宗易は心を無にして丿貫の攻勢をはね退けると自然体で口を開いた。
「いずれ、分かる時が来るでしょう。その時にでも考えさせてもらいます」
「分かった。でも、時が来れば……ね」
「言われるまでもありません。清廉なあの御方とその息女殿であればうちもむしろ動きやすい。利害は一致しております。案じることはありません」
「でも、秀吉も同じじゃない?」
さすがだと宗易はわざとらしく首を横に振る。否定しているのではなく、見透かされていることに若干の嫌悪感を覚えたからだ。
宗易にとって重要なのは己が絶対と信じて疑わない価値観を世に知らしめ、至高のものにすること。それが叶えば天下の趨勢がどうなろうと構わない。
信長の価値観と合わない宗易は彼女を扱うの難しいと判断したからこそ庇護を受けていた恩を簡単に忘れて他者に移った。
丿貫の策に乗っかり、新たな主の下で己の価値を天下に知らしめるために必要な行動であった。おそらくろくな死に方をしないだろう。だが、現世から後世にかけて己の価値が至高とされる世の中とされるのであれば生きている内に動かなければならない。
だからこそ扱いやすく、信長の次に天下に一番近いと判断した秀吉を選んだ。
「まぁ、しばらくは敵となることに変わりはありません」
「手強い」
「しばらくですよ。しばらく。どちらかが負ければそれに降り、へつらう」
「商人だね」
「魚問屋ですから」
人に対する考えは最後まで相容れなかった。たとえ劣勢になろうとも最期まで主に忠を尽くす武人と主が変われば心付けを送って従う商人。
生きている世界が異なった二人はその性格を捨てきることが出来ないままだった。
冗談のつもりで言ったのか笑う宗易と笑えないと真っ直ぐ彼女を見る宗易。
「本当に最後まで分からない人」
「あら、なかなか長い間共にいらっしゃったのに……」
「私の前で平静としていられたのは、貴方とあの御方だけぐらいだから」
丿貫は他者の性格や状況を読み、自身の世界に巻き込むことで行動を操ることに長けており、絶対の自信を持っていた。その誇りを見事に打ち砕いたのが宗易の巧みな話術と自然と体から出てくる圧倒的存在感である。
初めて彼女の茶会に出た際に丿貫は負けという感情を生まれて初めて抱いた。
話をしながらこちらの流れに引き込もうとしたが、例え難い威圧感に口を開くことができないまま彼女の話をただ曖昧に相槌を打って聞いていただけだった。その後、場所を移したとしても彼女は意志を強く持ち、彼女とのやり取りに応じた。
丿貫にとって自身の掌中に相手を引き込まなければすなわち負けである。
それ故に、宗易を警戒し、いざとなれば排すべき存在として見てきた。
今後、敵対するのであれば今ここで殺めることも考えた。だがしないのは彼女との戦闘が面倒であるからであり、決して情を抱いているからではない。商人であるにもかかわらず彼女の個人的な戦ぶりは一流であると自身の目で何度も見てきた。速さでは確実に敵わず、柔能く剛を制す戦いにも手慣れている。さらにここで実行に移し、逃げられれば畿内における土台が宗易よりも脆弱な丿貫では影響力の差から追われる身となるのは確実で、そこまでの危険性を背負ってまで動くほどの価値が今ここには無いと判断した。
それを分かっている宗易は無防備の姿勢を崩さないまま微笑み続けている。表面的に友好的な関係性を築いているように見えるが、利害関係が一致している機会が多かったためというのが正直なところである。
だが、それを楽しむ自分がいたことも確かであり、命を賭けた駆け引きの時ほど心躍る時があった。だからこそ京にいて天下のために動き、こうして後世に伝わる大きな事変に携わることが出来たのは誇りであった。
それ故に千宗易という商人であり、天下一の茶人は京の孤独の中で出来た唯一の友である。
「いかがです。最期の茶会に招きましょ」
宗易は殺風景な道に向けて手を誘う。震えるその腕は悲しみなどではなく、自身が掲げる一切の無駄を省いた名も身分を捨てた客を招くことで究極の茶会を開けることへの喜びである。
「喜んでお受けするの」
丿貫は屈託の無い笑みを浮かべた。宗易の様に思いを察しただけでなく、彼女もまた共にいた喜びを最後まで分かち合い、別れを惜しんだからである。