龍兵衛は外を見る。襖を閉め切っているため、細かな状況を把握できないが、すでに太陽は完全に沈み、影のある話をするには丁度良い刻になっている。
改めて景勝を視線の正面に置く。いつでも全てを受け入れる覚悟を持ったと目で言ってくる。
龍兵衛はそれに応えるように口を開いた。
「政景殿が亡くなった時のことです」
景勝の表情が一気に暗くなる。あの時、政景の実娘である彼女にも波紋が及んだ。謀反を企む者の娘など跡継ぎにするのかと訴状が来たことに景勝の心はかなり傷付いていたのをよく覚えている。
謙信が全て政景の責任として景勝を守ったことで、事態は収まったが、未だに長尾家内で続く、見えない争いに決着が付く様子は無い。
「あの時、自分は越後に一足先に戻って色々と工作をしていたのは覚えてますね?」
景勝が頷く。
少し間を置いて龍兵衛は今までより小さく口を動かす。
「政景殿を殺害したのは、定満殿と公にはされています」
「……!」
景勝の表情が驚愕から始まり、今にも泣きそうな顔へと変わる。
だから言いたくなかった。
しかし、今さら後には引けない。景勝もまたその覚悟でこの話を聞くと言っていたのだから咎められる筋合いも無い。
「察しの通り、あの方を殺したのは本当は自分です」
景勝に容赦ない追撃を食らわせる。龍兵衛とて正直、ここまで素直に言いたくなかったが、自然に口から出てしまった。
「自分が自分の意志で殺したのでは無く、殺すように言われたのです」
今さら罪を擦り付けるのか、と景勝の目が鋭くなる。しかし、事実を全て話すと言ったことを思い出したのか、今度は彼女から疑問を投げかけられた。
「……定満に?」
「いえ……」
景勝の様子を伺う。察しが良い彼女は口を震わせ、亡き父への怒りを堪えている。しかし、言わなければならないという覚悟が龍兵衛の口を動かした。
「政景殿本人です」
自然と語気が強くなった。
心の内で枷をしていた筈の秘密の檻が嫌な音を立てて開く。同時に景勝も握っていた拳を自身の太ももに叩きつけた。
「どうして?」
「推測ですが、政景殿も自分が上杉にとって邪魔な存在であると知っていたのではないでしょうか。景勝様の実父であるあの方が代替わりをした後、最も力を持つのは誰もが知っていましたから」
景勝は口を強く結ぶ。心中で込み上げるのは悲しさか怒りか、察することは出来ない。
しばらくすると景勝ははっと何かを思い出したと顔を上げた。
「でも、龍兵衛、違う所いた」
「そんなの嘘に決まっているでしょう? だいたい、あれはかなり無理やり帳尻を合わせたのですからいつばれるかずっと冷や汗をかいていたんですからね」
あの時、湖にいたのは政景と定満の二人のみであり、二人はくるみ合ったまま湖に沈み、死んだというのが正史とされている。その前提を覆すこの告白はとても受け入れがたいものだろうと容易に想像できる。
「止めましょうか?」
景勝は首を横に振る。ここまできて飼い殺しのような真似はされたくないと思ったのだろう。
夜空のような暗い闇が彼女の心を覆っているのかもしれない。だが、望まれているのであれば応えなければならない。
「あれは、定満殿が自分を守ろうとしただけです。自分もそれに甘えてしまいました。あの頃は自分への風当たりが今よりも強かったですから」
「龍兵衛、お父さん、どうして殺してって言った?」
「景勝様のため。そう言っていました。そして、どうせ謙信様が殺さずとも家臣の誰かが自分を殺すのであろうと」
御家騒動の最中だったとはいえ、政景は謙信に刃向かった。そして、降伏すると謙信のために奔走し、自身の娘を彼女に養子として渡した。
それが譜代の家臣からは危険視されていたことを政景自身も察していたのだろう。
あの時、彼が見せた清々しい表情は今でも忘れられない。
定満に気絶させられた龍兵衛は意識を取り戻すと急ぎ、政景の居城である坂戸城に向かった。外はすでに虫も鳴かないほど、深い夜となっており、月明かりがあるおかげで辛うじて自身の理性と居所を保てている。
門番からはかなり入城を渋られたが、謙信からの命令を政景に伝えに来たと告げ、無理やり通してもらった。
中に案内されると政景は突然の来訪にも驚くことなく、快く通してくれた。
そして、客を座らせることなく、開口一番、飲みに行かないかと誘った。
龍兵衛は戸惑ったが、政景の安否確認という一番の目的はすでに果たされ、密命を受けて密かに越後に戻っているとはいえ、目上の政景の誘いを断る大きな理由も現状、特に無いため、受けることにした。
湖に浮かぶ満月は実に綺麗で酔っていなくても呑み込まれそうになる。
飲もうと誘われ、どこに連れて行かれるかと黙っていればいつの間にか船の上で政景と二人きりになっていた。
手はずの良さから全く疑惑を抱かずに盃を片手に船床に座っているが、我に返ることが出来たのは乾杯の音頭を政景が取った後に発した言葉だった。
「実は、君が来る前に定満殿がいらっしゃってな」
口に運びかけていた盃が止まる。顔を上げた龍兵衛を見て、政景は納得したと頷く。
「共にいたと思っていたのだがな」
「別で動いていたので知りませんでした」
政景はしばらく考えるように盃を揺らし、納得したと曖昧に二度三度頷く。そして、一気に飲み干すと次の一杯を注ぎ、盃を船床に置いた。
「別行動とはいえ、定満殿より言われたことを君には話しておくべきだろう。目的は同じであろう故な」
龍兵衛は察しの良さに舌を巻くが、表情に出すことなく、お願いしますと軽く頭を下げる。
わざわざ同行させずに一人で赴くほどに機密性の高いものだとすれば、政景が明かしてくれるほどありがたいことはない。
期待膨らむ龍兵衛の心とは裏腹に政景の顔に影が出来る。
「定満殿からは、上杉のこれからについて話を受けた」
「どのようなことを?」
「……あまり良い話ではない」
政景は一杯飲み干すとゆっくりと湖に目を向け、口を開いた。
今、上杉は織田と並び、天下を取れる大名となった。さらに領土を拡大すれば自然と新たに傘下となる者は増える。上杉の者達は基本的に誰であろうと受け入れる広い心を持っているが、義を掲げている謙信を崇拝しているためか、曰く付きの者達への風当たりが強い。
政景は親の代から謙信に直接刃向かった者の筆頭でありながら、家格は同族かつ武功も多いことから一、二を争う立場にある。そのような彼を嫉妬し、疑う者は多くいる。
謙信は気にすることではないと訴えに聞く耳を持っていないが、これから先、景勝やその後と続いていく中ではたして耳を傾けないままなのだろうか。
「……そのようなことを、政景殿の前ではっきりと言われたのですか?」
心に怒りを抱きつつ、平静を装って問うと政景の首が縦に揺れた。
「ああ。面と向かってはっきりとな」
「むしろ清々しい」と笑いながら政景は酒を注ぐ。
特に気にしていない素振りを見せているが、言葉の刀ほど恐ろしいほどに人の精神を切り刻むものはない。龍兵衛は身を持ってよく知っているからこそ、定満への怒りで手に力が入る。指が震えるのをごまかすように盃を一気にあおる。
久々に飲んだ酒は体に染み渡るが、まるで飲んだ気がしない。
政景は龍兵衛のような曰く付きな者達の筆頭でもある。
彼が彼らを謙信に立ててくれるため、影で何かを言われても着実に身を立てていくことができている。
大恩があるからこそ、定満の言動には疑念を持つ。人のつながりを大切にする彼女にとって政景のような存在は欠かせない。たとえ、害すべき者となろうとそれなりに丁重に扱うべきではないか。
「そこで、君に頼みたいことがある」
「何でしょう」
「私を殺せ」
政景の言葉に躊躇いは無かった。表情を伺っても普段通りで何か思い詰めたような素振りが無い。
「……正気ですか?」
「無論」
政景は何事も無かったかのように盃を揺らし、酒の水面を眺めている。
「私は私自身があまりにも大きすぎる存在になったことに残念ながら今日まで気付けなかった」
龍兵衛は全てを懐かしむような政景の目を見ると本気で死を迎えるつもりなのだと悟り、表情を歪ませる。
「最期まで振り回される人生だった。謙信様に刃向かった時。そして今も周りの者に振り回され、家にも振り回され、全てを思うがままにさせられてきた」
勢いのままに酒を飲み干す。そして、無言のまま龍兵衛を見てくる。何を伝えようとしているのか分からないが、気まずくなり、視線を逸らす。
「君にはここで私を殺して欲しい。だが、突き落とされるのは性に合わない。腹を切る故、解釈を頼む」
「死を偽り、逃げるという手段は無いのですか?」
「それは武人としての誇りを捨てることになる。出来ぬ相談だ」
政景の目は真っ直ぐに龍兵衛に向けられている。
「……残念です。謀反を起こし、降伏された貴方なら分かってもらえると思いましたが」
「あの時、私は死のうと思ったのだが、妻に止められた。景勝のことや私の必要性を問われてな。理に適っていたが故、流されるがままに降った」
政景は鼻で笑う。自身の未熟さを蔑むように。それが龍兵衛の心を一気に冷めさせた。政景が生きることを選び、臣下として振る舞っていたのかと思っていた。しかし、実際には武人らしく死を選んでいたが、やむを得ずに生きているという。
龍兵衛はわざとらしく天を仰ぎ、失望していることを表に出さず、いつもの無表情で口を開く。
「承知致しました。そこまでお考えが固いのであれば、もはや自分は止めません」
「すまぬな。私も武人故、御家のために果てると思えば、誉れに思う」
そう言うとあらかじめ支度をしていたのか、政景は素早く懐から短刀を取り出し、着物の前を開く。龍兵衛も遅々として携えていた刀を抜き、政景を介錯できる場所に立つ。
本来なら同じ御家に仕える者同士の宴で刀などを携えるのはご法度とされているが、お互いに色々と抱えているため、常に護身用として何かを持っていることが多い。
舟に乗る前に気になっていたが、やむを得ないな、と笑いながら政景は短刀を抜く。
「本当によろしいのですね?」
「最期に一つだけ良いか?」
辞世の句だろうか。そう思いつつ、刀に込めていた力を緩める。
「お主に頼みがある」
龍兵衛は一瞬だけ目を細めた。
「何でしょう?」
「……景勝のこと、よろしく頼む」
突然のことに目を見開く。だが、ここでとぼけても死に行く人を前に何も良いものは生まない。
「……気付いていたのですか?」
「娘の変化を気付けぬほど、父として失格者ではない」
政景は鼻で軽く笑う。
「だが、まさか君を選ぶとはな」
「それには同意します」
「景勝は謙信様以上に純粋だ。故に正しきを信じる。君にように影を担う者を恐ろしく嫌うと思ったのだがな」
「どうも景勝様はそれよりも自分のように微妙な立場にいる自分を同情していたようでした」
「光と影、か……だが、どちらがどちらかに呑まれるようでは全てが瓦解しよう。その恋路は厳しいものになるぞ」
「自分が貴方の死を止めず、介錯しましたから、やむを得ないでしょう」
淡々と言ってのける龍兵衛を政景は睨んでくる。さすがに過ぎたかと思い、俯くが、次に聞こえてきたのは愉快そうな笑い声だった。
「いかにも君らしい。最後までその通りの君であれば景勝とも添い遂げられよう」
「そう上手くいくでしょうか?」
政景は躊躇うことなく頷く。
「たとえ君が懊悩したところで、景勝の君への想いは私への想いよりも強い。そう信じている」
確かに景勝が権力を傘にして龍兵衛を囲えばそれに従うしかない。だが、あの優しい景勝がそのようなことをするだろうか。
「案ずるな。たとえ時がかかろうと、必ず成せる」
首を捻る龍兵衛を見た政景が元気付ける。これから死を迎える者とは思えない。何も言えないまま長いようで短い時間が過ぎていく。その雰囲気を絶つかのように政景はひときわ強い口調で声を上げる。
「さぁ、時が惜しい。見事に果てるとしよう」
「景勝様に何と言えば……」
「あれは芯が強い。私がいなくなってもやっていける。それに謙信様もあいつのことは自分の娘のように可愛がっている。あれが思うがままにやれば良い」
「しかし、言う人は言います」
「言わせておけ。どの道、私はここで果てるのだからな。万が一、君が疑われるのであれば勝手に落ちたようにすれば良い。体良く、この辺りには石や岩が多い」
「……承知致しました。後はお任せ下さい」
「我ら影ある者の手引は君がするのだ。頼むぞ。景勝も共にな……」
政景は龍兵衛が覇気に押され、頷いたのを見届けると笑みを浮かべ、短刀を腹に刺した。
深々と刺しており、もはや苦しみを続けるだけ。
龍兵衛は目一杯刀を振り下ろした。
「これが事の顛末です」
景勝を気遣うことなく、淡々と物語の終焉を伝える。
「……みんな、自分勝手」
小さな声を聞いて龍兵衛は嘆息する。
政景が景勝を守ろうとして行っていたことを全て否定された。心優しい彼女にとってこの残酷な現実は受け入れがたいものなのだろう。全てを受け入れる覚悟を持って聞くと言ってもやはり、人の心はこれほどまでに脆い。
「龍兵衛、景勝、離した理由。お父さん?」
「政景殿の言葉にあの時は景勝に向き合う力が無いと思ったのも事実です。しかし、それ以上に景勝様と共にいるのが辛く感じられたのです」
「景勝、嫌い?」
「そういうわけでは……」
景勝の実父を殺したこと。そして、過去に愛すべき彼女の父を死に追いやった要因を作ったこと。その忌まわしき記憶は簡単に拭えるものではない。
いつまでもまとわり付くのだから切り替えることも出来ない。誰から言われようとも景勝と共にいると政景の面影が見えてしまう。
「定満、生きてる?」
唐突に話題を変えてきた。少し驚いたが、定満のことは全く話していなかった。もしかすると答えられない龍兵衛への心遣いかもしれない。
「それは、自分からは言えません」
「生きてる。間違いない。どこ、いる?」
龍兵衛は首を横に振る。
「教えて」
「それを教えれば、景勝様もこちら側に来るということになりますが?」
「構わない」
「そこまでして、景勝様は何をしたいのです?」
「龍兵衛、助けたい。傍にいたい」
分かっていないと龍兵衛は首を横に振る。
「主となるべき御方は将兵、民から慕われ、手本とならなければなりません。景勝様もその道を歩む御方です」
景勝は諦めずに言ってくれと目で訴えてくる。耳飾りを捨てた彼女がどこに消えたのかを知るのは龍兵衛のみ。墓場に持っていきたいという心理を理解しても好奇心か、闇に触れる覚悟があるのか、どちらかは分からないが、知ろうとしている。
「行きはよいよい、帰りは怖い」
「どういう意味?」
睨み付ける景勝を見て、やはり知らないかと龍兵衛は目を瞑る。
「来るのは容易いですが、抜け出すのは困難を極めます。それは自分がよく分かっていますから」
聡い景勝は何が言っているのか分かったのか、いよいよ絶望の淵に落ちたような表情を見せる。
これまで龍兵衛が景勝と距離を取っていたのは罪の意識の他に彼女への思いやりであった。英雄として生きていかなければならない景勝が父の仇をどうして受け入れられるだろうか。
愛していた者がただ振り向いて欲しいと思いで動き、讒言などから彼を庇い続けてきた。だが、それは父の仇をただのさばらせていただけという愚行であり、暗中に自ら身を投じた者への冒涜に等しい。
そして、それを言わない優しさによって守られていたのだ。
地響きを立てて二人の間に完全な隔たりが出来た。
「景勝様、あなたはこちらではなく、光ある道を歩むべき御方。もはやこれ以上言うべきでは無いでしょう」
「でも……」
「貴殿は英雄となられる方です。受け入れ難いことも全て受け入れ、越えなければなりません」
景勝の体が震えている。精神の弱い者ならすでに発狂していてもおかしくない。だが、頭を抱えたいと持ち上がっている腕がそろそろ限界であることを物語っている。
「景勝、嬉しかった。龍兵衛、ずっと嘘付いてくれた。優しかった」
先程、嘘を付いて欲しくないと自分で言ったことを忘れたのだろうか。それとも怒鳴った際、何も考えずに無意識に出た言葉だろうか。後者なら龍兵衛が尊重すべき景勝の言葉ははっきりしている。
「聞かない方が良かった……」
結末はやはりこうなったか、と龍兵衛は天を仰ぎ、溜め息を吐く。分かりきっていたからこそ言いたくなかったが、どうしても景勝の脅しと熱意に心を動かされてしまった。
そして、何と愚かな家臣だろうと自己嫌悪に陥る。
景勝の表情に次はどのようなものを見せてくれるのか、楽しみにしている自分がいる。目を背けてはいけない。彼女がはたしてどうなるのか、そして素晴らしいと褒めるのか、残念だと肩を落とすのか、行く末を見守る義務がある。
「どうして……どうして!?」
景勝はそう言いながら龍兵衛の胸倉を掴んできた。
「景勝、分からない。龍兵衛、お父さん殺した。なのに、龍兵衛、恨めない。憎めない!」
政景を殺したことを告白した今、景勝は龍兵衛を殺すことが出来る。しかし、景勝の心にある情念が勝ってしまっているのだろう。
思い出したくない思い出が重なり、頭の中で様々なものが回っては龍兵衛の精神を貫き、景勝に味方し続ける。
「景勝様。自分は一体、どうすればよろしいのですか?」
小さく震えた声のはずがやけに部屋に響いた。
今の景勝に向き合うにはどうすれば良いのか。どう受け答えれば良いのか。考え、搾り出した言葉は正に愚問だった。
呆れた表情を景勝が見せる。心中では眼前の仇をどうするべきが迷っているのだろう。暗中で脱出すべき道を探すかのように見えない答えを探し続けている。
政景の思うがままにやれば良いという遺言は伝えた。それを決めるのは彼女自身である。
どちらを選んでも龍兵衛には受け入れる準備は出来ていた。罪を自覚し、景勝が抱えている懊悩も受け入れなければならない使命感がただ勝っていた。
しばらくして龍兵衛の胸倉を掴んだまま、彼女は震える唇を動かした。
「自分勝手……」