上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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名を捨てて何を得る

 謙信は京より帰還すると帝より賜った下知と彼の地で起きた事の顛末を皆に伝え、上杉が天下を正すためにさらに日ノ本統一に向けた取組を強化することを宣言した。

 その一環として伊達や最上、蘆名ら傘下の大名に動員令を発し、準備期間に半年弱をかけて秋の収穫を終えた後、上野より北条の、越前より織田の領内へ侵攻を開始した。

 また、他にも上杉の功績を称えた帝から重臣達にも相応の官職を与えられ、皆が慎んで受けた。

 これにより上杉家全体が帝から認められた存在で、織田に代わる可能性があると世に示された。

 龍兵衛も以前から謙信に言われていた官職を予定通り授かることになった。

 

「やはり名を呼ばれぬのは慣れんか? 豊前守殿?」

「ええ。もうどうぞお好きに呼んでください」

 

 龍兵衛は諦めたと斜め前にいる斎藤朝信に向け、手を振る。

 茜色の夕日が掌で遮られ、差し込みを繰り返して自ずと目つきが険しくなってしまう。

 今、二人は越前との国境に位置する加賀の日谷城にいる。

 目的は越前の占領である。

 大聖寺城を本陣としてその支城であるこの城に入り、国境で織田軍と睨み合いを続けていた。

 

「じゃあ、遠慮なく河田と呼ばせてもらうか」

「そう仰ってくれるのは斎藤殿だけです」

 

 龍兵衛はわざとらしい嬉し泣きを少しだけする。だが、あまりうけなかったため、すぐに元の姿勢に戻る。

 肌寒い風が頬を撫でる中で、さらに空気を冷え込ませてしまった。

 頭の中で切り替えて、今置かれている状況を再度整理する。

 

(これも全て、歴史通りなのか……)

 

 いずれはなるかもしれないと思っていたが、正式に豊前守に就任するとは思ってもいなかった。

 というのが龍兵衛の心中の呟きである。

 

「もうなると決まったのだから気にすることは無いだろう」

「謙信様の言う通りだ。上に立つ者として然るべきものは必要だぞ」

 

 断ろうとしたが、謙信と兼続はそう笑って背中を押された。

 元々、龍兵衛という通称は歴史上は無いものであった為に折を見てそう名乗るのは止めようと思っていたのである意味渡りに船ではある。

 河田長親が歴史上、豊前守であったため、拝命もあるかもしれないと思っていたが、随分と突然のことであったので心の準備というものが出来ていなかった。

 だが、既に外堀は謙信と景勝が近江河田家の養子に入った時から打診もしていたようなのですっかり埋められていた。 

 

「こっちの意見は通らないんですか?」

「無理」

 

 謙信にお口添えしてもらおうと踏み切った最終手段も笑われて景勝に無情な宣告を受けた以上、受け取らざるを得ない。

 豊前守は従五位下の位に相当して昇殿が許される殿上人である。 

 皆からは羨まれるか嫉まれるかのどちらかである。無駄な争いはしたくないが、とりあえず自身の都合と箔はいるかと考え、承ることにした。

 そして、良い機会と考え、今の名を呼ぶことを止めてもらうように働きかけをした。

 だが、前々から付き合いのある個性的な者達は彼の願いを聞き入れることは一切無かった。

 笑われたが、かつて受けたような冷笑ではなく、新たな門出を祝う温かな笑みに救われたことも事実である。 

 

「……まぁ、お前は今、書かせている上杉軍記には通称を絶対に使わず、官名を使うように厳命しているらしいな。いずれお前の呼び名は歴史から無くなるが、それで良いのか?」

 

 斎藤は何も聞かずに当たり障りない話題にすり替えてくれた。

 心の中で感謝しつつ、いつも通りの無表情に戻る。

 

「ええ。元々、名も無い時に仮で師匠達に付けてもらったものです。ことさら誇るものでも、受け継がれるものでもありません」

 

 斎藤は少し目を見開く。おそらく、生まれてからもらった名前だと思っていたのだろう。

 この時代で生きていく中で必要であると思ったことがまず現代風な名前を捨てることだった。奇異な目を向けられることをとにかく嫌った龍兵衛は師匠二人に名を付けてほしいと願った。そして、生まれたのが今の名前である。

 

「名付け親は泣くのではないか?」

「ええ。いずれ捨てることになっても良いと言われてますから」

「不思議だな。それでも長らく使ってきた名だろう」

「機会が無かった。というのが正直なところです」

 

 納得したように斎藤は鼻を鳴らす。

 不思議なことに龍兵衛も自分で驚くほどに愛着が一切無かったらしく、名を改めるだけでなく、今後は一切『龍兵衛』という名前を公式の書に認めることはもちろん、その名で呼ぶことを止めるように願い出ることに何ら躊躇いを持たなかった。

 周囲からはかなり驚かれたが、逆にそれに驚くほどだった。

 謙信以下、重臣達が執り成したおかげで周囲から恩知らずという根拠の無い噂が立つことは無かったが、名を付けてくれた親への不孝ではないのかと思われただろう。

 目の前にいる斎藤が思ったように。

 言われずとも分かる。出自を知らない上杉の者達が龍兵衛の徹底した『龍兵衛』の排除を訝しんだ。

 だが、すでに周囲から疎まれていることに慣れている彼にとってそのようなことは些細なことである。

 

「ま。もう、このことはよそう。それよりも、名に恥じない戦を期待しているからな」

 

 官位の価値がこの時代。どれほどのものか分かっている。だからこそ斎藤に対して比較的力強い口調で答えた。

 

「そのつもりです。謙信様と景勝様のためにも」

 

 斎藤と龍兵衛は春日山を立った際の微笑ましい光景を思い出し、唇を吊り上げる。

 景勝は自分が織田への侵攻に大将として出ると最後まで訴えていたが、謙信が引き続き内政をよく取り仕切るようにと言って頭を撫でていた。

 傍から見れば景勝が戦で頼りないと思われたが故に出陣を許されなかったと思うだろう。だが、謙信の狙いは全く違っていると上杉の重臣、皆が知っている。

 

「天下を謙信様の代で治める。その覚悟が故、景勝様に政を任させている」

「景勝様も言われずとも理解して留守を守っているのです」

「変わりなく事が進むにも俺達が一層奮起しなければな」

 

 龍兵衛はその通りだと頷く。

 諸大名全体にわざわざ根回しするようなことでもないため、謙信の意を汲むことなく、景勝が戦が苦手だと受け取った者もいるだろう。

 家臣として主の不幸を思うなど言語道断だが、斎藤も万が一のためにを考える現実主義である。

 謙信に万が一のことがあれば景勝が継ぐことは決まっている。それが未だに乱世が続いている中であった場合、上杉の中で揉め事が起きては、これまでの苦労が全て水泡に帰す。

 そのため、上杉の重臣達は何としてでも早期決着を付けなければと躍起になっている。

 それは悪いことではない。しかし、何かが起きれば上杉が天下を取ることが難しくなってしまう恐れがある。

 斎藤も龍兵衛も上杉の中では数少ない客観的な目で物事を見ることが出来る存在である。だからこそ、越前攻略を失敗できないものであると気を引き締めている。

 それからしばらく斎藤は目の前にある地図を、龍兵衛は頭の中で越前の道筋を考えていると「報告」と扉の外から兵が声をかけてきた。

 

「何だ」

 

 斎藤が応答し、龍兵衛も声の方向に顔を向ける。

 

「斎藤様、謙信様より書状が来ております」

 

 龍兵衛が立ち上がり、兵から受け取るとそのまま斎藤へ渡す。中身を検めると顔が徐々に明るくなり、全て読み終わると満足そうに何度も頷き、こちらを見てくる。

 

「謙信様は北条を降伏させ、氏康、氏政姉妹を降したとある」

「さすがですね」

 

 龍兵衛も斎藤から渡された書状を読む。

 越冬を覚悟した出征だったが、思った以上に佐竹や里見の

 

「そうなるとお前は関東に赴くことになるな。支度は出来ているのか?」

「滞りなく。兼続にも引き継ぎ出来る資料は残してあります」

 

 龍兵衛は謙信に願い出て関東が収まり次第、自身をその後の統制に携わらせてほしいと頼んだ。

 当初、考案したものを兼続に任せようとしたが、やはり自身でやった方が早いだろうと改めて謙信に依頼した。

 結果、快諾され、兼続が交代で越前攻略に向かうことになった。

 彼女は謙信の命令ならと不承不承承知していたが、後で呼び出されて何故このような願いをしたのか問い質され、苦言を足がしびれてひっくり返るまで続けられたのは別の話である。

 

「ならば良いが、いつ頃経つ?」

「兼続が来てから向かいますので、ご案じ召されることはありません」

「織田は信長が死んだ後、妹を担ぎ出したそうだが、内側の混乱は耐えないからな。別に俺達だけでも構わないが」

「報告でも確かにその通りのようです。しかし、追い込まれた者ほど何をするか分かりません」

 

 織田は信長の死後、子供がいなかったこともあり、妹である織田信行を当主として立てた。

 しかし、彼女は元々信長に反乱を起こして地位や名誉を奪われ、ほぼ軟禁状態で過ごしていた。それが信長のやり方を反故する統治を行うのではないかと不安を抱いた者達が反対しており、収拾がつかない状況となっている。

 潜入させている者達の報告では、柴田や丹羽、羽柴といった重臣達が明智を討伐した後、信行を担ぎ上げ、彼女をもり立てると宣言した。

 そのため、大分落ち着いているらしいが、納得出来ない者達がくすぶっていることは事実である。 

 だが、窮鼠猫を噛むとも言う。織田は未だに勢力としては日ノ本で随一であり、上杉も単独で挑むにはかなりの支度と苦戦を強いられるだろう。

 その間に織田が再び団結すればひっくり返される可能性もある。

 

「お前のことだ。官兵衛を通じて一石投じるつもりだろう?」

「さすがに斎藤殿を騙すことは出来ませんか……さらに内部を崩せば容易く越前も奪えるのは確かです。すでに畿内に揺さぶりはかけています」

 

 隠し立てする理由も無いため、素直に白状する。

 斎藤の表情から特に龍兵衛を咎めようという機はなさそうだと見た。

 

「柴田と前田。織田の重鎮達が押さえている越前を奪えば奴らの喉元に刀を突き立てたも同然だ。この調略が意味するところは大きい」

「毛利も羽柴が撤退したことで守勢を転じて攻勢に出るそうです」

「東西から挟撃か。こいつは随分と大胆だな」

 

 斎藤は頬に手を添えて肩を震わせながら笑う。

 信長が倒れ、明智という重臣を欠いた今、抑圧されていた畿内の豪族達が一斉に動いているらしい。

 詳細は分からないが、徐々に織田に被害を与えているらしい。

  

「そういや、織田のことで思い出したが、信長を殺った明智が生死不明っていう話は聞いたか?」

「ええ。そのようですね」

「お前は昔、明智と一緒にいたことがあると聞いたが、生き延びる質か?」

「誇り高くも理想を見る御方ですから、どちらとも言えません。ですが、生きたところで織田の領内ではまともに生きられないでしょう。ましてや、明智殿はなかなか美しい御方ですから」

 

 朝信は察したように表情を暗くする。

 乱世の世で、女性という生き物が男の慰み者となって生きる術を選ぶことはよくある。しかし、それが望んでか、望まずかでその心を保てるかは別である。

 

「お前の言う通りの人だとすれば……いや、今はそれよりもこれよりのことだ。かなり話が逸れたが、越前にいる織田の状況は?」

「一乗谷周辺に陣を構えているようです」

「俺達を囲い込み、包囲するつもりか」

「陣を動かすのは難しいでしょう。しかし、各個撃破するにも敵は山々に砦を建てています」

「時間がかかると秋や冬になり、行軍に支障が出る。誘いに乗り、犠牲覚悟で攻める他ないか」

 

 火を付けて周囲から敵をあぶり出すことも考えたが、火攻めを極端に嫌う龍兵衛はあえて提案せずにいた。

 勝てる見込みがあるからこそ言わずにいれたのである。

 

「案ずることはありません。必ず犠牲を抑え、勝利致しましょう」

「敵の援軍も畿内が不安定なおかげで出すことが出来ない。眼前の敵だけなら、俺達が薙ぎ払ってやる」

 

 斎藤が笑みを浮かべ、龍兵衛を見てくる。それに静かに頭を下げて答えた。

 越前方面には斎藤と龍兵衛の他、吉江景資や最上が合流している。数の上では上杉の方が有利だが、地の利は織田にある。それを覆すには知略も必要だが、柴田や前田といった織田随一の猛将に相手出来る将も欠かせない。

 

「全ての支度、整いました」

 

 外から兵の声が聞こえ、二人は頷き合う。

 

「今向かう。全軍に出陣の号令を出せ」

 

 兵が返事をして去っていく。足音が聞こえなくなると同時に斎藤が立ち上がった。

 

「策はお前に任せる。織田を徹底的に叩くためにもこの戦を取るぞ」

「御意。ひとまず、丸岡城を落とし、拠点を確保した後、一乗谷へ向かっていただければと」

「一気に抑えるつもりか。随分とお前らしくない」

「敵も見え透いたように一乗谷へ誘っているとなればさっさと取れば良いのです」

 

 斎藤は納得いかないと眉間にしわを寄せている。大将には説明しておいた方が良いと考え、龍兵衛はそちらに体を向ける。

 

「直江様、到着致しました」

「……えっ?」

 

 それよりも前にやってきた報告に龍兵衛の表情が青くなり、一気に冬の到来を予感させる体感温度の寒さを感じた。

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