「(ん……?)」
龍兵衛は休む間もなく、謙信との会談を終えて城内を歩いているとふと何かが聞こえた気がした。しかし、周りには誰もいない。城の奥になるため、間者に入られるような場所ではない。
気のせいだと思い、龍兵衛は歩き出す。するとまた何かが聞こえてきた。
どこから聞こえてくるのか全く分からないという疑問と共に師匠譲りの好奇心が生まれ、龍兵衛はその場に立ち止まってどこから聞こえてくるのか耳に全集中力を込める。
音源はすぐに分かった。今まさに通り過ぎようとしていた部屋の中、景勝が執務を行う部屋から聞こえてくる。
苦しそうな声をしていると思い、周囲に誰もいないことを確認すると静かに襖に近付き、隙間があると分かるとそこに目を当てる。
一見で何をしているのか分かり、溜め息をつきたくなった。何故そのようなことを覚えたのかなどとは思わない。景勝に対して快楽というものを教えたのは他でもない龍兵衛なのだから。
声をかけるわけにもいかず、彼は静かに部屋から襖から離れる。
申し訳なさが心にしみる。しかし、手を差し伸べる資格も自身にはないと自覚している。
龍兵衛はそのまま城を出て、自邸へと帰った。
次の日、謙信が無事に帰還したことを広める評定が行われた。
謙信は留守の間、城を守ってくれた感謝の弁を述べると本能寺の件を話し、京の状況を告げる。そして、無事に帰ってこれたのは護衛の皆のおかげだと締める。その様に皆が改めて謙信に対する忠誠心を高めた。
それから重臣達のみが残った評定にて改めて帝との会見の内容を伝えた。
織田、徳川を討伐し、天下に泰平をもたらせと強く静かな声で命令された。
その言葉にそこにいた者達は皆、誰が合図した訳でもなく、頭を下げた。
帝の許可の下、謙信が天下を取れる。つまり上杉に対して刃向かう者は皆、逆賊であると見なすことが出来るということだ。それだけの評価を帝直々に与えられた謙信はやはり真の天下の英雄であり、仕える我々は果報者だという思いが重臣達を動かした。
「これからのことは、改めて皆に伝える。それまではこれまで以上に皆、鋭気を養うようにしてくれ」
評定が終わると各々与えられた役目を果たさんと目を輝かせて屋敷へと戻る。その中で龍兵衛は重苦しい気分を外に出さないように努めながら颯馬や兼続と共に歩いていた。
「本当に謙信様に大事は無かったんだな?」
もっぱら内容は京でのことである。
「颯馬、しつこいぞ」
「だがな……」
「今回ばかりは私も颯馬と同じ思いだ。謙信様に何かあれば私は……」
「泣きそうになるな。現にあのように普通にしていただろ」
「信長が死ぬなんて大事変の中にいたんだ。京が混乱していたのが簡単に想像できるのに、謙信様が普通にいるのが俺には不思議なぐらいでな」
「気持ちは分かる。もう現実に無事でいるんだから落ち着け。それに、これは好機だ」
場を引き締めると先程まで右往左往していた二人の表情が軍師としてのそれになる。
しばらく無言で進み、三人は兼続の部屋に集うと誰かが合図をかけたわけでもなく地図や資料を並べる。
「信長が死に、次の織田は彼女の妹が継ぐとの噂だ」
「信長に妹が? 聞いたことがないな。颯馬は?」
「いや、俺も知らなかった」
「無理もないさ。昔、信長に歯向かって幽閉されていたからな」
過去のある龍兵衛が言ったから二人から申し訳なさが漂う。何を今さらと思いながら何とも言えない雰囲気を無視して続ける。
「公にはされていなかったが、家中ではすでに復権が宣言されていたらしい」
「そのような者に織田の当主が務まるとは私には思えないが」
「お飾りにされていずれ誰かに奪われるかだろうな。俺は柴田辺りだと思うが」
「いや、意外と助け合うかもしれないぞ」
「龍兵衛らしくない予想だな。何故そう考える」
「尾張で内乱が起きた際、これが信長と信行の共謀だという噂がある。それが本当だとしたら重臣達はその内情を知っているとしたら」
流石、かつて斎藤に仕えていただけはある。あえて言うことはしないが、二人は納得したように頷き、資料に目を落とす。全て織田や北条に関するものであり、三人が官兵衛と共に必死になって集めてきた。
「確かにそれなら信行のことをよく知る者達が動くということか。だが、それで何も知らない者はどう見るだろうな」
「だからこそ根回しをして復権させたのだろう。それだけのことをするということはあの姉妹にはかなり強い絆があるんじゃないのか。現に信長はこれまで信行を生かしたままにしているのが証明じゃないか」
「だがこれまで何の力も持っていなかった信行が上に立ったとしても納得していない者もいるんじゃないのか? 私も一つに断定するのは好きじゃないが」
「いるだろうが、羽柴や丹羽、柴田が信行の復権に動いていたとの情報もある。もしそのまま擁立に動けば話が分からなくなる」
颯馬と兼続が納得いかないように地図と資料を見比べる。上杉からすれば分裂してくれていた方が有り難いため、二人が希望的観測を持つのも致し方ない。だが、と龍兵衛は低い声で二人を諌める。
「何事も最悪を想定しないとな。織田がこのまままとまればいつ上杉に矛先を向けるかも分からん」
「分かった。龍兵衛は畿内の方を引き続き頼む」
「ああ、とりあえずこれまで以上に調略を行うつもりだ」
「あてはあるのか?」
颯馬の問いに龍兵衛は地図上の近江に置かれている黒い碁石の右隣に白い碁石を置く。
「織田が一つにまとまろうと分裂しようと外様の将への感触は悪くない。信長が死んだ今、再度独立をしたいと考える残党勢力にも声をかけるつもりだ」
「私の方からは特にないが、仔細は任せる。官兵衛殿から連絡は?」
「毛利は中国を確保出来るのであれば良いらしいが、羽柴の攻勢に思った以上に疲弊しているらしくてな。思ったより織田に付こうという考えを持つ者もいるらしいが、信長が死んだ後はまだ連絡が来ていない」
「状況が変わったからな。最初は信長を打倒することで動いていたが、毛利の内部も混乱しているのだろう」
「……やはり何人か消えたか?」
二人が同時に頷くのを確認すると溜息が漏れる。間者がいるのは百も承知であり、その排除を担っていた龍兵衛だが、捕らえれば捕らえるほどに相手も老練な者を使ってくるため、尻尾を掴むことがなかなか難しくなっていた。
元締めがいなくなると今後、見捨てられるのではないかという不安か急遽国に戻るように通達が来るかで息のかかった者達は失踪する。全てを捕まえられていなかった悔しさが龍兵衛の心に強く突き刺さった。
「この前俺が城下で聞いた話だと使用人をきちんと管理していない店が早速店を畳むという噂があるぐらいだな」
「それは自業自得だが、主要なところまで潰れて今後我々の動きに弊害が出るのはまずい。またやるか……」
「やるって、何をだ?」
「いや、ただの改善計画だ」
そう言って兼続の追求をはぐらかす。
人手不足で商売が厳しくなるのは今も昔も変わらない。龍兵衛はそう思いつつ、闇商人に他国の市場から人を貰ってくるように書状を認めようと決めた。
「逃げた者達については捕らえるように斎藤殿に私から言っているから気にするな」
「分かった。助かる」
「……畿内については大方まとまったな。龍兵衛、斎藤殿と合流して越前から織田の様子を探ってくれ」
「兼続、それは機があれば動いても構わないというふうに捉えても良いか?」
「構わん。だが、逐一連絡をするようにな」
龍兵衛は言質を取ったと唇の片端を吊り上げる。以前に比べると大分家臣が自身の判断で動きやすくなっている。とはいえ出来るのはかなり限られた者になるが、最近それでも良いと思うようになってきた。
上杉は当主である謙信に力が集中しており、判断の多くを彼女の決定によって決めており、戦においても同じような状態であった。昔はそれが上杉の欠点とも捉えていたが、自分の判断で動ける者も多少は増え、変わらず謙信に権力が集中しているままである状況ならば反乱が少なくとも譜代家臣から起きる可能性も少なくなる。
謙信が決めたことを忠実に守ってきたのだからこれからもそうしていこう、と。
「さて」と龍兵衛は気持ちを切り替えるように手を叩く。
「ここは正攻法で、北条を攻めるのが定石だな」
龍兵衛の発言に二人も同時に頷く。三人は続いて関東の地図を取り出して碁石を黒白と細かく置いていく。
「俺が不在の間、北条の状況は?」
「俺や佐竹が調略を繰り返しているおかげか、北条方の将にも連絡を取れる者が何人かいる。里見も変わらず海からの物資を遮断すべく、海賊と連携して襲撃を行っているらしい」
「さっさと滅んでも良いのに、よく粘ることで」
「やはり善政が利いているようでな。俺らも見習いたいよ」
「あれだけ民を大切にしているんだからな。いつか我々もそうしなければならないだろう」
「民がいてこその国だ。俺が思うに、関東は今後、北条を滅ぼした後も民との戦いが待っているだろう」
「龍兵衛の言う通りだが、なかなか難しいだろうな。俺達と北条の体制は違うところが多いような気がする」
北条は家臣の意見を大切にしており、合議制で物事を決める。これが謙信を頂点に中央集権の上杉とは異なる点であり、北条を降した後、関東を治めていく上で最も課題とすべき点だと三人は考えている。
「体制が変わっても民を思う気持ちは変わらないことを伝えるように兼続とは話している」
「具体的には?」
「噂を流している。上杉もいずれ北条と同じような年貢を納めるだけで良くしている。そして、次男や働けない者にも働ける場を与えると」
「それで結果は?」
「何とも言えないな。実際に侵攻してどうなるかだが」
「しかし、家臣や民に手を出されているのを許したままにしているところを見ると、北条はやはり追い込まれているのか」
「ああ、だからこそ今年の内に北条を完全に叩くように俺から謙信様に上申しようと決めている」
「それが良いな。ところで、関東を押さえたらだが……」
「心配せずとも分かっている。お前の腹案通りに進むようにすでに手は回しているさ。私も協力する」
「済まないな」
「……正直、全て任せても良いと思うが、御目付役が必要になる気がしてな」
兼続の口調が暗くなると同時に颯馬と共に申し訳ないという思いが雰囲気から伝わってくる。龍兵衛は仕方ないと頭をかくと身を乗り出した。
「……讒言はどれぐらいあった?」
「私を介する者と本庄殿を介する者で二十はいた」
兼続は呆れたと溜息を吐く。毎日のように対応に追われていたのだろう。謙信が不在の間はただでさえ仕事が増えるのにその邪魔に入る連中ほど、鬱陶しい者などいない。
「無駄な労力を使わせて申し訳ないな」
「いや、いいさ。私も本庄殿に聞いたが、特に謙信様に言うことでもないと思い、伝えていないらしい」
「悪いな」
「ま、謙信様に伝えたところでお前に対して何かするとは思えないがな」
「だから伝えなかったのか」
「もちろん。颯馬にも言ってきた者もいたらしいが」
「それは俺が放っておいた。しつこい奴は謙信様に伝えて、陸奥の直轄地に配置しておいたよ」
「横暴な……」
「お前のためにやったんだが」
「ありがとーございまーす」
颯馬はわざとらしく首を前に出す龍兵衛に諦めた肩を落とす。兼続も颯馬に同情的な視線を送るが、お構いなく話をまとめにかかる。
「まぁ、いいや。とりあえず北条は任せるよ。俺は斎藤殿と合流して越前を攻める支度を進める」
「攻めるの前提かよ」
「当たり前だ。体制を立て直されたら無駄な犠牲が出る」
「……本音は?」
「越前から越後にかけて米の産出量を日ノ本一にしたい」
「やっぱりな」
聞いてきた颯馬だけでなく、兼続も呆れた目で見てくる。龍兵衛はその様を見て、目を見開く。
「実際に成果は出ているだろう? 今や越後の石高はもう少しで百万石に達するんだ」
「それは認めるが、本当にお前はどこまで農民を豊かにさせれば気が済むんだ?」
颯馬と兼続が少し不安そうな目をしてくる。だが、龍兵衛は構わないと首を横に振った。
「まぁ、いずれ来たる時のためにな」
「相も変わらずだな。隠す必要性があることなのか?」
兼続の追及に颯馬も同調するように目つきを鋭くする。龍兵衛は困ったように肩をすくめる。ただ彼らに理解されないような数百年先のことだから言っても意味が無いと思い、口にしないだけで、これといって何か二心があるわけではない。
だからこそ聞かれた時の対応に常々困っている。
「決して悪いことではないさ。とにかく、今は北条をどうするかを考えるのが先だろ?」
「露骨に話を逸らすな」
「だが、北条を倒さなければ今話したこともお流れになる」
「ちっ……分かった。とりあえず北条に話を戻そう」
「疑いはまだ向けたままだがな」口には出さなかったが、兼続の目はそう言っている。しかし言ったところで何か変わるわけでもない。評価されるかも分からない政策に徹底してこだわること自体、疑われているのだから、それを晴らすには龍兵衛の考えを捨てろと言っているのようなものだ。
龍兵衛は二人に気付かれないように安堵の息を漏らすと二人の会話に加わり、納得いくまで北条に向けた戦略を練り続けた。
「ふぅ……」
龍兵衛は柄にもなく熱く喋り過ぎたな、と先程の会議を振り返る。
故郷である地方を取り戻せる機会となって少し気持ちが昂っていたのは事実であるが、自分が赴かない予定にもかかわらず、何故そこまで話に入る、と颯馬と兼続から一回ずつ突っ込まれたのには恥ずかしくなった。
長らくこちらの世界に来て、気付けば気兼ねなく酒を飲める年齢も過ぎてしまった。だが、いつまでも変わらないこだわりと熱意は胸に残っているものだな、と改めて実感する。
しかし、どれぐらい『今』の関東に作り上げることを目指すか、攻略は同僚二人の役目だが、その先は龍兵衛の役目である。どれだけ農地と商業地帯を築き、先の者にさらなる発展を頼むか。
今の者達に必要な程度の利益を与え、過ぎたことをしてはその先の発展の芽さえも潰してしまう。
これから攻略を行う越前でも同じことが言える。米どころである越前から越後の国々を『今』に近付け、近付け過ぎないようにする加減をその時に住んだことも訪れたこともない龍兵衛にとっては難しい。
「まぁ、調べるか……」
両腕を上に伸ばして左右に腰を曲げる。気合いを入れ直すように息を吐く。
そのため、後ろから小さな声をかけられる前まで気配に気付かなかった。
「龍兵衛」
「これは、景勝様……」
二人だけで話すのは別れを告げた時依頼だろうか。そう思い返しつつ龍兵衛は表情を変えずに頭を下げる。
「話ある。来て」
有無を言わさないとそれ以上は何も言わずに振り返る。付いて来なければ分かっているな、という圧力が背中からひしひしと感じられる。
ここしばらくは仕事でも関係が無い立場にいられるように根回しをしていたため、久々に二人で会話することになる。正直、逃げ出したいが、立場上そうもいかない。
頭の猿もこちらを見てちゃんと付いて来いと訴えてきているのもあり、静かに息を吐くと景勝に従った。