上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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零に還る土地

 故郷に帰れば否が応でも過去の記憶が蘇る。

 だが、脳裏に浮かぶのはこの時代から約五百年近く後のことである。

 眼前の痩せた土地にまばらにある家々のある土地が夜も光輝き、暗くなることを知らない街となるとは想像できない。

 この世界で将来、関東に遷都される可能性は低いかもしれない。しかし、どのようなことがあったとしても故郷が寂れたままなのは心に来るものがある。

 そのために様々な土地を切り拓き、田畑を作るために木を切り、港を作るために海を埋めていかなければならない。

 戦果のみならず、生活のために自然を切り崩して際限なく湧き出る欲を解消し続ける愚かさに笑いたくなるが、そうしなければ民からの支持を得られない。

 人々が豊かに暮らせるようにする犠牲に感謝と畏怖を示すように龍兵衛は土地の神に深々を頭を下げ、小田原に向かった。

 

 

 

 謙信は小田原城に入り、城下町を片付ける兵達を視察していた。

 本来なら北条の主城であるこの城を廃城させて新たな城を築き、北条の関東支配が終焉したことを示すべきだが、越冬の時期と重なってまでの関東遠征は上杉にもかなり負担を抱えてしまった。

 新たな築城による出費を押さえ、長年、善政によって北条に心を奪われている関東の民を上杉のものにしなければならない。 

 

「河田様、ご到着」

「すぐに評定の間へ通せ」

 

 謙信は視察を中断し、小田原城内にある評定の間に向かう。

 関東の民を北条から上杉に向けさせる。その鍵となる配下はすぐに部屋へと入ってきた。

 

「謙信様、此度の関東制圧、祝着至極に存じます」

 

 形上の挨拶を済ませ、頭を下げたままの龍兵衛を近くに来させる。

 

「さて、北条は降したことだ。関東を手中に収めた後のことを進めねばならん」

「自分の我儘を聞いていただき、誠に感謝致します」

 

 既に龍兵衛の提出した関東を如何にして上杉の下で豊かにしていくのかという資料は読んでいる。

 それぞれに土地や海や森林をどのように活用し、政策を進めていくことで上杉と民にどれほどの利益を分配するか、実に理論的に認められていた。

 その過程も合理的に出来ており、却下する理由もなく、あの兼続でさえ唸らせた政策である。彼女でも当然実行できるものだったが、土壇場で彼がやはり自分の力でやりたいと言ってきたため、応諾した。

 

「よい。お前が責任を感じるのも分かる。越前の方は抜かりないか?」

「万事つつがなく。春までには必ず制圧出来ましょう」

「なら良い。では早速、関東を興すために励んでもらうことになるが、何から始める?」

「まずは、農具の改良や肥料の改良を促し、土地を開墾していくことからです。それには自分が既に越後で取り入れている例の物達を使おうかと」

「他国には商人の流れで任せていたが、国として全面的に支援するのは既に書面で見せていたため、分かっている。しかし、関東の民はかなりの数だ。品数は問題なかろうが、如何にしてそれらを運ぶ?」

「それも問題なく。こちらに来る前に一度春日山に戻り、試作していたものをこちらに持ってきました」

「ほう」

 

 見せろとは言わなくとも龍兵衛は「こちらです」と外へと案内を始める。

 城の外に出て、貯蔵庫の方へと向かう龍兵衛の背中に付いて行く。

 つくづく彼の隠しきれない体の屈強さには驚かされる。これだけ背が高く、肩幅の広い者が出てくれば知らない者は名のある勇猛な武将と勘違いするだろう。

 

「あちらをご覧下さい」

 

 詮無きことを考えていると貯蔵庫に着き、示された方向を見る。

 目の前には並の人一人では運べないぐらいの大きさがある木箱が数十並べられている。

 

「おう、颯馬か」

 

 先客が既に龍兵衛が持ち込んだものを見て、呆気に取られていた。声に反応してこちらへ振り返り、謙信がいたことに気付いて慌てて頭を下げている。

 

「見かけないと思ったらここにいたのか」

「兵糧や武具を見ておこうと思ってな。ところでこの大きな代物は?」

「これから謙信様にも説明しようとしていたところだ」

 

 颯馬とも合流し、さらに置かれている巨大な箱たちに近付く。改めてよく見てみると幅と高さは二間(約3,6メートル)ほどの物と幅が三間(約5,4メートル)ほどで高さ三尺(約90センチ)ほどの物が二種類ある。

 かなり光沢のあるような材質で、触ってみるとかなり滑らかでなかなか癖になりそうである。

 よくよく見てみると薄く削った木板を隙間なく並べている。

 

「これらを用いて今後、こちらに必要になる物資を運び込みました。これらを使うことで雨風などによる腐ることのない運搬が可能になります」

「見た目よりも軽いのか?」

「そういうわけではありませんが、崩れ落ちる危険性はかなり下がります。また、食材などを運ぶ際に中の物が駄目になることも少なくなるなど、明らかに安全性は高くなります」

 

 謙信は再度木箱たちに目を向ける。

 龍兵衛の言う通り移動を伴う戦で物資の運搬は武働きと同様に非常に重要な役割である。しかし、戦果が評価されがちな現状、なかなか重臣をこの立場に回すことが出来ずにいたことも事実である。

 彼は以前から戦場での食事にはかなり気を配っており、とりわけ兵糧の保管には神経を尖らせている。

 食えれば良いだろうという大多数の意見を汚い食事を与えることで疫病で死ぬほど、戦で無意味なことは無いと退け、兵站の流れをより円滑にするため、中継地点の管理や移動日数を徹底的に管理する制度を確立した。

 結果として兵が飢えによる略奪行為や病の発生を劇的に減少させたため、白い目を向けていた重臣たちも一切文句を言わなくなった。

 意識を目の前の木箱たちの処遇に戻す。龍兵衛の言う通りこれらが量産できれば屋外に物を置くことも可能であり、わざわざ屋根を作る作業が減る。

 人足についても龍兵衛が貧民層と言っている者たちから引っ張ることで対価を与え、生活を保証できれば彼らによる盗みなどの被害も無くなり、治安向上につながる。

 

「ゆくゆくは鉄を用いたものも作る予定です」

「今のままでは駄目なのか?」

「先程、謙信様が触れていて分かったかと思いますが、表面はかなり滑りやすくなっているのは木が腐るのを防ぐ特殊な油を塗っています。これでは火が着いた際の対応が難しくなる弱点があるのです」

「なるほど。しかし、鉄となればかなり費用がかかるのでは?」

「それだけの対価をもたらすと考えています。陸や海の運搬に新たな風を吹かせ、越後の品を傷付くことなく他国に渡すことも出来ましょう」

 

 謙信は納得したように頷く。しかし、他国にこれを使うということはこの技術を見返りも無く売り渡すということになる。もちろん、龍兵衛もそれをよく知っている。そのことを承知で動くということは、敵味方問わずに彼の中でもう上杉が天下を取ることが確実であるという目処が立ったのだろう。

 

「だが、国を越えるということはこの技術を他国にただで売り渡すことになるぞ」

「構わないかと。これで上杉は他国と比べ、国力も技術も上回っていると示すことになり、より優秀な職人と商人が利益を求めてやってくるでしょう」

「随分大きく出たな」

「もはや、御家の領地が畿内を治める織田よりも暮らしが豊かであることは隠しきれない事実です。ここに関東の復興が成功すれば国力の差から明らかに織田との決戦で有利になります」

 

 後ろに控えていた颯馬に目をやる。一度頷いたのを見ると彼もまた同じ考えを持っているのだろう。

 

「分かった。量産と使用を許可しよう」

「ありがとうございます。それから、今回は間に合いませんでしたが、もう一つ移動に使える物を作っております。大八車に代わる物になります」

「ほう。それは楽しみだ」

「大きな違いは馬などを使わず、人の手で運ぶことが容易となりました」

「ますます興味が湧いた。やはり共に帰ってくれないか?」

「あ、それは……申し訳ございません」

 

 謙信は残念だと肩をすくめる。

 龍兵衛のこれまでの試み全てが上手くいかないこともあったが、結果として領地の民の生活と上杉の財を豊かにし、いわゆる公共事業というもので多くの貧民を救った。

 さらに良い物が生まれるとなれば早くに見たいが、残念ながらそれはまだ先となってしまった。

 命令を下すことも出来たが、これから龍兵衛に任せることはおそらくそれを遥かに凌ぐほどに大きなことである。

 謙信はよしと一人頷くと二人を再び小田原城内へと促し、評定の間へ戻る。

 

「二人に聞きたいのは北条を今後、どう対処するかだ」

 

 座ると同時に謙信は口を開く。

 

「多くの者が厳罰を下すべきと言っているが、兼続は越前に向かう前に私に北条の主だった者は生かすべきと言っていてな。お前たちの意見はどうだ?」

 

 目の前にいる軍師二人は思案するように床に目を落としている。

 多くの者は強い口調で徹底した北条への弾圧を主張し続けている。背景には保護した前の関東管領の山内憲政の存在とこれからの関東支配がある。

 憲政の方はもう関東に未練は無いと口では言っているが、北条に対する嫌悪感を隠し切れていない。憲政の肩を持つのは兼続自身、癪だと思っていたらしく、謙信にも非公式の場で気にすることはないと言っていた。

 しかし、謙信が上杉の名を継いだ以上、北条を生かすのは道理に反する。

 さらに北条の土台を作り、関東の覇者に押し上げた早雲は既にこの世にいないが、それを支えた娘達も生かしておいては上杉が関東管領として北条を討伐した理由が無いことである。

 

「恐れながら、私は兼続の意見に賛同です」

 

 先に口を開いたのは颯馬だった。

 

「北条は武田のように民に過酷な税を強いたことはありません。家臣や民を従えるのであれば、北条一門を許さなければ彼らは我らを敵とみなすでしょう」

「自分も同意見です」

 

 すかさず龍兵衛も追従してきた。おそらく元から北条を生かすべきだと考えていたのだろう。意見の対立を恐れて颯馬に先手を譲ったのは保身を第一にする彼らしいと言える。

 

「早雲が戦が終わる直前に腹を切ったことは聞いております。武田は信玄が上杉に従うよう遺言を残したため、残党による反乱はありませんでしたが、早雲は何も言わずに死んだと聞いています」

「早雲は重い病の中で、後先無いと悟り、自らに北条の罪を全て背負わせた。主としては正に鑑だ」

「本来なら、最も関東の民達を上杉に向けさせるにはその力を雁べきだったのですが、今さら後悔しても遅いですね。幸い、氏康、氏政おや……んっ、姉妹は既にこちらの手中にあります」

「二人を他国に移し、北条の時代は終わったが、上杉に降れば命は保証すると示せるな」

「御意。兼続から聞いた通り、氏康、氏政姉妹は助命し、川中島に追放。これが無難かと」

 

 謙信は龍兵衛を見る。同意だと簡潔に述べたため「よし」と息を吐く。二人に明日に北条の姉妹への裁定を下すことを告げ、同時に護送と追放場所の確保を命じる。

 すかさず下がろうとする二人に「まだ話は終わっていない」と呼び止め、少し近くに寄るように促し、龍兵衛の方に視線を向ける。

 

「これより私と颯馬は越後に戻る。関東のことはしばらくお前に任せる。慶次と親憲、信綱、業正を補佐に付ける故、よくよく相談するように」

 

 龍兵衛は無言で頭を下げる。

 今後、関東の支配を当面は龍兵衛が主体で行い、落ち着いた後、別の代官を派遣することで既に決まっている。胸中ではそのまま龍兵衛に頼もうかと思っていたが、本人が譜代を差し置いて関東管領の主たる地を代官として治めるのは周囲も納得しないだろうと固辞された。

 

「お前の具申書は見事だった。理論上、上手くいけば何ら問題はない」

「有り難きお言葉。謙信様も憂いているように北条の領地のみを見るだけではありませんこともよくよく理解しております」

 

 龍兵衛はこちらを見て返答しているが、頭の中ではさらに先を見据えているのだろう。

 これから先、扱いが難しい佐竹や里見を上杉の下に置いておくためには色々と調略が必要になってくる。

 既にお互いに今の所領とさらに加増を条件に上杉と盟約を結んでいるが、伊達や最上と違い、戦に負けて屈服しているわけではないという自負が見え隠れしている。

 力の差を見れば圧倒的に上杉が勝るが、下手に上から何かを言えば火種になりかねない。

 

「彼らへの対処は謙信様が仰っていた通りに加増を認めつつ、我々が脅威となるように示す必要があるかと」

「そのための関東の再建だ。お前の手腕次第でこの地は安寧となるか、荒地になるか。分かっているな?」

 

 あえて圧をかけ、龍兵衛の覚悟を見定める。間髪無く「必ずや」と返したところを見て、大丈夫だと確信し、改めて彼に尋ねる。

 

「ところで、お前が私に言っていた。上杉による新たな関東の主要となる地とはどこだ?」

 

 肩に自然と力が入り、身を少し乗り出す。

 龍兵衛は謙信たちに関東の新たな主要な地を小田原から変えるべきと主張していた。なかなか切り出す時が無かったため、聞くことが出来ずじまいだったが、いい加減知っておかなければならない。

 

「江戸で御座います」

 

 龍兵衛の答えを聞いた二人は驚き、互いに顔を見合わせる。

 

「江戸といえばここより東にある地のことか?」

「その通りです」

「かの地はたしか太田道灌によって整備されていると聞いているが、小田原と比べていささか不釣り合いではないか」

「お言葉ごもっとも。されど、小田原を中心とすれば北条の二番煎じとも言われかねません」

「なら、鎌倉はどうだ?」

「かの地は既に源頼朝公によって栄えた地です。さらに鎌倉は軍事に有効な地形ですが、商いを行うには陸路が険しいかと」

「それら全てが江戸では可能だと申すか」

「さらに江戸も鎌倉同様に守りに長け、侵攻にも長けております」

 

 一旦、質問を区切った。龍兵衛は揺るがない信念のこもった声で答え続ける。よほどの自信があるのだろうと思いつつも不安は拭えない。だが、彼の確固たる自信がある言動は成功する根拠があるのだろう。

 

「……分かった」

「謙信様」

「よい。龍兵衛、何故にかほどの自信があるのか、後程詳しく聞かせてもらうぞ」

 

 納得がいっていない颯馬を制する。謙信も半信半疑だが、これだけの自信を持っているのだから任せても良いだろう。無論、そのまま意見を通すわけにはいかず、聞かなければならないことは多くあると龍兵衛に目で訴える。

 

「颯馬。下がって作業を続けてくれ」

 

 人払いを済ませると謙信は睨むように龍兵衛を見る。

 

「先程の続きだ。何故に江戸にこだわる? その確信はどこからくる?」

「江戸の地形、周囲の環境。関東の全てを江戸に繋げて考えることが出来るからです。かの地は東に港を置ける湾を、西に軍を退ける山を、北と南には軍や商いを東西へ行き来させる街道の基点となります」

 

 龍兵衛は言い終えるとすぐに懐から江戸を中心とした関東一帯の簡易的な図面を広げる。

 謙信も先程、言われた通りに東西南北全てに視線を巡らせる。彼の言うことは確かに的を得ている。一切、反論の余地が無いほどに見事であり、先の具申書とまとめると確実に関東の地を栄えさせることが出来る。また、継続的な成長を見込んだ彼の考えは今後、数百年さえも江戸を中心に日ノ本が動くようにも感じられた。

 だが、大きな問題もある。

 

「これでは、越後を超える日が来るやもしれんぞ」

 

 躊躇いなく懸念事項を告げる。その瞬間、部屋の空気が一気に重くなったのを感じた。

 越後が上杉の本拠であり、それを凌ぐ土地が生まれるのはあってはならない。たとえこの地を直轄地にしても、越後より栄えるのは越後という国が上杉の限界を表し、新たな下剋上を招く恐れもある。

 織田のように栄えている土地に本拠を変えることが出来れば良いが、謙信は長尾の時代より越後に愛着が深く、周囲も越後こそが至高であるという考えが強い。

 その思いをくみ取ったと龍兵衛は一つ頷いた。

 

「確かに、今のままではそうなるでしょう」

「策があると?」

「謙信様の御心次第です」

「どういう訳だ?」

「春日山をこれ以上、栄えさせるには土地が足りません」

 

 謙信は眉根をひそめ、彼を睨む。目はこちらを捉え、強い訴えを覚悟を持って伝えてきている。

 

「……本拠を春日山より変えよと申すか」

「春日山は西に親不知、南に川と山、北に海と要害であります。しかし、将来の財を成し、権威を示すには、恐れながらいささか不安が残るかと」

「ならば、お前は代わりとなる地を把握しておるのか?」

「反対なさらないのですか?」

「越後のためだ」

 

 長くいた土地を離れるのは抵抗がある。しかし、我がままで国を傾けるのは愚かな行為。龍兵衛のような越後出身ではない者だからこそ、考えられる政策だろう。そして、良策であると感じたなら民や国のために実行しなければならない。

 心中で先祖に詫びを入れつつ、謙信は候補となる地の名前を求める。

 

「新潟でございます」

「新潟……」

 

 かつて北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵が設置された土地であり、今は湊や津を多く抱え、直江津をも凌ぐかもしれない勢いを持っている。

 

「越後の平野で出来た米は越後から持ち出し禁止となっている物を除けば、現状、全て新潟津から輸送しており、盛況さは越後随一です。ここを拠点とすれば蒲原や沼垂と合わせた主要な港を押さえることになり、直江津で行われている焼物や青苧の交易と合わせていけば財政を盤石させ、開墾と街の整備を行えば関東の盛況さなど遥かに凌ぐ越後となるでしょう」

「しかし、ここは周囲が全て平野だぞ。城を建てるとすれば西にある山に建てるが、砦や支城となる場所が無い」

「南は険しい山があり、西からの守備は春日山、東からは新発田の城を使うべきかと」

「越後全体を砦とする気か……」

「当然、今すぐに出来るとは思っていません。越前を取り、関東に平穏を取り戻した後に動けば、周囲の脅威は取り除かれ、国を富ませるために時を使えます。そして、然るべき時に織田を討つことで、謙信様が天下を」

 

 俯き、思考を巡らせる。

 越後を日ノ本一栄えさせることが謙信の願いであることに間違いはない。だが、それは春日山を基点にしてすべきことだという念頭の元で行われていたはずだった。その思いを簡単に踏み潰すように龍兵衛は新たな地へ移れと簡単に言ってのけた。

 春日山の開拓を推し進め、そのために治安と技術の革新を積極的に行っていたのが彼だった。もし、それら全てが新潟への移転を行うための布石であったとしたら。

 聞くことは出来なかった。彼がこの手のことで本心を言うことは決して無い。本心がいかであろうと否と答えるだろう。

 その口車に簡単に乗って良いものだろうか。

 新潟は新発田を討伐した後、上杉が直轄地として支配している。だが、伝統を重んじる古参の家臣は黙っていないはずだ。

 また、越後を全て砦のように扱うということは、万が一が起きた際、国中の民が戦乱に巻き込まれる。

 

「越後に戻り次第、皆に聞いてみよう。それまでは他言無用だ」

 

 その危険性を知らずに提案するとは思えないが、ここですぐに回答することは出来ない。

 即答することが出来ない事案であることは分かっているであろう龍兵衛もすんなりと頭を下げた。

 

「……実は、かなりの費用を使うので、具申書やこれまでの口でも言ってこなかったことがあるのですが」

 

 話は終わったと思い、腰を浮かしかけたところで、龍兵衛の口が開く。勿体ぶるような口振りは好ましくないが、どうしても聞いてほしいという訴えを鋭い目つきでしてきているため、聞く姿勢を整える。

 

「小田原城のように堀を用いて街全体に幾重も囲い、街全体を城とする方法です」

「街を要塞化するとなれば、民をますます巻き込むではないか」

「いえ。むしろ城外にいる民を守ることになります」

「……確かに」

「民を守り、幸せにすることが謙信様の理想であることは知っております」

 

 謙信は腕を組む。即断できるものではないが、くすぐられるような説得に先程より天秤が傾き始めている。

 

「費用がかかるというのは、やはり規模か?」

「普通に行う築城より……倍はかかるかと」

 

 龍兵衛は空中で素早く計算すると険しい表情で伝えてくる。

 財産も多くの鉱脈を抱えているが、無限に続くものではない。倍かかるという言葉の重さは謙信にも響く。だが、龍兵衛が未来へつながる出費と言って様々な取組をしていることと同じと捉えれば、費用が月とすっぽんの差とはいえ、許容できる範囲だろう。

 

「分かった。それらを踏まえ、相談する」

「御意。北条のようにならないように精一杯、関東を治めてみせます」

 

 背中から不安が伝わる。おそらく、本拠移転という大掛かりな提案が通らない場合のことも考えているのだろう。

 もし、反対意見が強く、提案が適わない場合、彼は関東の再建をほどほどに済ませ、越後と足並みを揃えるだろう。それが越後や関東の民のためになるかと言われればおそらくならない。

 中途半端な行いは足元をすくわれ、失敗する。

 

「全く……随分と強かなことを言ってくれた……」

 

 民に豊かな暮らしを提供し、確固たる現在と未来を確保するために妥協を許すことは出来ない。

 上杉と民のために動かざるを得ないとそれとなく警告し、北条のような出遅れを危惧していた。

 真っ向から言えば心を動かせることが出来たはずなのに、あえてしなかったのは、今ここで言っても決められることではないと分かっていたからか、謙信にも自身の頭で気付いて欲しいと思ったのか。

 後者だとすればかなり不敬だが、ここに咎めるべき者はもういない。

 

「北条のように。か……」

 

 龍兵衛はおそらく北条が合議制を用いて戦に出遅れたことを言っているのだろう。

 今回の戦で、北条は籠城か野戦かで家臣の間で意見がまとまらず、領地の深いところまで侵攻を許し、流れるままに籠城せざるを得なくなった。それが不満で上杉に寝返った者もいたため、戦の主導権を握ることが適わなかったことが今回の敗因であると言いたいのだろう。

 彼の言いたいことは分かる。しかし、本拠の移転は謙信さえも迷っていた。

 新潟となれば揚北衆らの縄張りの中に入ることになり、反乱分子はほぼ消滅したとはいえ、彼らを不安がらせることになるかもしれない。

 無論、龍兵衛も知っているだろう。それでも主張したのは絶対に誰も逆らわない自信があり、その裏付けがあるということだ。

 

(聞くだけ聞いてみるか……)

 

 関東を平定し、ようやく一息つけるかと思ったが、また一波乱起きそうだ。

 謙信は部屋中に響き渡る溜め息を吐き、倒れるように仰向けになった。

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