上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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堕落の光

 謙信達が無事に越後へと戻ったことが伝わると事情を知る上杉の重臣達はこぞって諸手を上げた。

 今は織田が支配している京に密かに入っただけでなく、信長の死による混乱が謙信達に降りかかるのではないかと不安視し、兼続や実乃は裏で景勝の正統な当主移行を進めていたほどである。

 その不安を裏切るように皆が傷一つ負わずに帰還したことも皆が大いに喜ぶ要因となった。

 確かに苦労が無かったと言えば嘘になる。だが、想定よりも大したものではないというのが京に赴いた者達の正直なところであった。

 しかし、それ以上に謙信を無事に越後へと帰還させたことが彼らにとって何よりも喜びを与え、僅かに湧いた疑念も忘れ去った。

 慶次と景資が奔走して京から無事に脱出し、越前でも織田の追撃に集中していた一向宗の散発的な襲撃も退けたおかげと噂になり、彼女達の評価も大いに上がった。

 だが、謙信は一切の褒美を与えず労いの言葉をかけただけだった。

 まるで何事もなかったかのように。

 謙信は追従した者達にしばらくの休息を与えたが、戻ったその日の内に龍兵衛だけを呼び出した。

 

「謙信様、無事のご帰還、誠に恐悦至極でございます」

「うむ。私も正直驚いている。まるで私達の周りだけ何事もなかったかのように揉め事が起きなかったのだからな」

「強運ここに極まれり。ということでしょう」

「まぁ、以前の帰還の時よりは簡単に戻ってきたからな」

 

 答えに窮した龍兵衛は無言のまま口元だけ笑いを作った。思い出したくない事実はなかなか口に出せるものではない。上洛した軍を襲撃するという逆賊甚だしい行為をされてきたあの事変は上杉にとっても隠蔽すべきという声もあったほどのものだった。

 

「此度は越前の一向宗残党も織田の攻勢でそれどころではなかったようですから」

「これほどまでに上手く行き過ぎると裏があると考えてしまうな」

「しかし、明智ももう少し遅くに信長を討ってくれれば皆様に心配をかけることがなかったというのに」

「機会が丁度良く来てしまった。ということでしょう」

「こう考えると運が良かったのか分からなくなる」

 

 謙信が深く聞いてこなかったことに安堵しつつ、龍兵衛はさらに話を別へと移す。

 

「時に、帝とはどのようなことを」

「そういえば色々とあって話せていなかったな」

 

 謙信は居住まいをわざとらしく正すと真剣な表情になる。 

 

「我らは帝より直々に織田の脅威を退けるように命を受けた。だが、信長が死んだ今、織田を潰す理由が無くなった」

「御運が恵まれましたね」

「端から見ればな。だが、私が強者との戦を望むのは知っているだろう」

「御意。しかし、自分達からすれば多大な戦費が減るだけでも良いと」

「まぁな。それで帝に信長が討たれた後に再び呼ばれたのは知っているだろう?」

「そこでは、何と?」

「織田が滅んでも臣下は滅びず、そう仰せられた。そして、天下に昇る竜となれ。とな」

「重いですね」

「達成感があって良い」

 

 謙信だからこそ簡単に言ってのけてしまい、何とかしてしまう。慣れてしまったのはいつからだろう。

 家臣達もそれが当たり前になって、謙信のために命を捨てる。外様も最初は驚き、不信感を抱いても自ずと従う不思議な人望がいつまでも龍兵衛は疑問に思っていた。

 それが理由で他の家臣達とは距離が出来ている。最近になって気付き始めたが、もはや治す気にならない。

 

「人手を増やす必要がありますね」

「やはりか」

「ある程度の余裕が無ければ人は無駄を省くだけに留まらず、やるべきことまで楽をしようとします」

「颯馬や兼続であれば『私の力で何とか致しましょう』と力強く言ってくれそうだがな」

「人間、根性だけで物事が上手くいけば苦労しません」

「まぁ良い。それより、お前を戻ってきたばかりで呼んだのには訳がある」

 

 袖の下から謙信は一枚の書状を取り出し、龍兵衛に向ける。

 

「これがお前に与える位と役目だ」

 

 受け取った書状に目を通す。最初に目を見開いたが、徐々に読み進めていく内に元に戻り、最後には何かを感じ取ったように目を細め、謙信に頭を下げた。

 

「謹んで命に従います」

「何も不満はないのか?」

 

 驚いたように謙信は龍兵衛を見ているが、首を二、三度横に振る。

 

「最初は驚きましたが、自分とて謙信様のお考えを少しは察することは出来るかと」

「申してみよ」

「天下を正義で治めること。これは他者の正義を否定することに繋がります。つまり、表だけの正義で天下を制するほど、この世は甘くない。しかし、謙信様は軍神として天下を正す使命を負われた。誰かが泥を被らなければならないと」

 

 努めて穏やかな口調で語り終えた龍兵衛の前に謙信は立つと膝を付き、床に頭を擦り付け、深々と土下座をした。

 

「誠に、申し訳無い」

「頭をお上げください。このようなこと、自分にしか任せられないのは知っています」

「正直、己の血を浴びる覚悟もあったのだ」

「自分は噂とは違う忠義者です」

「知っている。だからこそ、良いように扱っている気がしてな」

「構いません。自分は人の無意識の中に偽りを装って入り込むことしか取り柄の無い人間ですから」

 

 謙信が驚いたように顔を上げる。龍兵衛はその目を強い意志を持って見返す。決して逃げているのではないと伝えるために。しばらくの後。謙信は元いた場所に戻り、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ようやく、己を見出したか」

「朧げながら……これまで井の中にいましたが、大海を見たようでした」

「これからも期待しているぞ」

「上杉の天下のため、精々精進致しましょう」 

 

 静かに頭を下げる。まだ完全に見出せたわけではないが、きっかけを惟信とのやり取りの中で掴んだ。

 

「官兵衛に任せていたものをお前にほぼ任せることになる。かなり大変だが、辛くなったら言えよ」

「有り難いお言葉ですが、成すべきを成す前に弱音を吐くつもりはありません」

「師を超えることは難しい。だが、継ぎ、並ぶことは可能だ。これよりはお前の政の力が必要となる。同時に未だに敵はいる故に軍略も欠かせない。官兵衛に見事に並んでみろ」

「難しいですね」

 

 弱気になっているのではない。事実、全てを流れ作業のように進め、善後策も巧みに動かす官兵衛の手腕は、実力は上杉の家中で随一の切れ者ではないかと評判され、ぜひとも教えて欲しいと依頼が来るほどに高まっている。

 龍兵衛も努力しているが、天性というものなのかなかなか手が届くところに行けないのが現実である。

 それを知っているからこその発言であり、謙信も咎めるような素振りを見せない。

 

「出来る。必ずだ」

「……まるで、謙信様にも師がいたように仰るのですね」

 

 一瞬、謙信は驚いたと目を見開き、破顔した。

 

「人たる者、時代の中で師弟の関係を築くのは当然だ。そして、時代が変わればまた新たな師弟となる」

「では、謙信様にとっての師とは?」

 

 謙信は笑みを浮かべるだけで答えてくれなかった。立ち上がると襖を開け、後ろ手を組んで外を見る。既に日が西へと傾き、夕闇が迫っている。すこしだけ口元が歪んだのを龍兵衛は見た。しかし、それはすぐに戻り、真剣な表情で振り返って彼を見てくる。

 

「改めて伝える。お前の力、存分に発揮してみせろ。そして、上杉をよく支えてくれ」

「言われずともそのつもりでございます」

 

 深く頭を下げる。骨を埋めるべきところは既に上杉の下と決めている。大切な者を失ったがために得た喪失感や残された者からの怨念を振り払い、今後も真の自身を偽り続けて天下を泰平へと導く。

 決意を秘め、龍兵衛は謙信の言葉を待つ。その表情を悟った謙信も小さく漏らす。

 

「残る主な敵は織田、徳川、北条か……」

「謙信様としては即日に決戦をお望みで?」

「腹を読むのは颯馬だけにして欲しいのだが」

「僭越ながら、颯馬との愛を隠し切れていなかった御方が言う台詞ではないかと」

 

 気付かれていたのかと驚き、しかし龍兵衛なら納得だと謙信は笑みを浮かべる。

 

「まぁ、察しの良いお前なら良い」

 

 他の皆も知っているという指摘を辛うじて喉元で押さえ込み「左様ですか」と相槌を打つ。

 

「織田も信長の死によって土台が崩れています。徳川も傘代わりにしていた織田が脆くなっております。叩くのであれば足並みが揃わない内です。ですが、北条は佐竹や里見の足並みが揃わず、息を吹き返しております」

「織田は毛利のことがあるからこちらに目を向ける余裕は無いだろう。ならばここは関東管領としての仕事を果たすとするか」

「早雲が病に倒れているという情報も草から上がっております。さらに関東を手中に収めれば西へ攻勢を取る際、相手をその防衛に分散することが出来、我々は越前、遠江、美濃という豊かな土地へ一斉に攻勢を仕掛けることが可能となります」

「氏康も相模の獅子と呼ばれるほど強いが」

「早雲ほど老獪ではないだけ容易い相手でしょう。他にも今回は上杉だけでなく、佐竹や里見にも呼応してもらい、小田原城に籠もるであろう北条軍の兵糧の外からの補給手段を完全に無くすのです」

「籠城戦は覚悟しているが、それでは時間がかかる上にまた冬になれば雪の影響も考えねばなるまい」

「越後から上野や下野などからの道を整備するのも必至ですが、帰りは甲斐や信州から帰る道を整備するのも一つの手かと。また、兵の中にいる農家の者は半年に一度、村ごとに動員と帰還を繰り返すことで作業を滞らせないようにする制度を整えることも考えております」

「良い策だ。民を思うとは流石だ」

「自分はただ農業を思っているだけです」

「ただ、冬はやはり越後から信州を通る道も厳しいだろう」

「関東へ繋がる山脈よりはまだ道を作ることは可能です」

「かなり人足や金がかかるぞ」

「越後から信州へ、ゆくゆくは関東へと繋がる道を確保出来なければ、上杉の商いはいつまでも海を頼るしかありません」

「その先も考えて、か……」

 

 謙信はおとがいに手を当ててしばらく考える。そして何かを悟ったように目を見開き、龍兵衛を見る。

 

「お前、まさか本拠を春日山からどこかへ移動すべきと思っているのではないか?」

「……御意」

「理由を申してみよ」

「春日山は軍を動かし、守る点では適しています。ですが、商いや農業を行うには難点が多く、将来的にお膝元に置くには適しておりません」

「それ故に春日山は捨てろと?」

「滅相もない。これからも兵を動かす拠点として残しておくべきです」

「越後の中となると国衆の力が強い。お前が徹底的に彼らを抑圧し、他国に移したのもそのためか」

「当初は、上杉の力を強くすることが目的でした。しかし、まさかこのようなことに繋がるとは思ってもいませんでした」

「それは本当か?」

「はい?」

「私はお前が裏切らないことを知っている。が、お前がこの日ノ本のどこまでを見ているのか。それは私にも分からない」

 

 龍兵衛は謙信の目を見たまま口を閉ざす。返す言葉が無く、しかしここで目を逸らせば隙を作る。好奇心が強い主はその様を見逃さず、容赦なく質問してくるだろう。数分の間に感じる数秒間、謙信は眉間に寄っていた皺を解き「そうか」と呟く。

 

「ま、平和になるならそれで良い」

 

 謙信が少し目を逸している間に肩に入っていた力を抜く。

 

「さて、北条に時間をかけてはいられないが、織田、徳川はさらに侮り難いぞ」

「仰る通りです」

 

 畿内一帯を手中に収めた織田とは長期戦になれば物量の差が出てくるのは必至である。

 

「我らはこれまで速攻を武器に倒してきた。此度もそうするつもりだが、いかに考える」

「自分も同じ考えです。しかし、兵站を確保しなければ勝っていたとしても先の北条との戦の二の舞となるでしょう」

「それは私も思うところがある。以前よりお前は兵站の充実を訴えていたから、その役を任せたい」

「すでに関東への道の整備は手筈を整えております」

「流石だな。いずれ畿内への道をも任せることになるが」

「すでに確保すべきと考える砦や城の目安はついています」

「……私は本当に家臣に恵まれたな」

 

 謙信は満面の笑みを浮かべた。眩しいと思えるような表情に少しだけ心が晴れたような気がする。

 

「勿体無いお言葉です」

「そんなことはない。さて、急がねばならないな。私が上杉の主として立っている間に織田を倒し、天下を上杉のものとしたい」

「天下の趨勢が定まった後、景勝様に家督を譲るおつもりで?」

「私が戦の象徴たる軍神として名が通っている以上、天下は下剋上の気運をそのままにしてしまう。そう思えてならない」

 

 龍兵衛は心で嘆息した。謙信こそ皆が思う主である。己の欲のままに国を支配し、君臨し続ける者もいる中で、立場を弁えて引き際を見定めている。

 謙信の前でなければ、彼女こそ真にあるべき主君の姿だと讃えたに違いない。

 

「では、一刻も早く天下を統べなければならないでしょう」

「うむ。そのために使えるものは出来るだけ使って、あらゆることに動かねばな」

「孝さんを使者として毛利へ向かわせておいたのがその理由では?」

「その通り。頭は間違うことがあっても血は間違わない。住み慣れた地を愛し、それを踏み込まんとする者を嫌うからな」

「なるほど……」

 

 謙信はもう一度、立ち上がって外に視界を向ける。毛利が天下に興味を示さず、中国を守ること。それは謙信もまた越後を愛するのと同じである。それを揺るがそうとしている織田、徳川を倒す。それが結果として天下に近付くのであれば受け入れる。

 

「毛利に誰を使者を向かわせるか問うた時、官兵衛を向かわせるべきと進言したのはお前だが、理由は、あれが播磨の出だからか?」

「左様。万一、播磨の者達が織田や羽柴になびいたとしてもこちら側が真っ当な上杉の使者であることを示す為、どなたか他の方を向かわせるべきかと」

「お前では駄目なのか?」

「自分は畿内で悪名高いですから」

 

 龍兵衛が畿内に潜伏しているのが露見すれば特に美濃国の者達が黙っていないだろう。まだ悪名については押さえることが出来、地元である官兵衛が良い。

 それが二人で話し合った結果であり、彼女が上杉に忠誠を誓っていることを示す機会にもなる。

 紆余曲折あったとはいえ、未だに彼女のことをお客様扱いして、距離を取る者は少なくない。

 

「ともかく毛利は天下を望まず、中国を治めることを望んでいるので、それを必ず約束すれば大丈夫かと」

 

 あえてそれ以上は触れずに話を戻す。

 

「分かった。仔細は官兵衛に任せて我らは我らの成すべきことを成すか。明日からまた忙しくなるだろうから頼むぞ」

「承知。ですが、外ばかりではなく……」

「分かっている。だからこそ、お前に官位を与えた」

「失礼を承知で申し上げますが、今更のような気もします」

「気付いていただろう。お前が動くために朝信や実乃が裏で動いていたのを」

「官位を自分に与えることで、家中での格を上げ、その負担を減らそうと?」

「そうだ。それに、今後は河田豊前守として行動してもらえば、今までの苦労は無駄にならん」

 

 龍兵衛は小さく唸る。これまで龍兵衛は全く位を持たない外様の家臣であり、人望においても兼続や颯馬より遅れを取っている。だからこそ、裏で不穏分子の排除や法令で裁けない不正を始末することが出来るのだが、上杉の家風に傷を付けると思っている者は相変わらず多い。

 尻拭いを簡素にするために官位を与え、上杉にとって彼が欠かせない存在であり、忠誠を誓う者だと示すことで家中に安心感を持たせる。

 言いたいことは分かる。だが、一抹の不安は拭えない。

 

「他の者が嫉妬しないか、心配ですが」

「お前の働きは家格に胡座をかいている者らより断然良い。私や実乃から言えば表立っては動かんだろう」

「個人的には裏で陰湿なことをされる方が嫌なのですが」

 

 過去の忌わしい記憶が蘇るだけで龍兵衛の腕に鳥肌が立ち、背中に寒気が走る。

 

「案ずるな。そういう者は力が無い者だ。いざとなれば他国に移せば良い。お前の方が力はあるのだからな」

 

 それを読み取ったのか謙信は努めて穏やかな笑みと口調で答える。内容は少し物騒だが、確かに過去とは立場が違い、いざとなれば多少の血が流れても誰もすぐに咎めるようなことはしないだろう。

 そういう意味も含めてなのだろうか、謙信は視線を少し後ろにある刀に目をやり、口元を緩ませる。

 

「……お気遣い、痛み入ります」

「これから私の代が終わった後、景勝の時代となる。これから景勝のことも頼むぞ、河田豊前守長親」

 

 話は終わったと謙信は一つ頷き、それを合図に立ち上がる。

 

「それから、一つだけ言っておく」

 

 背中越しに声をかけられ、振り返ると謙信が真剣な表情でこちらを見ている。

 

「何でしょう?」

「お前は確かに己を見出した。だが、まだもう一枚手札が足りない」

「はぁ……」

「一つ手がかりを教えてやろう」

 

 龍兵衛は何も言わないが、知りたいという気持ちをそのままに体が自然と謙信に正対していた。

 

「意外と近くにいる。だ」

 

 満面の笑みを浮かべられ、主とはいえその顔を引っ叩きたくなった。

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